2. ひき逃げ


 そのころ杏子は、落ち着かない心を持て余しながら、喫茶店の窓際の席に座っていた。

 目の前のテーブルには、香しい湯気をあげるコーヒーが乗っている。

 約束の時間にはまだ少しあり、杏子はひとり、待ち人と出会った頃のことを思い出していた。



 季節は今と同じ、冬の初めだった。

 とっぷりと日の暮れた住宅街の道を、学校帰りの杏子と美紀は、駅へ向かって歩いていた。


 人通りのほとんどない静かな十字路から、突然、キキキキーという耳を覆いたくなるような甲高いブレーキ音が聞こえてきた。

 続いて、ドスッという重い音が響く。

 驚いて立ち止まった杏子と美紀の目の前を、軋むような音を響かせた白い車が、左から右へと走り去ってゆく。


 ハッと顔を見合わせた杏子と美紀は、弾かれたように走り出す。

 十字路にたどり着き、車の走り去った右手を見るが、すでに車の姿は見えない。

 反射的に杏子が左側へ振り返ると、となりで美紀が息を呑む声が聞こえた。


 投げ出されたスーパーの買い物袋。そこから飛び散った食料品。そして、頭から血を流して横たわる女性。

 道路のそこだけが、異様な彩りに包まれていた。


「ひき逃げ……」


 美紀の口から、抑揚のない声が漏れた。

 身体が硬直したように動かない。

 何をしたらいいのか、一瞬のうちに真っ白になってしまった頭は、杏子に何の司令も与えてはくれなかった。


「きゅ……救急車! それにケーサツにも電話しなきゃ!」


 美紀はそう叫ぶなり、近くの家に飛び込んで行った。


 ひとり残されてしまった杏子は、ゆっくりと、倒れている女性のほうに歩き出した。死んでいるかもしれないと思うととても恐かったけれど、足を止めることはできなかった。


 近づいてみると、女性は頭から血を流し、目を見開いていた。

 杏子はゆっくりと彼女の首筋に手を伸ばした。思った通り脈はなかったが、彼女の首に手を触れた瞬間に、杏子の頭の中は車のライトで溢れかえっていた。


 まばゆく白い、眼を貫くような光。

 頭の中を掻き回すような甲高いブレーキ音。

 そして、スローモーションのように近づいて来る白い車。

 まるで映画のワンシーンのような事故の瞬間が、杏子の頭の中で蘇える。


 それと同時に浮かぶ、まだ幼い子供の顔。この女性の子供なのだろうか。

 杏子はいたたまれない気持ちで、ゆっくりと立ち上がった。

 遠くから、緊急車両のサイレン音が聞こえ始めていた。


「車は白の普通乗用車、4ドア、その状況じゃあ、車のナンバーは見てないよなぁ」


 警察学校を出たばかりのような若い警察官が、警察手帳を片手にそう言った。

 今までテキパキと質問に答えていた美紀も、悔しそうにうなずく。


「君も……だよね?」


 警察官はあきらめ顔を杏子に向けたが、杏子はうなずく変わりに、あの幻視の中で見た車のナンバーを口にした。


「えっ」


 驚きの表情を浮かべる警察官の横で、美紀が叫んだ。


「あのっ、お巡りさん! 信じられないかも知れないけど、杏子には、ある種の超能力みたいなものがあって」


「いいよ美紀。あの、ついででいいから、そのナンバーの車も捜してみて下さい」


 疑われることに慣れてしまっていた杏子は、美紀の言葉を遮るようにしてそう言った。


 あとは警察の仕事だ。自分はできるだけのことはしたのだから。

 半分投げやりな気持ちだった。

 信じるも信じないも向こうの勝手。もうこの事件とも関係ない。そんな気持ちで杏子はその場を去った。


 つぎに岸田に会ったのは、それから一週間ほど後のことだった。


「椎名さん!」


 いつものようにクラブ活動を終えて、美紀とふたりで校門を出たところを呼び止められた。

 その日の彼は私服姿で、ずっと待っていたのか、少し寒そうな顔をしていた。


「じつは、車が見つかったんだ。君の言ったナンバーの車だったよ」


 杏子がよほど怪訝そうな顔をしたのか、岸田は二人が何も聞かないうちにそう言った。


「鑑識が見つけた車の破片と、破損箇所が一致したんだ」

「そうですか。わざわざそれを言いに来たんですか?」


 杏子は不思議そうに若い警察官を見つめた。

 しかし、岸田は小さく息をつき首を振った。


「車はすぐに見つかったんだけど、犯人はまだ逃走中なんだ。足取りは全くつかめない……」


「まさかとは思いますけど、杏子に、協力を頼みに来たんじゃないですよねぇ?」


 美紀が横から口を出した。半分おもしろがっている。


「その……まさか、なんだ」


 岸田は困ったように頭を掻いた。


「犯人は車の持ち主の友人だった。写真もあるし、車の中にあった犯人の遺留品らしきものもある。これだけあれば、もしかして、君には犯人の居場所がわかるんじゃないかと思ったんだ……」


 岸田は真面目な顔をしてそう言った。


 彼は何の疑いもなく、杏子の力を信じているのだ。それは異様なことだった。杏子はもちろん、美紀でさえそう感じた。


「協力して……くれるよね?」


 彼の真剣な顔を見つめながら、杏子は死んだ女性とその子供の顔を思い浮かべていた。


 幼い頃から自分の中に存在したこの力。犯人の遺留品がある以上、この力を使えば八割くらいの確立で犯人の居場所を特定することができるだろう。

 被害者の女性と彼女の家族のためにも、力になりたい。

 杏子はゆっくりとうなずいた。



 数日後、杏子は犯人逮捕の報を聞いた。

 約束通り、杏子の存在は伏せられていた。ほっとしたような、誇らしいような、不思議な気持ちになったことを覚えている。


 それからも何度か、岸田に会うことはあったけれど、彼は二度と捜査協力を頼むことはなかった。杏子の能力を利用するどころか、むしろ、彼女の複雑な気持ちを和らげるような役目をしてくれた。


 杏子の力を知ると、大人たちは一様に気味悪がった。たまには興味を示す者もいたが、たいていは彼女の力を利用したがる者たちだった。

 だから、杏子の中で岸田は不思議な存在だった。

 そして、不思議な感情が生まれた。

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