[〇四] 整える
私の部屋、とは言うものの、その空間はわずか一・五畳しかない。
「あの、聞いてもいいですか?」
部屋は縦長で、床はフローリング、奥に本棚、その前に小ぶりのデスク、洋服
もとは父の書斎であったはずのものが、結局は倉庫と化していたので、私はここを自室にしたいと願い出た。
その部屋に、
「弟さんと妹さんの部屋、もっと広くありませんでした?」
私の家は一軒家、この部屋は二階で、ちょうど弟と妹の部屋に挟まれる位置にある。乃々香嬢を部屋に入れる前、客人が来たから少し静かにしていてくれと頼んだわけである。その際、ちらとではあれど、乃々香嬢はそれぞれの部屋を見ている。どちらも六畳。
気を利かせた弟は妹を連れ出し、今は一階のリビングでふたり、仲良くゲームで遊んでいる。その後は夕飯となろう。あれ、私は夕飯をどうするべきなのか。まるで考えてなかった。
「私、狭いほうが落ち着くから。酷い扱い、ってわけじゃなくて、自分で望んだの」
「まあ、壁があるのは素直に羨ましいです。私ずっと、
六畳間を折半したら三畳、四畳半でも二・二五畳、よくよく考えれば、私の部屋、いくら何でも狭すぎるのでは?
ともかく、乃々香嬢はここにいる。アイスクリームショップを出た後、駅に向かうことなく、共に私の家まで来た。無論、
焦らしてもいいことはないだろう。私はデスクの前に立ち、黒に近しいグレーをしたノートパソコンのスイッチを入れた。起動を待つ
「小夜戸楓に弟子入りしたいって、そういうことでいいんだね。小夜戸楓を師と仰ぐのが、あなたの希望だと、そう解釈して間違いはない?」
「はい。一切、何も間違いはありません」
迷いはないようだ。よろしい。
余談に近しいが、私は、こと創作に限っては、あまり気の長いほうではない。いや、はっきりと短い。起動時間で長く待たされたくない、あるいは、上書き保存の処理すら、コンマ〇一秒でも短くしておきたい、そんなわけで、私のパソコンは見た目よりはるかに性能がいい。
「じゃあ、覚悟してね。小夜戸楓、たぶんけっこうスパルタ教育だよ。教師には向いていないの。だから、自分を基準にしちゃう」
「小夜戸先生に近づくために師事するんです。先生自身を基準にしていただかないと困ります」
ためらうそぶりはまるでなく、乃々香嬢から返ってきた言葉は力強い。この狭い部屋が怯えるような感覚さえする。しっかり覚悟もある。とてもよろしい。
パソコンの画面をちらと見やる。そろそろ起動が済む頃合いだった。もういいだろう。嘘を嘘のままにするのはここまでだ。それはすなわち、正しい、新しい関係を始めることを意味する。
「じゃあ、今後、
この場合、私には、上に立つ自覚が求められる。乃々香嬢というのでは、お話にならないだろう。とはいえ実用上、というより私の精神衛生上、先生は勘弁願いたい。
「えっ?」
乃々香嬢、改め乃々は、何を言われたのか、にわかには掴めないようだった。当然だろう。私はパソコンのディスプレイを指で示した。
「これ、中身を見てくれれば、どういうことかわかる。ごめんなさい。嘘を吐いた。それは本当に、謝るから」
ディスプレイの五分の四ほどは、アイコンで埋め尽くされている。それらの大半はアプリケーションソフトのものではなく、文書ファイルだ。ソフトウェアを立ち上げてからデータを読み込むひと手間さえも面倒で、短歌も小説も書評も、デスクトップに保存して、直接開けるようにしてある。無論、小夜戸楓の作品も並ぶ。乃々が読んだはずのものも含めて、そこにある。
私はデスクの前から退き、乃々に場所を譲る。
「好きなもの、開いて読んでいいよ。そして、ファイルの作成者のとこ、見てみて。つまりね」
真実を言う。嘘を正す。
「私は確かに
嘘をなくして、入れ違いのように、約束をする。
「転校なんてしてない。ここにいる。要は、小夜戸楓は私の別名義、ってこと。だから、小夜戸楓はもう、乃々のことも、乃々の事情も知っている。そして、乃々はもう――」
乃々はデスクに座る。その瞳に疑いの色は見えなかった。
「――弟子入り、OKしてもらってるよ」
夕飯がどうなったか。
本来、私が食べるはずだった
お金の使い道はいくらでも考えられる、節約のためと、私たちはふたり、夕食を近場にある牛丼のチェーン店で済ませた。この場合、時間の節約になるところも好ましい。
期間に余裕がないことが、何より問題だった。
乃々はすでに九敗している。もう一敗もできない。後がなく、勝負は五月に再開される。最初の一勝がなければ勝負そのものが終わる、しかし、その一勝がもっとも難しい。六月の一勝のためなら期間は二ヶ月あるし、七月の一勝ならば三ヶ月もある。五月にはそれがない。
私の部屋、乃々をデスクに座らせて、私は後ろから画面を覗く形で指示を出した。
「何でもいいから、小説を書いてみて、一段落だけ。面白く書こうとしなくていい。この書式、一行三十九字なんだけど、三行くらい」
乃々は真剣な顔つきで頷き、緊張混じりではあるものの、さらさらと文章を書いた。毎月、一作ものしてきただけあって、手慣れている。ローマ字入力なので比較的覚えやすくはあれど――ちなみに私はかな入力――ブラインドタッチも心得ている。実に好ましい。
書いてもらってから、私は趣旨を添えて、次の指示を出す。
「これ、自宅でひとりでもできる特訓ね。今書いてもらった文章、基本的な格助詞と並立助詞だけを除いて、全て、辞書で意味を調べて。どんなにわかってると思っても、全部。私のパソコン、電子辞書が入ってるから、それを使って」
乃々は特待生であるということで、噛み砕いて説明はしなかったが、基本的なてにをはを除いた全て、そう言っても、まあ、おおよそ間違いではない。
「私たちは日本人だから、日本語に親しみ過ぎている。自然に使っている言葉ほど、ちゃんと意味を知らないことが多い。“ちゃんと”の意味、すぐに言える?」
乃々は神妙な面持ちで、首を横に振った。
「それと、言葉というのは多義だから、複数の意味合いを考慮して書かなきゃいけない。辞書を引けば、複数ある意味が並んで載っている。それも含めて覚えないとね」
私のプランは、まずは小説の基本単位、文章よりも小さい、単語から整えようというものだった。美しくするのではない、整えることだ。物語の伝え方をうまくすること。伝え方がうまくなれば、プロット面での上達を待たず、話は面白いものになる。伝えきれていない物語の力が、十分に伝わるようになるから。
歌人が言うのも、大変におこがましいが――
――小説というのは、書いて読んでもらうものではない。
伝えるものだ。
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