第三話○まりあと悩める歌姫


それは、八年前のこと。

 聖アンジェ幼稚園の園庭で、いのりは一人泣いている。

「っう、ぐすっ、うぁあん……」

 手にしたお遊戯会の台本は、「魔女」の台詞が蛍光ペンで塗られている。

「泣かないで、いのりちゃん」

 声が聴こえて顔を上げると、目の前に同じ組の男の子、まことが立っていた。

「まことくん」

 まことはニマッと笑うと、おもむろに手に持っていた台本を開いて、明るく声を張り上げた。

「なんと美しい白雪姫! どうか目を覚ましてください!」

 ぽかんとしているいのりに、まことは台本を指し示す。いのりはおずおずと示された一文を読み上げた。

「助けてくれてありがとう、王子様」

「僕のお后さまになってくれますか」

「……もちろん」

ラストシーンを読み終わる頃には、いのりの涙はすっかり乾いて、笑顔が戻っていた。

「みんなはせいらちゃんが一番お姫さまっぽいって言うけど、僕はいのりちゃんのほうがお姫さまっぽいと思うな。おしとやかで、お姉さんっぽくて」

「そんなこと言うの、まことくんだけよ」

 まことは納得いかないという風に変な顔をすると、いのりの左手をとって、王子様がお姫様にするみたいにかしづいて笑った。

「じゃあ、大きくなったら、僕がいのりちゃんを僕だけのお姫さまにしてあげるよ」

 いのりは頬を赤くした。引っ込んだはずの涙が、また瞳に滲んだ。

「約束よ」

 二人は指切りをして、お部屋に戻った。いつか、まことがお姫様にしてくれる。そう思えば、魔女の役を演じるのもちっとも苦ではなかった。


 いのりとまことは同じ十字坂小学校に進学した。一年生の時も、三年生の時も、五年生の時も、いのりはまことを見つめつづけた。髪を伸ばし、毎日綺麗に編み込んだ。福祉委員会に入ってたくさんの人に親切にした。公立の学校ではなく、女子校に進学することを決めた。そうすれば、いつかまことに相応しいお姫様になれると信じていた。

 そんなある日、いのりの前に小さな天使と小さな悪魔が姿を見せた。

『私はいのりの〈信頼の天使〉ラベンダーですわ。こっちは、〈不信の悪魔〉ダウト。

 あなたのその信じる心の力で聖心乙女に変身して、この町の人を救って欲しいのですわ』

 もちろん、誘いを断る理由はなかった。

 聖アンジェ女学院でも、いのりは福祉委員会に入った。誰より優しく、美しく、そうしていれば、いつかまことが迎えに来てくれると信じていた。


 けれど、いのりの恋は中学二年生の秋に終わりを告げることになる。

 ある日、橋を渡ろうとするいのりが見たのは、手を繋いで橋の上を渡るまことと、まことの詰襟と同じ色のブレザーを身にまとった少女だった。バタッと音を立てて、いのりの鞄が地面に落ちたその音に、少女が気がついて振り返る。その大きな瞳と白い肌には見覚えがあった。幼稚園の時、白雪姫を演じていたあのクラスメイトだ。

「どうしたんだよ、せいら?」

 せいらに語りかけるまことの声は聴いたことがないほど低く、甘ったるく響いた。まるで知らない人のようで、いっそ見間違いだったらいいのにといのりは祈るような気持ちで、振り返るその顔に目を凝らした。

「……いのり」

 けれど、それは間違いなくまことだった。ずっといのりの心の中でいのりを支えていたはずのまことだった。憐れむようなその目を見ていのりは、まことがいのりの気持ちを知った上でせいらと付き合っていたことを悟った。

「まこと……」

 パリン。心の中で何か大事で脆いものが割れる音がした。熱い身体に熱せられてどろどろに溶けたそれが瞳から零れていく。

「いや、マジ泣きかよ……。俺、お前がそんなに本気だって知らなかったんだけど。だって幼稚園の頃だろ、約束したの」

 パリン、とまた割れる。呼吸が苦しくなって顔を覆って座り込むと、せいらはばつの悪そうな顔でいのりを睨んだ。

「何この子、悲劇のヒロインぶってんじゃないの? 行こ、まこと」

 パリン、―最後の一枚が割れる。

 ポケットの中で、〈信頼の天使〉ラベンダーが悲鳴をあげた。


「―嘘つき」

 砕かれた欠片を吐き出すように、いのりは呟いた。


『いのり! こっちよ!』

 今まで一度も口を開かなかった〈不信の悪魔〉ダウトが、いのりを呼んだ。いのりはふらつきながら立ち上がって、橋から逃げ出すように林に向かって走った。浅い呼吸を繰り返して、ぼやけた視界の中林を駆け抜けると、急に体の周囲を鳥かごに覆われた。

『いのり、もう何も信じないで。これ以上はいのりの心が壊れてしまう! いのりを守るには、今はこれしかないの』

 いのりは鳥かごの中、重い瞼を閉じた。

 誰も、いのりを救い出す人はいなかった。不運なことに、十字坂町の聖心乙女はいのり本人だけだったのである。


 次にいのりが目を醒ましたとき、いのりは音のない世界にいた。ずっと聴こえていた頭の中の天使の声がしない。朦朧としながら学校に行った。福祉委員会の時間、窓の外を見ると、秋の空は青く青く、まるでペンキで塗りつぶした作り物のようだった。

 何も感じない。何もしたいと思えない。優等生でいることも、福祉委員でいることも、全てまことを信じていたからできたことだったのだと気が付いた。

 いのりは次の週から、学校に来なくなった。


 いのりは町をふらついて過ごした。ある金曜の夕方に橋に差しかかると、いのりが聖心乙女だったときに使っていたコンパクトから、懐かしい声が聴こえた。

(かわいそうに、僕のいのり)

 いのりははっとしてコンパクトを取り出した。鏡の中には、体育座りしているダウトの他に、いのりのよく知る少年の姿があった。

「まこと……!」

(そう、僕はマコト。偽者だけどね)

 今のまことは、こんな風に話さない。けれどその声も喋り方も、いのりのよく知る昔のまことにそっくりだった。

「そう、まことじゃ、ないのね、でも、まことって呼んでもいいかしら」

 いのりは声を震わせながら小さなコンパクトを胸に押し当てた。顎を伝った涙がコンパクトを濡らす。

「まこと、ずっと言いたかったことがあるの。……私、まことが好き。ずっとずっと好きなの。きっと今でも好き。あなたのためならなんでもしたいって思ってた。あなたとの未来を信じてた。でも、もう、なにも分からない。何を信じて生きたらいいかわからないの」

 いのりは顔に袖を押し当てて泣いた。

『僕だけのお姫様にしてあげる』と言ってくれた声を何度も思い出した。小学校の頃は、教室の片隅で友達と話しているその姿を見ているだけで幸せだった。まことと二人の未来を想っては眠りについた。

 過去も今も未来も、まことはいのりの全てだったのだ。

 コンパクトの中でマコトはにいっと口元を歪ませた。

(そう、いのりは僕が好きなんだね。だったら、僕のこと手伝ってくれるよね?)

 だから、いのりは頷くしかなかったのだ。


 ―☆☆☆―


 月曜日の昼休み。まりあとかなえは誰も居ない場所を探して二人で弁当箱を抱えてさまよい、ついに中庭にたどり着いた。開けた中庭にぽつり、ぽつりと置かれたベンチは一つ一つが離れているので、小声で話せば秘密の話ができそうだ。

「よし、ここなら……」

 まりあとかなえがベンチに腰掛それぞれ制服のポケットに隠し持っていたコンパクトを開くと、ぽんっと音を立てて天使と悪魔が二人ずつ飛び出してきた。

「あんたたちがかなえの天使と悪魔?」

 まりあはかなえのコンパクトから出てきた白い二頭身と黒い二頭身を突っついた。

『私はカナの〈夢の天使〉、シトラス』

『私はカナの〈不安の悪魔〉、フィアよ』

 シトラスは丸いシルエットの白いワンピースに身を包んでいて、一昨日かなえが変身したホーリー・ドリーミングシトラスの姿と少し似ている。一方黒いドレスに長い髪のフィアは、三日前まりあが闘ったかなえの悪魔をそのまま小さくした姿だ。

 思えば、まりあが変身した姿もローズに似ている。聖心乙女は変身すると天使の姿に近くなるのだろう。

 シトラスはまりあの隣にふわふわ飛んでくると、まりあの頬に小さな手で触れた。

『この間はカナを助けてくれてありがとう。フィアはカナが好きすぎて、時々行き過ぎてしまうの』

『もう、やめてよシトラス。恥ずかしいわ』

 まりあは二人の仲睦まじいやりとりを眺めて、口をあんぐり開けた。ローズがじとっとまりあを睨む。

『まりあさん。何か文句があるんですか』

「えっ、なんか、天使と悪魔が仲良くない……? うちと全然違う……」

『よそはよそ、うちはうちですっ。うちの悪魔は手ごわいので、ガツンと言うくらいじゃないと打ち勝てないんですっ!』

『お前がガミガミうるさいだけじゃんよー。優しさの天使の癖に。実は〈ヒステリーの悪魔〉だったりしてな! ひゃはははっ』

 ローズは顔を真っ赤にして、ぷうっとほっぺたを膨らませた。

『甘やかすだけが優しさじゃないんです! 悪魔には分からないでしょうけどね!』

「あーもー、どっちもうるさいな!」

 かなえは弁当箱を開きながらまりあたちのやりとりを見ていたけれど、ついにぷっと吹き出した。

「なんだかまりあちゃんの天使と悪魔、賑やかで楽しそうです」

「楽しくないよお、うるさいだけ」

 まりあはキーキー言いながら言い争っているローズとレイジーを空中から引きずり下ろしてベンチに座らせた。

「さて、休み時間終わっちゃうから手短に聞かせてくれる? 一昨日、なんで倒しかけた悪魔が復活したの?」

「それに、あの黒いドレスの女の子、〈妖魔乙女〉って一体……」

 真っ先に口を開いたのはレイジーだった。

『天使と一体化して悪魔の力を弱めるために戦う人間が〈聖心乙女〉なら、悪魔と一体化して天使の力を弱めるために戦う人間が〈妖魔乙女〉だよ。

 でも、人間が天使に乗っ取られるようなことは滅多に滅多にないから、〈妖魔乙女〉は数百年に一度誕生するかしないかのはずなんだけどな……』

 シトラスが付け加える。

『どうもあの〈妖魔乙女〉は行き過ぎた天使の力を弱めているというより、心が弱っている人間に付け込んで、わざと悪魔が乗っ取りやすくしているような気がするの。きっとあの子、普通の〈妖魔乙女〉じゃない。何か目論見があるんだわ』

「だからあの子に唆されて、あの男の子の悪魔の力が強まったんだね」

「そんなの、ひどいです……」

 黙って聞いていたかなえが、肩を落として呟いた。

「カナ、フィアに乗っ取られる前、本当に苦しくて、怖くて、自分が変わってしまうような気がして……、誰か助けてって祈ってました。きっとあの男の子もそうだったと思います」

 かなえは胸元で指を組んだ。切ない横顔を見ていられなくて、まりあは勢いよく立ち上がった。

「そうだ! 妖魔乙女も元は私たちと同じ人間の女の子なんでしょ? それなら、その正体を暴いて、説得してやめてもらうしかないよ!」

「しーっ、まりあちゃん! 声が大きいです!」

 かなえが人差し指を唇に当てる。頬がかーっと熱くなって、まりあは思わず周囲をきょろきょろ見回した。すると、中庭を歩いていた一人の生徒がまりあたちの声に振り向いたところだった。夜の色の瞳が、まりあたちを捉える。

「夜永先輩!」


 ―☆☆☆―


 三日ぶりのいのりは、あの夜のように泣き腫らしてはいなかった。まりあは胸をなでおろす。

「夜永先輩、今日は学校に来てたんですね」

「ええ、この間は委員会を休んでしまってごめんなさいね。迷惑をかけたわ」

「そんなことないです!……それはそうと」

 冷や汗が額を伝う。

「あ、あの、夜永先輩。今私とかなえが話してたこと、聞きました?」

「何も聞いてないわ。安心してちょうだい」

「よ、よかったあ……」

 まりあがほっとして脱力すると、いのりは、はぁ、と小さなため息をついてくるりと踵を返した。

「用がないなら失礼するわ。お昼を邪魔してごめんなさいね」

「えっ」

 せっかく話せたのだから、もう少し一緒にいたい。けれど、理由もなく引き留めるのも、いのりからしたら不自然だろう。

 まりあは口実を探していのりを見つめた。

『まりあさん、お弁当です』

 ローズがコンパクトの中で囁く。まりあはここまできたらと腹をくくった。

「お、お弁当! まだなんですよね? 私の友達もいるんですけど、よかったら三人で食べませんか」

「……え」

 完全に予想していなかったのだろう、いのりは深い色の瞳を丸くした。

「もしかして、他に約束してる人がいました?」

「……別にいないわ、でも」

「はい決定! こっちですよ、ボッチ飯先輩!」

「ボッチ飯先輩……!?」

 まりあは戸惑ういのりの手を引っ張って、かなえのいるベンチまで連行した。

『まりあさん、優柔不断なのに、一度決めたら強引なんですから』

 ローズがくすっと笑った。


 ベンチで待っていたかなえはいのりに向かって姿勢を正すと、にこっと微笑んだ。

「はじめまして、まりあちゃんの友達のかなえです。夜永先輩、ですよね? まりあちゃんから聞いた通り、本当に美人さんですねえ」

「美人なだけじゃなくて、優しいんだよ。私たち一年が入って初めての校外福祉活動でも、お年寄りから大人気だったし」

「……買いかぶりすぎよ、あんなの、優しい振りだわ」

 まりあはそっと目を細めた。

「いいえ、先輩は優しいです。だから、最近元気がなくて心配してたんです。先輩がまた学校に来てくれて、嬉しいです」

「……」

 一瞬、いのりがとても切ない表情をしたように感じた。けれどいのりはすぐにいつもの涼しい顔に戻ると、すっと視線を逸らしてベンチの端に座った。

「だからって、ボッチ飯先輩はないわ」

「ご、ごめんなさい。じゃあ、いのり先輩。いのり先輩ならいいですか」

「いのり先輩! 名前まで綺麗です。カナもいのり先輩って呼びますね!」

「はぁ……。勝手になさい」

「やった!もう、私たち友達ですよ。先輩」

「……そう、ね。友達、ね」

 いのりは目を合わさないまま、ため息をつく。まりあはその耳が赤く染まっていることに気がついていた。

『へへっ、めんどくせー先輩だな』

 ぽつりと、レイジーが呟いた。


 ―☆☆☆―


 休み時間も残り五分というところで、三人はそれぞれ午後の授業に向けて解散した。二人と別れたいのりは軽くなったビニール袋をぶら下げて渡り廊下を歩く。

(まりあ、かなえ)

 二人はいのりの名前を呼んだのに、思えばいのりは二人を一度も名前で呼んでいなかった。心の中で名前を呼ぶと、きゅっと胸が締め付けられた。

(次会ったときは呼んであげようかしら)

 いのりは頭に今なお残る二人の笑い声の余韻を感じながら、女子トイレの個室の扉を閉めた。

 けれど、その時、いのりのポケットの中で声がした。

(やっほー、僕のいのり。珍しく顔色がいいけど、なんかいいことでもあった?)

 いのりはびくっと身体を跳ねさせて、扉に手をかけたまま身を固めた。

(分かった、お友達ができそうなんじゃない? いのり、今傷心で寂しいんだもんねぇ。よかったね)

 いのりはぎゅっと目を瞑って首を横に振った。

(違うわ。そんなんじゃないの)

(あはは、言ってみただけだよ。君は知っているはずだからね。人間の優しさなんて、嘘にまみれてるって。きっと彼女たちもそうだ。実際、僕だって君を利用してるだけだし)

(わかってる、わかってるわ)

 いのりは個室の鍵を開けると、廊下に飛び出した。チャイムが鳴り響く中人の波を避けて階段を降り、逃げるように学校の外へ。

 先ほどまでふわふわと軽かった脚が、重石をつけたような重さを取り戻し始めていた。まりあとかなえの明るい笑い声が、耳にべったりと絡まって気持ちが悪い。祈るような気持ちで駆け抜けた。

(お願い、私に優しくしないで)

 いのりは学校の裏山の入り口付近の柵に寄りかかって、息を切らして座り込んだ。

「―許して、マコト。私はあなただけのものよ。信じる心を失って、疑うことしかできない私を、上手に騙してくれる愛しい人。あなただけが私の救いなの」

(じゃあ思い出してくれるかい? 愛する僕の為に君のするべきこと)

「私は―私は、〈悪魔の手下〉を集める。それがあなたの望みだから。何人でも天使を殺して、悪魔のみに支配される人間を作り出す。そう、私と同じような人間を」

 ポケットからコンパクトを取り出す。キラキラと宝石が散りばめられた美しいそれには、かつて美しい天使が宿っていた。けれど今は。


「イーヴィルコネクト!」


 手鏡の中にぽつんと座っていた悲しい目の悪魔と目が合い、いのりと悪魔の姿が重なっていく。空から舞い降りた真っ黒のラベンダーの花束に口付けると、花弁が舞い広がっていのりの身体を包んだ。黒いベールが長い髪にかかると、背中の漆黒の羽がつぼみの開くようにふわりと広がる。いのりはゆっくりと目を開いた。


「愛しき嘘に口付けを。妖魔乙女、イーヴィル・ナイトラベンダー」


(そうそう。君にはそっちの姿の方が似合ってるよ。さあ、悪魔を助け、天使を殺そう。悪魔とその人間だけの世界の為に!)


 ―☆☆☆―


「あー、無理!」

 平日の昼間で人通りの少ない十字川の河川敷で、地味なニットにジーンズの女性が叫びを上げた。控えめな絶叫は白いマスクの内側で反響してひっそりと消えた。

(地元の風景でも見たら歌詞も浮かぶかと思ったけど、全然良いのが浮かばない……マジで無理。しんどい。やっぱ私才能ないわ。『天使すぎる歌姫』とかほんと荷が重い。歌詞も下手だし、歌だって……怖いから調べたことないけど絶対裏掲示板で叩かれてるに決まってる。ほんと、私ってゴミだわ……っと)

 女性はスマートフォンの画面に一通り愚痴を書き込むと、×ボタンと『削除』を押した。

(まあ、消しますけどね! 百五十万人のフォロワーがっかりさせられないからね! あー、しんどい)

 心の中での控えめな独り言を終え、女性はまた歌詞を考える作業に戻った。前の曲よりいい歌詞を。人々に届く歌詞を。心の温まる歌詞を。そう思えば思うほどに苦しい底なし沼に落ちていく。ふと、背後で足音が聞こえて、女性は振り返った。そこにいたのは闇の色のドレスを纏った美しい少女―いのりだった。

「ねえ、あなた」

「な、なんですか?」

「私、あなたのことよく知っているの」

(もしかして、ファンの子……?)

 女性が戸惑っていると、いのりはふっと笑って、黒く塗られた爪の先を相手の胸元まで伸ばす。

「誇り高い人。けれどその誇りに押しつぶされそうな可哀想な人」

「えっ」

 胸の奥に隠した大事なものを見つけ出されたような気がして、ドクンと心臓が跳ねる。

「私にはあなたの中の悪魔の声が聴こえるの。あなたを苦しませるだけの誇りを捨ててしまいましょう? そのほうが、きっと魅力的な歌詞が書けるわ……」

「誇りを……捨てる……」

 女性の瞳の中にいのりと同じ闇が灯った。赤く彩られたいのりの唇が、笑みの形に歪んだ。


 ―☆☆☆―


 ―もう無理!


「うわぁああっ」

 ガタンッ! と机を揺らして、まりあは安らかな午後の眠りから目覚めた。黒板の前でおばちゃん先生がクイッとめがねを上げてまりあを睨んだ。

「白羽さん、怖い夢でも見ましたか? ―古典の授業中に」

 教室中がどっと笑いに包まれ、まりあはもそもそと姿勢を正した。

(今、悪魔の声がしたよね?)

 まりあの耳にはいま確かに、悪魔の響く声が聴こえた。かなえの席をみると、かなえも声が聴こえたのだろう、青ざめてきょろきょろ辺りを見回している。

「先生! 体調が悪いので早退します!」

「あっ、カナも! 心配だからついていきます!」

 まりあとかなえはアイコンタクトを取って教室を飛び出した。驚く先生の声を背に誰も居ない廊下を走り、昇降口を出ると、声は河川敷のほうから響いている。


 ―私は自分が嫌い! うまく書けない、歌えない自分が大嫌い!


「あっちだ!」

 まりあに手を引かれ走りながら、かなえの胸はばくばくと音を立てて、顔には冷や汗がにじんでいた。

(この声、まさか、まさか……)

「いた!  ……ひっ!」

「まりあちゃん? ……は、はわわ」

 まりあの指差す先を見て、かなえも思わず後ずさった。そこでは、女王様風の黒いコルセットに網タイツといういでたちの悪魔が鳥かごの上に脚を組んで座り、鞭を振り回していたのだ。

『あれは……〈自虐の悪魔〉です!』

『私はもう他人の為に歌わない! このクソみたいな私が、本当の私よ!』

 悪魔の脚の隙間から鳥かごの中を見て、かなえは自分の嫌な予感が的中してしまったことを知った。


 ―私の歌なんて、本当は誰も望んでないよ。


「ララちゃん!」


 かなえは叫んで、河川敷へ駆け下りる。鳥かごの中でうずくまっている女性は、マスクで顔を隠していて、服装も美しいドレスではなく地味なニットにジーンズで、声のトーンも信じられないくらい低いけれど……見間違えようもなく、かなえの憧れの歌姫だった。


「ホーリーコネクト!」

「待ってかなえ! 私も! ホーリーコネクト!」


 二人は駆け下りながらコンパクトを取り出して変身すると、そのまま翼を広げて悪魔と鳥かごのすぐ近くまで飛んだ。

「世界に優しき恩恵を! 聖心乙女、ホーリー・ハートフルローズ!」

「明日に夢みるよろこびを! 聖心乙女、ホーリー・ドリーミングシトラス!」


 ―私らしい歌って何?


「ララちゃん!」

 かなえは半泣きで鳥かごに駆け寄る。

「かなえ、一人で行ったら危ないよ!」

『ララに近づかないで、聖心乙女!』

 かなえが半泣きで鳥かごに駆け寄ると、悪魔の鞭が勢いよく風を切り、かなえの羽をかすった。はらり、と数枚の羽が落ちる。

「ララちゃん! どうしたんですか! どうして悪魔なんかに……!」

 鳥かごの中のララは目を醒まさない。鳥かごの上からかなえを見下ろして、悪魔が高らかに笑った。

『きゃははは! 邪魔な聖心乙女が来たと思ったら、ララのファンだったの』

「えっ」

『いいこと教えてあげるよ。ほら、聴いて』

 悪魔はブーツのかかとを鳴らして鳥かごから降りると、かごの中のララに囁きかけた。

『ねえねえララ、あの子、奏ララちゃんのファンなんだってさ! サインでも書いてあげたら?』

 鳥かごの中のララはより身を縮ませて、閉じた瞼に卑屈な笑みをうかべた。


 ―もうやめてよ、ララちゃんとかさ……荷が重いって。

 ―私の本当の名前、『田所松江』っていうの……あはは、ダッサいでしょ。


「そ、そんな……」

『これがララの―いいえ、松江の本心! あんたの大好きな〈天使すぎる歌姫〉なんて、最初からどこにも居ないんだよ!』

「ララちゃんが……居ない……?」

 呆然として立ちつくすかなえに向かって、悪魔が容赦なく鞭を振り上げる。

「かなえ、危ないっ!」

 まりあはかなえを抱きかかえて鞭を避けた。心ここにあらずといった表情のかなえは、気づけばまりあの腕の中で制服姿に戻ってしまっていた。


 ―☆☆☆―


 かなえの手に握られていたコンパクトがか細い光を点滅させている。開けると、鏡の中で、シトラスがぐったりと横たわっていた。

『〈夢の天使〉の力が不足しているみたいです。無理もありません、憧れの人が、かなえさんの〈夢〉そのもののような存在であるララさんが、あんな状態では……』

 その時、バサッと翼が風を切る音がして、あたりに風が吹いた。風が収まると、その中心に居た少女が、黒いベール越しに微笑む。

「あら、二人目の聖心乙女は倒れてしまったの? また一人ぼっちに逆戻りね。ばら色の偽善天使さん」

「ナイトラベンダー!」

 イーヴィル・ナイトラベンダー―いのりは、満足そうに鳥かごに触れる。

「ふふ、あと少し。あと少しで、〈誇りの天使〉が死ぬの。闇に支配された、〈悪魔の手下〉がもうすぐ生まれるのよ」

「悪魔の、手下……」

 まりあは、かなえが悪魔に乗っ取られたときにローズが言った言葉を思い出した。


 ―このままではかなえさんの中の天使が完全に死んで、かなえさんは〈悪魔の手下〉と化してしまいます! 〈悪魔の手下〉は、内なる悪魔の声にのみ操られて行動するだけの存在―そうなったらもう、かなえさんはもう二度と夢を見ることができなくなってしまう……!


「そ、それって……!」

『ええ、ララさんの天使は〈誇りの天使〉。ララさんが〈悪魔の手下〉になったら、二度と誇りを取り戻せなくなって、きっと、もう歌えなくなってしまいます!』

 まりあはいのりを睨みつける。闇色の瞳の中に、身体を硬くしたまりあが映った。

「ナイトラベンダー、あなたの目的って、〈悪魔の手下〉を生み出すことだったんだね……!」

「目的じゃないわ、手段よ。そうね、あなたたちには特別に教えてあげる」

 そう言うと、いのりは胸にそっと手を当てた。

「私の心には天使が居ないの。

 あなたたちが思うほど悪いことじゃないのよ。だってこうしていれば、迷う必要も、理想と現実のギャップに苦しむことも、なんにもない。みんなこうなればいいって、心から思うわ」

 まりあも、ローズとレイジーも、呆然としていのりを見上げる。その表情を待っていたとばかりに微笑むと、いのりの目に闇の炎が煌々と輝いた。


「私とマコトの目的は、そう。この世から全ての天使を消し去り、悪魔と、悪魔に操られた人間だけの世界を生み出すこと」


「な……っ」

 まりあは思わず後ずさった。この十字坂町だけじゃない。この世界全てを悪魔のものにしようとする大きな企みが、この町で始まっていたのだ。

「ああ、想像しただけで素敵だわ。世界中に歌を届け、希望を届け、人々の心を救った誇り高き歌姫が、突然闇に支配され、歌わなくなったら。

 ―一体何人が、心の支えを失い、悪魔に乗っ取られるのかしら!」

 まりあは背筋が凍る気がした。かなえと同じように、ララの曲を聴いて救われた人は世界中に大勢居る。社会への影響が大きい人物ほど、悪魔に乗っ取られたとき、世界の悪魔の力を強めてしまうのだ。

 恍惚とした表情を浮かべ、いのりは空中に舞い上がった。

「さあ、一人ではどうあがいても無駄でしょうけれど、いつもみたいに悪魔に語りかけてはいかが? 健闘を祈るわ」


 ―☆☆☆―


 意識がぼんやりと霞む。ふわふわと身体から力が抜けるのに、心臓は嫌な音を立て続ける。

(カナ、変身できなくなっちゃった……)

 かなえは木に体重をぐったりち体重を預けた。不安の感覚に支配されて、立ち上がれない。

 ララのようになりたかった。ステージ上で晴れやかに笑い、歌う彼女。でも、かなえが憧れたその姿は、虚構に過ぎないと言われてしまった。

 薄く目を開くと、対峙するまりあとナイトラベンダー、その向こうに鳥かごに囚われたララがいた。

(カナはどうしたらいいんですか、ララちゃん)

 心の中で問いかける。

 夢に迷った時、傷ついたり、寂しい時、かなえはいつもララの歌に励まされてきた。ララの言葉は天使のお告げのようだった。答えはみんな歌詞の中にあった。

 けれど、ララも本当はかなえと同じ普通の女の人で、悩んだり、苦しんだり、自分が嫌になったりしながら進んできたのだ。

(この夢は、ララちゃんから始まったた夢だけど、ララちゃんのものじゃない)

 頭の中で流れ続けるララの歌の中にもう答えはない。かなえは自分の足で立ち上がって、自分の言葉で迷って、明日へ進まないといけないのだ。

 かなえはぐっと脚に力を込めた。


 ―☆☆☆―



「……嘘でしょ……」

 まりあは膝から崩れ落ちた。弓を持つ手が震える。

「こんなの、どうしたら……」

『なに座ってるの? もしかして、もう降参かしら!』

 〈自虐の悪魔〉が再び鞭を振り上げる。川の水を叩くと、はじけた水滴が鋭い氷の粒のようになって、まりあを襲う。

「まりあちゃん、危ない!」

 瞬間、まりあの頭上にシャボン玉のような膜が広がり、水滴を防いだ。声のほうを見ると、変身した姿に戻ったかなえが、バトンの先を空に向けていた。

「かなえ……!」

「まりあちゃん、少しびっくりしたけど、カナは大丈夫です」

 悪魔と鳥かごをまっすぐ見据えるかなえの顔を見て、まりあははっとした。かなえの瞳には、あの夢の輝きがきらきらと咲いていたのだ。

 シャボン玉が弾けて、その雫が光を反射した。かなえはバトンをくるっとまわすと、その上にまたがった。バトンは魔法の箒のように光のリボンを靡かせてかなえをララの悪魔の近くまで運ぶ。


「ララちゃんに縋って盲目に憧れるだけのカナでいるのはやめます。カナはララちゃんが、ララちゃんの歌が好きだから、今、絶対に伝えなきゃいけない」


『近寄らないで!』

 悪魔は鞭を振り回して闇を生み出し、かなえの進路を妨害する。まりあは矢を番えると、闇をひとつひとつ打ち払った。

「かなえ、行って!」

「ありがとう、まりあちゃん!」

 かなえは鳥かごの前に降り立つと、悪魔のほうに向き直った。そして、悪魔の手をとった。

「ララちゃん、の悪魔さん」

『な、何よ、説教するつもり? 自虐なんてやめろって? 歌姫らしくしてろって? その重圧がどれほど松江を苦しめているのか、何も知らないくせに!』

 かなえはふっと頬を緩めた。やっぱり。フィア―かなえの悪魔がかなえを愛し、守っていたように、〈自虐の悪魔〉もまた、ずっとララを愛しているのだ。

「カナは弱虫で、いつも不安になったり、泣いてばかりの女の子です。だけど―ララちゃんへの憧れから始まったこの夢だけは、絶対に譲れません」

 かなえは逃げ出そうとする悪魔の手をぎゅっと引き寄せた。


 かなえの胸の中にいつもある光景がある。かなえが小さい頃初めてララを見たのは、十字川沿いの路上だった。

(初めまして。天界から、みんなに愛を届けに来ました。奏ララです!)

 風に吹かれながら、まだ無名のララは歌った。のびやかで透き通る歌声が河川敷に広がった。部活の大会に負け川原で泣いていた少女たちが、ペットが死に、いつも散歩していた道を一人で歩いていた主婦が、幼稚園で男の子に声が小さいとからかわれて傷ついていたかなえが……みんな振り返った。


「歌ってください、松江さん―いいえ、ララちゃん。

 自分を責めることも、何度も何度も歌詞を没にすることも、中傷に怯えることも、その全てがララちゃんを作ってる。

 ララちゃんの歌がこんなにも人の心に届くのは、ララちゃんの裏に松江さんがいるからだったんですね」

 悪魔が光に解けて消える直前、その頬に涙が落ちた。

 かなえは解けていく光の粒を全身に抱きしめながら、微笑んだ。

「私の歌姫でいてくれてありがとう。私の歌姫を守ってくれてありがとう。これからもずっとずっと、私はララちゃんが大好きです」

 

 ―☆☆☆―


 ララは、自分が歌詞を考えているうちに河川敷の木陰で眠ってしまっていたことに気がついた。

(あ、ここ……)

 川辺にある小さなスペースは、ララがデビュー前よく路上ライブをしていた場所だった。ララはギターを抱え、立ち上がった。


「あ、奏ララちゃん!」

「嘘! どこ?」

 町の人たちが駆け寄ってくる。この分だと人が集まりすぎてしまうので、歌うのは一曲だけにしようとララは決めた。

「みんな、こんにちは。天界から愛を届けにやってきました、奏ララです! 私のデビューシングル、聴いてください!」


 地味なニットにデニムの歌姫の、マイクも通さない歌声が、今日も十字坂町の人に夢を届けたのだった。


 ―☆☆☆―


 まりあは戦いのあと、かなえに呼ばれてかなえの部屋にいた。

「どうしたの? かなえ」

「待っててくださいね。今準備しますから」

 かなえは電子ピアノのカバーを畳むと、そっと鍵盤に触れた。


  明日は晴れるかな 不安だけど

  見たい景色があるから

  君を夢みて眠ってみるよ

  明日えがおになりますように……


 かなえが歌い終えると、まりあは目をまん丸にしたまま拍手した。

「……今の曲、かなえが作ったの?」

「はい。えへへ、へたくそですけど」

 かなえのはにかみは、優しくて、強くて、眩しかった。

「まりあちゃん、カナの夢、ちょっと変わったんです。聞いてくれますか?」

 まりあは頷く。

「今まで、『ララちゃんみたいな歌手になる』って言ってましたよね。でも、カナは最近思うんです。ララちゃんと同じことをするんじゃなくて、カナだからできることも、あるかもしれないって。だから……」

 かなえは椅子から立ち上がると手を天井のライトに向かって伸ばした。

「カナは、みんなに夢を伝える歌手になります。カナの中にある夢―夢の力が、カナの全てだから。カナの全てを、歌にします」

「カナ……私、応援する」

 まりあは気がつくと、わけもわからずぼろぼろ涙をこぼしていた。かなえがまりあの頬を手で拭った。

「カナがこうやってまた夢を見られるのは、まりあちゃんがあの時、夢を守ってくれたおかげです。ありがとう、まりあちゃん」

 涙が拭っても拭っても溢れた。

「わあああん! かなえ、私のこと、ファン第一号にしてね!」

「もちろんです!」

 抱きしめるかなえの腕は、まるで天使の羽のように暖かく、力強かった。

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