第3話 PCとカロの日記

 類の祖父が入居している老人ホーム『寿燦々ことぶきさんさん』は、原野中駅から3駅、そこからバスで20分ほど行った場所にある。

 市の中心部からはだいぶ離れ、小高い丘の造成地内に建つ比較的新しい施設だ。

 類は施設の入り口で面会受付を済ませると、祖父がいる部屋へ向かった。

 受付から扉を入ったすぐの広間では、角に大きなテレビが置かれ、それを囲むように配置されたソファーに座って、入居者とその家族と思しき数人が見ている。

 そこを奥に進んだ廊下の壁には、入居者が書いた書の作品が飾られている。

 その廊下に並んだ部屋の一室で足を止める。

「ここか……」

 そこは二人部屋で、両脇の壁際に手すりの付いたベッドが置かれていた。

 コンコンコン……

 入り口の引き戸は開いていたが、一応ノックをする。

「お爺ちゃん?」

 ドア越しに声をかける。

 部屋には、ベッドの横に置かれた椅子に、窓の方を向いて新聞を読みながら座る腰の曲がった老人の姿があった。

 類の祖父、うるうだ。

 頭髪は白髪で毛がほとんどなく、丸首の下着の上に直に茶色いベストを羽織っている。後ろから見る姿は、まるで妖怪の河童のようだ。

「うん?」

 閏は、低く唸るよう声でこっちを振り向いた。

 ぼんやりとした表情をしている。

「お爺ちゃん、久しぶり」

 類は手をあげて部屋に入った。

「おぉぉ……、あぁ?」

 閏は首をかしげて類を見た。

「……(大丈夫かな?)類だよ。わかる?」

「おぉ!類か、久しぶりだな……。元気にしてたか?」

 閏は、孫の類だとわかると、パッと明るい表情になった。

「元気だよ。今日は聞きたいことがあって来たんだ」

 類はそう言うと部屋を見回した。

 隣のベッドは人の気配はあるものの、今は不在のようだ。

「まぁ、茂、座れ」

 閏は、今自分が座っていた椅子を空けると、ベッドに座った。

「類だよ、ありがと……」

 異世界の話をするのに、誰かに聞かれても厄介だ。そう思い、類は入り口の戸を閉めて椅子に座った。

「はいこれ、お土産。面白そうな雑誌。キネティック・アートの特集が入っていたから買ってみた。こういうの好きでしょ?」

 そう言って雑誌を差し出す。

 表紙は大きな振り子を使った複雑な作品の写真が載っていた。

「おぉ、ありがとう」

 閏はそれを受け取ると、表紙を興味深く見た。

「ほぉ……、やじろべえか」

「で、お爺ちゃん。聞きたいことがあるんだけどさ。うちに……、カロ屋に組子障子ってあるだろ?」

「うん?組子障子。あぁ、昔、お袋がよく出入りしてたのぅ……」

 閏は目を細めて言った。

「そう!それ!ひい爺さんが作ったってやつ。あれってどうなってるの?」

 声が少し小さくなる。

「戸の向こう側、別の世界に通じてるっぽいんだけど……」

 部屋の戸は閉まっているとはいえ、誰かが立ち聞きしていないとも限らない。ましてや隣のベッドの住人が戻ってきたらと思うと、声の大きさはできるだけ最小限に留めておきたい。

 それがよくなかった。

「あぁ?なんだって?」

 閏は耳に手を当てて、類の顔に近づいた。

 入れ歯がカクカクしている。

「……(うっはぁ……、マジ勘弁)」

 類は思わずのけぞって苦笑いをした。

「なんだって?愛」

「る、類だよ」

 類は閏を制止すると、仕方なく改めてちょっと大きめの声で言った。

「組子障子の戸は開けるとどうなるの?」

 ぶっきらぼうな言い方とも思ったが、閏はそれでわかったのか「あぁ」とうなずいて、ベッドの上で片足あぐらをかいて何やら考えるそぶりを見せた。

(大丈夫かなぁ……?)

 類の心配をよそに、閏は低くうなりながら腕を組み何かを思い出そうとしている。

「うぅーん。……キノ子さんは元気でやってるか?」

「はい?!」

 キノ子というのはキヨのことだ。名前に子はつかないが、閏の中でいつの間にか、キヨ子、キノ子と変化したらしい。

(お、俺の質問は?!叔母さんの名前、キノコになってるし……)

 閏はボーッとした顔をしている。

「あぁ、もう!」

 類は、斜め掛けのカバンから携帯電話を取り出すと、画面をスワイプして組子障子の写真を表示させた。

 それを閏の目の前に突き出して見せる。

「うん?なんだ?」

 閏は、ベッドの横の小さな四角いテーブルに乗っていた老眼鏡を取り、ゆっくり耳にかけて携帯電話の画面を見た。

「……あぁぁ、これは……。懐かしいな」

 閏は穏やかに笑った。

「この戸の向こう側はどうなってるんだって話だよ」

 類は閏の耳元で、先ほどよりまた少し大きめの声で言った。

「どうって……」

 閏は携帯電話から視線を移し、老眼鏡を外しながら言った。

「森じゃなかったか?……たしか、違う世界の森」

「そう、うん。森はわかった。それは俺も見た。それ以外は?」

「それ以外……?うーん、なんかあったかなぁ」

 そう言って宙を見つめる。

「カロ婆は?カロ婆はなんか言ってなかったか?」

「お袋?……うーん、どうだったかなぁ。そういえば、遠くに何かあるとか言っていたような……。でも、昔のことだからもう忘れたわ、はっはっはー」

 閏は昔を懐かしむように笑った。

「くっ……(ここも手掛かり無し……か)」

 遠くに何かあるというのはルルアが言っていた王都のことだろう。それは既出の情報だ。

 齢90オーバーの爺さんに、何かを期待したのがそもそも間違いか。類は大きくため息をついて、肩を落とした。

「あぁ、そうだ」

 閏はそう言うと、ベッド横の小さなテーブルについた物入れの扉を開け、何かを取り出した。

「これ持って行け」

 手渡されたのは千代紙と竹ひごで作られた紙人形だ。

「これは?」

 鎧武者の形をしたそれは、手のひらほどの大きさの立体的なもので、かなり精巧に作りこまれているのがすぐにわかる。鎧兜に使われている千代紙は、黒の地に赤や黄色の桜の花が散りばめられ、みやびではあるが、武者にしては少し弱そうにも見える。

「暇つぶしに作った」

 閏はニコニコと笑って言った。

 手先が器用なのは、ひい爺さんから連なる皆川家の血筋か。しかし、ひ孫の代ではアリサではなくどうやら類がその血を受け継いでいるようだ。

「ありがとう」

 類はもう一度紙人形を見た。

 足は無く、前後につぶれた円筒形の空洞の胴体に頭と腕が付いている。竹ひごで補強され自立できるようだ。特出すべきはその身にまとった武者鎧。腕の部分の大袖や、腰下の草摺くさずりは紙が何枚も重ねられ、兜は限りなく本物に近い形状を再現している。

「すごい……(細部まで……。どういう作り方をしてるんだ?)」

「気に入ったか?」

 閏はニコニコと類の様子を見ている。

「うん。すごいね。相変わらず器用だなぁ」

「じゃぁ、ついでにこれもやろう」

 閏が類の前に差し出したのは、小型の手帳より一回り大きい紐綴じされた和紙で出来た薄い本だ。

 藍色の表紙が経年劣化でくすみ、端がところどころ敗れている。

「古そう……。何の本?」

 ペラペラとめくってみるが、漢字とカタカナで縦に筆書きされた達筆な文字は、そのまま読むには厳しそうだ。

「ワシはもう、それ読まんから。類、お前が持って行け」

 類の質問は閏には届かなかったようだ。

「うん、ありがとう。帰ってから読んでみるよ」

 紙人形と和本をカバンに入れると、類はカバンを肩から斜めにかけ直した。

「それじゃ、帰るよ。……また来るね。元気で……」

「おぅ、また来いよ」

 類は手を振って部屋を出た。閏も手を振っていた。

(……思ったより元気そうでよかった)


 類が施設を出て原野中駅に着いたのはちょうど正午頃だ。

 暖かい日差しに少し暑さを感じ、グレーのパーカーの袖を肘までまくる。

 そのまま、二番通りのいつものコンビニで、弁当とお茶を買うとマンションの部屋へと戻った。

 キッチンにあるレンジで弁当を温めながら、類は閏からもらった薄い和本を開いてみた。

 一見古そうに見えるが、さほど時代は遡らないのか、よく見れば達筆ではあるが文面は楷書に近く、送り仮名はすべてカタカナになっていた。

「(読もうと思えば読めなくもない……か)……あれ?」

 閏の部屋でめくった時には気づかなかったが、ところどころに挿絵が入っている。

「……犬……?(だよな、この絵)」

 比較的前半の左側のページの隅に、柴犬に似た絵が小さく描いてある。

 レンジの乗った背の低い冷蔵庫に肘をかけ、もう1ページめくる。

 そのページの右上には猿が、見開いた左のページの隅にはキジのような鳥が描かれている。

「……これってもしかして」

 嫌な予感はした。

 類はページを数枚戻してみた。

 そこには案の定、川上からモモが流れてくる絵が1ページ丸々使って描かれていた。

「くぅ……、これって“桃太郎”じゃないか!爺さん“ワシはもう読まない”とか言ってたけど、俺だって読まねーよ!俺は何歳だ、もう28だぞ。子供かよ!まったく……」

 類は和本をレンジの前から机に向かって投げるように置いた。

 ピーピーピーとレンジが鳴る。

 レンジから弁当を取り出し、机に向かって座るとパソコンを操作しながらスプーンで食べ始めた。

 左側に置かれたサブモニタの壁紙が、組子障子の紋様に変更されている。

 そしてメイン画面で見ているのは『カロ屋』のサイト。その作りはインターネット黎明期を彷彿とさせる。

「いまどきカウンターを前面に押し出してくるサイトなんか無いよな……」

 カチカチとマウスをクリックしてつぶやく。

 『カロ屋』のウェブサイトは、かなり以前に茂がテキスト片手に見様見真似で作ったものだ。その頃は、店と取り扱っている商品の紹介をする程度で、トップページのフラッシュバナーで目がチカチカする以外、大したものではなかった。

 類が管理するようになってからはHTMLこそ最新のヴァージョンだが、ページの配置や構成はその頃からほとんど変わっていない。HTML(Hyper Text Markup Language)は、ウェブサイトを作るための基本的な言語のひとつだ。『カロ屋』のウェブサイトもこれで作られている。

「……(HTTPSに直すの大変だったな……)」

 スプーンを加え、『カロ屋』のトップページをぼんやりと見つめる。

 茂がネット販売に力を入れるようになったのは、類が商品紹介しかなかったページを、注文が容易にできるように改変したことと、サイトのセキュリティ強化を図ってからだ。『カロ屋』のウェブサイトは、ネット上の住所であるURLがしっかりHTTPSから始まっている。

 HTTPS(Hyper Text Transfer Protocol Secure)のS、セキュアはSSL(Secure Sockets Layer)/TLS(Transport Layer Security)で、通信を暗号化してセキュリティを高めるものだ。ネット販売をするサイトで、このSのつかないURLなど、まず見ない。

「……(セキュア・ソケット・レイヤー……か)ふぅ」

 類は空になった弁当の容器を蓋と重ねて手に持った。そして流し台の横にあるごみ袋めがけて投げ入れた。

「あっ」

 容器はゴミ袋の端に引っかかって、蓋と容器がバラバラになって床に落ちた。

「はぁ……」

 類は椅子から立ちあがり、やれやれとばかりに空容器を拾いなおし、ゴミ袋に捨てた。

 戻り際、机の横に引っ掛けた斜め掛けのカバンから紙人形を取り出す。

「…………」

 類はそれを、メインとサブのモニタの間に飾ってみた。

「この位置なら、邪魔にならないだろ」

 椅子に座り直し、もう一度和本を開く。「桃太郎」が書かれた前半をパラパラと飛ばし、ページ数残り僅かのあたりで驚いて手を止めた。

「!!(これは……)」

 類は思わず椅子から立ち上がった。

 そのページには組子障子の紋様の、図案のようなものが見開きで描かれていた。

「……なんだよ、お爺ちゃん。ビンゴじゃないか!」

 類はサブモニタの画面の壁紙にした紋様と、本の紋様とを見比べた。

「同じか?……(同じだよな?……うーん、いちおうスキャンしておくか)」

 先ほどモニタの間に置いた紙人形を、しおり代わりに挟むように和本に横向きに乗せ、スキャナのコードをパソコンにつなぐ。

「あれ?アダプタがないな。どこにいった?」

 類は机の周辺を探し始めた。

(……しばらく使ってないからなぁ)

 パソコン周りにあるコードを辿っていくも、どれもスキャナのアダプタのコードではない。

(おかしいな……、このへんでしか使わないんだけどなぁ)

 椅子を動かし机の下に潜り込む。

 サブモニタに映し出された紋様が、発光しているように見える。

 どういうわけか画面の中に、和本に挟んだ紙人形が映し出されている。

 机の下に置かれた収納棚を探している類は、その画面の変化に気づくはずもなく、棚の下段からコードを1本引っ張り出している。

 その間に、違和感を以て画面の紋様の変化は収まった。

「こんなところにあったか……」

 類はアダプタのコードを手に、机の下から出てきた。

「ふぅ……」

 椅子を戻して座り直す。そして、サブ画面の前に立つように置かれた紙人形を見た。

「あ?」

 キーボードの手前に置かれた和本には、紙人形がそのまま乗っている。

「あぁぁっ?!ふ、ふたつ!?人形が二つ?!人形がっ」

 突然の不可思議な現象に驚き、床を蹴って椅子ごと机から離れた。

「ど、どうなってるんだ……」

 サブモニタの前に立った紙人形の鎧武者が、類を向く。

「うあっ!」

 恐怖がこみ上げる。

 紙人形は、胴体を引きずるように左右に揺れながら歩き出し、机から飛び降りて類の方に向かってくる。

 すぐさま椅子から立ち上がり、類は部屋の奥の隅に逃げた。

「な、なんだよ!こっち来るな!」

 靴下で滑って、そのまま床に尻もちをつく。

 思わず目をつむり両腕を顔の前で合わせて身構えた。

(…………)

 しんと静まり返る部屋の中。

 紙人形からの攻撃はない。

(う……、うぅ……?)

 どうなったのかと、類は恐る恐る目を開けた。

 類から少し離れた位置で、紙人形は手をついて頭を下げている。胴体が前後に潰れた円筒形のため、腕立て伏せを失敗しているような格好だ。

「な……(な、なんなんだ、これ)」

「お初にお目にかかります。この度は、それがしのような名もなき者に命をお与えいただき、誠に感謝申し上げるしだい」

 突然紙人形がしゃべった。

「……(何がどうなってるんだ?)」

「殿のようなお強き方にお仕えできること、まさに恐悦至極。何なりとご命じくださいませ」

「……の、呪いの人形か……?(へんなしゃべり方だ)」

「とんでもございませぬ。某は殿によって命を与えられた者。どうして呪いとなりましょうか」

 紙人形はずっと頭を下げたまま答えた。

「そ……、そうなのか……。(害はないのか……)」

 類は床に座り直した。

 恐怖は完全に消えたわけではない。だが、動く紙人形に対する好奇心の方がそれを勝っていた。

「とりあえず……頭を上げたらいいんじゃないか?」

 類の言葉に紙人形が動く。

「はい、ご命令のままに。失礼いたしまする」

 紙人形は、円筒形の胴体を立てて起き上がった。

「……」

「……(どうしろって言うんだよ、この状況……)」

 ふと、視界の端に机に乗った方の紙人形が入った。

「向こうのとは違うのか……?」

 何気なく出た言葉に紙人形が反応する。

「あれにあるのが、某の本体でございまする」

「本体?」

 類は立ち上がり、机の上でしおり代わりになっている紙人形を手に取った。そして、動いている紙人形と見比べる。

(こうして見ると、動いている方はまるでCGだな……)

「触れるのか?」

「はい?何でございましょう?」

 類はこちらに向かって動いてきている紙人形を左手でつかんだ。

「おわぁあ!」

 紙人形が驚いて声を上げる。

 右手には本体の紙人形、左手には動く紙人形を握り、感触を確かめる。

(大きさ、形、色も全部一緒か。重さも一緒っぽいな。こっちはちゃんと紙の質感だが、こっちは……なんだろ。ウレタン?)

「と、殿ぉぉ、お放しくだされ!お放しくだされ!」

 紙人形は類の左手の中でもがいている。

「あ、あぁ……」

 類は机の上に動く紙人形を置いた。

 その感触は少し硬めのウレタンにも似たものだった。

「でも、どうして……。分裂したのか?」

 本体の紙人形をモニタの間に戻しながら言った。

「某もよくわかりませぬが」

 紙人形はそう言って、紋様の画面に触れながら話を続けた。

「某、ここより舞出でて参りましたゆえ、分裂とはいささか違うような……」

「画面?……いや、紋様か。でもなんで……」

 類は考えられるあらゆる要因を探った。

(本の間に紙人形を挟んだことが原因なら、本と画面の紋様とに何か関係があるのか?)

 類はもう一度、本体の紙人形を和本に挟んでみた。

 しかし、画面にも、どちらの紙人形にも変化は見られない。

「……うーん」

「とっ、殿!それは某の本体故、何卒丁寧な扱いを、なにとぞ!」

「あ?あぁ……」

 類は本体の紙人形を戻し、今度は机の上のペン立てから消しゴムを取り出して、和本の紋様の上に乗せてみた。

「……うーん」

 やはり、消しゴムにも画面にも何の変化も見られない。

(やっぱ違うのか……?)

「どうされましたか?殿」

「……なぁ、さっきからその殿って言うの、どうにかならないか?」

「殿は、殿にございます」

 紙人形は類を向いてキョトンとしている。

「……俺は類って言うんだ。殿じゃねーよ」

「殿は、殿にございます。名前をお呼びするなど某には畏れ多いことにございまする……」

 類は苦笑いをした。

「(ダメだなこりゃ)んじゃ、お前は何て言うんだよ、名前」

 そう言って椅子にどっかりと腰を掛ける。

「某は……。名は無きもの。名を持つに足らぬ存在にございまする」

「名前、無いのかよ。それ不便だろ……」

 類は頬杖をついてメインの画面を見た。

 そして「ミヤビ……」そうボソッとつぶやく。

「?」

 紙人形は不思議そうに類を見た。

「お前の名前だよ」

 頬杖をついたままチラッと動く紙人形を見る。そしてすぐに視線を本体の紙人形に移し、右手の人差し指で、本体の紙人形に軽く触れながら言った。

「この千代紙の柄、そんな感じだろ?」

 もう一度、動く紙人形に視線を移す。

「お前の名前は今からミヤビだ。名前があった方が便利だろ?」

 類はニコッと笑った。

「と、殿ぉぉ!ありがたき幸せ。某、これより先“ミヤビ”と名乗らせていただきまする」

「あぁ、よろしくな!ミヤビ」

「ははーっ!」

 ミヤビは再び腕立て伏せのような格好で頭をついた。

「それはいいって。堅苦しいんだよ。もうちょっとフレンドリーに行こうぜ」

「殿の仰せとあらば!では、一緒に時代劇でも見ましょーや」

「はい?!なんだそれ。いきなりフレンドリーすぎだろ(確かに“フレンドリーに”とは言ったけどさ)」

「して、どちらのテレビに映りますかな?時代劇は」

 ミヤビは左右に置かれたモニタをキョロキョロと交互に見た。

「いや、これテレビじゃないから」

「違うのでございまするか?!」

「これはパソコンのモニタ。地上波は映んないけど……、ネットTVなら時代劇やってるかな……」

「ほほぅ……、さすが殿」

 ミヤビは感心した様子でメインモニタを見た。

「(こいつ、わかってるのか?それに、何がさすがなんだ)それより、この本の紋様と、そっちの画面の紋様とは何か関係があるのか?」

 類はようやく本題に入った質問をした。

 紋様から出てきたのであれば、何か知っているだろう。

「むむ?どれどれ。ではちと失礼いたしまする」

 ミヤビは和本の前に立つと、ページの端を持ち上げて言った。

「これは……、「カロの日記」でございますな」

「カロの日記?」

「はい。某の創造主であらせられる彼の御方が、そのようにおっしゃっているのを聞いたことがありまする」

「創造主……。閏お爺ちゃんのことか?」

「左様でございまする」

「ふむ……(日記帳……、そうは見えないんだけどなぁ。前半が“桃太郎”で後半が日記になっているのか……?)」

「それで、こちらに映し出されているものと、ここに描かれているものは同じものにございまする」

「同じもの……?どういうことだ?いや、確かに紋様は同じだが……」

「うむむむ……。どう説明してよいものか、よい言葉が浮かびませぬ」

 ミヤビは腕を組んで考え込んだ。

「もう少し詳しく教えてくれないか?なんでもいいんだ。少しでも手掛かりが欲しい」

 類はミヤビをじっと見て言った。

「うーん……、なんという言葉がふさわしいか……。強いて言うなら“投影”……となりましょうか……」

 ミヤビがようやく絞り出した答えだが、いまいちよくわからない。

「投影……?」

「これに本体などありませぬ。どこにこの紋様が描かれようとも、すべてが“投影”……。同じものにございます」

 そう言って、ミヤビは画面に映し出された紋様を見つめた。

「…………(本体がない……?すべてが投影……?なら、ここにあるのも、カロ屋にあるのも同一のもの、とみるべきなのか?意味が分からん)」

 類は思案をめぐらせた。足を組み、左手はキーボードに乗せたまま、右肘をついて手を顎に当てる。

 もしそうだとするなら、和本の紋様をスキャンで読んで紋様を抽出しても、その紋様自体は意味をなさないことになる。ただし、“和本に描かれている”という情報には十分資料としての価値があるだろう。

「うん」

 類はおおきくうなずいて立ち上がり、スキャナの電源を入れると和本をスキャナにセットした。

 ミヤビがスキャナに近寄る。

「殿、これは?」

「スキャナだよ。いちおう本の紋様もデータとして入れておこうと思う」

 スキャナを操作し、和本の紋様とあわせて表紙と一部のページも読み込む。

 もう一度、和本を確認する。

(奥付は……。あるわけないか)

 手書きの日記帳ならば、奥付がないのは当然と言えば当然だ。

 最後のページをスキャン中、ミヤビが物珍しそうにスキャナを横から覗き込んだ。

「ま、まぶしいぃ!」

 そう声を上げて腕で顔を覆う。

「(そりゃそうだ)さてと、これでいいだろう……」

 作業を終えると、類はスキャナを片付け、サブモニタの壁紙になっている紋様を見た。

(やっぱ、重要なのは紋様……、だよな)

 和本の方に物を乗せても反応はしなかった。

 なぜミヤビが……という疑問は残るが、ひとまずパソコン上でも、紋様の上に適当な画像を乗せて何か変化はないか見てみようと考える。

「何がいいか……」

 メイン画面で、適当なフォルダを片っ端から開いていく。

(うーん、あまりいいのがないな)

 ミヤビがその様子を、モニタの前で「ほぅ、ほぅ」と声を漏らして食い入るように見ている。

「こ、これはなんでありまするか!?」

 適当に開いたファイルのサムネイルの一つを指して、ミヤビが興奮気味に言った。

 それは女性キャラクターの3Dモデルの画像だ。

「あぁ、これは……」

 そう言いかけて、類の頭に過去の記憶がよみがえる。


 ―――『エルデピュータ』


 当時エルデピュータは、VR対応MMORPGの開発に社運をかけて大規模に行っていた。


 社内 開発チームのフロア

 プログラムチームのデスクはそれぞれが低めのパーテーションで区切られ、その一つに類のデスクはあった。

「先輩、見てください!ついにメインキャラの3Dモデルが出来上がったんですよ」

 昼休み、下の階のデバックチームのフロアから、翔太が嬉しそうにA4の用紙を持って類のもとにやってきた。

「うん?」

 類はそれを受け取り、じっと見た。

 そこには髪の長い女性キャラクターが腰に手を当てて、変なポーズで立っている画像が出力されていた。妙に巨乳で、その割にウエストが細く、全体的にかなりバランスが悪い。おまけにスカートはとても短く、胸開きも大きい極めて露出の高い服装が、その体形のアンバランスさをより強調している。

 類は渋い顔をして翔太に言った。

「これ、完成データはLANに乗ってんの?」

「あると思いますよ。回覧してくれって出てたんで」

 類はカタカタとコンピュータを操作し、社内LANからファイルを開くと、翔太が出力して持ってきたデータの画像をモニタに表示した。そして、同じキャラクター名の画像を並べてもう1枚開く。

「あれ?少し違う」

 翔太がモニタを見て言う。

「どこが少しだ。こっちが決裁で見た2D画像。こっちが完成データとかいう3Dモデル。2D3Dとかいう以前に、キャラそのものが全然違う」

 類がペンで画面を指す。

 2D画像は、巨乳でもなくウエストもしっかりしたバランスの取れた体形のキャラクターだ。胸開きは小さく、スカートも膝までの長さがあり、露出もそれほど多くない。2Dから3Dが起こせるよう、正面・側面・背面と、背景のグリッドに沿ってきちんと並べられている。しかし出来上がった3Dモデルは、2Dの画像の何一つまともに再現されていなかった。

「あれえぇぇ……」

 翔太は引きつった顔をした。

 類は机に肘をついていぶかしげに画面を見て言った。

「こんなことするのはモデラーだろ。勝手に改変しやがって……。ま、俺の知ったこっちゃないけど」

 不機嫌そうな類に、気まずそうに翔太が笑いながら言う。

「あはは……、確かに。この2Dのイラスト、どう頑張って3D化してもこんな風にはならないですよね……。これ、通るんですかね?」

「さあな。上役はどうせ見てないだろうから通るかもな……」

「先輩はいいんですか?このキャラデザイン……、原図、津田さんですよね」

 津田愛理、彼女は類と同期入社の優秀な美人プログラマだ。

 いつも行動を共にしている二人に、周りは社内恋愛かとひそかに噂していた。もちろん翔太もそれを耳にしていた。

 しかし、実際は入社時期も所属チームも同じで、さらに受け持った仕事内容も同一案件だったため、いつも一緒にいるように見えたに過ぎなかった。

「……関係ねーよ」

 類は頭の後ろで手を組んで、大きく背もたれにもたれた。

 翔太が取り繕うように言う。

「そもそも、主役のキャラデザインの原図は、社内公募だったじゃないですか。原図がデザイナーじゃないからって、勝手に改変するのは、僕はよくないと思います。うん……」

「……、そうだな……」

 類はつぶやくように言った。

 その後、津田はエルデピュータを辞めた。

 結局この改悪の一件がデザイナー側とキャラクターモデラー側の抗争に発展し、開発そのものが大幅に見直されることになった。しわ寄せはプログラマにも重くのしかかり、社内の人間関係の悪化と就労状況がブラック化した結果、多くの離職者を生み、倒産を招くに至る。


 ―――


「……ゲームのキャラの画像だよ」

 類はそう言って大きくため息をついた。

「ゲーム?キャラ……?」

 ミヤビは画面を見ながら首をかしげた。

「そう……。本当はこのキャラが主役になるはずだったんだ……」

 津田のデザインしたキャラクターは結局採用されず、改悪された3Dモデルも没になった。

 類はぼんやりとマウスをクリックし、そのファイルを開く。

 画像ソフトではなくモデリングソフトが立ち上がる。

「ほぉ!なんと美しい……」

 ミヤビが画面を食い入るように見て言った。

 画面の中に、サムネで表示されていたキャラクターが中央に静かに立っている。

 青みを帯びた紫色の長い髪、深く青い色の澄んだ瞳。肌は透けるように白く、濃紺のワンピースを身にまとっている。もちろんその長さは膝丈だ。前身頃がボレロ風になったマントは後ろが鳥の羽がモチーフになっており、膝下まで流れるラインが背面の装飾をより華やかなものにしている。

 この、類の起こした3Dモデルは、津田の原図を基にした2D画像に、限りなく忠実だ。

(あぁ……、そうだった。……モデリング、途中だったんだ……)

 忘れていた出来事とともに、類の中にひそかに抱いていた津田への淡い思いもよみがえった。

 類は、津田の退職後、彼女の置き土産ともいうべきこのキャラクターのデータを持ち帰り、しばらくの間、自分のパソコンでコツコツと作業を行っていた。決して日の目を見ることのないそれは、時間をかけて三角で細部まで丁寧にモデリングされている。 

「(完成間近まで作ってたんだな……、俺。)……あとはアクセサリだけか」

 モニタの右隅の時計を見る。

 14:22

「うん、久々に続きをやるか……(そして完成させる……!)」

 類はペンタブレットのペンを握った。

 時計は時を刻む。

 16:47……(小休憩)

 18;10……(夕食・コンビニ弁当)

 21:32……(入浴)

 0:55……、

「殿……。そろそろお休みになられては……」

 モニタの間の本体に並んで、ずっと静かに立っていたミヤビが、心配そうな声で話しかけてきた。

「ん……、もうこんな時間か……」

 類は軽く腕を回して、首周りの筋をのばすと、ペンを置いた。

 そして椅子から立ち上がり軽くストレッチをする。

「そうだな……、寝るか」

 すぐ後ろのクローゼットの扉を開ける。

 強引に押し込んでいた布団が、扉を開けたと同時に流れ出てきた。

「うわっと……」

 類はパソコンの電源を落とし、布団を敷くと、洗面台に向かった。

 少しして、歯を磨き終わった類が部屋に戻ってきた。

「消すぞ」

 部屋の明かりのスイッチに手をかけ言う。

「はい。お休みなさいませ……」

 ミヤビが静かに返事をする。

 類は布団にもぐり、すぐに眠りに落ちた。



 どのくらいの時間がたったのか……。


 ブルルル、ブルルルと、携帯電話の振動で類は目を覚ました。

 どうやらパーカーのポケットに入れたまま眠ってしまったようだ。

 ゴソゴソと手探りで電話を取り出し、うつぶせのまま枕に寄りかかって電話に出る。

「はい……」

 眠そうな声。

 ――「あ、先輩?僕です、梅原です!」

「あぁ……、翔太か……。何?」

 目をつむったまま答える。

 ――「行ってきましたよ!『カロ屋』さん!今その帰りなんです。無事に配置菓子置かせてもらいましたー!」

 翔太は、いつになく明るい声だ。

「そうか……、よかったな……」

 ――「あれ?先ぱーい、もしかして寝てました?」

「う、うん……」

 ――「もうお昼ですよ!あ、どうです?お昼一緒に。今、二番通りにいるんですよ」

「う、うん?」

 翔太に言われ、起き上がって時計を見る。

 机の上のデジタル時計は11時40分を指していた。


 二番通り、類がよく行くいつものコンビニ前。

「あ、先ぱーい!こっちこっち!」

 先に待っていた翔太が、類を見つけ手を振る。

 人ごみを抜け少し足早に、類は翔太のもとにやってきた。

「待たせたな……」

「いえ。じゃ、そこのファミレスでいいですか?」

 翔太はニコニコしながら、はす向かいにあるファミリーレストランを指した。

「あ?あぁ……」

 類はまだ眠そうな様子で返事をする。

「先輩と昼食なんて、久々ですねー」

「……そうだな」

 翔太はずいぶん嬉しそうな様子だ。

 ファミレスの自動ドアを抜け中に入る。

 昼時とあって、店内はかなり混みあっていた。

 入り口で少し待っていると、店員が席を案内に来た。そのまま店員の後をついて、案内された窓際の席に座る。

 店員が水の入ったコップを2つ置いて奥に戻っていった。

「先輩、何にします?」

 向かい側に座った翔太がメニューを開いて類に言った。

「そうだな……。一番安いやつ」

「あはは……、先輩」

 翔太が苦笑いする。

 店員を呼ぶと、翔太はさっそく注文をした。

「僕はこれ」

 そう言って“チキンステーキ(セット)990円”を指す。

「…………(ちっ)俺はこれで……」

 類はしけた顔で“ミートドリア499円”を指した。

 店員が店の奥に戻ると、翔太は陽気に話を始めた。

「さっき、無事に『カロ屋』さんに配置菓子を置いてきましたよ!これも先輩のおかげです。だから先輩、今度飲みに行きましょう!もちろん僕のおごりで!」

「……いいよ、別に」

 類はしけた顔のまま、水を一口飲んだ。

「お礼をさせてくださいよ!あ、んじゃ、今度の土曜か日曜に、僕がお昼をごちそうするっていうのはどうです?アリサちゃんも一緒に」

 翔太は少し照れたような顔で言った。

「なんでアリサが出てくんだよ……」

「だって“クランチョコ”アリサちゃん好きじゃないですか?皆川さんに配置菓子を進めてくれたんじゃないかと思って……」

 少し顔が赤くなっている翔太を見て、類が言った。

「あれはただのお菓子好きだ。自分の家でお菓子が買えたら、くらいにしか考えてねーよ」

「アリサちゃん可愛いですよね……。先輩の従妹なんですよね。なんか、仲良さそうで羨ましいなぁ」

「可愛い?どこが。あんなもんちっとも可愛くないぞ」

「そうですかー?可愛いと思うけどなぁ」

「お前……、(アリサのこと好きなのか?)」と、言いかけてやめた。

 余計なことは言わない方がいい……。

「……いや、なんでもない」

 類はそう言って翔太の様子をうかがった。

 翔太はすごく機嫌のいい楽しそうな表情をしている。

(ただの社交辞令……か?新規開拓で浮かれてるだけか……)

 そうしているうちに、注文していた料理が運ばれてきた。

 二人はさっそく食べ始める。

 翔太の頼んだチキンステーキのいい匂いが漂ってくる。

「……(ちっ!)」

 類は内心ムッとして、ドリアに、ついてきたペッパーソースを鬼のようにふりかけた。

「それより先輩、『カロ屋』継ぐんですか?」

「はぁ!?」

 翔太の唐突な言葉に思わずスプーンを落としそうになった。

「『カロ屋』のおかみさんが、先輩が“お店を継いでくれたら”みたいなこと言ってたから」

「継がねえよ!」

「僕が先輩だったら、その選択肢もアリかなーって思うんですよね」

「なんで?」

「だって『カロ屋』ってネット販売が中心みたいじゃないですか?コスプレ用雑貨って、かなりニッチだと思うんですよね。しかも特注も対応できるって、これってコア・コンピタンスだと思いません?」

 翔太の言う通り、確かに、『カロ屋』で取り扱う商品の多くはマニアックなものだ。ましてやコスプレ用の“雑貨”限定ともなると、その市場規模は極めて小さいだろう。まさにニッチ(すき間)に食い込んだ商売だ。そして『カロ屋』を支えている柱の1本でもある“特注”への対応は、茂の手によるところが大きい。手先の器用な茂は、異世界からの調達品を含む様々な素材を加工して、客の要望通りに品物を作ることができる。これは他には真似できない『カロ屋』の強み(コア・コンピタンス)といえそうだ。

「お前……、勝手に分析すんなよ。特注って言っても、叔父さんが器用ってだけで引き受けてるんだ。コア・コンピタンスでもなんでもない。俺から言わせりゃカロ屋は“負け犬”だ……」

「そうかな……。僕には“金のなる木”に見えるんだけどなぁ……」

 翔太が苦笑して言った。

 

 昼食を済ませ、翔太と別れる。

 そしてファミレスの、はす向かいのいつものコンビニに立ち寄る。

 お茶のペットボトルを手に取り、ふと、ミヤビのことが気になった。

(アイツは飲んだり食べたりするのか……?)

 ドリンクケースの前で立ち止まっていると、不意に肩をポンッと叩かれた。

「よぅ!」

「み、南!」

 振り向けば、同期入社の元同僚、南諒一の姿があった。


 再び、はす向かいのファミレス。

 今度は南と向かい合って座っている。

「俺……、今日ここ2回目なんだけど……」

 類は引きつった笑顔で言った。

(なんでこうなるんだ……)

 店員に“また来た”と思われているのではないかと、内心複雑な心境だ。

「いいじゃんか!久しぶりに会ったんだし」

 類と同じ年の南は、色黒でがっちりとした体形の大柄な男だ。髪は短く金色に近い茶髪に染め、目がクリっとした濃いめの顔立ちをしている。まだ少し肌寒い季節だというのに、薄地の半袖Tシャツを着ている。

「お前、仕事は?」

 コーヒーをかき混ぜながら類が言った。

 南はどこかのIT企業に行ったという話を風の噂で聞いていた。ならこの昼下がりのこんな時間に、こんなところをうろついているのは変だ。

「はっはっは、今日まで休み!明日からバイト!」

 南はおしぼりで手を拭きながら言った。

 南の注文したアイスコーヒーの氷が、コーヒーの中でカラッと音を立てる。

「バイト!?あれ?だってお前、どっかの会社に入ったんじゃ?」

「あ?あぁ、それがとんだSES企業でさー。行った先の俺の経歴が、JavaもPHPもC#も使えることになっててよー。しかも勤務歴10年って、ひどい話だろ?」

「そ、それは、確かに……」

「だから、さっさと辞めてやった。はっはっは!」

 SES(システムエンジニアリングサービス)契約は、派遣に似た形態の働き方だ。違いは指揮系統がSESの場合受注側にあるという点だ。発注先に常駐して仕事をするのだが、南の場合、先方に改ざんされた経歴が送られていたようだ。

「じゃぁ、バイトって?」

 コーヒーのカップを口元に近づけて類が言う。暖かい湯気が顔にかかる。

「お、お前もやるか?まだ枠埋まってないらしくて、……これだ」

 南が取り出したのは、作業員の短期アルバイトの案内用紙だ。

「3か月だけなんだけどよー、なかなか面白そうだろう?」

「ほぅ……」

 少し身を乗り出し、テーブルに置かれた用紙を見る。

「発掘調査?外の仕事か……」

 用紙を一通り見ると、類は背もたれにもたれた。

 肉体派の南には合っているように思える。

「そうだ!遺跡の発掘だぞー。ロマンだ、ロマン!」

「うーん……、確かに面白そうだな……」

 類は考えた。失業手当も切れた今、就職先が見つかるまでのつなぎとしては悪くないかもしれない。それにバイトとはいえ仕事をしていれば、『カロ屋』の後を継ぐという話もいったんは置いておかれるだろう。

「それは誰でもできるのか?」

 類は南に聞いた。

「おぅ!18歳以上で健康なら、経験も年齢制限も無いらしい。申し込むなら早い方がいいぞー」

 南はそう言って、案内用紙を手に持ち、しまおうとしている。

「あー、ちょっと待って」

 類は携帯電話を取り出し、その用紙を写真に撮った。

「ありがと。連絡先ここだよね?」

 そう言って、画面に撮った案内用紙の、電話番を指す。

「おう!瀬戸、一緒にやるか!ロマンだ!ロマンのバイト!」

「あはは……(仕事にロマンは求めないんだよな……、俺)」


 話も終え、店を出て南と別れる。

 そして先ほど買いそびれたお茶を買おうと、類はコンビニに入った。

 ドリンクの棚の前、お茶のペットボトルを1本持ち、レジに並ぶ。

 さっさと会計を終わらせて店を出ると、聞き覚えのある声に呼ばれた。

「類君!」

 振り向けば、買い物帰りと思われるキヨが立っていた。肩にかけたマイバッグから長ネギの緑色の部分がはみ出している。

「お、叔母さん。買い物帰りですか?」

(嫌な予感がする……)

「えぇ。類君も買い物?」

「えぇ……、そんなところです」

 軽く笑顔で答える。

「今日、あの人来たわよ!“ローリカー”の」

「あぁ……」

 翔太のことだろう。先ほど、会ったばかりだ。

「立ち話もなんだから、そこでコーヒーでも飲んでいかない?3時だし」

 キヨはそう言って、はす向かいのファミレスを指した。

「いっ!いえ、すぐに帰るんで!じゃ、またっ!」


「…………(なぜ……だ……)」

 再び、ファミレスの店内。

 今度はキヨと向かい合わせに座る。

 しかも席は、昼に翔太と来たときと同じ場所。

 結局キヨの誘いを断り切れず、半ば強引に連れてこられた形だ。

 キヨはコーヒーを飲み、「ほほほ」と笑いながら、配置菓子について面白そうに、類に話をしている。

 しかし、類はうなずくだけで、その話はほとんど頭に入ってこなかった。

(今日ここ……連続3回目、つらい……。コーヒー飲みすぎた……)

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