第四話○まりあと闇の思惑


 まりあとかなえが初めて変身してから二ヶ月。雪が白く染める十字坂商店街で、黒いセーラー服を揺らす〈傲慢の悪魔〉とまりあたちの戦いが繰り広げられていた。悪魔の放つ文房具たちを避けながら、まりあは矢を放つ。

「くらえーッ!」

 矢は悪魔に命中し、光が辺りを包んだ。

「よしっ、命中!」

「まりあちゃん、後ろ!」

 油断したまりあの背中に、巨大な消しゴムの弾が直撃する。

「うっ……!」

 かなえはふらついたまりあを受け止めると、バトンをくるくると回した。

「悪魔さん、おとなしくしてくださいっ!」

 バトンから光の帯がらせん状に広がる。動きを封じられた悪魔のところに降り立ったかなえは悪魔の手をとって、囁いた。

「さあ悪魔さん、あなたの帰るべき場所に帰りましょう。あの女の子の心からの笑顔をもう一度見るために――」

 悪魔は静かに頷くと、光の粒になって空に溶けていった。それを見届けると、かなえは妖魔乙女の方に向き直り、彼女の手を引き寄せた。

「妖魔乙女さん、あなたが何度悪魔を唆しても、カナたちがいる限り、この世界を悪魔でいっぱいになんて絶対させませんから!」

「気安く触らないで、聖心乙女……!」

 かなえの手を振り払った妖魔乙女は苦々しい顔を見せて空へ飛んでいった。


 ――☆☆☆――


「気安く触らないで、聖心乙女……!」

 いのりは苛立ちに任せてかなえの手を乱暴に振り払い、地面を蹴って空に舞い上がった。

 粉雪の舞う街を飛びながら、奥歯を噛み締める。

(また、うまくいかなかった。マコトに怒られるわ。マコトに嫌われてしまったら、……使えないって思われたら)

 橋に着地し、変身を解く。焦りが胸の中に広がっていく。あと何回失敗したら、マコトに愛想を尽かされてしまうのだろう。

(いのり、また〈悪魔の手下〉を作るのに失敗したんだね)

「ひっ……」

 突然の声に肩が跳ねる。コンパクトを恐る恐る開けると、冷たい表情のマコトが苛だたしげにいのりを見つめた。

(残念だなぁ。僕は君に期待してるのに)

「わ、私、次こそは必ず……」

(次は、次はって聞き飽きたんだよ、いのり)

 冷たい囁きにいのりの身体も心も凍りつく。マコトにそういう声を出されると、いのりはまるでロボットになったように、何も考えられなくなってしまうのだ。

(次のターゲットは聖心乙女だ。あの薔薇色の方の聖心乙女は悪魔に弱そうだからね)

 さあっと頭から血の気が引く。

「まりあを……? 待って、まこと」

(あれを〈悪魔の手下〉にできなかったら、今度こそ僕は君を捨てるよ。そうなりたくなかったら、彼女を堕とすために全力を尽くせ。いいね)

 ぷつん、とコンパクトの光が途絶える。いのりは震える身体を抱いた。


(私、夜永先輩の力になりたいんです!)

(じゃあ、いのり先輩)


 静かな部屋で、耳の奥にこだまするのは、あのひたむきな声。首を振ってかき消す。

「まりあの優しさだって、きっと嘘だわ」

 もう何も信じないと決めたのだ。まことのためだけに力を使うと。

 いのりは振り返って、また商店街の方へと静かに歩き始めた。


 ――☆☆☆――


「お疲れ様です、まりあちゃん」

 まりあに駆け寄ったかなえは、まりあの表情がぱっとしないことに気がついて、首をかしげた。

「大丈夫ですか?」

「いや、最近、かなえなんか強くなってない? って思って。ほら、前も悪魔浄化したのかなえだったじゃん」

「えっ」

 かなえはぽっと頬を染めてはにかんだ。

「そ、そうですか……? まりあちゃんの足を引っ張ってないならいいんですけど」

 シトラスがぽんっと音を立てて現れた。

『カナが強くなったのは、〈夢〉の力が強まったからなんじゃないかしら』

 思い当たるのはもちろん、先日の奏ララの悪魔との戦いだ。自分自身の夢を見つめ、目標を変えたあの日から、かなえは何かが吹っ切れたのだろう。

 レイジーがまりあの頭に乗っかって笑う。

『逆にまりあは〈やさしさ〉のパワーが足りてないから、いつまでたっても弱いんだな。ヒヒヒッ』

 ズキン、と胸が痛む。夢に一歩ずつ近づくかなえを見るたび、まりあの心の中のモヤモヤが育っていくのが分かった。

「そんなこと、言われたって」

 まりあはイルミネーションの飾られた壁に寄りかかって、俯いた。

「優しくなろうって思って優しくなれるもんじゃないじゃん」

「まりあちゃん……?」

 かなえのキラキラした瞳が、今はとても怖い。夢を見つめるかなえと違って、自分が怠惰で恥ずかしい。優しくならなきゃいけないのに、刺々しい言葉はとまらない。


「っていうか、私足引っ張ってるだけだし。もうかなえだけで聖心乙女やればいいじゃん」


 ほぼ勢いで言ってから、はっとして顔を上げる。まりあの肩に触れようとした手を引いたかなえは、目に大粒の涙を湛えている。その表情が、まりあの心臓を貫いた。取り返しの付かないことを言ってしまった。

 ローズとレイジーがまりあの頭の上でいつものように大喧嘩を始めた。

『まりあさん、今のはあんまりですっ!』

『いや、そう思うのも仕方ないって。活躍できないのに戦えなんて、普通に考えてしんどいだけじゃん』

『でも! 今までかなえさんと二人でやってきたじゃないですか! どうしてその場の感情に流されるんですか!』

『じゃあどうしろってんだよ。ずっとこんな無意味な戦いして、かなえの足引っ張ってろって言うのかよ!』

『じゃあ強くなる方法を考えればいいじゃないですか! それすらしようとしないならただの怠惰です!』

 まりあはずっと俯いていたけれど、遂にばっと顔を上げた。堪えきれなくなった涙が、頬を伝う。

「うる、さい……っ!」

「まりあちゃん!」

 まりあはかなえたちから逃げ出し、商店街を駆け抜けた。氷で滑って、立て直してまた走った。

(私はかなえとは違う)

 かなえと違ってまりあには、何の目標も夢もない。どうして自分の天使は〈夢〉でも〈理想〉でもなくて、〈優しさ〉なんて曖昧で、誰にでもあるようなものなんだろう。〈優しさ〉って言うなら、かなえの方がずっと優しいのに。

(聖心乙女として闘うのも、こうやって悩むのも迷うのも、全部、全部)

「めんどくさいんだよっ!」

「きゃっ」

 空に向かって吼えた瞬間、思い切り誰かにぶつかった。

「うわ、ごめんなさい!」

 しりもちをついた相手は、夜色の長い髪をかき上げてまりあを見上げた。

「い、いのり先輩!」

「あなた……、どうしたの?」

 まりあは自分がどんなひどい顔をしているか思い出して、腕で隠した。

「私でよければお話聞かせてちょうだい。お茶を奢るわ」

 いのりは立ち上がるとまりあの空いている右手をそっと取って、商店街のカフェに入った。


 ――☆☆☆――


「つまり、かなえと一緒にボランティア活動のようなことをしているけれど、かなえの方が優秀で自分はいらないんじゃないかと思い始めている、というわけね」

「……はい……」

 まりあはイチゴのチーズケーキにそっとフォークを入れた。たくさん泣いたせいか水分がなくなった口の中に、しっとりしたクリームが沁みる。

「かなえは優しいから、私がどんなに足手まといでも、一緒にやりたいって言ってくれるんです。でも、私なんてかなえと違って流されてやってるだけだし……」

「へえ」

 いのりはハーブティーを一口飲み込むと、まりあの瞳を見据えて微笑んだ。冷たい光を帯びた闇色の視線がまりあを射抜く。

「まりあ、あなた、本当はやりたくないんじゃない?」

「へっ、なんで」

 まりあはぱっと顔を上げた。

「そういう顔してるもの」

 いのりは白い手を伸ばして、まりあの頬に触れた。

「そ、そうですか?」

 そんな顔をしていただろうか。でも、そう言われてみると、やりたくない気持ちがふつふつと見つかってくる。

 戦うのは痛いし、苦しいし、危ないし。周囲に正体がバレないようにするのも一苦労。みんなが遊んでいるときに、どうして自分たちだけ戦っているのだろう、と思うこともある。おまけに戦っても役に立てないし、褒められもしない。まりあが聖心乙女をやる意味なんて、ないのかもしれない。

「あなたは随分かなえのことを信用しているようだけれど、あの子はあなたをどう思っているのかしら?自分より能力がないって馬鹿にしているかもしれない。本当はあなたとなんか一緒に居たくないけれど、惰性で一緒にいるのかもしれないわ。――あなたは少し、疑うことを覚えたほうがいい」

「いのり先輩!かなえに限ってそんな――」

 まりあは机に手をついたけれど、すぐに椅子に座りなおした。

「すみません、大きい声出して……、ただ、かなえはそんな子じゃないです」

 おずおずと見上げると、いのりは唇を結んで俯いていた。けれど、すぐにまりあに向き直って先ほどの微笑みを取り戻した。

「……いえ、私こそよく知らずに余計なことを言ってしまってごめんなさい。

 ただ、あなたは考えすぎだと思ったのよ。あなたは優しすぎて周囲のことばかり考えてしまうから、今は自分を優先してみてほしいって言いたかったの」

「自分のことを?」

「ええ。深く考えず、決めてしまえばいいと思うわ。みんなのことも、かなえのことも忘れたら、あなたはどうしたいの?もう答えは決まっているはずよ」

 まりあは胸に手を当てた。聖心乙女なんて、めんどくさい。かなえと一緒じゃなければやろうとも思わなかった。たくさん迷ってきたけれど、考えてみたら最初からそうだったのだ。

「いのり先輩、ありがとうございます。私決心できました!」

「そう、お役に立てて嬉しいわ。お会計は私がしておくから、あなたは帰りなさい」

「はい!ありがとうございます!」

 カフェを飛び出すまりあの後ろ姿を見送ると、いのりは空のカップに入ったスプーンをいじりながら、愛しげにコンパクトに向かって語りかけた。

「馬鹿な子よね、私が妖魔乙女だってことなんてつゆ知らず、いのり先輩、なんて呼んで」

 信じて、騙されて。かわいそうに。胸の中で呟くと、罪悪感をかき消すように笑う。

「それももうすぐ終わり、あの子はじきにこちら側へ堕ちるわ。人間は誰でも悪魔に従順なのだから……そうよ、たとえ、聖心乙女だって」


 ―――☆☆☆―――


「――というわけだから、私、しばらく聖心乙女はお休みすることにした! さっきは感情的になってごめん!」

 まりあがかなえに向かって直角に頭を下げると、かなえは目をぱちくりさせて、優しく細めた。

「うん。まりあちゃんがそう決めたなら、カナは一人でも頑張ります。でも帰ってきたくなったらいつでも帰ってきてくださいね」

 あまりにかなえが優しいので、まりあの胸はまたちくんと痛んだ。かなえは気弱そうに見えて、こんなにも強い女の子なのだ。

「……かなえはやっぱりすごい聖心乙女だよ」

「え、なんですか?」

「ううん、なんでもない。じゃあ、また明日!」

 まりあはくるりと踵を返すと、家へ向かって歩き出した。


 ――☆☆☆――


 家に着いたまりあは二本目のゲーム機を投げ出して、ベッドに倒れこんだ。クリアしていないゲームはまだ三本もある。迷うことなく一番上に積んであるカセットを手にした。

「なんかもう……、何もしたくないし何も考えたくないなぁ」

 以前だったらこんなことを言おうものならすぐにローズが飛んできてきゃんきゃんお小言を言ってきたのに、今日の部屋は静まり返っていた。

「ローズ、なんで何にも言わないの?」

 ローズはため息まじりにつぶやく。

『天使と悪魔の役目は人間の選択を助けること。人間が決意した後に口出しすることはありません』

「そうなんだ」

 物心付いた時からずっと、何をするにしても頭の中で闘う天使と悪魔の声に苦しめられてきた。でも、深く考えるのをやめてこれと決めてしまえば、二人はこれほどまでに静かになってくれるのだった。

「なんだ、簡単じゃん」

 ゲーム機の電源を入れると、気の抜けるような音楽が静かな部屋を満たす。

「わぁぁん、おかあさーん……どこー?」

 ふと、窓の外から子どもの泣き声が聞こえてきた。まりあは寝っ転がったまま引き出しからイヤホンを取り出すと、乱暴に耳に突っ込んだ。


(もう迷わないって決めたんだ)


「いた! おかあさーん!」

「もう、よそ見しちゃダメって言ったでしょ!」


(ほらね。私が迷ったって仕方ないんだよ。時間の無駄なんだよ。私の〈優しさ〉なんて、些細で、弱くて、なくても世界は何にも困らないんだから)


「ふふ。じゃあ、怠惰に身を任せて生きてみたら?きっととっても気楽で、あなたらしい生き方ができると思うわ」


 誰かの声がまりあを誘う。まりあは眠くなってきて、ゆっくりと目を閉じた。

(……うん。そうしよっかな。人に優しくしようとして、悩んで、迷って、もう疲れたんだよ)


 まりあのベッドごと、鉄の鳥かごが覆っていく。

 閉じた瞼の裏側に、いつかの二人の赤ちゃんのお母さんの笑顔が浮かんで、消えた。


 ――☆☆☆――


「う、うええ……ぐすん……」

『かなえ、泣かないで……』

 まりあと別れ、家に帰った後、かなえは部屋で泣いていた。

 まりあの前では気丈に振る舞っていたものの、一人になった途端、今後一人で悪魔と戦っていくことへの不安が溢れ出してきたのだ。

「まりあちゃぁん……カナ、一人じゃ怖いです……」

『わがまま言っちゃダメよ、カナ。まりあには一人の時間が必要だわ。支えてあげましょう?』

「……うん……」

 ぐしぐしと涙を拭ってかなえは顔を上げた。

 その時だった。


 ――めんどくさいことはしないって決めたんだ。ごめんね、かなえ。


『かなえ、今の声って……』

 シトラスが顔を上げた時には、かなえはもう立ち上がって部屋を飛び出していた。


(まりあちゃん、まりあちゃん……っ)

 冷え切った町を走る。商店街の先ほど帰ってきた道を逆流する。声は林の奥、十字坂公園から――まりあがかなえを救ってくれた、あの公園から聴こえる。

 霜の降る林を抜けた先、顔を上げるとと、公園の真上にベッドをまるごと一つ囲い込む巨大な鳥かごがあった。


 ――これも私の決断なんだ。夢のあるかなえには分かんないだろうけど、私はこんなに弱いんだよ。


「まりあちゃん!」

 かなえは叫ぶ。ベッドの上のまりあは目を瞑ったまま枕に顔を埋めた。かなえは鳥かごに向かって声を上げた。


「レイジー。そこにいるんですよね。出てきなさい」


 鳥かごの裏から、背の高い少女の姿になったレイジーがひょっこりと出てきた。

『かなえってそんな喋り方もできるんだなぁ』

「ええ、カナは怒っていますから」

『あたしに怒られたって困るよ。これはまりあの決断なんだ。あたしはそれに従ってるだけ』

「決断……」

『そう、決断。怠惰に過ごしたいと思ったら、怠惰に過ごす。悪いことしたいと思ったら、悪いことする。それがまりあの決断』

 かなえは唇を噛んだ。かなえは、まりあなら〈優しさ〉に従うことを選び、かなえのところに戻ってきてくれるだろうと信じていた。かなえが迷ってもいつだって〈夢〉に向かって進むのと同じように。

 けれど、まりあにはそれが出来なかった。迷うことをやめた結果、〈怠惰〉を選んだのだ。

『だから、まりあの決断を邪魔するなら、かなえだろうと許さないよ!』


(まりあちゃんを追い詰めたのはカナだ)

 かなえはぎゅっと眉を寄せて鳥かごを見つめ、コンパクトを手に取った。

(だから、カナがまりあちゃんを取り戻す!)


「ホーリーコネクト! 聖心乙女、ホーリー・ドリーミングシトラス!」


 背中の翼をめいっぱい羽ばたかせて、鳥かごと同じ高さまで舞い上がった。

 レイジーの放つ無数の矢がかなえを襲う。かなえはリボンで盾を作ると矢を跳ね返した。リボンの盾にひびが入り、粉々に砕ける。かなえは慌てて身を翻した。

(つ、強い!)

『へへっ、強いだろ。悪魔の強さって、悪魔の誘惑する力の強さなんだってさ』

 まりあは毎日毎日、それほど強い〈怠惰〉の誘惑と心の中で闘っていたのだ。いつかかなえは、まりあの天使と悪魔が喧嘩しているのを見て笑った。けれど、今はそれがまりあにとってどれほど負担だったのか分かる。


 ――そう、私の悪魔は強いの。聖心乙女なのにおかしいよね。

 ――優しくしたいのに、悪魔が邪魔してすぐ優しくできない。それなら最初から優しい心なんてない方がいいに決まってるじゃん。迷わない人が優しくすればいいじゃん。


 ――私の優しさなんて、意味ないんだよ。


「まりあちゃんの馬鹿っ!」


 ――わああぁっ!


 かなえは鳥かごに向かって光の帯を放った。突然の眩しい光にまりあは鳥かごの中で悲鳴をあげた。

『お、おい!何やってんだよ。本人を攻撃しても仕方ねえだろ!聖心乙女なんだから悪魔を倒しに来いよ!』

「カナはまりあちゃんと話がしたいんです。さあ、起きて、まりあちゃん!」

 寝起きのぼんやりとした表情のまりあが、少し枕から顔を上げる。


「かなえ」


 かなえは鳥かごの隙間から手を伸ばして、まりあの頬に触れた。


「まりあちゃんの優しさが意味ないなんて、そんなこと次に言ったら、カナ、ぶん殴りますよ!」


 ――でも私は弱くて、迷ってばかりで……。


 かなえは鳥かごの中のまりあの手を取った。冷え切った力ない指先を、小さな手のひらで包む。

「迷ってもいいんです。すぐに決めなくたっていいんです。時には怠けたって、自分を優先したっていい。時には後悔するかもしれないけど、それでいいんです。まりあちゃんは天使じゃなくて、人間の女の子なんだから」


 優しくしたい。――でも面倒くさい。

 素直に言いたい。――でももしそのせいで相手が怒ったら。

 新しいことを始めたい。――でも続けられるだろうか。

 まりあはいつでも迷っていた。迷って迷って、ようやく出した結論でも、上手くいかなくて結局後悔することもある。


 でも、かなえはそんなまりあが好きだった。


「だって、それがまりあちゃんのいいところだから。優しいのにめんどくさがりやさんで、いつだって躊躇って、迷って。

 そんな人間らしいまりあちゃんだから、カナは救われたんです」


 かなえは、まりあと初めて出会った日のことを思い出す。

 窓の外を桜が舞う中、クラス中の視線を集めて、かなえは泣き出しそうだった。

(夢のためにボーカルレッスンに通ってます! だから福祉委員はできません!)

 大きな声でそう言おうとして、小さな吐息だけが漏れた。中学校のクラス一つにすら声を響かせられないのに、歌姫になりたいなんて笑わせてしまう。

 逃げ出した視線の先に見つけたのが、顔中冷や汗だらけのまりあだった。

 自分が押し付けられそうなわけでもないのだから、他の生徒のように我関せずという表情で座っていればいいのに。まりあは出会ったばかりのクラスメイトのことを必死で思って、迷っていた。

 かなえは胸が熱くなった。まりあのその気持ちがどれほど嬉しかっただろう。ついにいっぱいに溜まった涙が雫になって落ちた。

 そしてその時だった。


 ――わ、私やります! 私習い事とかしてないし! あっ、えっと、私白羽です。白羽まりあ、福祉委員で!


「迷って迷って苦しんだ分だけ、まりあちゃんは強くなれる。誰かの心を本当に救える。

 まりあちゃんは気づいていないかもしれないけど、まりあちゃんは誰より強く優しいんです。まりあちゃんは、最高の聖心乙女です!」


 鳥かごの外から優しい光が射す。かなえの小さく力強い手が、まりあを引いた。

 忘れかけていた天使の声が響く。

『まりあさん、私のこと思い出してくれましたか』


 ――うん、かなえのおかげで思い出したよ。私の〈優しさの天使〉


 迷いたくなくて目を逸らしていた、無駄になってしまうくらいならと捨ててしまいかけた、そんな優しい心を、まりあはそっと拾い上げた。


 まりあはバサッと布団を払うと、両手で鳥かごを掴んだ。

「ローズ、レイジー、私を手伝って!」

『もちろんです!』

『はいよ』

 左の柵をローズが、右の柵をレイジーが引っ張って、鳥かごをこじ開ける。

「私は決断しない。何度でも揺れて、迷って、立ち止まって、そうやって誰かを救ってみせる!」

 鳥かごが歪む。まりあはぐっと裸足の足を踏みしめて、柵と柵の隙間から飛び出した。まりあのいなくなった鳥かごは砕けて消えていく。

「まりあちゃん!」

「かなえ!」

 飛び降りたまりあをかなえが両腕で受け止めた。そのままお互いを強く抱きしめる。鳥かごの欠片がきらきらと降り注ぐ中、かなえとまりあは二人、私服姿で公園に降り立った。

「かなえ、ありがとう。心配かけたね」

「ううん。まりあちゃんが帰ってきてくれて良かった、です……、ほ、ほんとうに、まりあちゃん」

 張り詰めていた気持ちが解けたせいだろうか、かなえの笑顔がくしゃっと歪んだ。まりあはそんなかなえをもう一度胸に抱きしめた。

「さあ、帰ろっか」

「はい!」

 林を抜け、橋に差し掛かる。すると、橋の真ん中に人影が現れた。私服姿のいのりが私服のワンピースを風に揺らして立っていたのだ。

「いのり先輩!」

 まりあはいのりに駆け寄ると、手を取った。

「さっきは相談に乗ってくれてありがとうございました! なんか色々リセットできた気がします!」

 いのりは何も答えず、冷たい瞳でまりあを見つめた。熱のない闇の色に背筋が凍る。思わず後ずさると、いのりが唇を開いた。

「あんなに言ったのに、迷うことを選ぶなんて。本当に信じられないわ」

「い、いのり先輩……?どうかしたんですか?」

 どくん、どくんと心臓が高鳴る。この冷たい目をまりあは見たことがあるような気がする。

 後ろから駆け寄ってきたかなえがまりあの腕を引いた。

「まりあちゃん! なんか変です、先輩から離れて!」

「ふふ、ふふふ……」

 いのりは突然自らの身体を抱きしめてくすくすと笑い出した。その表情に、まりあの足は動かなくなる。

「まだ気付かないのね。いいわ、教えてあげましょう」

 いのりはまりあの手を振り払ってコンパクトをかざした。


「イーヴィルコネクト」


 まりあの目の前に黒い闇の風が吹き荒れる。まりあの髪を激しく揺らす風の中、目の前の少女は闇を纏い姿を変えていく。

 まりあは思わず呼吸を止めた。


「愛しき嘘に口づけを。妖魔乙女、イーヴィル・ナイトネイビー」


「うそ、……いのり先輩……」

 そこに、まりあに先輩と呼ばれて頬を染めた憧れの先輩はいなかった。悪魔の翼を携えた少女は、妖艶に微笑む。

 まりあの隣でかなえが顔を青くして叫んだ。


「いのり先輩が――妖魔乙女!?」

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