第2話 恋
1. 初恋の人
季節は冬を迎えていた。
「杏子さーん、起きて下さいよー、朝ですよー!」
大介が、いつものように杏子の部屋をノックする。
「朝ごはん、食べますよねー?」
「うるさいわよ大介くん。もう起きてるんだから!」
不機嫌そうな声とともにドアが開いた。
大介は目を瞠った。いつも朝が弱い杏子が、すでに着替えを済ませている。
杏子の肩越しに部屋の中を覗くと、部屋のテーブルに乗った灰皿には、タバコの吸い殻がうずたかく積み上げられた。その向こうには、小さな電気ストーブが赤々と温もりを伝えている。
大介は、ほんの少し顔色を曇らせた。
「もしかして、眠れなかったんですか?」
「ちょっとね……朝ごはんいらないから、大介くん食べちゃってよ」
杏子はそれだけ言うと、ふたたびドアの向こうに姿を消した。
大介はしばらく呆然としていたが、仕方なく杏子の部屋の前から離れ、小さなキッチンの前で沸かしたコーヒーを自分のカップに注いだ。
大介が、杏子の経営するこの〈さがし屋〉に転がり込んで、そろそろ半年になる。
事務所は商店街の小さなビルの二階にあり、その奥が杏子の自宅になっている。
客として知り合った大介が転がり込んできた時、杏子はしぶしぶながらも、事務所に泊まり込むことを許してくれた。
迷い犬や迷い猫さがしが専門のこの〈さがし屋〉には、経済的ゆとりはほとんど無く、杏子はことあるごとに「ちょっと、いつになったら出て行くのよー」とか「いい加減、就職先みつけたら?」などと言うが、大介はこの事務所から離れたくはなかった。
「大体……ぼくがいなかったら、誰がブルドッグとかボクサーみたいな犬を捕まえたり、食事の支度をするんだよ」
大介は、そのひょろ長い身体を丸めてイスに座ると、小さなテーブルで朝食を食べはじめた。
近頃の杏子はすこし変だった。食欲もないし妙にふさぎ込んでいる。確かに体調も悪そうだけど、あまりにも彼女らしくなかった。
何か悩み事でもあるのだろうかと大介は心配だったが、聞いたところで彼女が素直に答えてくれるとは思えない。所詮、自分はこの事務所の正式なアシスタントではなく、ただの居候なのだから。
彼にしては卑屈な考えで頭をいっぱいにしながら、ハムエッグの目玉にフォークを突き刺した時、プルルルルーと軽快な呼び出し音が事務所の方から聞こえてきた。
「電話だ、電話!」
大介はあわてて立ち上がり、イスに躓きながら事務所にかけ込んだ。
「はいっ〈さがし屋〉です!」
「あの、岸田と申しますが杏子ちゃん……いえ、椎名杏子さんはおいでになりますか?」
穏やかな男の声が聞こえてきた。
(きょっ……杏子ちゃんっ?)
大介は眉を寄せた。
岸田という名前は今まで聞いたことがなかったけれど、親しい知り合いとしか思えない感じだ。
「はい……少々お待ち下さい」
なんとなく憮然としながら、大介は杏子を呼びに行った。
岸田という名前を告げただけで部屋から飛び出してきた杏子は、電話で待ち合わせの約束をすると外出の用意をはじめた。
大介にできることは、どことなく嬉しそうな彼女の後ろ姿を、ただ見つめているだけだった。
「ちょっと出かけるから、大介くん留守番お願いね」
杏子はそう言って出かけていった。
大介は大きなため息をつくと、ぐったりと事務所のソファーに座り込んだ。
再び、さっきまでのマイナーな気分にどっぷりと漬かってしまいそうだった。
「おっはよー!!」
いきなりドアが開いて、杏子の友達の美紀がやってきた。
彼女は杏子の高校時代の友達で、ヒマなのか、たまに遊びに来る。
「おはようございます、美紀さん。杏子さんなら出かけちゃいましたよ」
「えー、そーなの? なんか、今日の大介くん暗いよ。どうかしたの?」
美紀は大介の顔をまじまじと見ながら、彼の向かいに腰掛けた。
「べつに。それより美紀さん、杏子さんの知り合いで、岸田さんて知ってます?」
「岸田さん? ああ刑事さんでしょ、知ってるよ。このまえ、町で偶然会ったって言ってたもん」
美紀はそう言ってから、ふいにニヤリと笑った。
「ははーん、大介くん、それで気がもめてるんだ。そーよねー、岸田刑事って杏子の初恋の人だもんね」
「ええっ、そうなんですか?」
大介は思わずソファーの背から跳ね起き、美紀の方に身を乗り出した。
「もちろん片思いだよ。杏子ってあんな風だけど、あれでシャイなとこあってさ。自分の気持ちを相手に伝えられないんだよね。もちろん、大学時代には付き合ってる人もいたけどさ、自分から好きになった相手じゃなかったみたいだしね」
ぽつりと呟くように美紀はそう言った。
「でもさ、岸田刑事は、杏子の例の能力を、はじめて信じてくれた大人だったんだよ」
「はじめて?」
「そう。岸田刑事に会ったのは、あたしたちが高校生の時だったの。部活で帰りが遅くなったあの日、あたしと杏子は、ひき逃げ事件を目撃したんだ……」
美紀は、十年前の話をはじめた。
大介の頭の中に、見たこともない制服姿の杏子が浮かんでは消えていった。
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