Les Novellettes 1 十二月十五日/獣の夢

 この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。

(「ヨハネの黙示録9・6」『聖書 新共同訳』)



 十二月の夜はつめたい。グランドファーザー・クロックが凍りつくまなざしのさきに、幽霊船のシャンデリア。

 僕はホールに立っていた。遠雷が降り注ぐ唸りが、方舟のなかで聞く洪水のように響いていた。……寒い。僕は裸足で、手には枯れた花を持っていた。茎のおれた萼にはおかしな色をした花びらが少しだけ残っていた。……と、いう間にその花びらは、涙形のシャンデリアが揺れる空気の震えに圧されてほとりと落ちた。……何色だったか、もう思い出せなかった。

「ギー」

 うつろなホールの天井に、蝶番のきしみより幽かな声がした気がした。僕が振り返ると、暗い無花果のような空洞に、百年の孤独の残滓が、谺になって漂っていた。…

 僕はふらふらと花びらをのこして歩き出した。尖った靴先は埃が奇妙な模様を描く床を踏み、長い長い折れ曲がった廊下をゆっくりと進んだ。壁の燭台は折れていて、鏡はくすんで何も映らなかった。

 僕は命じられたように決められた歩数を進んであるとき立ち止まった。目の前には扉があった。鍵穴が鈍い銀の中央に闇の目を開いていた。精妙な彫刻のカーブに手を這わせると、扉はきしんだ。隙間から蛇が逃げ出すようなすきま風の音がして、扉は開いた。

 明るかった。しかしそれは火だとか太陽とかに照らされて明るいのでなく、どこだかわからない、ぼんやりした粒子が満ちているように白っぽくて明るい部屋だった。僕は目を細める。エメラルドの中央の孔が狭まるのを眼球の熱で知る。……ここは。

 僕はなにか恐れながら―ピルエットのように―つま先を一歩、そっと踏み出したが、足音はなかった。だんだん明順応していく視界には、不思議な光景が広がっていた。

 さくさくとしたブルー・ベルベットの絨毯が広がっている中央に、銀の水をたたえた湖面がまるく在った。そのさらに中央には、ころりと、ぴかぴかのディッシャーで盛ったムースのような半球の浮き島があった。それはニスを塗ったように輝いていた。その向こうには、壁がどこかにあるはすだが、まるで認知が途切れたかのように、"なにも無かった"。視界の端、不可視との境界が曖昧なように……その向こうは白くて……解らない。でも、それで構わないという気になっていた。僕にとっては、もっと大切なものがあった。

 半球の中央には真っ白なピアノが置かれていた。黒い表面に映り込んだ光を引き伸ばして覆って、それが浸透して真っ白に変わったピアノだった。形はベーゼンドルファー。アベルのピアノだ。それは半球のなだらかな面の上にただ静かに置かれていた。

 これはあの屋敷が変形したものだ、と僕は気づいた。北フランス、ジヴェルニーのあの屋敷。その居間。いつでも調律されたピアノと、そのあるじが、完璧な調和を保って存在した、あの空間……。

「ギー」

 今度ははっきりと聴こえた。僕ははっと振り返ろうとして、頬に触れそうなほど近くの熱に息を飲んだ。現れ出た――唐突に。

 方舟めいたホールで聴いた空耳とよく似た、甘くて優しい声の持ち主は、僕の傍らに跪いた。

「どうしたんだ、そんな顔をして」

 ミッドナイト・ブルーの瞳。ストロベリー・ブロンドの髪。オレンジを輪切りにした瞬間、あふれる香気のような――懐かしい微笑み。

「クロード!」

 僕は騎士めいて跪く彼に、覆い被さるように抱きついた。癖のある髪の毛に頬ずりして、シトロンみたいな甘ずっぱい気配を吸い込んで、キスをした。

「お前がそんなに甘えるのは久しぶりだね」

 長身のクロードは背筋を伸ばしきらずに、僕に合わせた高さまで立ち上がった。そのまま僕の背中を叩いて、優しく振り返らせる。丁度、あの半球の方角へ。

 そこには――そこには、彼がいた。

 たてがみのような黒い巻き毛に、同じ色の瞳。光をすべて吸い込んでしまうような最果ての黒と美貌。椅子に腰かけて、物憂げに鍵盤を見つめるその横顔。

「アベル……」

 僕は息を飲んで、クロードに縋ったまま立ち尽くしていた。本当なら駆け寄って抱きつきたくても、不思議な鏡の水面が阻んでいた。水銀の膜のように輝く円形の水路に、僕らの姿は映っていなかった。

 アベルは譜面台に置かれていたのを二、三枚とると、そっと―しかし無造作に―水面へ落とした。着水した蝶のようなそれらは、少し滑って静止した。レコード形の波紋がゆらゆらと銀を乱していた。

「おいで」

 アベルが低く囁いた。僕は思わず走り出したが、あまりに脆弱い五線譜の橋に怯んで足を止めると、そっと寄り添ったクロードが肩に手を置いた。

「ギー、怖がらなくてもいいんだよ」

 優しくうながす長兄の手にはぴかぴかのディッシャーが握られていて、ああこれであの島を掬いとったのだなと僕は合点した。うつくしく清潔な道具は、クロードの手によく馴染む。

 ほんの一足で、楽譜の橋は渡ることができた。やわらかく響く音楽が支えてくれたようだった。その演奏者であるアベルがそこで初めて僕たち兄弟を見た。胸を打たれるほどの美しいかんばせや首、肩、手、生まれたときから見知っていてもなお僕を魅了する兄は、静謐な声で、

「おかえり」

 とだけ言った。

 光源のない空間のもとで、アベルの足元にはいつかの夜のようにくるくると影が回っていた。それはあらゆる舞踏会のうつくしい上澄みだった。

 ピアニストの椅子と、他にもう二つ、ピアノのまわりには椅子があった。それは今の今まで知覚していない物体で、僕が瞬きをすると突然現れるようだ。観測するたび、ものが増えていく。それを不思議に思う様子もなく、クロードは僕に座るよう促した。

 ピアノの蓋を開けたなかには真っ赤な雛罌粟が咲溢れていた。そこにはソーサーと角砂糖があった。シャムロック・ティーの匂いがして、目をあげる前にカップを置かれた。薄翠の陶器はいくつかのしわくちゃで瑞々しい花びらを押し潰した。アベルが、つかの間空いた左手で戯れにその花びらを取り、口に含んだ。……続いて、スケルツォ。踊る指は変わらず、何にも喩えがたい。

 アベルと向かい合うように、ベーゼンドルファーのくぼんだ場所にクロードは腰かけた。二等辺三角形が出来上がる。僕の目には向かい合った二人の兄が映る。そのかんばせはぞっとするほど美しく、よく似た地獄をわけあって、神の門番の一対がそうであるように。その相似に――しかし僕は――既視感と混じりあった畏怖を咄嗟に感じ取った。

 アベルはピアノを弾く。流れるように次々と曲を変えていく。今度は、動物の謝肉祭から、"水族館"だ。音符をひとつ弾くたびに、水面に小さな花の波紋が広がる。見えない音の粒が踊っているのだろうか。

「ギー、六日はお前の誕生日だったろう。遅れてごめんね」

 そう言ってクロードは柔らかく指を振った。風はないのだが、なんだか空気の流れが動きを変えたような気がした。

 半球の外のブルー・ベルベットの上には、先ほどまで靄のような光だった粒子がほんの少しずつ集まって、それぞれ様々な、ある形に凝固し始めていた。それは本だった。僕は息をついた。知識も芸術もこの空間では大気に溶けていて、任意に具現できるのだとすれば、なんとそれは素敵なことだろう。やがて気がつけば、あちこちに僕の好きだった図鑑や書物が埃をかぶった状態で出現していて、なんだかそれがとても懐かしいような気がした。

「おめでとう」

 アベルの声がした。クロードもそれに重ねて呟くと、それが鍵であるように、あちこちの本が花開きはじめた。僕は夢見心地でその様子を見つめながら、誕生日という言葉にふと思いを馳せた。誕生日、ということは、僕は歳を取ったのだ。何歳になったのだっけ? そして、今はいつだ―――

 そのあえかな思考をかき消す硬質なねじ巻きの音、ある小説の表紙から立ち上がった、銅版画の果物時計草の紫と銀の花がきりきりと開き、その真ん中の三つの針留めから、銀色の螺旋階段が天にのぼっていた。その行く先は見えなかった。見上げても雲ひとつなく空もないただ無の天蓋の上にそれは消えていた。兄二人はそれを気にする風もなく、ピアノを弾き、紅茶を飲む。僕は長兄の袖を引いた。

「クロード、あの階段はどこへ続いているの」

「あれは階段ではないよ」

 水面に落ちていた楽譜のもようが不意に植物の模様画に変わり、じっと見ているとそれがそのうちに家系図に変化した。クロードはそれを見つめてから続けた。「あれは遺伝子だ」

 そうかと僕は思った。あのカレイドスコープの中身を繋ぎあわせたような螺旋が遺伝子か、と。

「遺伝子って、クロードが勉強してることでしょう」

 甘えて訊ねれば、クロードは頷いた。即興のカノンを奏でながらアベルが「小難しいことをやるものだ」と揶揄するように呟く。

「クロードの学んでいることを知りたいな」

 プレゼント代わりに要求すると、アベルが楽しげな和音を弾いた。同意を示すような茶目っ気のある演奏は、普段の彼らしくない。ずっと昔の、子供の頃のアベルみたいだ。

 クロードはひとつ息をはくと、絵本を読み聞かせてくれた過去のように美しいリエゾンで言った。

「遺伝子はまだ未知の存在なんだ。血の繋がりのように強固な、一族の徴……。あれは今のところはどこまでものぼっていけるけれど、いつかは終わるよ。そして、恐らく俺が探しているある呪文があのどこかにあるんだ。大勢の学者が、あの階段をのぼって、その先を研究している」

「クロードも、あそこをのぼってるの」

「毎日ね」

 アベルがアルペジオをひとつ弾いた。螺旋と同じ流れだった。

「螺旋階段っていうのは記憶とおんなじで、いつでも過去を見下ろせるのさ。……少しずつ遠ざかるけどね。約束するよ、俺が探している呪文を見つけたら、螺旋の上から花を落とそう」

それは降りてくる合図なの、と僕はクロードの胸に頬を寄せて訊いた。クロードは僕の頭を抱き寄せた。指の腹が優しく僕の頭皮を撫でた。「そうだよ」心臓の音と一緒にそう答えた。暖かくて、安心する……。僕は雛鳥の気持ちで、クロードの心音とアベルのピアノに包まれていた。

 ふと、僕の頭にある光景がよぎった。よぎった、というには、あまりにも入り組んでいて、乱雑な断片だが……。

「クロード、アベル、僕はなんだか奇妙な夢を見ていたよ」

 クロードは頷き、アベルは音楽を小さくした。ピアニッシモ……音楽の天蓋は春風のような紗にかわる……。

「その夢の中で、僕は病院にいるんだ。この世の涯てのような……湿地と岩と、古代の生物の遺骸のような教会群の、奥底……」

「奇妙なところだね」

「ああ。そこは――そこは、病人教会と呼ばれていた。僕はそこで暮らしていたんだ。修道服を着せられて、点滴を打たれて……なぜかというと――……」

 言葉がそこで途切れた。ぽとんとそこで記憶は止まっている。そもそも、理由など無かったのかもしれない。なぜなら…なぜならそれは夢だから。聖書がはばたくような、爆撃機が花をまきちらすような、整合性のない物語。

「そこで友達はできたのかい」

 クロードは僕の額の生え際を撫でて囁いた。赤ちゃんの頃にされたような感触がくすぐったくて身をよじり、僕は思い出そうとする。「友達…友達など……」

 ひやりとした。友達などいらぬ。いらぬ。なぜならば……。

「そうか」

 クロードは僕を抱き寄せた。アベルはひとつ、短調の和音を弾いた。彼の音楽は宝石のように硬質だ。

「……お前はそこでひとりなのだね」

 なにかを確かめるような響きに、不安になって少し腕の力を強めた。彼の服が引っ張られて影が落ちた。「大丈夫だよ…クロードとアベルがいるから」

 僕はますます強くクロードに縋った。どんなに強く握っても、手からなにかが――あの萼が――滑り落ちてからっぽになった感覚から抜け出せなかった。

 アベルが一瞬曲を止めて、不意に全く別の音を弾いた。軽やかで……だけれど、不安定な……何度も耳にした音楽を……。それはアベルの声にも似ていて、続くクロードの言葉と共鳴するように響く。

「あの子はそこにいないのかい」

 あの子。あの子とは。

 アベルの演奏が薔薇が開くように複雑さを増していく。ああこれは――この曲は――

 僕は夢遊病のようによろめく足取りで立ち上がった。打鍵に合わせて紅茶が溢れ、黒く染まりながら雛罌粟を浸していく。後ずさる踵が半球の表面を滑りかけてたたらを踏んだ。

 アベルが腕を振り上げて、鍵盤に叩きつけた。それでも鳴り響く音は美しく、僕は混乱する。ピアノを弾く彼のかんばせは、夜闇のように艶やかだ。

 クロードが立ち上がり、彼らに背を向けることができずに立ち尽くしている僕の肩をつかむ。バランスを崩しかけた僕は咄嗟に背後に視線をやった。映るのは、水面。

 クロードが、狼のように低く囁いた。

「あの子はお前を憎んでいる」

 水面には、金色の三つ編みが揺れていた。

 今やおぞましく透明な黒い水の底には、無数の屍が沈んでいた。そのいちばん上に折り重なった、長い金髪が身体に張り付いた骸の右手が、黝く変色した指先を痙攣しながら持ちあげた。その爪には、血と、土くれと黒炭が挟まっていた。

「ユベール」

 声はひきつって音にならなかった。宙の裂け目のようなその声に縋るかのごとく、その指先は空をつかんだ。裂け目のような唇の隙間からごぼりといびつな泡が吐き出され、水面に到達して弾けたその中から声が聞こえてきた。

「ねえ――約束した――ギー――ぼくの――――ともだち――…」

 僕はもう一度喉の奥で叫びかけた。灰色の指先は、今や、僕が持っていたはずの枯れ落ちた萼を握りしめ、僕にそれを差し出していた。不意にその骸のかつての姿が脳裏に甦り、僕は叫んだ。

「―――!」

 金色の三つ編み、金色のたんぽぽ。

 次の瞬間、その手首から先が飛び、ベルベットを飛沫で変色させながらぼとりと落ちた。ずるりと水面に滑った腕に、もう一度血が迸った。――銀の刃。

「クロード!」

 クロードは斧を持っていた。美しい道具。ディッシャーでもティーカップでもない、人を殺す道具。

「近づいちゃいけないよ、ギー」

 驚くべき無機質さで、血振りを終えたクロードが僕に向き直った。斧の尖端からは、限りなくインクに近い黒の血が、ひとつぶだけ白い半球に滴り落ちた。

「この子は、俺たちとは違うだろう」

 クロードは優しく僕を抱き寄せた。さっきまでと変わらないその仕草に僕は混乱して、しかしその掌がぞっとするほど冷えきっていることに気がついた。僕はアベルの方を見て、ピアノに阻まれたあの美しい獣を探して視線をさ迷わせた。

「俺も、アベルも、お前も、外の人間と関わってはいけなかったんだよ」

 激しく震えながら僕はかぶりを振る。僕が、彼と関わったから。だから、だからそうしたというのか。

「クロードはそんなことしない! クロードは、クロードは、僕にともだちができたことを――」

 僕は声を失った。クロードのミッドナイト・ブルーの瞳が、アベルの黒と同じ温度で僕をとらえていた。

「こんなことは、お前がいちばんわかっていると思ったよ」

 大津波のような旋律が僕らを飲み込む。"死の舞踏"――アベルが、昔弾いていた曲――

 螺旋階段がきりきり音を立ててねじれ、歪んでいく。アベルはなにも言わないし、鍵盤に向かうその表情は僕には見えない。けれど魔法のように踊る十指やその腕、肉体の動きは、もしかしてこの空間のすべてを彼が操っているのではないかと思わせた。操り人形めいたクロードは首を傾けて言う。

「俺は見つけたんだ、ギー。俺たちの家系の病を。それは遺伝子の問題で、まぎれもない科学の世界の話で、だけど何も方法はなかった。

 なあ、自分ではどうすることもできない、社会から忌み嫌われる性質だなんて、呪いと変わらないじゃないか?」

 僕は頭を抱えて踞った。いつの間にか、灰色に変わった髪を毟りながら呻く。クロードは見つけたのだ。だから、だからアベルを殺した。あの晩、あの夜、あの居間、とどめをさしたのはどちらなのか?

「小難しいことをやるものだ」

 さっきと同じ言葉を、アベルが口にした。今度は、楽器よりも冷たい声音をしていた。

「人間ぶるな、ルイ=クロード」

 アベルはけして外さない。その一撃で、すべてを打ち壊す。

 クロードの腕が斧を振りかぶるのが、かつての記憶と明確に重なった。覚えている。僕はこの金属音も、頬に飛び散った甘い血も、一瞬で裂けた獣の美しい首も、すべて覚えている。そのとき――あの真っ赤な唇が――笑みを浮かべていただろうことも。

「見つけたら――花を――花を落とすって言ったじゃないか」

 泣きながら、僕は無意味なことを詰った。僕がクロードを責められることは何一つなかった。

「花だよ」

 クロードは、血の滴る斧の尖端で真紅の半球を叩いた。

「ほら」

 獣の頭蓋は花が咲いたように細かい肉片と骨と脳とふたつの水晶体に分かたれて標本のように放射状に列べられていた。無傷の肉体が蹂躙を待つように横たわる。僕は知っている、この肉体に僕が何をしたかを。まぼろしのピアノが頭蓋に鳴り響く。Gloria in excelsis Deo! Gloria in excelsis Deo! Gloria in excelsis Deo!

 クロードの足許に花と散っていた血が凝り、いつしかそれは一匹の黒い狼となる、そしてその牙を剥いた獣は地を蹴る瞬間不意に黒薔薇の蕾むように黒光りする銃身に転じた。古い猟銃。僕は悲鳴をあげた。クロードが銃身を持っている。丁寧に位置を調節してあの優しい声音を放つ咽喉に銃口を押し当てる。アベルとよく似た尖った犬歯が鉄を噛み、インクと血のついた指先が引鉄を、ひく、黒いダリア。銃身が咲けて無数の花びらになってクロードの頭蓋を引き裂く。アベルと同じように。

 その瞬間、ピアノが真っ二つに割れた。弾けとんだ鍵や弦が木片を打ちならし、斧を打ちおろすのに似た音が響いている。牙がかち合う音にも似ている。獣の音。

 僕を覆って影が射す。それは巨大な黒い獣の姿をしている。蠢くそれは時おり双頭のように見えた。影が笑う。血に濡れた牙と舌が覗く。僕の脳裏に、恋人を喰い殺したアベルの微笑みが灼きついていた。

 雷鳴。吹雪。嵐。

 冥い傾斜を花がころがっていく。花の形をした娘の首がころがっていく。獣は吠える。世界が傾き始めるのを感じながら、ぼくは水の中のようにゆっくりと倒れる。滅びの風だ。あの夜に訪れた崩壊だ。気づかぬうちに雷はこの呪われた血の屋敷の上に、まるでギロチンの刃のごとく輝いているのだった。半球に罅が入り、ピアノや獣のかけらと一緒に粉々にくだけ散った。ブルー・ベルベットや遺伝子の螺旋も、すべてが粒子に帰す。斧で割られたかのように。

 嵐は屋敷を飲み込む。方舟は転覆した。逆さまになった屋敷のなかで、涙形のシャンデリアのガラスが次々われてこぼれて天井を滑っていく。吹き込む十二月十五日の夜。最期の夜。僕はその身を切る冷たさに嬲られて吠えた。開いた居間の窓の向こうには涯てのない闇が見える。そこへ血も叫びも吸い込まれていく。僕も連れ去ってくれ。封じ込められた三年間を、殻のような生を破って、卵の外の死の世界へ連れ出して。生きている僕は標本室のベル・ジャーのなか。実験室のホルマリン壜のなか。祈祷室の棺のなか。生の醜い覆いのなかで腐っていくだけ。

 アベル、僕は十八歳になったんだ。

 あなたが死んだ歳になったんだ。

 僕の首に、腕に、つま先に、なにかが絡みついて、闇の奥へ向かおうとする僕を引き戻そうとする。天も地もわからない崩壊の渦のなかで身をかき抱いて絶叫した。

 もうこれ以上は堪えられない。僕のたてがみは老いて斑の灰となり、四肢は痩せ細り、牙は抜け落ちる。獣に人の生は長すぎる、惨めに湿った洞窟のなかで死ぬより、嵐の落雷で息絶えたい。あなたの音楽、あなたの美のようなその一撃で。

 僕は遺伝子の鎖にがんじがらめになって、風雨と雷鳴、混じりあって頬を叩く水滴と花びらに呪詛を唱えた。獣の呪詛は詞でない。それは咆哮だ。獣に天の裁きなどない。永遠の吹き荒ぶ、嵐が丘の頂で、亡霊の炎となりてなおも血の匂いを漂わせ、さまよい続けるのだ。

 そのとき僕の頬に何かが触れ、瞬きもできぬうちに濁流に消えた。それは手首だった。土くれと夏の太陽の匂いがする、三つめの手首だった。僕は今さら手を伸ばした。あのとき掴めなかった手。僕が奪ってしまった、金色の少年の手。

 僕は子供のように泣きながら、待って、待って、と腕を伸ばした。鎖が食い込む傷から、獣の黒い血が溢れでる。嗚これが――これが僕の――

 そのとき、不意に世界の先に刃が突き立てられたような光が見えた。はっと息を飲んだとたん、洪水の渦が逆巻き、僕はその前に一息に引きずり込まれて間近でそれを見た。

 教会の窓だ。黒い薔薇の形をした窓が、逆さまにある。これは、僕の部屋の窓だ。僕は今はっきりと理解して覚えている、あの最期の夜から僕が過ごしてきた日々を。二度と出ることの叶わない、永遠の檻。―――病人教会。

 薔薇は割れて、膨脹した闇が迫ってくる。その向こうには、アベルが立っている。この世でもっとも美しいかんばせで、黒い瞳を獣の色にそめて、光のない底なしの闇で微笑んでいる。十八歳のまま、永遠に変わらない姿で。

「ギー」

 真っ白なピアノが、見えた気がした。

 がたん、と急降下する感覚があって、ぐるりと視界から窓が消えた。全身が氷水が飛び込んだように鋭敏に冴えていき、覚醒しかけていると気づいた。

 二度と目覚めなくていいのに、と願った。急速に体が浮上する感覚に抗うのは渇望だ。僕の肉体は渇ききっている。そしてそれは生の世界ではけして満たされない。――――夢から醒めたくはない……


  「ギー」


 金色の声が、聴こえた気がした。



 次に瞼を開いたとき、僕は窓辺に倒れ臥していた。斬首を待つ罪人の格好で。身体は強張り、手足は冷えきっていたが、それでも僕には心音と呼吸、体温が存在していた。

 室内は静かだった。揺れても、割れても、傾いてもいなかった。血と音楽の代わりに、過去と、消毒液と、冬の匂いがした。暖炉の火は緩やかに燃えていた。これが消えていればあのまま死ねたかもしれないのに。

 僕は軋む肉体を引きずって半身を起こした。厚いカーテンの隙間から、蔓草の形に水滴が垂れて凍った窓が見える。外は見渡すかぎり夜だった。夢の中で、そこにいた僕の美しき獣は、どこにもいなかった。

 力を振り絞って、痩せた腕で窓を開け、冷たく肺を刺す千の夜気の針を飲み込み、アベル、と名を叫んだ。十二月十五日の夜の世界に、その声は遠吠えにも成りきれず、消えてしまった。

 夢にも、現実にも、あまりに鮮明な記憶となって現れる美しき亡霊。彼の姿は忘れ得ない。僕を、そしてクロードと、ユベールの人生を狂わせた。

 そのかんばせにわずかでも瑕疵さえあったなら、と願わずにはいられず、そしてそのようなことがあり得ないことも僕は知っていた。そして僕は、平和な不完全より、破滅の完全を選んだ。それが僕の呪いなのだから。

 遺伝子に刻まれた呪い。それは僕ら兄弟を苦しめ、破滅へ向かわせた。

 クロード、クロード。僕らの、善き兄。もう一匹の獣。アベルの悪徳と、僕の悪癖に身をすり減らして死んでいった。

 あなたは果たして、死んでアベルと共に獣の世界へいったのだろうか、それとも……。

 僕はからっぽの手を握りしめた。もはや名を呼ぶ資格すらないであろうかつての友人への思いが――名のつけようのないそれが――すべてを覆い尽くす。

 僕は窓から身をのりだし、もはやそこに超越の、棺の外の死の世界が存在しないことを知りながら、濃密でからっぽの夜に手を伸ばした。僕は泣いていた。ひとりきりで、声にならぬ獣の咆哮をあげて………。

 死にたい。

 三年の月日と、褪せぬ記憶と、まぼろしが僕に与えた感情のすべてが、僕を打ちのめした。くずおれて跪く。骨のようになった指を組んで祈るのは神にではない。

 生まれたことを祝福してくれた金色の気配は、僕を苛む拷問だ。殉教の苦しみよりまだ足りぬ。

 十二月の窓辺には黒い夜だけが満ちていて、金色の友人から手渡された萼がひとつだけ、たったひとつだけ、僕の傍らにあった。

 僕はそれに願う。僕がけして持ちえない世界の光を見つめて、眩しさにつぶれた眼で、神の姿を死の際に見る気持ちで、僕のたったひとりの友人に、あるいは、僕が永遠にこがれる美しき獣に。

 叶うならば、どうか、僕を殺して。




おお 優しい死よ

私を痛みから救っておくれ

あなたの殴打は甘美

霊魂を自由にしてくれる

何と幸福か 私の愛するお方よ

あなたの側におられるなんて

あなたにお目にかかりたくて

私は死にたくてたまらない


私の霊魂はむなしく

あなたを探し ああ 私の主よ

あなたはいつも見ることができない

あなたを慕う憧れはたまらなく

ああ 心燃やされ

叫ばずにいられない

あなたにお目にかかりたくて

私は死にたくてたまらない


主よ お願いですから

この長い苦悶を消してください

あなたのはしためをお救いください

あなたを恋いこがれております

これらの鉄鎖をこわし

幸福に

あなたにお目にかかりたくて

私は死にたくてたまらない

(アビラの聖女テレサ「詩7」部分『アビラの聖女テレサの詩』高橋テレサ訳)

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