記録ファイル No.2『Deux de l'étranger』partie 1

 以下の文は、治療の一環として行われた患者の発言の記録である。

 患者記録:Louis=Gustave de Pistache(French) Sex:Male Age:17 Disease:Beautiphilia

 [第二部:partie 1]


(録音開始)



 血の呪い。それについて話すには、必然的にテーマが、ふたつめのものに移行することになる。ルイ=クロードとルイ=アベルについての予備知識は頭に入ったか? 優等生の長兄と、芸術家の次兄。そして僕。

 では、我が呪われた家系についての話を始めよう。

 フランス革命以前は所謂第二身分であった我が家系は、かなり古い時代まで血脈を辿ることができるが、今は省こう。なぜなら、それは無為きわまりないからだ。

 …僕の祖父は、第一次世界大戦に従軍して、勲章を賜った。たぶん、書類にも載っているだろう。祖父はそれなりに高名な人物であったようだな。……よくは知らないが。

 あの悲劇の東方戦線を、祖父は生き抜いた。戦友の屍を踏み越えて、鉄条網と砲弾の穴ばかりの荒野にひとり立つ若き祖父。その背は父と生き写しだ。

 世界中を揺るがした嵐を経て、戻ってきたのもつかの間、エメラルド・グリーンの瞳に昏い光を宿らせたまま不意にフランスを離れた祖父は、二年の放浪ののち、北フランスの家に、日本人の女を連れて帰ってきた。それが、長いこと不在とされていた、父の母…僕たちの祖母だった。かつて愛し合い、子をもうけながらも大戦で引き離された運命をもう一度つなぎとめようとした祖父の努力は、しかしその年の冬に裏切られる。祖母は死んだ。詳細ははじめに話したろう。寡夫となった祖父も、失意のうちに病を得て死んだ。残されたのは父と、その兄…肺が悪かった父とその兄は、二度めの世界大戦中は、若き(あるいは幼き)レジスタンスとして活動していた。黒髪のアンジョルラス…。

 しかし父の兄も、戦後、ルイ=クロードが生まれて一年も経たずに死んだ。

 残されたのは、父だけだ。


 古くから、●●●家のものは、人の血肉を喰うのだと、ばかげた伝承があった。それは、戦場で、戦友の血に軍服と顔を染めた若き祖父をみた愚鈍な兵士たちの間で、またたく間に広がっていった。北フランス出身の誰かが漏らしたのだろう。

 代々狩猟を趣味としていたことや、人嫌いの性質が強かったこと、そしてその、青い血の流れるつめたい美貌が、わが系譜を忌まわしいものに押しやったのではないかと僕は考えている。あいにく、僕の生きていた時代に、屋敷には既に●●●家の女は一人もいなかったが、まるで処女の生き血を啜っているかのように衰えない女たちの存在もその噂に拍車をかけていたらしい。

 ●●●家には、かつてのブルボン王朝時代の処刑人の血が入っている。革命の夜明け、ルイ十六世の首をはねた、サンソン家の血が。純血に混ざるひとすじの不吉……それが時を経て霧の中に拡散し、この屋敷を陰惨におおっているのかもしれない。そしてその闇が、僕たちの肉体と魂に、ある呪いを埋め込んだ。それは現代科学の観点から見れば、病気であり、単なる遺伝子の欠陥なのかもしれない。けれど、その●●●の血族に受け継がれる忌わしき形質は、まさしく――呪いと言っていいものだった。

 そしてその血の呪いこそが、すべての崩壊の引き金となった。

 そういえば、あの事件以来、●●●の屋敷はどうなっているんだろうな。財産はどこが管理しているのか、僕の身柄よろしく、ピスターシュの家だろうか。あのように呪われた屋敷、どんなに金を積まれても関わりたくないという家の方が大半だろうに。……たとえ、どれほど価値あるものがあろうとも。

 あの家の資産目録は、さすがにお前の手にはないのか? あったらどんな顔をするのか見ものだったな。まあ、僕には関係のないことだ。社会で価値あるものが僕にとって美しいとは限らない。それに、どれほど美しい絵や、彫刻や、書物を並べても、結局は……アベルがいたのだから。世紀末の「驚異の部屋ヴンダーカンマー」は、この世で最も美しいものを見出せなかった不幸な好事家たちの延命装置だ。僕たち生まれついてのディレッタント(美的依存症患者、と言い換えてもいい)は自分自身の隠れ家エルミタージュを持ち、その奥底に身を捧ぐ祭壇をつくる生きものだが、僕は既に、そこに祀る存在を知っている。……

 話が逸れた。僕ら兄弟が愛したものは、それぞれに、それなりに、あの屋敷にあったが、そうだな、今お前や僕を観察している医師の興味を惹くのは、どちらかといえば異なる類いの「所蔵品」だろう。

 屋敷の西翼にあった客間には、先祖の持ち物であった斧やレイピアが飾られ、かつて血と蜜を吸ったことのあるそれらは毒々しいほど銀に輝いている。上階の書斎には、祖父のものであった猟銃が飾られ、同じように鈍くその銃身をきらめかせていた。……これらの道具が、二十世紀の今となってもう一度息を吹き返すだなんて、かつての僕は想像だにしなかったのだが。

 装飾という点では、●●●家には、動物の剥製がひとつもないというのも、不思議なことだったのかもしれない。狩りを趣味としていたのに、鹿の角ひとつ暖炉の上に飾られておらず、武器ばかりが壁に架けられているのは、一種異様な光景だった。唯一、クロードが使っていた部屋には、林立する城めいたガラス張りのアンティークの書棚のなかに、水晶でつくった動物たちに混ざって、鳥の頭蓋骨の標本函とアフリカの象牙がひとつあった。その、結晶と骨が並んだ列を、勉強の合間にクロードが眺めているところを、僕は何度も目にした。…思えば、あれは……クロードなりの"Memento mori"であったのかもしれない。

 一度だけ、クロードの目を盗んで、時代の堆積のような貝の化石を舐めてみたことがある。その味は、予想に反してわずかに塩のようで、磨いても磨いても降り積もる埃の舌触りがいつまでも舌先を鈍く覆っていた。冬の日の霜の花のように。……静物画ヴァニタスのごとく飾られたそれらは、その後、幼い僕の「悪癖」の標的にこそなりはしなかったが、充分に僕を魅了した。

「ギー、おいで」

 僕が重たい扉から顔をのぞかせていると、それに気づいたクロードは、いつでもそう言って手招きをして、部屋のなかに入れてくれた。彼の部屋は四方の壁が二重の書棚になっていて、まるで知的で麗しい要塞のようであり、屋敷の北館にある図書室とも似ていた。けれど、そこにはもっと雑多な、時の流れというようなものが本という形をとって混在していた、出版されたばかりの電子工学の論文から、一世紀前の娯楽小説まで。けれども、特筆すべきは、その"所蔵品"の装丁の美しさにあった。我が祖国は豪華本のメッカだったから、愛書家とも言えたクロード――そして、彼の父と僕らの父――は、高価な美本を蒐集していて、言うまでもなく、僕はそれに夢中だった――幼い僕がヴァレリーの復刻版の装丁に目を奪われると、クロードは、それを抜き出して差し出してくれた。僕がその緻密な画に、ページに鼻がくっつきそうなほど見入っているのを、クロードはただただ慈愛の兄の眼差しで見つめていたのだろう。日差しが絨毯の上につくる図形のかたちが変わるほど僕が本を読み耽っていても、彼はその部屋にいた。何時間でも……何日でも……。彼は学び、僕は読んでいた。僕たち二人を、屋敷全体を漂う霧めいたアベルの弾くピアノが包み込んでいた。

 そこがある意味で、僕の学校であったと云えるかもしれない。螺旋階段をのぼった高地にある、我が領地(即ち、寝室ということだ)から遠く離れた学び舎……そもそも、我が家は閉ざされたあるひとつの国のようでもあったのだから。その部屋の絨毯に座り込んで重たい本を繰っていると、階下からは、国の中央たる居間で鳴り響くピアノが、祝福の鐘のように微かに聴こえ続けていた。愛と音楽と、自由と孤独の奇麗な雲にくるまれた、その「大いなる学び舎」で過ごす時間が、日に日に長くなっていく十歳の僕に、クロードがある時こう言った。

「お前が学校に行きたくないのなら、家庭教師を呼ぼうか。何がいい? 油彩? 楽典? 幾何学? ――お前の好きなものを学ぶといい。外から人を連れてこよう」

「外の人間とは関わりたくないよ」

 夕暮れの紅と、短調のピアノの靄に包まれた僕がそう返すと、彼は一瞬、苦しそうに眉を寄せた。僕はその顔を見た途端、とんでもないことをしてしまったと思って本を捨て、クロードに抱き付いた。

「クロード、クロード――そんなに悲しそうな顔をしないで。クロードが行けというのなら、僕はきちんと学校にだって行くよ」

 彼の、果実のような肌に頬ずりして囁くと、騎士のように僕を抱いたクロードは、僕の額に悲しいままのキスをした。

「お前が望んで、外と交わらないのならば、意味はないんだよ……」

 僕はどうしたらいいのかわからず、夕焼けと夜の闇がダンスをしている絨毯の上に開いたままで落ちている本を拾いたいとクロードに言った。それは鳥類図鑑であり、僕が開いていたのは骨格のページだった。空を飛ぶためにその内部に空洞を持つ彼らの骨は、浪漫と幻想の炎に満たされているように素晴らしいと僕は感じたのだった。それが、彼らにとってのélan vitalだと。彼は身をかがめて、僕より早くそれを拾い上げ、僕に渡してくれた。

「……ギー、あの標本に興味があるのかい」

 彼は、ガラス越しの標本函を目で指した。淡い色彩の綿や木屑に混じって整然と並ぶ骨たちを見て、僕は……そっと頷いた。

 僕が鳥類に興味があると"誤解"した彼は、小さな弟を床におろして、親切に、片端からその茹でた豆のような頭蓋骨の持ち主の性質について教えてくれた。……しかし、僕が夢中になったのは、その持ち主たちがどのようにその命を絶たれたかだった。言っておきたいのは、僕のこれは所謂、残酷趣味ではけしてない――臓物だの拷問だの、あれはあまりに低俗で、露悪的に過ぎる趣味だ――それを想像する瞬間、僕の脳裏には、駒鳥の死骸をアベルと葬ったときの無垢な悦楽が、甘美な稲妻のように閃くからであったのだ。

 滔々と、進化の系統樹から詳しく説明する兄に、僕はふとこう尋ねた。

「クロードは、鳥が好きなの?」

 彼は僕の肩を抱いたまま、少し間をおいて頷いた。「そうだな、好きだ」

「じゃあ、鳥の勉強をしてるの?」

「ああ、……」しかし、クロードはすぐに首を横に振った。「……違うな。俺は、鳥がどういう風に進化してきたか……何を以てして、彼らの形質が受け継がれ、他の生物と異なる進化を遂げたのかを学んでる」

 僕はよくわからず、それはどういうこと、とクロードに尋ねた。

「俺は、遺伝について学びたいんだよ」

「遺伝?」

「そう」言いながら、クロードはガラス張りの棚蓋を開く。その中から、不思議な螺旋階段のような模型を取り出した。二重に絡まったそれに、僕は見いる。階下から響くピアノの音と融和するように、クロードの囁く声が僕を絡めとる。「家系に遺伝する病気というものがあってね。たとえば、血友病とか……俺は、そういうことを学びたい。そうすれば、きっと……俺たちの、血筋だって……」その時、開いたガラス戸に不意に複雑な角度で反射した、クロードと僕の鏡像に、はっと息を止めた。髪の色も、目の色も、両親すらも異なるクロードと僕。しかし、ルイ=クロードと、ルイ=ギュスターヴを、その共通項――"Louis"の名で縛るように、そのふたつのかんばせは似通った印象を見せていた。肌理のこまかい白い肌。ダーク・チェリーを薄めたような色の唇。彫刻刀でくり抜いたような瞼の形。

 階下からは、アベルの弾くピアノの音が、心臓を叩く鋭さで聴こえてくる。ルイ=アベル。彼の十三歳にしておぞましいほど美しく整ったかんばせの面影が、僕たちの首筋から額にまで及んでいた。『(略)…、この母親から蒼白い顔を受けついでいた。父親からは、野放図と、優雅な物腰と、荒れ狂う気まぐれとをもらっていた。』――"Les Enfants Terribles" by. Jean Cocteau

 僕たちは皆、●●●の一族であることに変わりはないのだ。

 ……僕は、今でも、あの書棚に囲まれた遺伝子模型の部屋で、クロードが発した言葉が耳に残っている。

「たとえ、遺伝という理屈で、かつて呪いとされていた事実が科学的に証明されたとして……自分ではどうすることもできない、血を介して肉体に受け継がれた性質とは……呪いと変わりないと思わないか?」



 ……ああ……。クロードの話をすると、ここが……胸がひどく苦しくなる。彼はずっと、絶えず僕に笑いかけてくれていたのに、ふと思い出すのは、どんな時でも、蒼白くて悲しそうな表情ばかりなんだ。あの日から。呪いが…僕たちを縛る呪いが、その牙を剥いた、あのおぞましき過去……。

 ……どうせこの話を避けては通れまい。みな、これが聞きたいんだ。ならばそれはあとにとっておこうではないか。僕はあまのじゃくなんだ。たとえ虚しいあがきでも、お前たちの望むようになどしてやるものか。さあ、別の話をしよう。

 ふたつめの話題は、●●●家の謂れや暮らしのことだったな。それならば話そう。裏地に刺繍された呪いをひた隠しに生きてきた僕たち、そして、そこに関わっていたエトランゼのことを。



 僕が暮らしていた当時、●●●家に出入りしていた人間は実質両手の指に満たなかった。使用人たちは仕事を片付けると、三ヶ月を地下で過ごしたペルセポネのように家へ逃げ帰ってしまう。彼女たちが朝方屋敷の門をくぐるときの姿は、まるで死刑台に曳かれていく冤罪者みたいだった。…もともと、祖父や父、そしてクロードの意向で、我が家には多くの使用人を共に住まわせるという文化が無く、……僕たちは常に孤独であった。

 君は知っているか、夜食べる冷たい肉の味を? 

 僕を見るメイドたちの目は怯える野うさぎのそれだ。いっそ頭から噛みちぎって殺してやりたいほどだった。飲み込んだりはしない。あんな美しくないもの。

 クロードは比較的、彼らとまともに接してはいたが…それだって、あれは普通の主従関係ではなかった。奴らは善き人であるクロードさえ敬遠した。臆病で愚鈍な奴ら。あいつらなど毟った花殻ほどの価値もない。

 …そんな生きものばかりのなかで、二人の人間が、僕らの生活に、深く入り込んでいた。

 今から僕が口にする名は、彼らの本当の名前だ。別にいいだろう。君が彼らについて余計な詮索をすることもあるまい。

 ひとりはピアノの調律師だった。半分ドイツ人で、背の高い、壮年の男。ルネ・シェーンベルクという名前で、月の光に似たシルバーブロンドだった。

 ルネ・シェーンベルクについて僕が知っていることはいくつかある。調律師としての腕は抜群だということ、無口だということ、いつでも黒い服ばかり着ているということ、左の腰骨あたりに煙草の火傷痕があること、そして、彼はマルキ・ド・サドであると同時にザッヘル・マゾッホであるということだった。

 先ほどあとで話そうといったアベルとの思い出は、彼に関することだ。とはいっても、僕とアベルが過ごした時間に、彼が直接的に関わってくるわけではない。

 何度も話したことだが、僕たちの屋敷の居間にはグランドピアノ――ベーゼンドルファーが置かれていて、それはアベルが弾きたいときに弾かれるための万全の準備を整えておかなければならなかった。それが当然だった。誰しもがアベルの望むようにした。

 たとえばある秋の朝、目覚めると外は霧雨であるとする。居間にやってきたアベルは少し強張った顔つきのまま、二、三、鍵盤に触れ、すぐに離す。苛立ちを隠さないアベルは、そのまま、ひどく悪魔的に、魅惑的に、彼に電話をかける。「すぐに来てくれ。嫌な雨が降っているから」わずかな湿気で機嫌を損ねる象牙の鍵盤と弦はアベルそのものだ。人形のような面立ちにわずかないらだちを浮かべたアベルは、ため息をつくクロードを尻目に、約三十分後にやってくる黒い車を窓辺で待っている。

 ゲルマン民族らしい長身を黒いコートに包んだ男が玄関のベルを鳴らせば、アベルはバルコニーへ飛び出す。シルバー・ブロンドの調律師――ルネ・シェーンベルクは、この美しい悪魔を見ると、目を閉じて頭を垂れる。まるで跪くように。

 たとえば身内の葬儀の最中であっても、彼はやってきただろうと思わせる騎士然としたようすが、ルネにはあった。

 ルネ・シェーンベルクは、アベルに傅いていた。

 アベルと、ルネの関係性は、ピアニストと調律師といいきってしまえるほど単純ではなかった。ただ、その他の名前のついているどの人間関係とも、微妙に異なっていた。

 アベルが急に彼を呼びつける時以外にも、定期的に、執拗なほどに、アベルのピアノは隅から隅まで整えられていた。それは毎月の第二日曜日の昼十二時からと決まっていて、その頻繁さは病的だった。けれど、滅多に来客のない我が家で、ルネ・シェーンベルクの来訪は、空気を入れ替える程度の力は持っていた。

 日曜日、午后三時半。黒い上着を翻し、ルネ・シェーンベルクが出ていく。黒い革靴は硬質な音を立てて遠ざかっていく。

 僕は彼が帰って、玄関ホールの時計の秒針がきっかり五周するのを待つ。

 そしてから居間に行く。扉は重い。ゆっくりと開ければ、ドロンワークのレースカーテンを透かして、金の粉が舞うような薄明るい部屋の真ん中で、ピアノが輝いている…まどろみの中みたいにぼんやりした景色のなかで、アベルはわずかな暗がりのソファに横たわっている。僕が扉を開けて三拍半。

「おいで」

 かすれた声が僕を呼ぶ。僕はゆっくりと扉の影から足を踏み出す。妖精の羽根じみたカーテンの影に、つま先が絡め取られる。……

 幾度も繰り返されてきた光景でありながら、この思い出が鮮明に像を結ぶことはけしてない。いつでもカーテン越しの薄明かりと隣あった薄暗がりで、アベルは僕を呼んだ。

「Mon ptit Guy...」

 記憶の花びらが踊る…ソファに横たわる肉体…乱れた襟元…白い首の鬱血痕…甘く湿った後れ毛…僕の頬に触れた指の、めずらしいほどの熱…濡れた口唇……。それが"そう"だと気づいたのは何歳の頃だろう。あるいは順序が逆だったのかもしれない。

 彼はLa ptite mortのさなかであったのか、うわ言のように僕を呼んだきり、ぐったりとしていることが多かった。

 最初の一度だけ、僕はアベルに何をしていたのと訊いた。答える声は音になっていないほどか細かったが、アベルは甘ったるい黒の瞳をうすく開いて、こう言った。

―――連弾。

 Quatre mains, と発せられた単語の、あまりの官能性。僕は胸を残酷な銃弾で撃ち抜かれ、甘美な死の際にいるような心持にさせられた。そして同時に、あの黒い服を着た調律師の、白く乾いた手をつよく思い返していた。連弾。あの指が触れるもの。アベルの、存外骨ばった、いかにもな音楽家の手と親和性をもつ、職人の手。

 ……君、どうした。そんな顔をして。この程度の悪徳どうということもないだろう。それとも君は聖書の教えを頑なに信じているのか? ソドムとゴモラ。悪徳の栄え。ここは教会だからな。すべてを神のせいにしていればいい、愚かな人間どもの集う場所!

 勘違いをしないでもらいたいのだが、僕がルネ・シェーンベルク―及び、その他アベルと"連弾"した相手―に悪感情を抱いたことはない。アベルは、けして恋人だとか、そういう類いのものとして彼らと付き合っていたわけではないのだから。音楽学校の生徒、教師、娼婦、あるいは行きずりの信奉者……アベルは誰とでも触れ合った。

 そのなかで、最も彼に近い場所にいたのが、ルネ・シェーンベルクというだけだ。

 美しいものはすべて祝宴であり、その目指すところは惜しみなく与えることである。―ホルヘ・ルイス・ボルヘスはそう言ったが、確かにそうだろう。美しいものはただあるだけで素晴らしく人を惹きつける。アベルの音楽も、アベルも、そういうものだった。そんなことは、僕がいちばんわかっていた。

 ある午后、居間の外にある黒苺の茂みに隠れて、蟻が蝶の死骸をひいているのを見ていて…偶然(薄く開かれた窓、はためくレースカーテン)に、ルネの腰にある火傷痕を目にしたとき、あのつめたい、白と黒ばかりの男に、人に焦がれる熱情があるということが僕を驚かせた。アベルはそういう男だったのだ。美しきは惑わす。

 ……もっともアベルと長くその関係を続けていたのは、ルネだろう。一度だけ、あるいは二、三回、どこか囚われた罪人めいた様子で、人目を忍びながらこの屋敷の門をくぐった人間は数多いが、片手の指以上の回数、姿を見たことのあるものはそういない。そんな中、ルネ・シェーンベルクだけは、僕が九歳――アベルが早熟な十三歳だったときから、ずっと、アベルとふたりで踊りつづけていた。彼が他の人間とどう違ったのかはよくわからないが、時には奴隷であり、時には拷問官であったルネは、アベルの、どこかつめたく気まぐれな本性を満たし続けるだけの熱を宿していた、たったひとりだったのかもしれなかった。

 暗がりのソファで僕を呼ぶアベルも、彼との行為のあとはどこか普段より陶然とした脆い雰囲気をまとっていた。

 僕が、日曜日の午后…連弾が終わる頃、廊下を通りすがったことがあった。未成熟、青白い膝、黒い巻毛。変声もまだだった頃のような気がする。丁度、居間の扉が開いたところだった。一歩踏み出された、尖った黒い革靴。足が止まる。

 ルネ・シェーンベルクは、廊下に立ち尽くす子どもにちらりと視線を向けた。その落ちくぼんだ青い目と秀でた額にかかるシルバー・ブロンドに、僕は目が引き寄せられる。ワイルドやヴェルレーヌのような、破滅的な火は、その静まり返った湖面のような面差しにはけして見いだせなかった。けれども、僕は知っている。彼はアベルと―――

 ふと、ルネが僕の方へ足先を向けて、歩み寄った。長身をかがめて、僕と視線の高さを合わせる。僕はぎゅっと後ろに回した手を握った。

 いつもアベルのピアノに触るルネ・シェーンベルクの指先は乾いていて、硬く、石膏のようだった。その指が、そっと僕の頬に触れ、弦を確かめるのと同じ手つきで、ゆっくりと輪郭をなぞり……唇にふれる。

「ギー!」

 僕がびくっと身をこわばらせたと同時に、ルネ・シェーンベルクの指も離れた。僕の背後から声をかけたクロードは廊下を歩み寄ってきて、「すみません、ギュスターヴが。…こら、お引き留めしては悪いだろう」言いながら、僕の後ろ手に握られていたあるものに手を添え、巧みに自分のものにしてしまった。ルネ・シェーンベルクはかぶりを振り、「いえ、こちらが話しかけたものですから」とかすれた声で言った。

「それでは、お暇致します」

 丁寧に一礼したルネは、黒い裾を、まるで蝙蝠の羽根のようにひらめかせて、廊下を去っていった。クロードはそれを見送るように歩き出したから、僕もすぐ後ろについていった。

 いま、僕の手から奪われたもの。

 金属の花鋏。

 僕はいたって不服な気持ちだった。クロードが何も言わずに、僕からその花鋏を奪ったことを。庭に咲いていたテンジクアオイが一輪ほしくて、こっそり持ち出したものだった。なぜ、クロードはそれを取ったのだろう、と、僕は抗議の意思を込めてクロードの横顔を見上げた。僕が、彼を殺そうとしてるとでも思ったのだろうか?

 玄関先で、また丁寧に礼をしたルネが立ち去るのを見届けると、クロードは不意に僕に向き直った。彼は眉尻を下げてこう訊いた。

「お前、どうしてあんなに鋏を握りしめてたんだ。怖いくらいに」

 僕は何も返せなかった。その途端、クロードは驚いたように僕の右手を持ち上げた。その瞳が揺れる。僕も、信じられない思いで掲げられた自分の手を見つめた。

 金属が食い込み、血が出ていた。

 すぐに消毒を、とメイドを呼びつけて救急箱を探させようとするクロードの声も遠く、僕は、じっと、表皮の溝を伝って浸潤していく血の色を見つめていた。

 まったく気がつかなかったのだ。

 僕はそれほどまでに花鋏を握りしめて、いったい何をしようとしていたのだろう? 僕はけしてルネのことを憎く思っていたわけはなかった。兄を愛する男。

 それなのに、なぜ?

 流れ出る真っ赤な血を見つめながら、僕は茫然と呟いた。……呪われた血。



 翌朝、僕が起きると、珍しくもうアベルも起きていて、電話をかけていた。あまりにも早朝だったので、クロードが彼の手から、真鍮色の受話器を取り上げようとしたが、いつになく硬い横顔をしたアベルはそれを拒んで、電話の向こうの相手につながるや否や、「すぐに来てくれ」とだけ言って電話を切った。外は雨だった。

 クロードはさすがにアベルを叱責したが、電話先の相手が訪ねてくるであろう時間帯には、既に学校へ行っていなくてはならず、不機嫌そうな様子で出かけていった。午前の練習はないというアベルは、雨が降る窓の外を見つめながら、怯える使用人がいれたシャムロック・ティーを飲んで、じっと待っていた。僕? 僕は………学校なんて行きたくなくて、そのあたりから、何かと理由をつけては休んでいたから、その日も何か言い訳を拵えて休んだんだろう。よく覚えていない。クロードは僕のことを心配したけれど、学校へ行くことそのものが僕のストレスになっていたのだから、あまり強くは言わなかった。僕はアベルの隣に立って、同じように、羅紗のような雨にけぶる庭を、じっと眺めていた。……

 アベルは、不意に、僕にこちらを向くように言った。言うとおりにすれば、そこには悪魔的な美貌が、じっと闇めいた双眸で僕を見つめている。いつでも、アベルと相対するときに覚える祝福に似た陶酔と多少の居心地悪さを味わいながら、僕は黙っていた。

 アベルの指先が、鍵盤にふれるように、僕の唇をなぞった。ルネはふれなかった場所。それから、そっと僕の手をとった。白い真新しい布が巻かれた手のひら。花鋏の傷痕。

 そのとき、ベルが鳴る。女中を制して、アベルが出た。長い黒の裳裾、シルバー・ブロンド……ルネ・シェーンベルクだ。

 無言で彼を出迎えたアベルは、踵を返して、かつかつと靴音を鳴らして僕のほうへ歩み寄ってきた。普段の彼らしくない少し乱暴な仕草で、僕を自分のほうへ引き寄せると、アベルは僕のことをぎゅっと抱きしめた。首筋からは、すみれの煙草の匂いがかすかにした。

「どうしたの?」

「……別に」

 アベルは二回首を振って、僕の頭を撫でた。彼の唇がわずかに動いたのが見える。なんと言ったのか。

 Gloria in excelsis Deo...あの讃美歌の一節のように思えてならなかった。

 不意にアベルは僕から手を離すと、彼にしては珍しくすねたような、怒ったような色を眦に浮かべて、ルネ・シェーンベルクのネクタイをちょっと引っ張った。ルネはわずかに微笑みのようなものを浮かべ、目を閉じて頭を下げた。アベルの黒い瞳が、その姿をじっと見ている。……

「……嫌な雨だ」

 次の瞬間には、もう、いつものように、アベルは彼自身らしい態度でもってルネ・シェーンベルクを居間へ促していた。「朝触れたけど、あんな弦じゃだめだ。僕はカクテルを作るためにピアノを弾くのではないからな」

「一日で機嫌を損ねるようなじゃじゃ馬にしたつもりはないのですけれど」ルネは低く笑う。「申し訳ありませんでした」

 アベルはふいっと顔を背け、横目でルネの微笑を見やった。「…あのピアノはわがままなんだ。持ち主に似て」早く、とアベルはルネを急かした。その時のアベルは、やはりどうにも奇妙だった。よほど機嫌が悪かったのか、それとも……。

 アベルは最後に僕に向き直ると、そっと頬にキスをした。白い耳にかかる長い黒髪からは、夜の名残のような、甘ったるい香りがした。……その、黒百合の花弁のような巻き毛の隙から見えたルネ・シェーンベルクは、その目で僕を見て、確かに薄く笑った。

 つまり、ルネは結局のところ、当時の僕がアベルをどう思っていたか――そして、アベルが僕のことをどう思っていたかを、誰よりもよく理解していたのだろう。彼は傍観者であり……盤上が最もよく見える位置にいたのだろうから。

 ……アベルは、ルネのことをどう思っていたのだろう。今となっては確かめようもないが、アベルがあんな表情をするのは、ルネ以外になかったように思える。アベルは僕の前では、ルネにことさら冷たく当たるような気がしていた。それは年上の恋人に甘えて拗ねるニンフェットのように、傲慢で、残忍で、厭らしくて――やはり、美しいものだった。

 あんなにも、親の腕を乞うように甘ったるく、彼の名を呼ぶくせに。腐って蕩ける真紅の闇、僕の兄のうちに薫る厭らしい、甘美。花びらみたいなそれを受け取ることが許されていた……黒い服を着た、背の高い調律師。太陽に似た熱情を巧妙に押し隠す、月の光のようなブロンドの男。

 彼は少なくとも、呪いに押しつぶされることはなかった。まとい続けた黒のおかげだろうか。それとも月の輝きのおかげだろうか。夜の闇に映える銀色……。

 すべてを飲み込む奔流的な闇、つめたさ、破滅の運命を色濃くまとっていたわが屋敷、わが血筋…。

 あの事件のあと、ルネ・シェーンベルクは、――アベルのピアノはどうしたのだろうか。

 できることならば、たったひとつのよすがとして……あのピアノだけでも、ルネが所有してくれていたのならば……と、僕は夢想するのだ。

 ルネ・シェーンベルクについての話はここで打ち止めにしよう。彼はアベルの影だった。それでいい。音楽家には調律師が必要だ。その逆はなくとも。




 ルネ・シェーンベルクと同じように、●●●家を訪れていた人間は、もうひとりいる。

 そのもうひとりの人物こそ、月と対称をなす太陽であり、この僕が、ルイ=ギュスターヴが、――生涯ただひとり、本当の友人だといえる相手であり……僕がこの手で、その魂に消えない傷をつけた相手だ。






(録音時間終了)

(第二部-partie 2へ続く)

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