16. 解放


 ガシャン、と音を立ててガラスが割れた。

 杏子は割れたガラスをよけながら手を伸ばし、祭壇の上の白い玉をギュッとつかんだ。


 カッと手のひらが燃えるように熱くなった。とっさに手を開こうとするが、御神体を握った手は、まるで張り付いてしまったように開かない。そうしているうちに、杏子の手から白い炎が燃え上がった。


(なにこれ……)


 呆然とする杏子の頭の中に、おびただしい数の映像が早送りで再生されていく。そこには、たくさんの娘たちの声のない叫びと、最後の様子が映し出されていた。

 あまりのむごさに、杏子の体は震えた。足からは力が抜けてしまい、今にもその場に座り込んでしまいそうだ。


 やがて、杏子の手から白い炎が消えると、映像も見えなくなった。

 あれほど熱かったのに、手は火傷どころか赤くなってもいない。


「もう少しだけ我慢してね。外へ出たら解放してあげるから」


 杏子は白い玉に向かってささやくと、そっとジャンパーのポケットにしまった。

 ガラスを割った音が聞こえているはずだから、宮司たちはすぐにここへ来るだろう。

 杏子は少しでも早く横穴に戻るために、懐中電灯の明かりをつけたまま走った。洞窟の中はただでさえごつごつして歩きにくいのだから、明かりなしではとても動けない。


 もちろん、見つかることは覚悟の上だったが、そんなにすぐには見つからないだろうと、杏子はすこし油断していた。

 思ったよりも近くから、強烈なライトを向けられて、杏子は思わず立ち止まった。数メートルほど離れた場所に、ライトを手にした宮司と祖父らしき老人が立っている。


 杏子は立ち止まったまま、あきらめたようにため息をついた。


(理恵ちゃんと圭人くんは、無事に出られたかしら?)


 ふたりの無事は確かめられないけれど、彼らを先に逃がしておいて良かったと、杏子は思った。


「そこで何をしていたんです? どうやらあなた方は、タウン誌の取材で来たわけではなさそうですね」


 ライトの光を杏子に向けたまま、宮司がゆっくりと近づいて来る。


「バレちゃった? 実はあたしたち、伝説ネットの熱狂的なファンで、伝説めぐりをしているのよ」


 ニッコリ笑ってから、杏子は懐中電灯の明かりを宮司の目に向けた。相手がひるんだ瞬間に走り出す。


「浩章、捕まえろ!」


 しわがれた老人の声が響き、宮司が猛然と追いかけて来る。

 自分の懐中電灯の光と、追跡者の持つライトの光が、縦横に目まぐるしく揺れて交差する。


 杏子は必死で走ったが、日頃の運動不足のせいか、すぐに追いつかれてしまった。

 宮司の手が杏子の腕をつかみ、グイッと後ろへひねり上げる。


「痛ったーい!」

「他にふたりいたでしょう? 彼らはどうしました?」

「知らないわよ。あたし、あの子たちとは別行動してたんだもん」

「ウソが下手ですね」


 ささやくような宮司の言葉があまりにも偉そうで、杏子は猛烈に腹が立った。


「あなたはウソが上手なの? おじいさんには逆らえないみたいだけど」


 杏子がそう言うと、宮司は無言のまま、背中にねじり上げた杏子の腕をさらにひねる。


「痛いったら!」

「腕の骨を折られたくなかったら、おとなしく彼らの居場所を言いなさい」

「だから、知らないって言ってるでしょ!」


 杏子は叫びながら、老人がようやく追いついて来たことに気がついた。


「あなた、いつまでおじいさんの言いなりになってるつもりなの? このままじゃ、里美さんだって離れていくわよ」


「黙れ!」


 宮司は短く叫ぶ。いつも穏やかな表情を崩さなかった彼が、初めて見せた怒りだった。


「浩章、その娘を神に捧げよ」


 老人が懐から短剣のような物を取り出し、宮司に差し出すのが見えた。


 老人の目は暗い酷薄な光をたたえていたが、その目が異様なほど見開かれ、やがて歓喜の色が浮かんでくる。


「見よ浩章、神がおいでになったぞ」


 ハッとしたように宮司が向きを変えると、杏子も引っぱられるまま老人の視線の先を見た。

 無数に枝分かれしている洞窟の暗闇の中から、ゆっくりと白蛇が滑り出てくる。太くて長い蛇体をくねらせ、真っすぐこっちへ近づいて来る。


「娘を差し上げるのだ」


 だんだんと近づいて来る白蛇は、思っていたよりもずっと大きくて、杏子は恐怖のせいで息が出来なくなってくる。

 白蛇は杏子の前でようやく止まると、鎌首を持ち上げて赤い目を向ける。

 杏子の後ろで、宮司が息を飲むのがわかった。

 

 白蛇が跳躍した。

 とっさに目をつぶった杏子は、次の瞬間、老人の叫び声を聞いた。

 その瞬間、杏子の腕をつかんでいた宮司の手が放れる。


「おじいちゃん!」


 老人に飛びかかった白蛇は、老人の体に巻きついている。宮司は老人を助けようと白蛇につかみかかる。

 杏子は逃げることが出来なかった。

 このまま助けなければ、この老人は間違いなく佐々木涼介のような姿になってしまう。そうなれば、若い佐々木とは違い、この老人の命はないかも知れない。


「だめよ! そのおじいさんには、今までやってきた悪事を全部白状してもらわなくちゃならないんだから!」


 杏子が叫ぶと、老人をしめつけていた白蛇が、霧のように消えてしまった。


「えっ?」

 呆然とする杏子と、地面に座り込んだままの宮司と老人の視線が交錯する。


「ひっ浩章、つかまえろ」

「はっ……はい」


 宮司が立ち上がるのを見て、杏子は駆け出した。


「やだもう、なにも消えなくたっていいじゃないのぉ!」


 消えた白蛇に文句を言いながら、杏子は走った。

 もう少しで出口につながる横穴が見える。そう思ったとき、宮司の手が杏子の腕をつかんだ。


「やだってばっ!」


 懐中電灯を投げつけて逃れると、出口の方に光が見えた。


「杏子さん!」

 光の向こうから、大介の声がする。

「大介くん?」

 

 走りながら杏子が手を伸ばすと、ぐいっと強く引っぱられ、いつの間にか杏子の目の間には、大介の大きな背中があった。


(助かった……)


 見慣れていたはずの大介の背中に、不思議なほど安心する。


「名木さん、もうすぐ警察が来ます。これ以上、香菜子さんを悲しませるような事はしないでください」


 大介の言葉に動揺したのか、宮司の手から離れたライトが、ガシャンと大きな音をたてて転がった。


「香菜子は、きみたちと一緒にいるのか?」

「あなたのことを、心配していました。兄をひとりにした自分がいけなかったって、香菜子さんはすごく自分をせめてます」

「そうか……」


 力を失くしたように、宮司はがっくりと膝をついた。

 杏子は、香菜子という人が誰なのかわからなかったけれど、ふいに、梛の木を見上げていた少女の姿が思い浮かんだ。何度も何度も梛の木を見上げていた、あの印象的な少女は、宮司の妹だったのかと納得する。


 出口に続く横穴が騒がしくなり、たくさんの明かりが近づいて来た。


「椎名、無事か?」

「カジさん」


 出口の方に、一瞬気を取られた時だった。


「この、罰当たりめが!」


 暗闇から躍り出た老人が、白刃を閃かせて宮司の背中に飛びついた。


「いけない!」


 杏子の叫び声と同時に、大介が老人に飛びかかった。

 梶原に続いて降りて来た警官たちも加わり、宮司と老人を引き離す。


「放せ! 天罰が下るぞ!」


 狂気じみた声を上げる老人を引き離した時には、宮司は背中から血を流してうずくまっていた。


「救急車を呼べ!」


 暗く静かだった洞窟の中が、明るく騒がしくなってゆく。


「杏子さん、ケガはありませんか?」

 横穴の近くに座り込んでいる杏子を見つけて、大介は駆け寄った。

「大丈夫よ。大介くん……は?」

 立ち上がろうとする杏子を、大介はぎゅっと抱きしめた。


「よかった。本当によかった」

 心配で、心臓が痛くなるほど苦しかったのに、腕の中の杏子のぬくもりにホッとするあまり、目頭が熱くなる。


「ねぇ、なんであんたが泣くのよ?」

「ほっといてください!」


 杏子は文句を言ったが、大介の腕を振りほどこうとはしなかった。


「ぼく、決めました。居候をやめて、ちゃんとした仕事をします。でも、この場所だけは、誰にもゆずりませんから!」


 いまの大介に出来る精一杯の告白に、杏子の答えは素っ気ない。


「好きにすれば」


☆     ☆


 騒ぎが一段落した後、杏子たちはようやく洞窟から抜け出した。

 すでに東の空は明るくなってきている。


「ひどい格好だな」


 まだ薄暗い陽光を浴びるなり、梶原が杏子の姿を眺めて言った。


「うるさいわね。こんなになるまで頑張ったんだから、ほめて欲しいくらいだわ!」

 杏子はボサボサになった髪をかき上げて、ツンと空を仰いだ。

「そうだ、神様を解放してあげないとね」


 ポケットにしまっておいた白い玉をそっと取り出すと、杏子は目の前でじっと見つめる。

 真っ白くてスベスベの丸い石は、とてもきれいだ。


「なんだそりゃ?」

「梛神社の御神体よ。封印されてたから解放してあげようと思って」


「御神体? ってことは、アレか。蛇神へびがみさまか? おまえ、蛇アレルギーは治ったのか?」


「カジさん、うるさいわよ!」


 杏子はかざしていた白い玉を、思いきり力を込めて空に放り投げる。

 朝日を受けてキラキラと光りながら、白い玉は上空へ消えていく。


☆     ☆


「見て!」


 奥宮のある山の頂上から山道を下ろうとしていた理恵が、空を指さす。

 圭人と香菜子が見上げると、虹色にきらめく龍雲がゆっくりと空に昇ってゆく。


「あれは……」

 香菜子は、震える指先で口元を押さえた。


「きれい」


 理恵は龍雲に釘づけになっている。

 圭人はそんな理恵をじっと見つめる。


「あのさ、後でおまえの連絡先、教えろよ」

「えっ?」

「おれたち、友達だろ?」

「う……うん」


 戸惑った顔のまま、理恵がうなずく。

 その間に、空の龍雲は何処へともなく消えていた。

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