Vol au-dessus d’un nid de coucou Ⅰ

 ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ユスポフは、階段を降りている。

 螺旋状に、円形の建築内をくだっている階段はじっとりと重く、昏い。そこかしこの影に太古の嘆きが潜み、反響する靴音が体にまとわりついて不安になる。

 ある教会に併設された病院――もはやこのふたつは融合して、キメラのような存在になっているのだが――の内部。太陽の光も届かない幾層もの石の壁に囲われた、あまりに奇妙な施設。

 正式な名前はあるだろうが思い出せないほど、その教会は象徴的な名で呼ばれている。

 病人教会。

 最初にそう呼び始めた者に、心からの称賛を贈りたいとニコライは思う。

 ヨーロッパのとある小国に位置する、寒々しい光景ばかりが広がる荒野。人里から車を走らせていくと、湿地と針葉樹林で囲まれ、岩肌の露出した土地に、巨大な獣がうずくまって死んでいるような影が見える…荒野に聳ゆる城。この世の涯てのような光景。

 近づくとそれは、古い石造りの建物と岩、そして樹木が渾然一体となった、奇妙な構造の修道院と教会だとわかる。増築に増築を繰り返し、迷路のようになった建築の頂点には、灰色の十字架が掲げられていた。何世紀も前の遺跡の内には、しかし、その実不釣合いなほど近代的な設備を備えた――病院が這入りこんでいる。

 この教会は、不治の病を患った人間たちが寝起きする、静かな死と隣り合わせの世界だ。

 幾重もの石壁越しに、荒野を吹きわたる風の音が聞こえてくるような気がする。ニコライは黙って、足元に意識を集中させた。靴音が響く。

 要塞じみた教会の内部…動物でいうのなら脊椎にあたる部分は洞になっていて、虚空に螺旋階段が絡みついている。石造りの壁は湿り、手をつくのも躊躇われる。時おり切り取られたように窓があり、建物の中が見えるようになっている。

 螺旋の一巡め。くだっていけば縦長の窓が現れる。そこから見えるのは、極端に色彩を抑えた、直線と計算され尽くした曲線が、舞台装置のように配置される階層。古い修道院の内部に忽然と現れる現代的な設計は病院に新しい設備を導入するための増築だ。

 ニコライは歩を進める。一定間隔で置かれた燭台の火が頼りなく揺れている。手すりはあるが、揺らぐ影が平衡感覚を狂わせる。持病もあって、ニコライの足取りは自然と慎重すぎるほどに遅くなる。

 螺旋の二巡め。窓から見えるのは無数の蝋燭が灯された、額縁が並ぶ室内である。額縁に入っているのは子供の肖像画…それらの面立ちを認識する前に、ニコライはその前を通りすぎる。病人教会には数々の奇妙な部屋がある。それらは過去の亡霊である。死んだ患者を留めておく棺だ。

 螺旋の三巡めに入る。足首にまとわりつく空気が重くなってきたように感じられる。

 窓からは植物のシルエットがみえた。外の庭園とは別に、室内にある、造花の庭園の階だ。遠くで鸚鵡が鳴いている…生き物は持ち込めないから、機械仕掛けの。偽物の羊歯がまじないのように繁り、まがいものの温室の階層をゆっくりと下って抜ける。ニコライはため息をついた。あと何階だったろうか。いつまでこの螺旋は続くのだろう。

 階段はずっと底へ下っていく。螺旋をおりて…おりて…降り続ける。

 修道院と病院の入り交じる建築の内部から、やがて岩そのものを削り出した地下の区画へ入り込むと、窓は無くなった。

 …やがてたどり着く、死んだ動物の胎内のような暗い湿った洞窟の突き当たり。

 ベツレヘムの星が彫琢された鉄製の扉。掲げられた札にはこうある。

「隔離病棟」

 ニコライは目を細め、鍵束から錆び付いた鍵を探しだし、巨大な錠前に差し込む。かちりと音がして、取手に手をかけると、内側から開かれた。隙間から「ニコライ先生ですね」と確認され、通される。

 一見、ただ灯りが暗いだけの病棟の廊下のようなところで、陰気な様子の看護師たちが数人、影法師のように立ち働いている。地下でしか暮らせない呪われた民族のような佇まいだ。

「奥の十二号室です」

 一人に示された廊下の突き当たりを見れば、ぼうっと闇から溶け出るように、鉄の扉が見えた。鉄格子の嵌まった扉のプレートには、「Louis-Gustave」とだけあった。カルテと鞄を持ち直し、ニコライは看護師に一礼すると、その鉄格子つきの病室に向かった。

 鍵束から別の鍵を探しだし、下がった錠前に差す。鍵の開く音と同時に、中から衣擦れの音が聞こえた。

 部屋にはいると、そこは石の壁に覆われた正方形の灰色をしていた。石の床の上に直接置かれた蓄音機では、レコードがかかっている。…サン・サーンスの動物の謝肉祭――水族館だ。

 室内にほとんど家具はない。床に置かれ、その開いた口からフリルとレース、絹やリボン、宝石を溢れさせた巨大な衣裳櫃と、ガラス張りの小さな棚が隅にあるだけで、蓄音機や白鳥を模した水差しなどは、石造りの床にそのまま置かれている。棚にはガラスの動物たちが並べられていた。手のひらほどのユニコーンや狼がきらきらと光っている。

 部屋の中央には、ひとりの少年が椅子に座っている。

 シンプルな黒い修道服。背の中ほどまで垂れ落ちる巻き毛は、黒い毛先に、白と灰色の混ざった奇妙な老人のような色をしている。足元は裸足である。鶏の蹴爪のように尖った踝が目に焼きつく。

 中世の拷問具のように大仰で残酷な器具が、その少年の顔の下半分を覆っていた。鉄の重いマスクで、内側に張り出した突起が口をこじ開けて舌を押さえつけ、口を利くことも自殺することも不可能なようになっている。

 ニコライは指に金具をはめ、親指と人差し指をマスクの隙間から口に差し入れ、拷問具を外しつつ少年が妙な素振りを見せないか気を配る。特にニコライの指や自分の舌を噛み千切るでもなく、少年は素直にされるがままになっていた。

 丁寧に器具を取り去れば、現れた顔立ちはまだ十代半ばの、グランギニョルの石膏人形のようだった。高貴さをもつ輪郭は尖り、屍蝋の肌に小さな鼻やおとがい、唇は凍えたような不健康な紫色をしている。その中で、目付きだけが違っていた。鬼火のようなエメラルド・グリーンが、灰色の髪の狭間から、見知らぬくすんだ金の髪にすみれ色の瞳を持つ青年を突き刺した。

「こんにちは、このような無礼をお許しください」

 言いながらハンカチを差し出せば、少年は唇を歪めて笑った。嘲弄と取ったのか、手を振ってハンカチを断る。

「そうへりくだるなよ。貴族制なぞとうに廃止されているからな。血は青くとも僕も平民だ」

 言葉とは裏腹に、その目には高貴なる者の高慢が宿っている。「……周囲と――そしてお前たちも、勝手に僕たちを敬遠しただけでな。敬して遠ざける。嫌な言葉だ。…獣が怖ろしければそう言えばいいだろう」歪んだ笑みから覗く糸切り歯は鋭く尖っている。この病人教会に送られるまでに、彼は欧州の犯罪調査機関と医療組織をいくつか回ったはずだ。彼の言動はそこで受けた扱いを思わせる。

「僕の名はルイ=ギュスターヴ。……苗字はそこのカルテではどうなっている? ド・ノルマンディーか? ダランベールか?」

「…ド・ピスターシュですね」

 ニコライがカルテに目を落として告げれば、ルイ=ギュスターヴはつまらなそうに鼻を鳴らした。「ふん。ピスターシュの叔父貴か。……本名は名のるだけ無駄だろう。ピスターシュで構わない」

 ニコライは頷くと、自分の胸に手を当てた。

「わたしがあなたの担当になります、ニコライ・アレクサンドロヴィチ―――ユスポフです」

 名乗ると、少年の肩がぴくりと動き、じろりと刃物のような目がこちらを見た。

「アレクサンドロヴィチ…ユスポフ? 父親は誰だ」

「名もないエミグレ――亡命貴族とでも言っておきましょうか。ユスポフの名も、つい二年ほど前、名乗るのを許されたばかりでして――」

 それまでのわたしはただのパリの一市民でしたし、今でもこの教会の一医師に過ぎませんよ、と、ニコライは低く囁く。「デラシネ、というほどではありませんが」ニコライの事情を察したらしいルイ=ギュスターヴは頷く。「そうか…なんと呼べばいい?」

「あなたのお好きにどうぞ」

「ならばニコライ・アレクサンドロヴィチ」

 ロシアにおける敬意を払った呼び名で、ルイ=ギュスターヴは呼び掛けた。

「お前が僕の病気とやらを治すのか?」

 ニコライは少し待てという風に片手をあげると、「紅茶はお好きですか」と尋ねる。ルイ=ギュスターヴが首を振れば、「ではカフェインの少ないものを、何か」と、持ち込んだ鞄を開けてサモワールを取り出した。七宝の飾りがついた銀製のそれに、少年の眼が引き寄せられるのが判る。ビューティフィリア。美異物嗜好症――よくいったものだ。

 ニコライは素知らぬ顔で壜をふたつ取り出し、見せる。「木苺か、菩提樹しかありませんが」

「……木苺で」

 ニコライは壜を開けながら、湯沸し器を手慣れた様子で操作する。

「すみません、会話の前にお茶を、というのがわたしのルールでして」

 ルイ=ギュスターヴは黙っている。その瞳が今や爛爛と七宝の飾りを捉えているのに、ニコライは嘆息した。なるほど、これは病的だ。無意識にか、ルイ=ギュスターヴの舌先がちろりと唇を舐めた。

 ニコライは構わず支度を整える。鞄の中から今度は小さめのバスケット。開けるとそこには簡易式のティータイムセットが入っている。驚いたことにこの部屋にはテーブルがない。折り畳みテーブルも持ってくるべきだったかと内心舌打ちをしたが、

「お前が気にしないなら床に置け。僕はここでそういう扱いを受けている。

 ――ああ、ユスポフ家の血を引く人間に、牢獄でピクニックさせるわけにもいかないか?」

 蔑むような目の色はニコライを値踏みしているようだ。ニコライがここでどう動くか。

 ニコライは目を細めたまま、手を動かしていた。かたり、かたりと、茶器が触れあう。その手慣れた仕草を見つめていたルイ=ギュスターヴは、やがてゆるゆると椅子の肘掛けに腕を置いて囁いた。

「冗談だ」

 ニコライは頷き、袋入りの茶菓子を盛った小さなかごを鞄から出して、ハンカチーフを敷いた床にそっと置いた。袋を開くと、中からは冷めかけてもしっとりしたバターの匂いと、植物の青いかすかな香気が立ち上った。

「……こういうものは、お好きですか」

 ニコライはかごを、患者の方へ差し出す――白い薔薇を飾ったマドレーヌ。カルテ通り、ルイ=ギュスターヴは躊躇うことなくそれに手を伸ばし――白い薔薇を手に取った。まだほどけきっていないほの淡い桃色の先端に、尖った爪がねじ込まれると、花びらは凌辱されるように散った。その花弁を手に取ると、さも優美な仕草で、それを口に運ぶ――

 自分の奇行を止める様子のないニコライに、改めて違和を感じたのか、ルイ=ギュスターヴはちらりとニコライの目を見た。「…お前は何も言わないのだな」

「あなたの治療担当医師は別ですから。わたしは内科医です」

「じゃあ、どうしてここに?」

 ニコライは首を傾げた。そしてから神経質そうな骨の色をした指を、二本立てる。

「そうですね。まずひとつは上司からの命令です。これには逆らえませんからね」

 立てた中指を折ると、ルイ=ギュスターヴは社会的圧力への侮蔑の眼差しで口角を歪めた。

「もうひとつは、あなたにこれを見せたかったから」

 ニコライはサモワールを持ち上げる。青と金の七宝、薄い翠の釉薬が陶器の美しい宮殿の絵を覆うそれに、ルイ=ギュスターヴの目の色が変わる。罌粟を前にした阿片中毒者のようにぎらぎらとその瞳が瞬いた。病的に頬が紅潮し、また、その舌が乾いた唇を舐める。……しかし、その大きさや硬さから到底それを口にすることは不可能とわかっていた彼は、やがて高揚を引かせてだらりと椅子の背もたれに体を預け直した。

「……つまり、お前は、特に僕とやらをどうこうするというわけではないのだな」

「それも多少正しくありませんね」

 ニコライの訂正にルイ=ギュスターヴの眉がぴくりと動く。その苛立ちが早急な解答を要求してので、ニコライは肩を軽く竦めて、蒼白いかんばせで微笑した。

「言ったでしょう、担当だと。要するに――お友だちになりませんか」

「……面白いジョークだ」

 ルイ=ギュスターヴは表情を動かさずに言う。しかし指先の花びらがくしゃりと握りつぶされた。

「そういうシステムなのですよ。この教会は」

「僕に限らず、患者は皆医師と友達になると?」

 足と指を組み、尊大な態度で少年は問う。ニコライは首を振った。

「いえ。"精神に療養を必要とする患者"のみです」

「………下らないな」

 吐き捨てるように呟いたが、そのフランス語は優美だ。彼はどんなときでもリエゾンを忘れない。ニコライは同意する。「ええ。そうでしょうね」

「まともな人間と狂った人間を関わらせれば狂った人間が治るとでも? まともな人間が狂うのが落ちだ。プラスとマイナスを掛ければマイナスになる」

「そうでしょうね。だからマイナス同士を掛け合わせるのですよ」

 ルイ=ギュスターヴはニコライをねめつけた。

「…どういうことだ」

「お分かりになりませんか」

 昏いすみれ色の瞳で、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ユスポフは、ルイ=ギュスターヴをねめつけた。底に揺らぐ紫の燐光が、火花の翡翠とぶつかり合う。

「この牢獄にいてまともな人間などいるはずもないでしょう」

 ルイ=ギュスターヴのエメラルドの瞳が火花を放つ。荒野の稲妻のようなそれは、彼の魂の燃える色だ。

「お前も狂人か!……ふふ、ははは、あはははは!」

 哄笑した肉体はその音に軋み、骨が今にも砕けてばらばらになってしまいそうなほど細い。嵐のなかの風見鶏のように絶望的な手足、それを覆う修道服は喪の旗のように揺らめく。ニコライはただ黙って相対していた。人形めいたかんばせ、そのすみれ色の瞳。姿見に映る亡霊のように、彼は動かず、ルイ=ギュスターヴと向き合っていた。

 伽藍に反響した笑い声がやがて途切れ、一、二度苦しそうな咳をする。ルイ=ギュスターヴはねめつけるように目線をあげ、ニコライの双眸をまっすぐに見返した。

「気に入ったぞ、ニコライ・アレクサンドロヴィチ………僕は、"あなた"と、親交を結ぼう。ただ、"友達"にはけしてなるまい。僕の友達は、生涯、この世に……ひとりだけなのだから」

 ニコライは少しだけ微笑んだ。「光栄です。美を愛する人よ」

 ルイ=ギュスターヴは、黙したまま、やはり彼の目を見て、一瞬だけ微笑した。彼が、後の短かったニコライとの交流のなかで見せた中でたった一度のそれは、ただ内気な子どものように儚くて優しい、――かつて永遠に喪われた少年の笑みだった。

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