ずっと好きだったあなたへ

 あなたが生きていたとき、わたしは一度も「好き」と言いませんでした。


 思えば、あのときが最後のチャンスだったのでしょう。開花を待つ桜の下で抱きしめられたあのときが。


「好きだ」


 それは何度となくかけられてきた言葉でした。あなたにとっては挨拶代わりの、軽い言葉。それがどうしたことでしょう、このときばかりは違いました。まるで胸にしまったままでは火傷しそうになる何かを思わず吐き出したような、そんな声の調子だったのです。


 わたしは驚くばかりでろくに返事もできませんでした。「痛いよ」そう言ってあなたの腕を振りほどこうともがくばかり。あなたが吐き出した言葉を拾いかねて、そのまま落っことしてしまったのです。


 あのとき素直に「好き」と言えていたら、きっとこんな手紙を書くこともなかったでしょう。


 天国か地獄か。はたまた別のどこかなのか。わたしには知る術がありませんが、それがどこであれ、この手紙があなたの元に届くように願います。


 ずっと言えなかったこと、本当の気持ちが伝わるように。



 あなたは「好き」を惜しまない人でした。


 いまでも思い出します。最初は中学校に入学して間もない頃のことでした。校庭の葉桜にレンズを向けていたわたしに、あなたは「好き」と言ったのです。自分は満開に咲き誇る桜よりも、葉桜の方が好きだと。


 あれはきっと、わたしに話しかける口実を探していたのでしょう。一度、あなたに直接そう指摘したことがありました。あのとき、あなたは「次に葉桜の季節が巡ってきたとき確かめてみるといい」とはぐらかしましたね。まさか、その機会が永久に失われるなんて思いもしなかったはずです。


 葉桜だけではありません。あなたにはたくさんの「好き」がありました。


 通学路のあじさい、モーツァルトが流れる喫茶店、繁華街のざわめき、熱いお風呂、体を鍛えること、野良猫を手なずけて膝の上で撫でること。


 いったい、そのうちのどれだけが本当だったのでしょう。わたしはしばしばあなたに疑いの目を向けました。疑り深い少女にあなたはさぞかし手を焼いたことでしょう。


 しかし、これにはわたしにも言い訳があります。


 だって、どうして「好き」だなんて簡単に口にすることができるでしょう。


 わたしはたった一回の「好き」すら惜しんでいたというのに。


 最後の抱擁のときにさえ、何も言えなかったというのに。



「好きです」


 同級生の男の子に告白されたのは、奇しくもあの桜の木の下でした。秋風が枝を揺らし、わたしと男の子の間に葉を落とす光景をいまでも鮮明に覚えています。


 ときおり考えるのは、あのときもしも彼の告白を受けていた場合のことです。あなたとの関係を断ち切り、彼のような同世代の男の子と付き合っていればどうなっていたことでしょう。


 わたしはもうちょっと素直になれたんじゃないか。そう思うのです。あなたとくらべて子供っぽくて察しが悪い彼に苛立ちながらも、素直に「好き」と伝えられたのではないか、と。


 幸か不幸か、実際のあなたはわたしたちよりずっと大人でした。いつだってわたしの気持ちに先回りしてそうとは気づかせないような気遣いができる人でした。


 わたしの遠回しな「好き」に気づいて自分から抱きしめてくれました。戸惑ったふりをして見せるわたしに「ごめん。でもこうしたくて」と謝りながら髪を撫でてくれました。わたしがそれ以上のことを求めていても、すぐに察して応じてくれました。


 わたしはそんなあなたに甘えていたのだと思います。


 あなたの「好き」に甘えて、自分の「好き」を惜しんでいました。つまらない意地を張っていたのです。


 そして、何より怖かった。言葉にしてしまえば失いそうな気がして、ずっと言えなかったのです。


 あなたはきっとわたしの「好き」なんて求めていなかったでしょう。ただそばにいればそれだけで満足してくれたでしょう。あの日、葉桜に向けた笑みを絶やすことはなかったでしょう。いつだってそっと手を伸ばし、慈しんでくれたでしょう。通学路のあじさいや、公園の野良猫に対してもそうするように、惜しみなく「好き」を与えてくれたでしょう。


 そのたくさんの「好き」がわたしにはもどかしかったのです。どうしてあなたの「好き」を独り占めできないのだろう。ずっとそう思っていました。なのに、意地を張って気にしないふりをしていたのです。


 きっとあなたにはお見通しだったことでしょう。


 それでも、わたしは自分の口から言うべきでした。たとえ迷惑に思われても、距離を置かれることになっても、わたしはわたしの想いを伝えるべきでした。いまになってそう思います。



 伝えられなかった想いはいまも燻り、胸を焦がし続けています。


 もしも、あなたに会えるなら、今度は自分からその胸に飛び込んでいくでしょう。力いっぱい抱きついて、その胸を涙で濡らすでしょう。そしてこれまで言えなかった本当の気持ちを絞り出そうとするでしょう。


 しかし、わたしはもう最後のチャンスをふいにしています。奇跡は二度も起こらないでしょう。そのくらいのことは子供のわたしでもわかります。


 あの日――あなたが死んだ日、わたしはあなたの「好き」を受け止められませんでした。「好き」と言うことができませんでした。あなたの腕から逃れ、あろうことか睨みつけたのです。まさか、いつもにこやかだったあなたがあんな悲しげな顔をしているとは思いもせず。


 どうしてそんな顔をするの。


 わたしはむしろ傷ついたのは自分の方だとでも言わんばかりに顔を背けました。


 この期に及んでまだあなたに甘えていたのです。さっきまでのは全部冗談だと笑ってほしかった。その上でもう一度、抱きしめてほしかった。いつも通り「好き」って言ってほしかった。そしたら、わたしだってきっと――


 わたしはあなたに背を向けました。後ろから抱きしめてくれるように。しかし、あなたが動く気配はありません。わたしは一歩踏み出し、しかしやはりあなたの反応はなく、わたしはさらに二歩三歩とあなたから遠ざかり、気がつけば走り出していました。


 本当は嬉しかった。同じくらい強く抱き返したかった。「好き」と言いたかった。


 なのに、どうしてでしょう。わたしは逃げ出しました。そんな自分がふがいなく、涙が溢れて止まらないのに、あなたを振り返ることさえできませんでした。


 終わることのない桜並木、開花を待つ桜並木の中をわたしは走り続けました。走って走って、やがて涙とともに目が覚めて、クラスの連絡網であなたが命を落としたと知ったのです。


 もうわたしに奇跡はありません。


 神様が与えてくれたたった一回のチャンスをどぶに捨ててしまったのです。


 あれからどれだけの夜が過ぎたでしょう。どれだけの涙を流したでしょう。あなたがいない春が訪れ、桜並木が鮮やかに色づき、そしてその花がすっかり散ると、葉桜の季節が巡ってきました。


「好きです」


 あの男の子からふたたび告白を受けました。あなたを忘れることなんてできないのに、わたしは彼の「好き」を受け入れました。わたしもいずれ彼に「好き」と言うことになるのでしょう。わたしたちはどこにでもいる普通の中学生カップルになって、当たり前に「好き」を交わし合うことになるのでしょう。


 その「好き」ははたして本物なのでしょうか。わたしが言いたくても言えなかった「好き」と同じものなのでしょうか。


 わかりません。


 わたしにできるのはこうして書くことだけ。この手紙は明日にでも庭で焼くことになるでしょう。言葉が煙となってあなたに届くことを願ってペンを置きます。


 さようなら、わたしの大好きな先生。

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