Vol au-dessus d’un nid de coucou Ⅱ

 マニエル・メゾチント。

 ルイ=ギュスターヴの格好を見て、ニコライの脳裏にはそんな言葉が浮かんだ。

 トゥの尖った上等な革靴に、サテン地のハイウエストのパンツ。ちいさな薔薇や黒真珠、フリルとレースがゆきすぎなほど盛り込まれたブラウスもまた黒。絹の喪章に似たリボンタイを複雑に絡ませて彼の襟元を締め上げるのは、プロシアの鉄の首飾り。すべてが黒い、獣の毛並みのような豊かな装飾が、少年のぞっとするような屍じみた体の線を覆い隠していた。コルセットよりも残酷な輪郭を描く腰元こそ眉をひそめたくなるが、骨ばった足と手を組み、椅子に腰かけるルイ=ギュスターヴは、確かにその高貴な生まれを体現していた。

「あなたという客を迎えるんだ。精一杯めかしこまなくてはな」

  Vousという敬意を払った呼びかけにニコライは一礼する。その仕草にルイ=ギュスターヴはにやりと笑って肘をついた。口許の拘束は無い。看護婦があらかじめ外しておいたのだろうか。

「かけたまえ。椅子は用意させたが、ろくなものではない。悪いな」

 彼が首をかしげると、上質の紗が擦れた音を立てて長い髪が揺れる。ひだをたっぷりと寄せたドレスのようなシルエットのヘアスタイルは、老いた狼のたてがみに似ている。

 ニコライが用意された椅子に腰かけると、ルイ=ギュスターヴは足許に置いたレコードに指を伸ばし、針を落とした。地下の病室に、ひたひたと地下水のように動物の謝肉祭の"水族館"が流れ出す。

「光栄なことで」

 ニコライがそう言うと、ルイ=ギュスターヴは蒼白いかんばせで微笑した。

「僕が敬意を払う相手の条件はふたつだ。それが美しい人間であること。あるいは、それが僕にとっての美をもたらすものであること」

 ドクタは後者だ、とルイ=ギュスターヴは言う。

「わたしがそれほど美しいものへの造詣が深いとは思いませんが」

「僕の言う美とは学んで身につくものではない。欲望だからな」

 ドクタは、この僕が美しいと思うものを美しいと言い、そしてそれを僕に見せようという精神を持っている。僕はそれを評価するのだ、と、尖った糸切り歯を見せて笑う。

「紅茶をおいれいたしましょう。ライラック・ティーを持ってきました」

 足元においた鞄に手を伸ばすと、ギーは椅子の脇に吊り下げられたベルをならした。すぐに影法師のような看護婦が、音もなく病室へ滑り込んでくる。

「テーブルを」

 看護婦は返事をして、部屋の外へ出ていった。ニコライは眉をあげる。年齢のわりに人の使い方があまりにも堂に入っているのは、見るものによっては鼻持ちならなく映るかもしれない。けれど彼の旧世界的佇まい、滅びた青い血の末裔のような傲岸な振る舞いはどこか頽廃趣味の魅惑を帯びていた。

 ややあって、運び込まれた円い木のテーブルの上に、鞄から道具を取り出して置いていく。

「ヴァレーニエはお好きですか」

 杏の砂糖煮がつまった壜を取り出しながら問えば、ルイ=ギュスターヴは唇を少し歪め、犬歯を見せた。「………人間の食べるものはあまり」

 ニコライは眉を下げる――といっても、元々下がり気味の形をしているので、そう変わらないのたが。

「それは残念です。あいにく今日は花を持ってきておりませんので。あれ、高価なのですよ」

「ドクタには悪いが、そう珍しい品種とも思えなかったが?」

 手を蝶のようにひらりとのべるルイ=ギュスターヴに、ニコライはサモワールを用意しながら肩を竦めた。

「――エディブル・ローズなんです」

「……道理で不味かったはずだ」

 吐いた毒とは裏腹に、ルイ=ギュスターヴの唇は笑んでいる。

「あんまり食べ過ぎる狼さんは、お腹に石を詰められてしまいますから」

「宝石なら願ったりだがな。……つまり、ここには猟師がいるということか?」

「そう。こわあい東洋のドクトルが、あなたのお腹を切り裂いてしまいますよ」

「ほう。…」

 顔を逸らしてルイ=ギュスターヴは何かを呟いた。声なく動いた唇は、それこそ願ったりだ、と言ったように、ニコライには見えた。

 レコードの曲が変わった。ニコライには題名がわからないが、ルイ=ギュスターヴは少し目を細めて流れるヴァイオリンに耳を傾ける。その口許の線が心なしか柔らかい。ピアノの硬質な音色を聴くとき、彼のかんばせは凍った人形のようだった。音楽が、彼の表情を作るのだろうか。質量のない音楽が、神の鑿となって、彼の白いかんばせを形づくるのか。

 ルイ=ギュスターヴは、半ば閉じていた眼を開いて、砂糖煮の壜の中身を薔薇の形に皿に飾るニコライを見つめた。実験の手順のように整然と、美しい模様を作っていく手元を眺めて、口を開く。

「ドクタはどのように狂っているのだ?」

「さあ。概してこういうことは自分ではわからないもので」花びらを整えながらニコライは淡々と返す。ルイ=ギュスターヴは掠れた笑い声をあげた。

「……そういうものか」

 ニコライは顔をあげて、ルイ=ギュスターヴの眼を見た。彼は自分自身の病的な嗜好を充分に理解しているような素振りがある。死刑囚が己の運命を理解しているように。そして抗う気はない。

「しかし――我が家も、ユスポフの家とはまあ、表面上親交があるが――あった、と言うべきかな――あなたのことは知らなかった。ニコライ・アレクサンドロヴィチ」

 ニコライは肩をすくめる。

「二年前までは違いましたからね」ヴルーベリという苗字でした、と言えば、ルイ=ギュスターヴはほうと頤を指で擦り、意味深長な目付きをする。ニコライは付け加える。

「道端に咲いた花が誰のものかはわからないものですが、蒔かぬ種は生えぬでしょう」

 ルイ=ギュスターヴは軽く手を叩いて、ニコライのユーモアを賞賛した。「なるほど――」

「イラクサと呼べば誰も見向きもしませんが、ウルティカ・ディオイカとラベルをつければなんだか高尚に見えてくる。そういうことです」

 ルイ=ギュスターヴは吐息を漏らして、尖った顎を白い指で擦った。

「名は大切だ、ドクタ。プラトン的に言うならね――だが、僕はあなたの名であなたを評価したわけではない」

「ええ、そうでしょう――そうでしょうとも」

 ルイ=ギュスターヴの性格については散々な申し送りが来ている。青い血の高慢、旧世界的貴族意識――気位の高さは他人を人とも思わず、まるで革命前の第二身分のようだ、と。アンシャン=レジームの亡霊……しかし、そう称された彼の本質は、実際は異なるのではないか、とニコライは感じていた。彼が蔑むのは、暮らしの貧しさでも、生まれの卑しさでもなく、……――

「ユスポフの一族は美の蒐集家としての性質が強い。あなたもそうだといいと思った」

 不意に思考を引き戻され、ニコライは机上に落ちていた視線をあげる。ルイ=ギュスターヴは骨のような指を組み、口角を微かに持ち上げて、その鬼火のような緑の瞳でこちらを真っすぐに見つめていた。

 ニコライはゆっくりとその目を見つめ返す。闇を覗くとき、闇もまたこちらを覗くと言ったのは著名な哲学者であったか。

 紅茶の花々しい薫りを空虚に味わいながら、ニコライは目を閉じて砂糖煮の壜の蓋を閉じた。

「残念ながら、わたしは絵画にも彫刻にも造詣が深くはないのです。ディレッタントもいいところ」

「それこそ――」ルイ=ギュスターヴは掠れた声をあげて笑った。レコードの音に軋みが混ざる。「――望むところだ」

 ニコライは声ひとつ発さず、銀のカトラリーをゆっくりとテーブルの上に置く。

 砂糖煮の薔薇が、ほろりと崩れた。

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