記録ファイル No.3『Deux de l'étranger』partie 2

 以下の文は、治療の一環として行われた患者の発言の記録である。

 患者記録:Louis=Gustave de Pistache(French) Sex:Male Age:17 Disease:Beautiphilia

 [第二部:partie 2]


(録音開始)




 ロベール・モンパルナスは、祖父が存命だった頃から長く屋敷の庭の手入れをしている、無口な男だった。彼はこの脚本においては、あまり重要な役割ではない。彼は善良な男だった。

 僕が描写すべきもうひとりの人物とは、ユラーリ・モンパルナスのことだ。

 ユラーリは庭師のロベール・モンパルナスの娘で、僕と同い年だった。僕より少し高い身長で、干し藁みたいな金髪をひとつに編んでいて、猫のような目をしたそばかすのある少女だった。

 彼女はロベールの手伝いをしに、学校帰りにそのまま僕の家へやってきた。古びたジーンズの足を組んで、バルコニーに腰かけてレモンを食べていた姿を覚えている……ばらの苗を運ぶのを何度か手伝った。僕が手伝うと申し出ると、ロベールはとんでもないと断るけど、ユラーリは笑って、ありがとう助かるよと、男のような口調で言った。

 庭の手入れは貴族の仕事ではない。しかし、人を助けるのはノブレス・オブリージュ―高貴なるものの義務である。滅多に人に何かを施そうとしなかった僕が、クロードにそう言い訳をすれば、クロードは僕を褒めた。どんな形にせよ他人への奉仕こそが素晴らしいのだと。僕は、美しいものと愛する家族以外に奉仕する気はまったくないと内心思っていた――そう、あの屋敷の庭は、美しかったのだ。モネの庭にも優る、緑の饗宴……。

 そこの創造者たる庭師というものを手伝うことは、僕にとってなにも矛盾ではない。


 ユラーリと僕の関係は、いわゆる友人と呼べるものであったと思う。

 僕はユラーリ・モンパルナス以外を、生涯で友人として認める気はない。だが、向こうはどう思っていたのか。

 ……考えても詮ないことだ。

 ユラーリのことを話せと言うんだろう? かつて何度も話したというのに。

 ……いいよ。じゃあ、僕たちの出会いから振り返ってみよう。


 僕が十一歳になる年の、初夏の午前だった。

 学校が休みの週間で――まあ、そうでなくともその頃の僕はかなり休みがちだったが――僕はたった一人で、屋敷の居間で雑誌をめくっていた。開いたページに掲載された、モネの「ラ・ジャポネーゼ」をぼんやり見つめながら、まだ見ぬ――そして、今となってはけして見ることのないであろう――血管に振りかけられた自らのルーツに思いを馳せていた。神秘の極東、ジャポン……。

 ページを繰ると、映画の記事だった。サウンド・オブ・ミュージックやドクトル・ジバゴが風切られた年だったが、なぜだかそのページではジャン・コクトーが特集されていた。

  ……外で風が吹き、窓辺で飾り房のついたレースカーテンがひらめいた。同時にめくられたページを押さえつつ、窓を開けた覚えはないのに、と驚いて窓の方をみやると、人影がカーテン越しに揺れた。その手は大窓の取っ手を押し、室内に甘く涼やかな、夏のすきま風をもたらしていた。

 窓を開けたのは、ユラーリ・モンパルナスだった。スコップを土に突き立てて身をもたせかけながら、僕の見ていた雑誌のページをじっと見つめている。僕は驚いて彼女の顔を見ていた。

 顔立ちはけして並外れた美人でなく、地味だったかもしれないが、人好きのする表情をもっていた。彼女は首を傾げ、呟いた。

「コクトーか」

 僕は少し驚いた。彼女がこういった映画を見るとは思っていなかったから。

「コクトーは好きかい」

 不意に問われ、思わず大きく頷いた。

「オルフェを見たんだ。水銀の、鏡……」

「あのシーンは素晴らしいね」

 にやり、と、歯を見せて、ユラーリは変わった笑みを浮かべた。いたずらっ子のような、不良少年のような…英国人ならさしずめチェシャーの猫のような、と形容するだろう笑顔だ。

 僕はそういった笑顔を、これまでに見たことが無かった。慈愛のクロードの微笑、陶酔のアベルの艶笑のほかに、幾重にもめぐらした茨の砦をすり抜け、僕の心に触れてくるような笑顔を。僕は、初めて太陽の光を見たように、ユラーリ・モンパルナスの表情から目を逸らせなくなった。

「きみ、こないだ苗を運ぶの手伝ってくれたろ。お礼を言いにきたのさ」

 僕は下を向いてもごもご、どういたしましてとか、そんなのなんてことないとか言った。そもそも、手伝ったとは言っても、いつも庭仕事をしている彼女の方がずっと頑健で、僕はおまけみたいなものだったのだ。

 あがりたまえ、と促したのは、僕にとってはあまりにも勇気がいることだった。世界を変えるような。魔法の三つの言葉を口にするような。

 ユラーリは数秒の間びっくりしたように固まっていたけど、三つ編みを揺らして首をかしげると、にっとまた笑った。

「黙っておいてくれるかい」

 ユラーリは土のついた靴を脱ぐと、裸足をそっと、絨毯の上においた。薄桃色の爪と、尖ったくるぶしを覚えている。

 異端者を招いた手前、使用人を呼ぶのも気が引けたので、自分でカップとソーサーを探そうとしたが、どこにあるのかわからなかった。ユラーリはソファにも座らずに部屋の装飾を見回していたが、僕が彼女にお茶を出そうとしているのに気づくと、慌てたように手を振った。「いいよ。別に。さすがにそれは分不相応というものだろ」

 僕は黙って、彼女に一度外へ出るよう支持した。肩を竦めながらバルコニーにおりたユラーリをそこに留め置き、僕は仕方なく使用人を呼びつけた。色が気に入らないから新しいカップを、と、薄いミントブルーのカップを示すと、可哀想なほど恐縮して、すぐに新しいばら色のカップを持ってきて、お茶―ほんのり甘い、アベルの好きなシャムロック・ティー―を注ぐ。彼女が出ていくと、僕は窓に手招きをした。レースカーテン越しに室内を伺っていたユラーリは、こめかみをかきながら部屋に入ると、所在なさげにちょっと立ち尽くした。

「身分が違うのを気にしているのか」

「うーん…というか、そういうつまらないことで、もしかしてわたしたちが咎めだてをされるかもしれないというのが気に食わないのさ」

 僕は少し驚いた。身分の違いをつまらないこと、と言いきる彼女に、何か新しいものを感じた。これまでに出会った人間とは違うもの。アンシャン・レジームなど遠い昔だと言いつつ、誰しもの心に巣食う血への関心。彼女はそれを、こともなげに否定した。失礼な言い方になるが、庶民であるユラーリ・モンパルナスが、貴族のルイ=ギュスターヴ・ド・●●●に、そう言い切れる彼女の魂に興味があった。

「気を悪くしたらすまないね。わたしは貴族も庶民も同じ赤い血をもっていると神に誓って思ってるよ」

 ちらりと、彼女のブルーの瞳が僕を見下ろした。…瞳孔の周りに、不意に火が燃えたような金とピンクが奔る。思わず目を奪われた。「でもきみも、わたしをお茶に招いてくれたろ」

 僕ははっと我に返り、卓の上のばら色のカップを指した。

「口に合うかわからないが。白詰草だ」

「へえ」

 ユラーリは感嘆したように声を上げると、カップを恐る恐る手にとった。釉薬の妙などを見つめてから少し口に含む。その眉間におそらく無意識だろうがしわが寄る。そのまま、ほんの少しずつ飲んでいく姿に、僕は「……別に、無理に飲めとは言わないが」と思わず言ってしまった。ユラーリはそれを聞き、眉尻をちょっとさげて、申し訳ないけど、と率直に言った。「わたしあんまりチザンヌは好きじゃないんだよねえ。薬っぽくて」

 砂糖つぼを視線で指し、いいかい、と問うように首を傾げたので、僕が頷けば、彼女はさっそく砂糖をカップに入れ始めた。匙に山盛り、一杯、二杯、三杯……。

「……ジャルダン・ブルーならあるけど」

 滅多に鳴らさないはずの(ついさっき鳴らしたのでさえ、およそ三か月ぶりほどだ)使用人を呼ぶためのベルに視線をやって、僕は言った。驚くほど砂糖をいれているユラーリは「いや、大丈夫だよ。ごめんね、安い舌で」と、少しカップを傾けた。そしてまた砂糖を一匙追加する。安い舌というか、子供舌なのではないか…と思ったが、口には出さなかった。やっと満足する甘みに達したらしく、彼女はちびちび、どこか猫に似た仕草でお茶をすすり始めた。その間も、ふしぎな色の目は、あたりの象牙の時計や、金の房がついたブロケードや、ガレのランプなどをじっと見ている。でも、値踏みしているような厭な感じはしなくて、どこか、花畑で純粋に花に見とれる子供のような目だった。

「きみのお兄さんたちは?」

「アベルはウィーン。毎年出てるコンクールがある。クロードは学校」

 ふうん、とユラーリは首を傾げた。「ウィーンか。行ってみたいよ」

「本当は、僕もアベルといくはずだったんだ」

「へえ、どうしてじゃあ行かなかったのかい?」

「………学校の、サマーキャンプが重なって」

「それはまた。アメリカンだねえ」

 でも見たところ、きみは今現在このお屋敷にいるようだけど、と首を傾げたユラーリに、僕は、様々などす黒い感情を圧縮した声で返した。

「………一日目で、相部屋の男子を海辺の洞窟に置き去りにして泣かせて、謝らなかったから、強制送還された」

 ユラーリは手を叩いて笑い転げた。「きみ、やるねえ!」

 僕はぶすくれたままそっぽを向いた。クロードが試しに、というから参加こそしたが、やはり屋敷の外に出てもろくなことはないと証明されただけだった。だから僕は、自宅の敷地内から一歩も出ずに六月を過ごしている。そんな旨のことを、まだ笑っているユラーリに伝えれば、彼女はひょいを片眉をあげて指を振った。

「きみ、そんなこと言わずたまには外に出てみなよ。庭は美しいよ」

 まるで僕がいっさい外へ出ないかのような言われ方は心外だった。たまには僕だって外へ出た。居間のバルコニーの付近や、幾何学庭園のなかばかりだが……。あの秘密の黒苺の茂みは大きく成長していた。僕が今だに中に隠れられるほどに。そこから眺める庭は、いつでも美しかった。

「けれど」僕は続けた。「アベルの音楽がない家なんて火が消えたようだ。今は屋敷の外も内も、何もない」

「何もない!」

 驚いたように叫んだユラーリの復唱が、サイダーの泡みたいに弾けた。

「ねえきみ――ほんとに何もないって思うのかい?」

 ユラーリがまったくびっくりしたという顔でもって僕の方を見つめるものだから、僕はむきになって「ないとも」と返した。「僕が美しいと思うものは―――」

 ユラーリはぱちぱちと瞬きをして、少年のような仕草で腕を組んだ。ちょっと悩ましい顔をして、彼女は身を乗り出した。「わたしがそうでないと証明できたらどうかな?」

 やってみたまえ、と、僕も勢いで言い返した。その途端、ユラーリは勝利を確信したように笑った。僕が戸惑うと、彼女は僕の目の前に右手の人差し指を立てた。

「トロワ、ドゥ、アン」

 ユラーリの薄めの唇が、にやっと三日月になる。

 カウントダウンと共に、僕の目の前に差し出された彼女の左手には、金のたんぽぽが握られていた。

 あざやかな魔法だった。実際には、単なる手品だったのだろうが――そんな小さな手品に皮肉を投げるのも忘れて見つめるほど、そのたんぽぽは「美しかった」。

「屋敷の裏まで来てくれないか」

 ユラーリはソファから立つと、真剣な、でもとても楽しそうな面持ちで僕に言った。「その花は美しいだろ? でも、それよりもっとすごいものがある」

 僕はたんぽぽの魔法にかかったみたいに立ち上がった。ユラーリは窓を大きく開け放つ。ぶわりと、白帆のようにカーテンが膨らみ、光が雪崩れこんだ。

「世界にはね、きみの知らない美しいことがいっぱいあるのさ」とりわけ、夏だよ、と彼女は窓を大きく伸ばした腕で指し示した。彼女が入ってきた窓からは、いっぱいに膨張した夏が部屋に入り込んでいる。入れ替えられた空気が頬をなでる。知らない匂いがする。

 僕の手首を、ユラーリの手が掴んだ。少し荒れた指先が、蝋燭のような僕の上を引っぱって、外へ連れ出した。彼女は裸足に泥のついた靴を履き、僕は絹の室内履きのままで、駆けだした。

 やわらかな靴の底をとおして伝わる地面と草の躍動……芝生、繁み、幾何学庭園やさんざしの生垣……広い屋敷を取り囲む美しい緑の庭、彼女たちの王国を帆船のように駆け抜ける。その水先案内人たるユラーリは、金色の三つ編みをたなびかせ、風のように走った。

 屋敷を大きく回って、菩提樹やマグノリアの下を走って、いくつもの花を見た。僕の周りには緑とその他の色彩がみな溢れ、黒苺の影からは見たこともないほどの夏がそこには洪水となって満ちていた。

 そして、辿りついた屋敷の裏―――かつて、真紅のひなげしが燃えていた、あの傾いた土地に―――一面の金色のたんぽぽが咲いていた。

 お前は金色の夏のたんぽぽを見たことがあるか? 六月の、青空と風が駆け抜ける一瞬を逃さない太陽。ならば触れたことはあるか? あの日、ユラーリが、僕に差し出したあの金色の息吹……。

 僕はそれを受け取って、はじめて知った。見るだけではない、生命の美しさというものを、指先で、匂いで、全身で知った。図鑑でみるよりまばゆい発光するような花群。爆発するようなきらめき。青いうてな。瑞々しい茎……。

 僕は金の花束に顔をうずめて、一息に花の首を食んだ。夏のフリルとレースが口蓋をくすぐり、ふわりと体が高揚する。

 日をたっぷり吸ったたんぽぽの花はやわらかくてあたたかくて、舌先で天使の金髪のようにほどけた。茎の苦さと土の微細な粒子がどんな食事より芳醇に僕の心臓へいのちを注いだ。アベルのピアノを聴いたときと同じ、それよりも鋭い、突き飛ばすようなエネルギーが僕の五感に満ちた気がした。

「アメリカでは、たんぽぽでお酒をつくるんだ。夏の味がするよ。グラスに黄金のいのちを注ぐのさ」

 蒸留器を操作するジェスチャーをして、ユラーリは蜂蜜色の指先を踊らせる。その軌跡からまばゆいしずくが散るようだった。僕はあたりを見渡した。こんなに美しいものでお酒をつくるのか? まるで音楽でお酒をつくるみたいだ。カクテル・ピアノのように。それは未知への興奮を促し、ふわりとつま先が軽くなった。ユラーリがたんぽぽと一緒に、僕の手を握った。

「きみも、わたしも、まだ見たことがないものがたくさんあるんだ。この庭にだってあるよ。わたしは毎日、この庭で新しいものを見つける――」僕ははっと屋敷を振り仰ぎ、そしてからその向こうにある庭の方を見た。僕がいつももぐり込む黒苺の茂みの向こうに広がる木々。芝。それらは金の日を吸って瞬いている。

「外に出ようよ。わたしはこの庭のすべてを知らないけど、きみよりはずっと詳しい。きみは秘密の花園の持ち主で、そこにいつでも入れるのに、そうしようとはしないんだ」

 たたみかけるような、アベルの音楽にすら似た力でもって僕を浚おうとするユラーリの言葉に、それでも幾ばくかのためらいは残っていた。クロードの手を握り、アベルのピアノを聴くばかりの人生が、僕の足首にまだ絡みついていた。

 ユラーリは身を乗り出して、その桎梏を容易くほどいた。

「いつも窓から見ているきみを知っていた。ギー、きみの目は、この庭と同じ、世界の植物と同じグリーンなんだ。きみがつむじまがりだったとしても、駒鳥をきみを好くだろうし、ばらは芽吹くさ。庭仕事なら教えてあげられるよ」

 わたしはきみのディコンであり、きみはわたしのメアリーなのさ、と彼女はにやっと笑った。

 僕はいつのまにか頷いていた。青白い僕の頬は今やユラーリのそれと同じように血が通っていただろう。かすれた声で僕は訊いた。

「…本当に?」

「もちろん。たんぽぽのお酒の作り方も、きれいな庭の育て方も、わたしが知ってることはすべてきみに教えるよ」

 ユラーリは、とても嬉しそうに、金の火花のように笑った。

「きみが望むなら」


 ……それが、僕と、ユラーリ・モンパルナスの友情の始まりだった。




 日が暮れる頃、ユラーリは父の作業を手伝いに戻って、僕も屋敷のなかへ入ったが、バケツいっぱいに摘んだたんぽぽは陰鬱な屋敷のなかでも金色に輝いていた。一抱えもあるランプを持っている気持ちで、靴下についた土も気にならずに、ふわふわ歩いていた。ひとかたまりの金の夏を見つめながら、どうしようかと思案して、ふと、この灯りをいろんなところへ運べればと思った。冬のような呪いに閉ざされるこの家も、きっとこれがあればいいと思ったのだ。ひとつかみずつ、家の中の暗がりに生けていった。冷たい森の奥の凍った川のような廊下にも、螺旋の貝殻に迷いこんだような階段にも、僕とクロードの"大いなる学び舎グランデコール"にも、第二日曜日の午后、アベルの横たわるソファのところにも。

 廊下を歩いていると、玄関のほうから音がした。窓から差す月光をたどって向かうと、居間の扉を誰かが開けて入るところで、反射的に後を追った。

 当時もう大学生だったクロードが帰ってきたところだった。僕が彼に懐いてるものだから、下宿をせずに、遠いところを通ってくれたクロード…。

 彼は鞄を下ろして、ネクタイを緩めていた。

 僕は、たんぽぽを握った手を思わず後ろへ回した。おかえり、と小さな声で言うと、クロードはにっこり笑ってただいま、と僕の頬にキスをした。彼は土に汚れた僕の靴下を見て、何度かまばたきをした。

「お前がそんなにするなんてめずらしいな」

 僕はどう言えばいいのかわからなくて、しばらく逡巡したあと、やっと小さな声で、庭師の子と遊んだと言った。クロードはミッドナイト・ブルーの目をちょっと見開いた。

「そんな顔しなくても、咎め立てたりしないよ」クロードはかがんで、僕の頭を撫でた。

「彼女と友達になったのか?」

 僕は頷いた。頬が熱かった。

 クロードは何も言わず、僕を抱きしめる。赤みの強いストロベリーブロンドが僕の頬に触れた。

「アベルにも教えなくちゃな」

 あいつだってお前のことを気にかけているんだぞ――と、頭をぽんぽんと叩かれる。

「いつでも俺たちと一緒にいて、友達ができないんじゃないかって、ふたりで話してたんだ」

 僕はむっとした。僕の知らないところで、兄二人がそんなことを話していたということがわけもなく悔しかった。

「わかってくれ、ギー。

 世界はいくつかの要素で成り立っていて、同じものとばかり付き合っていてはだめなんだ。お前は俺たち以外と関わる必要があった。この暗がりばかりの屋敷の中にこもっていてはいけないんだ」

 諭すように言うクロードを、僕は、またいつもの心配性だと思ったけれど……同時に不思議にも思った。僕にとって、この屋敷の暗がりの象徴はアベルであり、クロードは、たんぽぽと似た色の髪をもつ長兄は、むしろ外界とのつながりの象徴であったから。まるで自分自身もこの●●●家の闇の一部であるような言い方をするクロードに、僕は驚いたのだった。

「俺は心配なんだ。お前のことが、小さなギー。俺の――俺たちの弟」

 長い腕が離れる。クロードは夜のなかに立って、微笑んでいた。ミッドナイト・ブルーの瞳。真夜中の目。白い頬には月明かりがつめたく差している。

「あの子は太陽だろう。けしてお前はあの子の手を離してはいけないよ。俺たちの小さな弟よ、……」

 言葉をきって、蒼白く微笑んだその表情は、――ぞっとするほどアベルと似ていた。




 クロードがそう望んだ通り、僕はその翌日からも、庭に出てはユラーリを探すようになった。午後になると、腐葉土を混ぜたり、花殻をとったりするユラーリの長い金の三つ編みを見つける。父のロベールが葡萄棚をつくるときには、大工のような手捌きで材木を扱っていて、一人前の庭師のように見えた。ユラーリが僕を見つけて手を振れば、ロベールははじめ、不躾だという風に彼女を嗜めていたけれど、僕のほうからユラーリに近づけば、なんら問題はなかった。

 僕が窓辺から顔を出すたびに、ユラーリはあのたんぽぽのような笑顔を見せて腕を広げた。

「今日も来てくれたのかい」

 初めのうちはろくに挨拶も返せず、バルコニーの花飾りに手を這わせて、僕はもじもじと俯いていた。あのたんぽぽの一件では、あんなに大胆に、彼女を屋敷の中にいれることができたのに。

 毎日のように僕は恐る恐る庭におりて、球根や種にさわらせてもらったり、花殻を拾ったりしたが、それでもまだ太陽をたくさん吸い込んだ土の感触にはどきどきした。そんな僕を、ユラーリはただ受け入れて、優しく歓迎してくれた。

 ある日、ユラーリは僕に手袋を渡して、花壇に蔓延った雑草の根を取ってほしいと頼んだ。僕は日陰にしゃがみ込み、言われた通りの紅や褐色の堅い細い根を、指先でじっくりとほじくり返す作業に没頭した。

 木立を吹き抜ける風がわずかにやんだとき、屋敷の方からドビュッシーが聴こえてきた。花壇の前にしゃがみこんだ僕の隣で、水を撒いていたユラーリが顔をあげる。

「きみの兄さん?」

 僕は頷いた。屋敷の窓からぽろぽろとこぼれてくる音は、見えないシャボン玉のように僕たちの間を漂った。

「ピアニストだったよね」

 僕は、またも黙って頷いた。そこで会話は途切れる。沈黙のなか、水が葉に落ちて土に注がれる音が大きく響いて、居心地が悪くなった。……言葉を発して、家族以外の他人と会話する技術を、僕は忘れかけていた。

 ユラーリは、僕のおかしな態度を気にしなかった。たくさんの草花をそれぞれに見あったやり方で慈しむときのように。それが何より僕を安心させた。それでも、僕はどうしたらいいのかわからずにいたずらに唇を開いて、吐息と共に閉じることを繰り返していた――僕は恐れていた、気まぐれに彼女が今にも僕の隣から飛び去ってしまうのではないかと。ユラーリ・モンパルナスが僕に与えるものは、芝生の上のりすのように、魅惑的で、不意に僕の前から走り去ってしまう。彼女の父の呼び声や、雨雲や、夕刻の鐘の音によって。

「きみの目は、わたしたちの庭とおなじ色をしているね」

 不意にユラーリは、僕の目を覗きこんでそう言った。眼前のかんばせに驚いて身を引くと、ユラーリは慌てて、小動物を宥めるようにそっと微笑みかけた。

「緑は素敵な色だ。ねえ、そう思わないかい?」

 僕は黙ってうつむいた。耳朶まで紅くなっていることは熱でわかった。ユラーリは僕が照れていると思って、ぽんぽんと肩を叩いた。

 ――僕の瞳。輝ける緑、何度でも芽吹く永遠の色。たとえそれが真冬の、呪いとかなしみをたたえた氷雪によって潤った大地だとしても……。

 父から受け継いだ忌まわしいほどの鮮やかさを、真っすぐに見透した彼女の光が、この素晴らしい庭の色に変えたのだ。

「……それなら」僕は深く息を吸い、はちきれそうな心臓を抱えて彼女に向き直った。ユラーリの、魔法のような瞳を見つめ返す。兄以外の人間の目を真っすぐに見るのは、いつ以来だろうと思った。

「君のほうが、たくさんの庭の色を持っている」

 声はかすれて、孵りたての小鳥のように震えていた。それでも彼女は聞いてくれた。

「光も、花も、水も、すべて君の瞳のなかにある」

 ユラーリは、その言葉を最後まで聞いて、天から花の王冠を戴いたようにはにかみ、笑った。

「……わたしは、素敵な詩人と友だちになれたみたいだ」

 僕は、詩人という言葉に目を伏せた。

 僕を詩人と呼ぶ者がいるだろうか。僕は獣だ。あの過去の日々ですら、その自覚が僕を苛んでいた。

 …鮮明に覚えている。日の満ちる庭園。暗がりからその金の世界を見つめて、十一歳の僕は息をしていた。呼吸をするだけで幸福になれる瞬間というのが、当時の僕の人生にはあり得たんだ。……この、死んだ細胞のような病室では、けしてあり得ない。

 我らが屋敷の庭は、いかにもヴェルサイユ風の幾何学庭園と芝生、どこから見ても、なかを歩いても素晴らしいよう完璧に計算された白樺の木立、菩提樹や樅、気まぐれのような薔薇の垣根の迷路のほかに、ユラーリがその管理を任された場所があった。そこは彼女の楽園だった。ユラーリ・モンパルナスはそこに世界の植物を育て、駒鳥のアダムとイヴを慈しみ、土の下の無限の可能性に頬を紅潮させた。僕はその様子を、上階にある自室の張り出し窓から眺めるのも、バルコニーに腰かけて彼女の作業を見ていたり、ときには手伝ったりするのも好きだった。

 ユラーリが、僕と自分をメアリーとディコンに喩えたことがあった。まさにその通り、彼女は、僕に花の名前と、育て方と、彼らの生き方について話した。枯れ葉に埋もれそうなクロッカスの芽を、かき分けて出してやったこと、その同じ場所で、翌春、ふと気づいた瞬間にはもはや花火のように麗しく咲き出でるその黄金の冠を見たとき!…

 信じられるだろうか? 僕の、この、骨のような乾いた爪の先は、かつて泥にまみれ、芳醇な土の香りを知っていた。皮膚の微細な溝に入り込み、取れない砂の微かな色合いを、庭のすいかずらが絡みついた井戸から湧く絹のような手触りの水でそれを洗う悦びを、あの日の僕は、知っていた……。

 もしも、あの時に、かえることができたのなら……。

 知りあった年の夏、アベルがウィーンから帰る日には、ユラーリは彼女がはじめてすべて育てたという薄緑のばらをくれた。僕がアベルに差し出したそのばらごと、アベルは僕を抱きしめた。Gloria in excelsis Deo...放り出したトランクもそのままに、アベルは歌いながら僕を抱え上げる。彼は僕を抱えたまま、くるくると回った。常ではありえないほど高揚していて、僕の友人のことをただひたすらに祝福した。クロードは父にも電話をして伝えたらしい。近況報告のために届く事務的な手紙の追伸に、たったひとこと触れられていた。

 ……僕は、あの日得たものの価値を、本当には理解できていなかったのかもしれない。僕の小さな感情の許容範囲から大きく逸脱する金色。僕は祝福を得た。あの夏。ユラーリ・モンパルナス……金色の友達……。

 二度と戻らない、あの夏……!



「わたしのことはユラーリと呼ばないでくれたまえ」

 彼女が真面目くさった顔である日言った。夏の休日の午後、さんざしの生垣の影で、少し遅い昼食を摂っているところだった。

「ユラーリは祖母の名前なんだ。それにいかにも女っぽい」

「ではどう呼べばいいんだ」

「わたしの父は私が男だったらユベールと名づけたといつも言う」

 ベーグルサンドイッチを食べながら彼女は――男性名を名乗りたがったユラーリあらためユベールを、彼女と呼んでいいのかはわからないが、今は便宜上そう呼ぶことにする――僕の目の前にもうひとつのベーグルを差し出した。

「Merci, ユベール」

 僕がそう言うと、にやりと彼女は笑った。

「わたしはいつか、美術学校に行くんだ。そこなら男の名を名乗ってもこんな格好をしていても何も言われない……」

 アメリカのロックスターなTシャツにヴィンテージのオーバーオールを着た彼女はそう言った。「美術学校?」僕が訊き返すと、彼女は「そうとも」と頷いた。

「わたしは絵を描くんだ」

 言いながらベーグルを頬張り終わると、彼女は、庭仕事の道具の中の、あんずや桃がはいった籠の下に敷かれていた深緑のクロッキー帳を取り出した。

 駒鳥の巣。枯草の束。土と錆びのついたスコップ。夜半の作業のための古いランプ。……めくっていくと、驚くほど精緻な黒炭のクロッキーが現れる。僕は息を呑んだ。ページの隅には時たまメモ書きがあり、いくつかの庭仕事の道具の横には「祖父のもの」だとか「家の納屋で発掘。1920年代?」などという文字がある。

 モンパルナス家は代々庭師なのだという。

「そして祖父の代から、君の家に仕えてきたのさ」

 ユラーリは真新しい花狭を持ち上げながら、「これはわたしのもの。祖父が見立てたんだ」と言う。僕は開いたページにある「新しい花鋏。七月七日、祖父、ジャン・モンパルナスより」という文字と、光沢を見事に再現したクロッキーを見つめていた。

 いくつかの素描を丹念に観察して、その腕を褒めたたえてから、僕は素朴な疑問を口にした。

「君は美しいものを描かないのか? 芸術家の卵」

 大輪のばらだとか、満開のマグノリアだとか、美しいものはこの庭に満ちていた。けれど彼女のクロッキーにあるのは、干し草と小枝の巣だとか、薪の束など、お世辞にも美しいものとは言い難いものばかりだった。彼女のクロッキーで見れば、それは不思議なほどに魅力的にみえたが、しかしモチーフそのものとしてはあまり考えつかなかった。

「わたしは……」

 彼女は頬杖をつき、考え込んだ。青空みたいな瞳に桃色、薄翠、褐色がちらっと踊る。

「存在するだけで美しいものを描くことは意味がないよ。描くという行為を経ることによってその美しさは損なわれる。わたしは…なんでもないかもしれないものたちの中から、美しさを見つけだして、描きだす側でありたい…」

 そう語るその横顔は、確かに僕を魅了した。

 ユラーリ=ユベールは、屋敷の外の住人でありながら、醜いところがなかった。美しいと言い切れる非凡さこそ持ち合わせてはいなかったが、それは外面の話であって、内面の精神の豊穣は他が及ぶべくもなかった。僕はその後も、たびたび彼女の絵を見る機会に恵まれたが、あの、ざらりとした暖かい紙の感触と、擦れた自在な黒炭の筆致。炭素元素のひとつひとつが彼女の素描の世界を形作るエーテルだった。水をいれたグラス、西陽の窓辺、散らばった軽石。あの紙片を――そう、あの美しい紙片を、たとえば口に含んだら、そこにはどんな味でも感じ取れたろう、詩人の想像力の舌が、ユベールの絵にふれたとしたならば。

 僕に初めて絵を見せたのが気恥ずかしかったのか、やがて画帳を取り返してしまってしまったユベールは、代わりを探すようにポケットをまさぐりだした。

「……そうだね。わたしはこういうものが好きなんだ」

 小さく呟きながら、彼女は、ジーンズのポケットからそっと手を出した。

 ユベールのポケットには、いつでも僕の知らない宝物が入っていた。かやくぐりの淡い空色の卵。おおきな松かさ。オパールのような小石。ホワイトクローバーの四つ葉。

「ほんとに美しいのはそのもの自身でなくて、それを美しいとおもう感性だよ」マッシュルームの純白の傘を裏返し、薄桃色のひだに指を添わせながら、ユベールは笑う。

 今から思えば、僕の美への、芸術への執着も、彼女のようなものだったら、すべては違っていたかもしれない。あるいは、変わらなかったかもしれない。僕たちの血に流れる黒い闇。純粋な美への執着。欲望。胎動する狂気。

「きみが美しいと思うものは――たとえば――どんなものかい?」

 僕は黙って考えた。ユベールのどこか形而上的な感覚に比べれば、存在そのものの美にこだわる僕の感性は卑小にすら思えたが、それでも僕を魅了するものの力は消し去れないと感じた。だから素直に、ルイ=アベルの名を口にした。ユベールは目を細めて、ゆっくりと頷いた。

「わかるよ。彼は外見もそうだが――そうだね、…なんだろう? 彼には不思議な力があるように感じるよ。有無を言わせない、個人的な感性なんかをねじ伏せるような、そんな雰囲気が……」

 僕は同意した。たとえばいわゆる、人間の外見の好みというものが違う人間でも、アベルが美しいという事実は認めざるをえず、また彼の音楽が才能に満ちていることを認めざるをえなかった。たとえアベルのことを憎んでいても、その美という面において、彼の価値を認めないことはできない。そういう圧倒的なものが彼には生まれつきあって、それがきっと僕、ルイ=ギュスターヴを、生まれたときから虜にしていた。

 ユベールはしばらく思案していたが、不意に低く洩らした。

「きみの兄は、美しすぎるよ。わたしが、描く対象とするにはね。

 ……美しいものを描きたい芸術家ならば虜になるだろう。気を悪くしたらすまない、けれど彼の美貌は――悪魔的だ」

 気を悪くなどしない。なぜなら僕もそう思っていたのだから。黒髪の美しい悪魔。ルイ=アベル。僕の兄。音楽の天使のような、呪われた血をもつ男。

「美しき獣……Le Monster Charmantだ」

 ぽつりとユベールが呟いた言葉は、風にふっとさらわれた。

 あの事件以降、いろんなところでアベルを指すため使われるモンストル・シャルマンは、元々は彼女がこの時言った言葉だ。なぜこの言葉が広まったのかは知らない。 La bête. Le diable. いくらでもほかに言いようはあるが、僕はこの、美しき獣という言葉こそがアベルに相応しいと思う。

 不意に、重苦しくなりそうだった話題を振り払うように、ユベールは立ち上がった。

「きみは美しいものが世界一好きなんだろ」

 ユベールは僕に向き直ると、そう言った。僕は肯定する。「お前や、お前の父がつくる庭も、好きだ。あれは美しい」

「それは重畳! わたしたち庭師も、また美を創る者というわけか」

 弾けるように笑うユベールは、にやりと笑って指を立てた。

「だがわたしはきっと画家になるよ」

 そう言ったときのユベールの目は、恒星のように輝いた。ピンクや金のふしぎな縁どりがあるブルーの瞳は、セントラルヘテロクロミアというらしい。虹彩に複数の色が出る。猫の目だ。

「エコール・デ・ボザールもいいけど、イタリアへ留学も考えてるんだ」

 ユベールはにやっと笑う。

「何せわたしの苗字はモンパルナスだ。パルナッソスの加護がある。わたしは素晴らしい画家になってみせよう。偉大なるエコール・ド・パリ!」

 そう言った彼女に、僕はきっと、応援の言葉を投げかけようとした。けれどその時、遠くから、彼女の父がユベールを呼ぶ声が聴こえた。大きな声で返事をすると、ユベールは「ちょっと待っててくれ、急にごめんね」と生垣を飛び越えて、手伝いに走っていってしまった。取り残された僕は、ふと、もらったきり口をつけるのを忘れていたベーグルサンドイッチに視線を落として、彼女の言ったことについて考えていた。

 モンパルナス。セーヌ川左岸のボヘミアンの集った街。僕の脳裏には、芸術の丘の名と同時に、地下に寒々しく湿ってずっと広がる地下墓地の光景が映し出されていた。モンパルナス。エコール・ド・パリの聖地と同時に、墓地としても名高い街。

 ユラーリ―ユベールには、あるいはモンマルトルの名のほうがあっていたのかもしれない。彼女は―彼は―確かに芸術家だった。

 しかし彼女に冠されたのは地下墓地を持つ街の名であり、そしてその名が彼女に不幸をもたらした。

 僕が最も後悔していることは、ユラーリ・モンパルナスの夢を絶ってしまったことだ。

 彼女があの忌まわしい事件のあと、どこへ行って、どうなったのか、僕に知るすべはない。ただひとつわかることは、彼女はもう二度と、絵を描くことはないだろうということだ。



 あの日以来、クロードは特に、僕とユラーリ・モンパルナスとのかかわりについて何か言うことはなかった。しかしそれとなく、知らないうちに僕たちのことを把握しているらしいことがたびたびあった。たとえば、僕のための庭を歩く用の靴が新しく用意されていたり。

 僕が学校へ行く頻度は、ユベールの登場で、ますます減少してはいたけれど、クロードはそれでも僕に友人ができたのならいいと思っていたらしい。僕は屋敷の中と黒苺の茂みから、庭の中を動くようになった程度しか行動範囲は広がらなかったが、ユベールと会話することでそんな狭さも感じなかった。

 クロードも、それからアベルも、ユベールと話すことはほとんどなかったけれど、彼らはユベールのことを存外知っていた。そして、やはり二人とも、僕とユベールのことを、ずっと気にしていたらしい。

 秋の宵、ユベールと夜の庭の美しさについて話していて、遅くなってしまったときのこと――気づけば、いつでも遅くまで聴こえていたアベルのピアノが、聴こえなくなっていた。僕は焦ってしまって、あやうくその日の魔よけの三つの言葉のひとつ――「時間」を口にしてしまうところだったけど、なんとか押しとどめて、居間のほうへ駆け戻った。手には、秋紫陽花を握っていた。

 灯りの消えた居間のバルコニーへあがって、鍵の空いている窓からそっと部屋に入ると、暗い、満潮のように夜が浸食したピアノの前にアベルが腰かけていることに気がついてぎょっとした。アベルはぞっとするほど美しいかんばせで、音もなく僕の方を見た。白いシャツの背には、黒い髪が優美な曲線を描いて垂れ落ちていた。

 逸る鼓動を抑えながら、僕はかすれた声で「アベル」と呼んだ。

「……お帰り、ギー」

 そういうと、アベルは、ピアノに触れた。美しき潮流が僕を押し流そうとする。身構えた。

 何度も聴いてきた、美しい旋律。体内に残っていた金色が美しい黒にゆっくりと入れ替えられていくかのように、じっとりとアベルの音楽が、血管をするりと伝って心臓まで届く。力が抜けるようだ。かちあう高音が水晶のハンマーのように僕の骨を叩く。

「おまえは彼女に恋をしていないのか」

 不意に囁かれた声に息が詰まった。不穏な和音が踊る。打ち寄せる音の波が足首を浚おうとする……。知らずつま先に力がこもり、首を振る。

「そうではないよ。そうではないんだ……」

 僕は喉を締めつけられる苦しみに耐えながら言葉を絞り出す。感じていることを言葉にできない無能さを、もう一人の僕が責め立てる苦しみだ。

 僕はけして、ユラーリ―ユベールのことが好きだとか、そういうわけではなかった。ユベールは夏を駆け抜ける風であり、金色のたんぽぽのお酒だった。一瞬の閃光。かすかな焦燥と、もしかしたら嫉妬が織り交ざる、その背を追い越したいという気持ちを起こさせる。また僕は、ユラーリ・モンパルナス…ユベールは「彼女」と呼ばれる存在でもなかったことを、直感的に理解していた。

「それならばなおいっそう素晴らしいだろう」

 アベルは夢みる闇の瞳で、僕の否定を肯定した。跳ねあがる指先が白く輝く。

「恋でも、愛でもないというなら……それは永遠だ……」

 僕は言葉を失っていた。恋でも、愛でもない。それが永遠とはどういう意味だろう? 芸術家たるアベルに言葉の意味を問うても無意味なことはわかっていたから、僕はただ途方に暮れた。

 アベルはピアノを弾きつづける。軽やかで、不穏で、荒れ狂う幻影のような、聞き覚えのある旋律。これはなんだっけ?

 背の中ほどまで垂れ落ちた美しき黒髪が月にぼんやりと光っている。水面でばちりと蛍がひかるように――

 アベルは讃美歌をうたうように呟いた。

「求めあうよりも、隣に立つことが、ほんとうの人間たちというものだ……」

 アベルの声と曲が融け合う瞬間、思い出した。サン・サーンスの死の舞踏だ。

 最後の一音が虚空へ消えて長い時間、アベルは動かず、目を閉じていたが、やがてゆっくりと指を鍵盤から離した。白い手がそっと膝に置かれる。

 アベルはじっと目を閉じている。僕が一歩近づくと、不意にその目が開かれ、吸い込まれるような黒がこちらを見る。魔的な瞳。すべての色彩を吸い込む色―――

「ギー。僕たちの弟よ」

 熟れた果実のような紅い唇が、ゆっくりと形づくられる。

「お前はあの子の手を離してはいけない」

 アベルはそう言った。クロードと、同じ表情で。

 どうして、そんなことを言うの、と訊こうとした声は、凍った喉の奥でもつれて、すべり落ちて消えてしまった。呼吸だけが虚しく響く。

 クロードとアベルーー対称だと思っていた二人の兄――その二人の著しい相似は、つめたく怖ろしい美貌となって僕の前に立ち現れる。彼らは確かに血かつながっているのだと思わせるそれ。僕は震える。アベルに縋りつきたかった。このつめたく、美しく、けれど僕を愛してくれているはずの、兄に―――

 しかしいつもなら僕を抱きしめてくれるアベルは、その日は、人形のような面ざしに言い知れない深い感情を湛え――まるで痛みをこらえるような表情をして、僕をじっと見つめていた。

 クロードとアベル……僕の二人の兄。二人のルイ。

 二人のあの言葉は、今でも僕の胸に杭となって刺さっている。そこからは新たに血が流れ続けている。僕はこの杭によって苛まれ続けられねばならないのだ。なぜなら、僕は……僕は、ユベールの、手を……。



 崩されるためには塔を築かねばならない。離されるには手をつながなければならない。

 僕とユベールは強く結ばれていた。それは単純な理由からではなく、僕たちには恐らく、言葉にしづらい共通点があったからだ。



 それはある年の、夏の日のことだった。

 ユベールと出会って、袂を別ってしまうまでの期間は、実は三年ほどしかなかったのだけれど…そのうちの、いつかの年だった。

 六月の第二日曜日…いつもの、連弾の午后…日の高さは正午に近かったように思える。

 ピアノのある居間。引かれたレースカーテン。床に淡く踊る陽。そして……

 アベルのピアノが聞こえない屋敷はしんとしている。僕は、ルネ・シェーンベルクが出ていく時間帯までを、庭のリラの木陰で過ごしていた。およそ草地を歩くように作られていない革靴のつま先についた土をぼんやり見つめながら、じっと、離れたところにあるピアノのある居間のことを考えていた。

 半時ほど、そうして深い青と灰色がまざりあったような木陰にいたろうか――不意に響いた足音に顔を上げた。僕はそこで、ユラーリ――ユベールと会った。剪定したばらの枝を運ぶ途中だったらしく、軍手に古新聞でくるんだ枝をたくさん持っていた。まだつぼみや若葉のついたものもあって、少し悲しくなった。ユベールは新しいテニスシューズを履いていた。「やあ、どうしたんだい」猫のような眼をまばたきさせて、彼女は片手を薔薇ごとひょいとあげた。僕はどう答えたものかわからず黙っていた。

「休憩するところなんだ。一緒になにかしようよ。お茶とか」

 ユベールはにやりと、特徴的な微笑みを浮かべた。

「まだお茶の時間ではない」

「君そんな英国貴族みたいなこと言って。よしよし、このわたしが君に庶民の嗜みを教えてやろう」

 枝を担ぎなおして、ユベールは庭を見渡した。青々と茂り始めた木々を透かして、ユベールはこの庭のすべてを、いやそれよりもずっと遠くまでみえているようだった。

「裏手のフランボワーズはまだ酸っぱいかな…」

 窪地にあるからな、と顎に手をあてて思案する。ユベールの意図を理解した僕は、ふとある可能性に思い至って、心臓が冷えるのを感じた。ユベールが、あの茂みに思い至る可能性を。

 ユベールはついに指を鳴らした。

「君、黒苺はどうかな? 盛りの季節だろう」

 それとも、使用人風情が味見しては怒られるかな? と冗談めかしたユベールの声が遠い。

 黒苺の茂み…居間に面した、ガラスの大窓…第二日曜日、午后、ピアノのある居間では。

 気づけば、僕はユベールの袖をつまんで引き止めていた。

「今は……」

 僕が口ごもった理由を知ってか知らずか、それ以上追求せずに彼女は「そうかい」とこちらへ向き直った。「そうだ、西のバルコニーにある蓮の鉢がいま面白いけど、見に来る?」

 僕は頷いた。彼女を、ユベールを、ユラーリ・モンパルナスを、この背徳の空間から一刻も早く離さなければならないとわけもなく考えていた。それは僕の中に残された、獣の良心というものだったのかもしれない。

 西側にある、東洋の陶器の壺に水を張った蓮の鉢は、なるほど生きた夏の宝石たちが、きらきらと神秘的に満ちたようすで濡れて、光を浴びていた。

 放射線状の葉脈を目でたどっていると、葉の隙からのぞく細い花茎と、その先の尖ったつぼみが目に入る。

「どうだい、なかなかに東洋的だろう」シノワズリィと云うやつだね、ユベールは微笑む。「君の祖母はジャポネーゼだときいたけれど、本当かい?」

「ああ、そうだ。僕らの生まれる前に亡くなったが…」

「そうか。君のそのすばらしき黒髪はそのせいなんだね。それに、君の、……」

ユベールが言葉を切った先が、アベルのことなのは明白だった。髪のみならず、瞳までも闇に支配された黒。

 僕達兄弟の複雑な血筋のことを知っているのか、ユベールはそれ以上――具体的には、ルイ=クロードのことに――言及しなかった。

「ココ・シャネルは、黒は女を美しく見せると言ったけれど、本当に黒が美しくみえるのは女より男なのかもしれないね」あるいはどちらでもないのかもしれない、とユベールは言った。隣に並んだ背が、僕よりほんの少しだけ高い。青年じみた長い首筋には、うっすらとそばかすが浮き上がって見えた。

 夏の日はながい。じりじりと焦がすような太陽が傾くまで、まだずっと遠い。三時まではあとどのくらいだろう。ぼんやり、まばゆい日差しにかすむ視界に去来する、ドロンワークのレースカーテンを引いた居間…黒光りするピアノ……。

 ユベールは、見たことはないのだろうか。恐らく、知らないのだろう。

「なあきみ、変なことを言ってもいいかい」

 不意に口を開いたユベールに、僕は頷いた。

 ユベールはしばしの間逡巡しているようだったが、やがて短く息を吸い、夏空の目で、僕の目を捉えて――そして言った。

「わたしはね、"ぼく"なんだ」

 蓮の莟が一瞬揺れた。僕は何も返せなかった

 彼女はそれきり口を引き結んで、考えこんでいるようだった。

 不意に、彼女の手が僕の手首をつかむ。出逢ったときと同じように。そのまま引っ張られると、僕は何も言わずについていった。ユベールの様子には何かただならぬものを感じたし、彼女の言葉の続きはきかなければならないと関していた。

 多くの木々の木洩れ日を踏んで、花壇を通って、僕たちは屋敷の裏へ回る。ちらちらと大気には金と緑が踊っていた。ユベールの背中と金髪を見つめながら、僕は出逢った日のことを思い返していた。

 芳香と透明、満ちる息吹。変わらない金色の美しい六月。今でも褪せず、ひなげしの群れの記憶と交互にフラッシュバックする鮮烈。季節が緑と金の機を織り、足首を風と草がくすぐった。

 たどりついた屋敷の裏には、あの日、僕を魅了した世界と同じように、たんぽぽがたくさん咲いていた。芳香と透明、満ちる息吹。変わらない金色の美しい六月。今でも褪せず、ひなげしの群れの記憶と交互にフラッシュバックする鮮烈。

 ユベールはその半ばまで踏み込むと、やっと僕の手を離して、まっすぐに僕と向かい合った。そして、薄い唇をひらいて、きっぱりと張り詰めた声で言った。

「ぼくは女じゃないんだ。

 おかしなことを言ってると思うかい。でも、本当なんだ」

 僕は黙って、しかし真剣に、彼女と見つめ合っていた。僕より少し背の高い、痩せた少女。猫のような目と、そばかすがある、長い金髪の少女。シンプルなシャツと古びたジーンズに覆われた体。

「だんだん、おかしいと思っていた。まわりの男の子とも女の子とも、ぼくは溶け込めなかった。女の子は甘ったるくてわけがわからないし、男の子は肉体だけでぼくというものを仲間はずれにした。女の子はだめだと言うんだ。

 長い髪を母は結わせたがるし、汚れたジーンズを嫌がる……背は高すぎないほうがいいというし、もっと太れという。

 ぼくはいやだ。これ以上やわらかくなりたくはない。

 わかるだろ。ぼくはこれから女になっていくんだ。血を流し、子どもを育てる、女に……。

 違うよ。違うんだ。ぼくは逃げられない。肉体の足かせがぼくの魂をしばりつけている。木に登れなくなるのか? 裸足で走れなくなるのか? ぼくはすべてを怖れている。肉体というものが、ぼくをずっと苦しめている……」

 夏の風が奔り、シャツがまくれあがる。へこんだ腹。浮き出るあばら骨と腰骨。そして……。

 僕はその時、痩せぎすのユベールの真意を知った。関節の目立つ手足は、少年的な仕草の象徴であると同時に、成長への抵抗だったのだ。甘ったるい丸みを帯びることへの明確な拒否は、澄んだ鉱石のように僕を射抜いた。

 僕はユベールを真っすぐに見返した。余計なことは言わない。僕はユベールが言わんとしていることを理解し、受け入れるつもりだった。

 強張った顔つきで、ユベールは僕を見つめる。青い瞳の奥に色彩の火が揺れ動く。僕たち兄弟の瞳にはないような複雑な光。

「"ぼく"は、ユベール・モンパルナスなんだ……」

 その泣きそうな目に、僕はどんなふうに映っていたのだろう。女のように髪を伸ばした僕。少年でありながら少年的な人生から逃げてきた生きもの。

 ユベールは一歩僕に歩み寄る。背中に垂らした、長い三つ編みを、ユベールはそっと体の前へもってきて垂らした。

「きみの手で、"わたし"を殺してくれ」

 ユベールは、初めて会った年に見せてくれた花鋏を、僕に真っすぐ差し出している。祖父から受け継いだ、あの花鋏を。

 ユベールが何を求めているのか、僕には痛いほどよくわかっていた。

 僕は震える手で、花鋏を握る。手に食い込む金属の感触。流れる血の赤がはっきりと焼き付いている。

 僕はそっと、ユベールの。ユラーリ・モンパルナスの三つ編みの根元に、刃を押し当てる―――。

 小さなギロチンの音がした。

 鳥の羽根や、剪定されたばらの枝のような音を立てて、金色が草原に落ちる。その瞬間、息を呑んだユベールは、茫然と立っていて、やがてかがみ込むと、地面に、僕とユベールの間に落ちているその体の一部だったものを、震える指先で拾い上げた。

 何度もそれを握って確かめながら、別の手では、あらわになった首筋のまわりできらきら踊るたんぽぽのような短い髪に触れる。

 ユベールはばっと立ち上がると、金の髪をたんぽぽと一緒に握りしめて、弾けるように笑った。テニスシューズで地面を蹴り、ぐるりと回る。

「なあ、ギー! ルイ=ギュスターヴ! ありがとう! 少年たる、ぼくの親友よ!

 今年の夏はなにをしようか? ぼくはもう考えているとも! たんぽぽのお酒を瓶に詰めて、草の中を裸足で走って、自転車で丘を越えよう。模型飛行機をつくって、七月にはパリ祭に行こう」

 一緒に夏を越えよう―――と、強い力で、僕はユベールに抱きしめられた。まるで叩くような腕の力が僕を乱暴なほど押さえつけ、短い髪の毛の先が頬をくすぐるのを感じながら、僕も笑っていた。僕たちの魂は今やつよくつながっていた。僕は名前を呼んだ。ユベール、と。ユベールの切りたての髪からは、夏の草地の匂いがして、その一瞬は切り取られたかのように、今もあの夏の六月のたんぽぽのなかに立っている。

 ……あの瞬間こそが、かつてアベルが言った、永遠というものだったのかもしれない……。

 ユベール。僕が手をつないだ、たった一人の友だち。少女の肉体をもった、太陽の少年。


 ユラーリ=ユベールに敬意を評し、僕は彼女のことを彼と呼ぶ。精神と肉体の不一致、という単純な病でもなく、ユラーリ=ユベールは、恐らくおとことおんなふたつの魂を半分ずつ内包したアンドロギュノス的な生きものだったのではないか、と僕は思うし、それはおそらく正しいだろう。芸術家というのはそういうものだ。

 どうしてフランス語には「彼」と「彼女」の二種類しか人を指す言葉がないのだろう? 僕の知りうるかぎりの世界の言語もそうだ。性別など関係なく、遠く離れた人を示すあるひとつの言葉が、僕はほしい……。

 彼はまさしく少年であった。少年であり、旅人であり、箱庭暮らしのままごとしか知らない子どもに、広い世界を見せてくれるもの。道を示すもの。シンクレールにとってのデミアン。ゴルトムントにとってのナルチス。きっと、そんな生きものだった。そしてその存在こそが、世界でもっとも素晴らしい友情に必要なものだったのだ。

 だが、しかし、と僕は思う。

 もしユベールが純粋な肉体の少年だったなら、僕と彼は交わらなかっただろう。"彼女"の倒錯が、僕とユラーリを結び付けた。彼も僕も孤独だった。彼は孤独な夏で、光だった。人のいない草原に降りそそぐ太陽。肉体という枷にとらわれて、その倒錯のなか、ただひとりだった"彼"。

 彼はおそらく、僕の孤独を知っていた。屋敷にとらわれた僕。呪われた血のルイ=ギュスターヴ。美に心酔する倒錯した生きもの。だから僕に手を差しのべてくれたのだ。

 一度めは、僕を外へ連れ出すため。

 二度めは、僕に助けを求めてくれるため。

 そして、三度めは。

 僕は二度、彼の呼びかけに応えた。恐る恐る、暗がりから足を踏み出した。

 けれど、三度めは――――。


 もし、あのとき、僕がユベールの手を取っていたなら。



 ルイ=ギュスターヴを、ユベールとギーを、ユラーリ・モンパルナスを、―――●●●家を、崩壊に導いたあの事件。

 あんな怖ろしいことは起きなかったのではないかと思うのだ。



(録音時間終了)

(第三部へ続く)

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