Beautiphilia

しおり

記録ファイル No.1『Trois Louis』

入院証明書 パリ警視庁附属特別医務院

報告 1968年

Louis=Gustave de Pistache

※ジヴェルニー●●●一家事件重要参考人

遺伝歴──何人かの親族に精神疾患。症状はすべて同様。

既往歴──軽度の小児喘息。

(軽い迫害観念?)

(女性的で華美な服装を好む。衒奇症?)


以下の文は、治療の一環として行われた患者の発言の記録である。

 患者記録:Louis=Gustave de Pistache(French) Sex:Male Age:17 Disease:Beautiphilia

記録日時:1971.12.8

現症状:美しいものへの異常な執着、異食行動。対象物(例:花、鉱石、蝶など)との一体化を望み、恒常的に異食を繰り返す。軽度の栄養失調と言語的強迫性障害の傾向あり。美異物嗜好症(Beautiphilia)と診断。


[第一部:]

 

(録音開始)


 僕の名前はルイ=ギュスターヴ・ド・ピスターシュ。勿論本当の名前ではない。半分だけ。ルイ=ギュスターヴの部分は、この僕が、●●●家の父から受け継いだ血族の証だ。誰もが僕をギーと呼んだ。ギュスターヴのギーだ。僕には兄が二人いて、二人ともがルイという名を持っていたからだ。父もそうなのは、言うまでもないだろう。

 君は今身じろいだな。兄のことだろう。以来、僕に話をしてくれという人間は、みな兄のことを訊くんだ。警察署でも、病院でも、どこにいても……君が聞きたいのは、兄の話なのか?

 ちがうのか。奇妙なやつめ。

 僕の話を聞きたいと。この僕の? ルイ=ギュスターヴ・ド・ピスターシュ――偽りの名を持つ、高貴なる獣……。

 酔狂な東洋人だ!

 しかし、医師や警察にどれほど乞われようと、僕は僕の人生をすべて語るようなことはしまい。それは実に無意味だし、プルーストより退屈だ。

 代わりに、僕は僕についての三つのことを話そう。みなが知りたがる、アベルを始めとしたルイの名を持つ家族のこと、●●●家の謂れや暮らしのこと、そして、僕がここに来ることになった事件のことを。

 だが、僕が僕自身について語るということは、それはとりもなおさず──兄について語ることになるのだ。

 僕の兄。ルイの名を持つ兄。そう、あの事件の、渦中にいた、三人の"ルイ"……。

 そう、まずは――皆が聞きたがる兄――ルイ=クロードと、そして、ルイ=アベルの話をしようじゃないか。呪われた僕の血族――ルイの名を継ぐ忌まわしき、Le Monster Charmant……。



 僕の兄、●●●家の次男、ルイ=アベルは、世界でいちばん美しい男だった。

 美しさに序列はないというなら、言いなおそう――ルイ=アベルは、僕が世界で唯一美しいとおもった人間だった。

 ●●●家の名を知っているか。知らないだろう。知っていそうな人間にけして言うものか。……ひとつ忠告しておくが、君はこの名を聞くことはできるけれど、口にすることはできない。なぜならこの名を口にすることはこの教会、この病院が僕に禁じたことだからだ。君がその名を口にすれば、僕は咎められる。そして君は―――口封じをされることだろう。当たり前だろう。誰の家がこの馬鹿げた規模の病院を運営する資金を提供していると思っているんだ。

 ●●●家は呪われた血族だ。

 北フランスでは有名な話だとも。誰もがその名を忌む。面白半分に子供が口にしようものなら引っ叩かれる。僕らの屋敷へ足を踏み入れることも、僕らを茶会へ招くことも厭う。そんな家だ。かつて、ナポレオンが斃れ、古き貴族制が復活するよりはるか以前からの爵位を受け継ぐ系譜。ジヴェルニーを知っているか。モネの終の棲家だ。あそこがわかるなら話ははやい。そこへ行って、この名を口にしてみたまえ。君はあの土地を追われるだろうな。

 ●●●家は、北フランスのアッシャー家だ。崩壊せる恐怖の城。あの屋敷は今でもあそこにあるのだろうか? 美しい庭を持つ、呪われた家。中世の頃より受け継ぐ血筋の、麗しくもおぞましい獣の一族。……そう、領地は草に覆われ、外から見ると鬱蒼と繁る樹木が成す、エメラルドを削りだしてつくったスノードームのようであった。そのなかでは銀の雪が降り、空気は永遠に青い血のつめたさを保っている。しかし、ぐるりと囲む私道を来たりて、野ばらやさんざしで幾重にも編まれた垣根を越えて、黒々とした鉄のいばらで封じられた聳え立つ門をくぐった先は、まるで別の世界のようであることを、僕たち以外の誰も知らなかった。呪われた屋敷を覆う翡翠の結界、幾百年もの陰鬱に沈む僕たちの城。その狭間には、金色の風駈ける庭が広がっていた。

 この庭の話はあとに取っておこう。今は、獣の末裔、三人のルイについて話さなければな。

 ●●●家には、一九六八年の時点で、三人の息子がいた。ルイ=クロード、ルイ=アベル、そして僕、ルイ=ギュスターヴだ。

 僕はルイ=アベルと半分だけ実の兄弟だ。アベルの兄、ルイ=クロードとは、実の兄弟ではない。この意味がわかるか。

 僕の父は一族の当主だったが、それは僕が生まれた一九五四年時点でのことだ。アベルが生まれた一九五〇年時点でも、当主だった。しかしクロードが生まれた一九四六年時点では、違った。クロードが●●●家の長男としてこの世に生を受けたとき、あの家の当主は父の兄だった。――つまり、クロードは実質、僕の従兄弟ということになる。しかし彼は同時に僕の兄でもある。なぜなら彼の母、●●●家の当主の妻としてクロードを生んだ女は、その夫が自動車事故で亡くなったあと、僕とアベルの父と、つまり夫の弟と再婚したからだ。そして彼女はアベルを生んだ。そして死んだ。母の命を奪って生まれてきた子ども――それが僕の美しき兄、ルイ=アベルだ。

 アベルが生まれた時、クロードは四歳だった。自分の母を殺した弟を、しかしクロードはことのほか可愛がったという。幼心に、死んだ本当の父を母が裏切ったというような気持ちがあったのだろうか。自分たちの母のことはけして口にしなかったという。

 新しい当主、すなわちクロードの叔父であり、アベルの父である男は、クロードを邪険にするようなことはけしてなかった。彼は二人の男児を平等に扱った。それは、その後四年してまた別の女と再婚し、新たに男児が生まれても同じだった。彼は、クロードとアベルと僕――ギュスターヴを、同等に扱っていた。

 そう思っていた。

 僕の父。僕とアベルの父。クロードの叔父。呪われた家系の当主。ルイの名を持つ男。記憶にあるのはつめたい美貌。●●●家の象徴。…アベルに悪魔の美貌を与えた男。彼もまた、ルイの名を持つ我が一族だったが、彼は屋敷どころか、フランスの土を踏むことすら滅多になかった。精緻な芸術品じみたクリスマスカードだけが、毎年さまざまな土地から屋敷に届いた。父は貴族らしく、職にはついていないはずだったし、そもそも我が一族はかつての領地を運営して、顔も知らぬ人々から吸い上げる不労所得で成り立つ黒い薔薇のごとき存在であった。だから、父がどうして永遠に旅をし続けるばかりだったのか、僕には想像しかできない。

 父は恐らく、僕たち兄弟と会うのが怖ろしかったのだ。

 ……父については、僕の十七年間の人生で顔を合わせたことも両手の指ほどなので、これ以上はあまり語るべきこともない。家にいなかったことに関して何がしか言うべきなのかもしれないが、もう僕にそんな気はない。かつて僕には父がいて、今もこの世のどこかにはいるのかもしれない。しかし二度と会うことはない。僕が父に関して今言えることはそれだけだ。

 ただ――ひとつ――鏡を見るとき。僕が父から受け継いだ、つめたく燃えるエメラルドの瞳……。

 その奥の獣の魂をみるにつけ、僕は、なぜだかいつでも暗がりにいた父の黒い顔を茫洋と思い出すのだ。

 僕たちに欠けていたのは父ばかりではない。

 クロードが生まれて八年後、アベルが生まれて四年後、僕が生まれた一九五四年、僕の母は不運な出来事(逆子、難産、羊水塞栓症)で亡くなり、僕たち兄弟は皆、母のない子どもとなった。母代わりとなる親密な女性もおらず、僕たちの世話をする女の顔は、花壇のつぼみのようにすげ変わっていった。だから、それなりに分別のつく頃合いに育つまで、僕に母という概念はなく、アベルとクロードが僕の庇護者だった。そして、彼らを庇護する存在もまた、無かったのではないだろうか……僕がクロードとアベルの母を見たことは、写真ででもない。二人が彼らの母について話していたことも、僕の知るかぎりではなかった。

 僕の母親? 写真なら、ここにある――病院には私物の持ち込みは禁じられているなんて、そんなのは一般の患者の話だろう? 牢獄ではあるまいし。そう、ここは僕にとって牢獄ではない。

 墓所だ。

 死者の棺には、思い出の品を入れるだろう?

 ……冗談だ。お前には機知が足りないな。木偶と話しているようだ。ほら、見たまえ。…ああ、録音しているのか。写真を、口で説明しろと? 滑稽だな、極めて。

 写真で見る僕の母は線が細く、尖った顎や小さな唇が僕と似ていた。どこかすがるような眼差しで椅子に腰掛けた母はこちらを見ている。モスリンの古いドレスは、色のない写真のなかで、中世の花嫁衣裳のようにがんじがらめに彼女の細い体にまとわりついている。小さな唇は誰かを呼ぼうと開きかけている。その灰色の唇が僕の名を呼ぶところを夢想する。ルイ=ギュスターヴ。ギー。モン・プティ・ギー。かすかな鏡のなかの面影に、僕は心臓に指をそっと添わせられたような熱を覚える。……

 僕はアベルと同じ、母殺しの子どもだ。

 この罪に関しては本筋から離れてしまうだろうから、今は言わない。僕という人間の根幹にある罪――母殺しの獣――これを語らずして僕という存在を語ることになるのか? それはわからない。

 ただひとつ言えることは、僕は、僕の母が生きていたら、人間として彼女を愛しただろうということだ。

 そろそろいいだろう。写真を返したまえ―――どうした。僕の顔ばかりじっと見て。……そうか、そんなに似ているか。ふふ……。

 僕は君にとってどう見える? 東洋人からすればさだめし石膏の人形のように見えるか。

 僕は事実を言っている。僕の容貌はアベルと似ていた。実の父が同じなのだから、当然だが……。無論、クロードとは似ていなかった。僕とアベルには日本の血が混じっている。父方の祖母が日本人なんだ。ジャポン・ノワール。ラテンではない、墨のようなエキゾチックな黒……。

 クロードの父と僕らの父は実の兄弟だったが、ふたりの外見は大きく異なっていた。クロードの父はダークブロンドで、ミッドナイト・ブルーの瞳をしており、僕らの父は、東洋の黒髪に、エメラルド・グリーンの瞳をしていた。西洋の金髪と月夜の瞳をもつクロードと、東洋の黒髪と闇の瞳をもつアベル、異なる色彩をもちつつも、母が同じ二人にはどこか似通ったところがあったが(白い肌、耳の曲線、足の指の形)、それでも二人の間には太陽と月のような相反する性質が宿り、一対の完全な彫刻のようにすら見えた。光と闇。ばらとひなげし。人間と人形。内包する魂こそ目視することはかなわないものの、少なくとも外見上では、二人はまったく兄弟のようには見えなかった。

 繰り返すが、僕は、クロードに較べれば、アベルと似ていた。しかし、アベルほどの美貌はもちろん持ち合わせていなかった。青い肌、尖ったおとがい、癖の強い髪…きわめつけは、悪魔のように鋭い、燃える銅のような瞳……。シェイクスピアが嫉妬の怪物の目の色だと言った、光輝く孔雀の瞳…。小さな紫がかった唇…溺死体のようだとかつて称されたことを覚えている。ハンス・ベルメール……クロードの持っていた美術本の写真を思いだす。

 僕の髪は灰色だ。黒も混じっているか? 白も混じっている。だが、昔は違った。あの日までは、僕の髪は黒かった。

 僕の瞳は父と同じエメラルドグリーンだが、アベルの瞳は祖母の、若くして不運な事故(嵐の夜、底のない湿地、足に絡む水草)で亡くなった祖母の、日本の黒だった。髪も目も異国のものだった。豊かな黒、何もかも吸い込む夜と霧を紡いだ黒髪が優美きわまりない曲線で取り巻くのは、内側からあかるむ、きめの細かい琺瑯の肌に、甘ったるい闇の目と、熟れたさくらんぼに似た唇の粘膜、…その薄紅がふれた痕はハートの形になるであろうと思わせる、魅惑的な容…香油で洗いたい、あるいはあえて無造作に投げ出したいほどの官能をもつ肢体と、口づけを落としたくなる指とつま先……混血の奇態なる美をもつ、高貴な獣。ほとんど感情を表にみせない、かすかに気だるげで神秘的な物腰も、彼の魅力に拍車をかけていた。

 勿論クロードは違う、彼は母似のストロベリーブロンドに、父似のミッドナイトブルーの瞳をした背の高い男だった。人好きのするハンサムな青年だったと思う。白い肌はアベルと違ってその下にシトロンの果汁を一滴たらした瑞々しい血潮を予感させ、微笑む唇と瞼には茶目っ気があった。しなやかな手足は運動に向いていて、バスケットボールをやっていた。僕は運動が苦手だったから、クロードに連れ出されて、庭の広いところでボール遊びをしたりするのがせいぜいだったけれど、彼が練習しているところを見るのは好きだった。アベルが、ピアノを弾いているところを見ているのと同じように。

 才能や性質という側面からみても、彼らは大きく異なる存在だった。

 クロードは、文句のつけようのない優等生だった。何をやらせても人並み以上にこなし、誰とでも分け隔てなく接した。リセ――国立中学校では英国でいうところのブリフェクト――上級監督生に選ばれていた。成績もよく、早いうちから科学系のバカロレアの取得を目指して勤勉に学んでいた。

 対照的に、アベルは、ある意味で享楽家であり、ある意味で禁欲家だった。彼は芸術家だった。

 アベルはパリ国立高等音楽院の器楽科、第一高等課程ピアノ専攻に十三歳で入学して、人々を沸かせた。いくつもの名誉を無造作に引っさげて歩く僕の兄は、挑戦的なミューズだった。僕が憧れた黒髪は既に背に届いていて、それを棚引かせながら歩くつま先からは音符がこぼれた。彼の忌まわしき名も、華々しい栄光の裏に隠れる。

 我が家を疎んでいた貴族たちがこぞってアベルを招くのは滑稽で面白かった。初夏の音楽祭――ちいさな午餐会――秋の夜の舞踏会――僕は信じて疑わない。それらアンシャン・レジームの遺骨、旧き慣習は、すべてアベルのために用意されていたのだと。彼が黒く光るピアノに触れるその瞬間のためだけに、あの時、あの空間のすべては存在していたと。

 僕は今でも思い出せる。あの高揚。あの静寂。そしてあの音楽。舞台に踊る美しき怪物!

 僕はあのとき初めて純粋なオルガスムというものを知った気がする。肉体を伴わない精神の絶頂…小さな死……。瓦解していく感覚の中で、たったひとつ、隣に立つクロードの、僕の手を握る指先が、火傷しそうに熱かった。

 僕はいつも、兄たちを見ていた。僕はそんなとき、眼球だけの存在だった。僕は、美しい二人の兄たちを見るために生まれてきたのだと、そう燃えるような水晶体の感じる悦びが教えていた。



 僕?

 僕がどんな子どもだったか。どうしてそんなことを―――ああ、これは、僕の話をききたいんだったか……。

 僕は……ああいや、なんでもない……自分の話をするのは苦手なんだ。きっと……僕が僕たるゆえんは、ほとんどすべて、兄に依存していたから……。

 これまで多くを兄について語ってきたけれど、そこからもわかる通り、僕は内向的で、家にこもりがちだったから、これといって言うべきことはない。クロードは太陽、アベルは月……そして僕には何もなかった。僕は彼らの光を見上げる地上の羊飼いのようなものだ。●●●家の三人のルイ。三男、ルイ=ギュスターヴの存在を敢えて意識したことがある者など、ほとんどいないのだろう。

 僕は領地付近の、良家の子女とやらを集めたコレージュに通っていた。事務的な記録のみを話せば、僕はきわめて優秀な子供だった。優秀で、協調性がなく、他の生徒を見下していた鼻持ちならない問題児だった。現在と同じだ。このカッコウの巣の上で、傲慢な悪魔のように振る舞う、今の僕と同じだ。なぜそんな顔をする。お前だってそう思っているんだろう? いけ好かない貴族。人を人ともおもわない青い血。嘘を吐くなよ。わかっているんだ。…その手に持っているのはカルテだけじゃないんだろう? 薬の砂糖衣みたいに、まやかしの僕の姿だけが綴られた報告書を、お前たちは何十枚受け取ったんだろうな?

 昔もそうだった。周りの子供も、大人も、全部あんなものたちの考えていることなど丸わかりなのに、押し隠して下賤な興味や好奇心をちらつかせてやってくる。あるいは露骨に忌む。

「口をきいてはいけないよ」

「呪われるよ」

「呪われるよ」

「あすこは人を喰う家なのだよ」

 奴らは蛆のように醜い。僕は家の外が大嫌いだった。美しいものはすべて家の中にあった。僕が焦がれ、信奉し、かしずくすべてはあの呪われた箱庭のなかにあった。「ねじの回転」のように学校を辞めて家で過ごせたら、と、何度、何千回願ったことだろう。古びた教室の長机に座っているとき。底冷えのする礼拝堂で指を組むとき。醜い子どもたちがあたりを取り巻き、僕の愛する兄の蜃気楼をかき消そうとするとき。おぞましい。吐き気がする。学校が終わって、校門でクロードやアベルの姿を見つけたとき、僕がどんなに救われた気持ちになるか、お前たちにはわかるまい。僕は彼らを愛していた。愛していた。その愛を笑うものは僕の瞳で燃やそうではないか。怪物の色の瞳。お前らも燃えるがいい! 何もわかっていない愚かな奴ら。

 僕は価値を認めない。僕は美しくないものと一切の接触を拒む。だから僕自身美しいものでありたかった。けれど僕はまだ醜い。醜いんだ。アベルのような至高の存在に僕は焦がれている。魂が燃え尽きるほど。渇望している。餓え渇いているんだ。

 僕が美しいものしか食さないのはそのためだ!

 お前たちには何もわかるまい。美こそがすべてだ。僕は異教徒だ。神などない。美しいものがすべてだ。僕は美のみを信じる。欲する。捧げる。膝をつき、こうべを垂れる――美しき怪物のもとに! 僕はそのために生まれてきた。美しきものを愛する。愛するがゆえの渇望だ。僕は狂ってなんかいない。狂っているのはお前たちだ。この世界だ! この醜い――世界――――



(患者一時的な癇癪のため、録音中断)

(録音再開)



 ……まだ喋るのか。

 疲れた。もう……いいよ、水なんて。何が入ってるかわからない。…冗談だ。いただこう。

 次は何を話そうか。

 思い出?

 思い出。思い出か。ふふ。

 君はおかしなことを訊くな――僕たちのもっとも大きな思い出など、あの事件以外にあるまいに。

 君たちのその歪んだ表情を見物するのはこの陰鬱な教会で唯一の楽しみだな――なぜそんな顔をするんだ? 僕を憐れんででもいるのか? それとも、あんな事件のようなことが自分の身に振りかからないよう祈っているのか?

 まあいいだろう。巨大な崩壊が起きるためには、まず崩壊するための塔を作らなければな。あの忌わしい事件が起きる前――"幸せな"三兄弟の時間――些細な思い出の城。ちいさな幸福の煉瓦を積み重ねていくんだ――フランボワーズ味のギモーヴや、ピスターシュ味のマカロンみたいに。ショコラ、ボンボン、ビスキュイ、ヌガー……幸福な時間……。

 それじゃあ話そうか。これが、僕たちにとっての、"幸福な思い出"だ。



 幼い頃から僕にはルールがあった。それは僕の中で宗教の教義であり、けして破られてはいけないものだった。

 その日一日、けして口にしてはならない三つの言葉を決める。単語はなんでもいい。敢えてほとんど口にのぼらないような単語を選ぶことはしない。僕自身のみならずこれは僕の周囲にも適用される。たまご、うさぎ、ひなげし。ストライプ、水玉模様、苺。多少危うい(すなわち、口にされる可能性が高い)単語を設定するほうが効果がある。なんのって? 魔よけだ。この言葉がこの世に現れないかぎりすべてがうまくいく。うまくいくんだ。シャーリィ・ジャクスンの小説に出てくる人物が、似たような病を患っていたと、お前たちのうち誰かに言われたな。判事か、医師か、神父か、それとも……病だと? ばかばかしい……きっとその紙上の人物のほうが、ずっとこの奇妙な世の中の道理をわかっているのだろうさ。たとえ彼、あるいは彼女が僕と同じ「獣」であろうとな。わかるだろうか。詩人と狂人と、獣の掟は似通っているのだよ。これを強迫性障害だなんて言う医者もいるがな。奴らは言葉の神秘をわかっていないんだ。僕は狂っていない。僕は狂っていない。

 ……そう、それで、三つの言葉の話だ。

 僕は毎日、こういった方法で三つの言葉を決めた。それはアベルと、クロードに拠っていた。朝の彼らの姿が啓示となる。たとえば、アベルがひどく不機嫌な朝――苛立ちながら一階へ降りてきて、クロードに「気に入りのネクタイピンが見つからない」と言ったとする。それに「西の浴室の洗面台は?」と落ち着いて返すクロードの手には、片面焼きの目玉焼きがのったお皿。ここで決まる。ネクタイ、浴室、卵。これでおしまいだ。拍子抜けしたか? でも、こんな風に直感的に決めたほうが、効果があるんだ。きっと。

 これに関する思い出がひとつある。本当はひとつどころではないが…まあ、抜粋して話すとしよう。そろそろお前も飽きてきたろう? 録音してるんだから寝ても立ち去っても構わない。僕はお前に聞かせるために話しているんじゃないからな。

 聴くのか。つくづく酔狂な奴だ! これはお前にとって義務か? 娯楽か? なんだっていい。それならすべて喋ってやる。最後まで、な。



 あれは僕がまだ子ども…十歳にもならない子どもだった頃だ。まだ、コレージュには真っ当に通っていたかな。授業は退屈で、友人はいなかった。僕は芸術を愛していたけれど、芸術の授業は吐き気がした。……だが、クロードが、僕が学校を嫌うことを悲しんだから、僕は我慢して毎日通っていた。

 朝六時に起きて、冷え冷えした部屋で身支度を整えて、一階まで降りていく。使用人が朝食の鐘を鳴らす頃、屋敷の東翼にある朝食室に入ると、リセの制服を着たクロードはもう席について待っている。僕の顔を見てにっと笑い、「ギー、おはよう」と言う。「アベルはまだだ。いい子で待つのも飽き飽きだな」毎日同じことを冗談めかして言うクロード。僕たち三兄弟が起きる順番は、いつでも、クロード、ギュスターヴ、アベルの順だった。僕は卓上のそら豆のサラダやミントのソースをかけたハム、アプリコットのジャムをぬったタルティーヌを見つめて脳内で唱える。今日口にしてはいけない三つの言葉、ひとつめ。サラダ。

「ギー、期末の試験は問題ないか?」

 僕は黙ってうなずいた。「あまり周りの子をいじめてやるなよ」コーヒーを運んできたメイドから砂糖つぼを受け取りながら、クロードは言う。僕は何も言わなかった。確かその前の週、僕は自分に程度の低いからかいの言葉を投げつけたばかな同級生を、言葉のナイフでこてんぱんにして、さらに顔に大きく「私は愚かなロバです」と書いて、教卓の上に立たせて謝罪させた。当然、僕も咎められたが、けして僕は頭を下げたりはしなかった。僕の沈黙をどう受け取ったのか、クロードは小さくため息をついた。僕がじっと視線を落とすテーブルの上には、装飾的なあざみの花がいけられている。

 今日口にしてはいけない三つの言葉、ふたつめ。あざみ。

 階段をおりてくる足音。「お出ましだ」笑ったクロードの声と同時に、食堂の扉が開く。僕は顔をあげて、朝食のテーブルにつくアベルの姿を見る。出かけるのだろうか、黒い絹のシャツにブルーのジャケットを着て、白い刺繍の入ったタイをしめている。ジョルジュ・ブラックの鳥のような色合い。

 今日口にしてはいけない三つの言葉、みっつめ。鳥。

 でもその途端、アベルが口を開いた。窓の外を見て。「鳥がよく鳴く朝だな。…狂ったロシニョールか」僕はびっくりしてフォークを落としてしまった。銀細工が床に落ち、その瞬間小鳥の群れが一斉に羽ばたいた。どうしたらいい? 口にされてしまった。魔よけなのに。まだ十にもなっていなかった僕はたまらず泣き出した。床に広がる窓で切り取られた朝日のなかを鳥が羽ばたいていく。クロードが驚いて僕に駆け寄ってきた。アベルも、びっくりしたように美しい目で僕を見て、それから席を立ち、かすかな声で賛美歌を口ずさみながら、ゆっくり歩み寄ってきた。Gloria in excelsis Deo...そのあまい靄のような声が、耳の奥にそっとふれて、恐怖を解きほぐしていく。…僕を抱きしめるクロードの手が、ぽんぽんと背中を叩く。「落ち着いたか、ギー」僕が頷くと、しっとりと、クロードより低い体温の指先が、僕の涙にぬれた頬に触れる。

「……お前が泣くと、僕はどうしたらいいのかわからなくなるよ。ちいさな、僕たちの弟よ……」

 声変わりをする直前の、ひどく澄んだ、か細い声で…人形のようにつめたそうな、けれど確かにぬくもりを持つアベルの、優しい悲しみの表情を見ていれば、あの恐ろしいものが押し寄せてくる恐怖感は消えた。Gloria in excelsis Deo. アベルのこの歌があれば大丈夫だと思えた。三つの言葉。

 僕が泣きやんだのを見て取って、二人の兄は顔を見合わせて微笑んだ。その横顔は一対の彫刻めいていて、僕はそれを見ていれば幸福になれた。あの頃の僕は愚かで、よく兄を困らせてばかりだったけれど……彼らは決まって、最後には笑ってくれたのだ。

 その朝以来、アベルは、僕は動揺したりするたびに、あの歌の一節を口ずさんで慰めるようになった。Gloria in excelsis Deo....

 ……あの日も、あの言葉さえ口にしなければ、…アベルのあの歌さえあれば……大丈夫だったのかもしれない。僕たちの箱舟の『崩壊』……。

 ……生まれたときから、僕の不安、孤独、恐怖、なにもかもを慰めるのは、アベルの音楽だった。それについても話そうか。大丈夫か? 自由に話すことが治療? それなら世の御婦人が精神的に健康なのも納得だな。

 アベルは毎日半日以上ピアノに触れて過ごしていたけれど、その練習の音色なら、僕は何時間だって聞いていられた。本当に無邪気な頃ならピアノの下にもぐって聞いていることもしたけど、ある程度分別のつく年齢になると、練習の邪魔になるから、部屋の外でじっと聞き入るようになった。その音色も確かに素晴らしかったけど――アベルが弾けば単なるハノンの音階練習も何やら神秘的な響きを帯びる――彼が舞台のうえで奏でる曲というのが、きっと福音の響きに違いないと、僕は固く信じていたし、実際に、美を愛する多くの人間に、アベルの才能は舞台上で評価された。

 子どもの頃の僕はエリック・サティが好きで、とりわけワルツを好んで聴いた。それを聞いたクロードは、親切な彼らしく、アベルに「童話音楽の献立表」を居間のピアノで弾いたらどうかと提案した。アベルは甘ったるい、夢みるようなおそろしい黒い瞳をほそめて、一度頷いた。僕はそれを見たとたん、心臓が花火のように弾けてしまったと思った。気づけば僕は屋敷の広間の階段を駆け上がって、自室で、ラヴェンダーを敷きつめた古い衣裳櫃を引っぱりだしていた。美しいものに相対するとき、自らもまた出来うる限りそれにあたう存在であろうと努力しなければならない。素晴らしきナハトムジークのために、幼い僕はいっとう上等な服をあつらえようとした。扉にもたれかかったクロードは、慈愛に満ちた眼差しで、じっと僕のことを見ていた。途中でひょっこりと部屋を覗いたアベルは、美しいかんばせに不思議そうな表情を浮かべて、クロードに囁いた。「…僕らの小さな弟は、仕立て屋にでもなるつもりか?」その声が鼓膜を震わせた陶酔を、いまでも思いだせる。

 庭の木々がすみれ色にそまり、あたりが薔薇と月のやわらかな香気に満ちる頃……特別な、三人だけの音楽会が始まった。いつものとおり、父はいなかった。僕はそれで構わなかった。シャンデリアの蝋燭に照らされて、ピアノに歩み寄るアベルの影が、車輪の箭のようにくるくると踊っていた。

 アベルの音楽は永遠に失われた。録音されたものはこの先けして表舞台に出ることはないだろう。それを残念に思う僕と、機械なんて無粋なものを通した瞬間もはやその美しさは失われる、と感じる僕の、二人がいる。

 美を讃える手段として、せいぜい言葉しか持っていない僕にとっては、彼がその十本の指と足先とで、あまりに軽々と言語の世界を超えていくのが怖いほどだった。どこへ行ってしまうのか。アレグロ。アンダンテ。アダージョ。音楽記号と楽譜をつま先で蹴って飛び立つ音楽。脳に彼の指が沈み込み、つめたいその感触が脳髄に恍惚をもたらす一瞬。ワルツ。完全円を描く三拍子。あるひとつの美の極致。

 歓喜に鼓動する心臓。受け止めきれない純粋的快楽の渦に叩きこまれて失神する僕の魂をつなぎとめるたったひとつ、クロードの熱い指先。……

 クロードは当時バカロレアの科学系を取得するためにいつも勉強していて、それでもその夜会のときはずっと一緒にいてくれた。ピアノの前に椅子をふたつ並べて、隣に座って、僕にシードルを少しだけ注いでくれた。つなぐ指先。椅子に座れば、靴先が床に届かないほど幼かった僕の手を、彼はけして離さなかった。

 夜が更けるまでたっぷりと僕たちを音楽に浸し、アベルが一通り曲目を弾き終えると、クロードと僕は拍手をした。椅子を片付けようと、クロードが立ち上がる。気にせず、アベルはアンコールのように音階練習を始めた。僕はもう少し演奏を聴こうか迷ったけれど、クロードが椅子を脇に寄せたあと、ソファのほうへ移動したので、少し驚いて彼の行動を見つめていた。

「ギー、こっちへおいで」

 おもむろにソファに腰かけたクロードが朗らかに僕を呼んだ。ぽんぽん、と自分の隣を叩く。

「座りなさい」

 僕は、なぜか少しどきどきしながらそのやわらかな座面に腰かけた。体が大きなクロードのほうへ、斜めに沈んでいく傾きに身を委ねて、僕は彼に寄りそった。

「アベルもおいで」

 クロードが手招くと、アベルは手を止めて深く息を吐いた。

「……なぜ」

「いいから」

 優しく微笑みながら、しかし有無を言わせない声でクロードは言い、もう一度手招いた。アベルがため息をついて立ち上がると、腰のサッシュが綺麗な音を立てたのを覚えている。彼はいつだって美しいものを、惜しげもなくふりまくのだ。

 僕の隣に来ると、アベルもソファに腰をおろした。傾いた小舟が揺れるように座面が沈み、まるで雲の上に座っているようで、僕はぎゅっと両脇の兄の腕をつかんだ。クロードが吐息で笑って、僕とアベルの頭を撫でた。

 アベルのピアノがやんで、しぃんとした部屋のなか、大きすぎるソファには、まだスペースがある。僕たち、三人のルイは、その真ん中に寄り添って、獣のちいさな同胞のように、ひっそりと呼吸していた。

「広いね」

 兄たちのぬくもりを感じながら、僕はぽつりと呟いた。

「まだ座れる、ということだよ」

 クロードはそう言って、高い天井を見上げた。薄暗がりのいつでも消えない、時代の埃が逆さまに積もった光景。ミッドナイト・ブルーにつられて、僕のエメラルドや、アベルの黒も上を見た。クロードはその行動がいとおしくてたまらないというように深く息を吐いた。

「この先、父が帰ってきても、ギーが大きくなっても、誰かが来ても、俺たちのうち誰かに恋人ができても、家族が増えても……」

 どこか巡礼者の祈るような様子で、クロードはそう呟いた。僕は彼の腕に自分のものを絡めた。「恋人?」

「そう。愛する人」クロードは僕の頭に手を置いた。「お前にもきっとできるはずだ」

 僕はとうに、クロードを、そしてアベルを愛していると思った。しかし口にはしなかった。クロードの意味する愛が、僕が二人のそれぞれに抱くものとは異なることをぼんやりと理解していたから。代わりに、うんといたいけに頷いて、彼の肩にこてんと頭を預けた。本来両親によって与えられるべき抱擁の記憶――僕のそれは、クロードの肩の感触とぬくもりで形成されていた。僕らの善き兄、優しい兄。僕の母であり、父であった兄。……そうあろうとした、僕の兄。

 僕にとって、だから、兄という言葉は、この世でなによりも……多くの意味と、記憶と、愛おしさをもつのだ。

 アベルは、目を閉じて何も言わなかった。けれど、そっと楽器を慈しむように、僕の肩に回した手に力を込めた。鍵盤を、ときに愛撫のように、ときに重戦車のように叩く彼の指は、僕を傷つけることなどついぞなかった。……あの、崩壊の日に至るまで。



 こうして思い返せば、僕とふたりの兄との間の思い出は、ひどく幸せに満ちていた――――屋敷の外の人間が噂するような陰鬱、暗黒はなかった。そうだろう? とりわけ、長兄のクロードとの思い出は、きらきらとはっきりした、よい兄弟としてのものが際だつように思える。

 クロードは善き兄だった。善き学生、善き友人、そして恐らく善き恋人であっただろう。彼を悪く言うものはきっといなかったはずだ。そうでなければならなかった。呪われた一族に連なるものとして、彼はけして闇に囚われてはならなかった。ルイ=クロードは影を恐れていた。忍び寄る罪を。蔓延る悪徳を。

 けれど四角四面の人間だったということもない。夜会の終わったあと、昂奮で寝つけない夜更けには、ホットサングリアを少しだけ飲ませてくれた。僕が見え透いた隠しごと(たとえば、割れた灰皿、重たいガラス細工)をしても、よほどでないかぎり見て見ぬふりをしてくれた。来客から子どもの僕に与えられたいろいろな味のボンボンを、あげると差し出せば、ありがとうと言って、僕が苦手だったアニス風味のものを選んでくれた。僕を邪険にしたことなど一度もなかった。

 周囲の者が言うなかで、唯一あたっているともいえるのは、クロードが僕の父親代わりだったということだ。クロードだけは、僕らの父と定期的に電話をして、手紙もやりとりしていた。弟のことを報告するために……。

 僕はクロードが好きだった。母と同じように、僕は彼を人間として愛した。

 そんなクロードも、アベルの悪魔的なわがままには手を焼いていた部分がある。普段は大人しいがゆえに、一度言い出すと手に負えないアベル。クロードは、アベルのことも、僕と同じように平等に愛していただろう。けれど、アベルはつめたく美しいかんばせの下に、熱病のような奔放さを隠していた。幼い弟である僕にこそ、アベルはひどく優しかったが……クロードは彼の不道徳な振る舞いにも頭を痛めていたようだ。

 善き人であらねばならない。

 その思いがクロードの人生を縛りつけていた。

 思い返せば、僕にとってはシェルターであり、彼との思い出のほとんどが安心と幸福に満ちていたのとは裏腹に、クロード自身にとって、あれは見えない鎖の存在を常に意識したものであったのかもしれない……今となっては、確かめようもないが。

 アベルとの思い出は対象的に、全体的な不可解さ、快い午睡の夢のような印象がある。

 具体的に話すとするならば……僕が幼い頃から、ずっと続いていたあるひとつのことがらは、あとで話すことにしよう。今は、もっと、別の話を……。

 夢を綴ったカルトをちりばめたような記憶の底で、唯一、奇妙なほどにはっきりとした思い出がある。

 あれはいつだろう。屋敷の裏手、ひなげしが一面に燃える季節………湿った土と苔、動かぬ空気……靄のまつわる、朝方…? いや、夕刻だったかもしれない……。

 こんなふうに、茫漠とした彼方の記憶にすぎないが、確かにあったことなのだ。

 東翼にあった居間には大きなガラスの窓があって、小さなバルコニーをへて、そのまま庭におりられるようになっている。すぐ外には黒苺が茂っていて、その陰で、蟻の列や、小さなクロッカスの芽なんかを見つめるのが、幼い頃の僕は好きだった。

 その日も、僕は、マメ科の植物らしい緑の蔓が、魔法のように土から伸びているのを眺めていた。このままこれが、おとぎ話のように天まで届くのではないかと期待して……そうしていると、不意に、ガラスの向こうに、ふわりと影が踊った。僕は身を硬くして茂みの奥にひそむ。そこは卵か、繭のようにしっくりと僕の体を包んだ。影の主が誰であっても、この秘密の空間を知られたくなかった。その影がレースのカーテンを開いて、窓の取っ手に手をかける音がしたとき、きっとそれはメイドか小間使いに違いないと思った僕は息を止めていた。

 しかし、葉と葉の透き間から室内の様子をうかがった僕の目に映ったのは、アベルの姿だった。

 滅多に好きこのんで外へ出ることなく、家でピアノを弾き、楽譜をかくことに熱中しているアベルが、居間のガラス戸を開けて、部屋履きの靴のまま、庭へ出た。薄手の白いシャツと黒いハイウエストのズボンを身につけていて、夢みるような瞳はぼんやりと庭の木々の間隙をさまよっているような気がした。

 彼はそのまま、屋敷の裏手へ回っていこうとしていた。僕は慌てて―それでも音のないように、アベルを追いかけた。

 僕の小さな足に合わせた革靴の立てた音は、草の絨毯に吸い込まれたように思っていたのだけれど―――木洩れ日をつま先が踏んだ瞬間に、アベルがこちらを向いた。僕と彼が見つめ合って立ち止まったところでは、靄は日の恵みを吸い、金色にあたりが輝いていた。いくつもの光の束が踊る――そこは、屋敷の裏手に広がる草地だった。斜めに傾いだ土地――周りを白樺や、菩提樹の林に囲まれた、わずかに開けたそこは――ひなげしの花があたり一面を血にそめていた。黒びろうどの光沢と、蠟びきしたみどりの葉がその目眩のするような地上の星々をささえて、風に波打つ真紅の絨毯を演出していた。一輪いちりん揺れる花は、どこか楽譜のうえの音符にも見える……。そのなかに立つ、黒い髪と瞳をした、悪夢のように美しい男……。

「ギー」

 僕を呼ぶアベルが、一歩、火の匂いに満ちる花々から足を踏み出す。

 僕の方へ差し伸べられた手のひらには、小鳥がいた。

 既に死んだ小鳥だ。深紅の胸をした、ちいさな、さえずっていた生きもの。今は死んでいるもの。

「僕の部屋の窓辺に死んでいた」

 アベルはいつでも淡々と喋る。それが好きな音楽のことであっても、生きものの死であっても。

「ガラスに当たったんだろう。可哀想なことだ」

 あまりに透徹した声音に、僕はぼうっと聞き入ってしまった。胸元の赤い毛を指で撫ぜて、「駒鳥だな」と彼は言った。ぎゅっと服の裾を握りしめた僕の前にアベルはかがみこみ、凍りついた火のような花びらをかき分けて、淡く白っぽいみどり色の茎の根元を掘り始めた。僕も同じようにかがんで、赤いやわらかな花に囲まれて、湿った土の匂いを肺いっぱいに吸い込みながら、たまご型に掘った穴の底に、ちいさな小鳥を横たえた。

 Gloria in excelsis Deo...土を掘っている間中歌っていた、アベルのちいさな声が、ひなげしの大いなる波の音にかき消されそうになる。あの讃美歌だ。僕は胸の奥で、その日口にしてはならないと決めていた三つの言葉を反復していた。赤。秘密。お葬式。あつらえたような三つを、しかし、アベルも僕も、口にすることはなかった。

 あの日、僕たちは、死んだ駒鳥を埋葬した。

 小さな話だ。僕が十歳にもなっていない頃だから、アベルもせいぜいが十二、三歳というところだろう。傍から見ればあるいは、微笑ましい光景だったかもしれない。「禁じられた遊び」のように、子どもの無垢ゆえの背徳に満ちていたわけでもない。おさない兄弟のままごとだ。

 でも、僕は今でも思っていることがある。

 ―――ほんとうは、アベルがその小鳥を殺したのではないか?

 そう思わせるような危うさが、僕の兄にはあったのだ。美しくつめたいかんばせで、天国のような音楽を秘めたその手で、狂気的な嵐をその胸にもつ。

 芸術家というのはそういうものだろう? どんなに無感情で、人形のように見えるものでも、その身の内を炎をもっていなければ、美しいものは生まれえないだろう?

 あたりを取り巻く血のひなげしは、ひょっとしたら、僕の妄想かもしれないのだ――あの真紅は、アベルのなかに僕が幻視した、彼自身の魂ではないか。小鳥を無造作に握りつぶせる、そんなおそろしい芸術家の炎ではないか? と。

 ただ、彼が小鳥を手なぐさみに殺したのだとすると、ひとつ謎が残る。それは―――


 僕らの"血の呪い"だ。




(録音時間終了)

(第二部へ続く)

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