梅雨空に思い出す

宝塚記念が終わると、本格的に夏競馬が始まります。

とはいえ、開幕週のあたりはまだまだ梅雨の真っ最中。当然ジメジメした雨空の下で競馬を見ることになります。

そんなとき、わたしはある馬を思い出すわけでして……。


福島競馬場、七夕賞のパドック。

わたしと先輩はある馬を見ながら話をしていました。

前走の準オープン戦では一番人気ながら2着。でもこのときは58キロを背負わされてたし、今回のハンデは55キロと背負い慣れた重量になってます。

パドックで見る限り、黒鹿毛の馬体にグイッと気合を乗せた素振りに変わりはありません。

ですが……。


ゼッケンの下の名前はツルマイナス。

プラスになれるように競馬やってるのにマイナスはないですよねぇとわたしがボヤいてると、先輩はこう言います。

「マイナスじゃないぞ。鶴舞さんのナスだ。そう言えばナスに見えないこともないよな」

馬でナスってのもどうなんでしょうかと答えつつ、わたしの頭の中ではお盆に作るおナスやきゅうりのお馬がちらついてました。あれ、でもナスが牛できゅうりが馬って聞いてたし、じゃあ馬でナスっていったい……。

そんなことを考えながら見ていると、先輩はこんなことも言います。

「ただ、気性がかなり気まぐれだからなあ。いい方に出ればいいけど悪い方に出たらどうにもならないぞ。人気で買うのは怖いと思うなあ」

オッズを見れば彼は一番人気。それでも出来はいいと信じたわたしは買ってみることにしました。


しかし、道中嫌なことでもあったのか、彼は中団からズルズルと下がってしまい9着に。

「やっぱり今日はマイナスだったかぁ」と、先輩はハズレ馬券をゴミ箱に捨てながらぼやいてます。

「いいもの持ってるはずなんだけど、こんなレースばっかりだなあ。何か助けがあればいいのかもなあ」

助けってなんでしょうかねと聞くと、先輩は少し考えてこう言いました。

「平坦は合うと思うし力はあるんだ。あとはすんなり走れるかだろうねえ。でも、こればっかりはゲートが開かなきゃわからんからなあ……」


一ヶ月後。

彼の姿は函館競馬場、巴賞のパドックにありました。

この日の芝コースはぐちゃぐちゃの不良馬場。馬の方は万全の仕上げのようで、馬体が黒光りを放っています。

それにしてもこの馬場だよなあ。大丈夫かなと彼の顔を見てみたら、いつものようにつる首でグイッと気合を乗せています。

もしかしたら、この不良馬場が彼の助けになるのかな。

ふとそう思ったわたし、彼の馬券を少しだけ買いました。


ゲートが開いて、彼はいつものように中団の少し前。逃げてる馬は行きっぷりがいいですし、このままかなあと思っていたのですが。

しかし、彼は3コーナーからじわっと前に出ると、最後の直線で先行する馬たちをなで斬りにする末脚を見せてのぶっちぎり。

戻ってきた彼は「どうだい」と言わんばかりに胸を張り、口取りに臨みます。

それを見ながら、彼は道悪巧者だと頭に焼き付けたのでした。

雨が降ったり馬場が渋ったら真っ先に買わなきゃいけないな、と。

そして、条件が揃えば重賞制覇だってできそうだな、と。


彼はそれから5回出走し、秋の福島のオープン特別でも勝ちました。続く勢いで出走した重賞では歯が立たずに大敗し、そのまま休養に入ってしまいます。

そうして休養が明けたのが翌年の5月、雨の東京競馬場。

メイステークスに7歳になった彼は出てきました。


雨降りで馬場状態は不良。パドックに出てきた彼はいつものようにつる首に気合をグイッと乗せています。雨に濡れた馬体は黒光りを放ち、440キロ台の体重よりはるかに大きく見せています。

わたしと先輩はこのときも彼を見ながら話をしていました。


「距離は少し長いし気まぐれで負けるかもしれないけど、勝つならここだぜ」と先輩。

わたしもあの出来なら勝てますよねと相づちを打ち、ふたりで彼の単勝馬券を買い込みました。

あとは彼が気まぐれを起こさないよう、それだけを気にしながら。


ゲートが開くと、彼は今までにない好スタートを切りました。

そのまま先頭へ立つと、後続を引き連れてレースをリードして行きます。

彼が逃げを打ったことは今まで見たことがありませんでしたから、これでいいのかと不安が募ります。

隣りにいた先輩も同じようで、「あいつがハナ行くの、たぶん初めてだぞ。これ行けんのか……」と不安そうな顔をしています。

ただでさえ長い直線の東京競馬場。ましてや距離は2400メートル。

わたしたちは言いようのない不安の中でレースを見守るしかありません。

場内のギャラリーもざわつき始めました。


ところがです。

彼は実に気分良さそうに走っています。

4コーナーも先頭で回ると、最後の直線でさらに加速。

なんとそのまま逃げ切ってしまったのです。

彼は一頭だけ泥をかぶらず、黒光りした馬体をゆすって戻ってきます。

その顔は「俺だってやるときゃやるんだぜ」と言ってるように見えました。


彼はそれから2回レースを走り、函館競馬場に戻ってきました。

1年ぶりの巴賞。天気は雨降り、馬場は泥んこの不良馬場。

この頃になると見てる側も彼が道悪巧者なのを知ってるもので、彼は一番人気に推されてました。

いつものようにつる首にグイッと気合を乗せた彼は、パドックで調子良さそうにしていました。

今日は大丈夫だなと思ったわたし、馬券を買わずに見守ることに。


レースは中団からじわじわと上がるいつものパターン。

4コーナーを抜けて先頭集団に取り付くと、直線では豪快な末脚を繰り出してスパート。

そのままぶっちぎりで勝ってしまいました。

戻ってきた彼にわたしはこう語りかけました。

これなら重賞でも勝てるかな?

彼はもちろん答えてくれませんでしたが、その顔には自信が見えました。


しかし、彼はこのあと9歳まで走りましたが、障害に転向しての勝ちが1つだけ。

結局重賞は勝てないまま引退し、競馬学校の乗馬になりました。

その後どこかの乗馬クラブに引き取られていったそうです。

競馬学校でも乗馬クラブでも気まぐれを起こしていなきゃいいんだがと、わたしは時々思い出しては気をもんだりもしたものでした。


細身の体でいつもつる首。

気合を乗せてるわりには気まぐれで、全力を出さなかったこともありました。

でも、不良馬場で気分が乗れば誰にも負けない。

なんとも不思議な馬でした。

今でも、雨の不良馬場を見るたび、黒光りした馬体を思い出します。

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