第4話 追憶
「失礼します」
ノックをしてすぐ、アクウォスはエリス・デアボルグ課長の私室に入った。
「すまないな、アルベール」
「いえ」
言葉とは裏腹に、彼の言葉は若干の震えがあり、漆黒の瞳は所在なさげに漂っている。
「お前はわかりやすい」
エリスは努めて柔らかな笑みを浮かべ、机から立ち上がった。
「エルマ・ブラヴィアがゴルタビア王国にいる。間違いないそうだ」
何気ない口調。その裏に隠された期待と圧力。エリス・デアボルグは彼に容赦をするはずもなく、またできるような間柄でもなかった。
「私が掃討すべきなのでしょうか」
「誰よりもお前が適任だと、私は思うが」
エリスは微動だにせず、一直線にアクウォスを見つめた。
「手を回してある。ルース・ブラヴィアと共に向かえ」
「承知いたしました」
「――気をつけろ」
エリスの漆黒の瞳は、夜の闇よりも深く、暗い。
「戦が始まる」
ゴルタビアと、ですか。
という言葉を飲み込み、彼は無言で私室を後にした。
夜は、実のところ得意ではない。生まれつき目が悪くて夜目が利かない身体であるのはもちろん、アクウォスにとって夜は恐怖の象徴でもある。
震えた指に理由をつけたくて仕方がないように、いたずらに煙草の火を消した。
妻はまだ、帰ってきていない。
「お前はこれから何度もこういう目に遭うだろう。その前に――私が教えてやる」
闇に覆われた部屋に、若き日のエリスの幻影がちらつく。飢えた豹のようなすらりとした痩躯。若き日の彼女の身体には、今以上に無駄なものが一切なかった。
全身を漆黒の魔力に覆われ、彼女の欲望にまみれた思考がアクウォスの肌を超えて直接脳髄に浸透する。
「感じるか、醜悪な欲望を」
頭の中で響きわたるエリスの叫びを振り払い、アクウォスは目の前の女を睨む。身体に魔力が侵出しているのを感じる。掛けられた体重は徐々に重みを増し、彼が振り払うことのできないほどの強さになる。彼女は澄ました顔をしているが、秘められた狼のような欲望は彼の中に奔流となって流れ込んでいく。
全身の自由はとうに奪われていた。彼の魔力は身体の奥深くへ押し込められ、代わりに表層はエリスの漆黒が浸食していた。
エリスの唇がアクウォスのそれを奪った。身体が熱くなり、彼の下腹部は不自然に浮き上がった。
「ここまで奪われては、もう為すがままだ」
アクウォスを捕らえたい、取り込みたいといった直接的な欲望ばかりを口にする漆黒の魔力から理知的な声が聞こえた。目の前の彼女は一心不乱に彼の口腔を舐っていて、先ほどまでの澄ましたような冷静さはどこかへ消えてしまっていた。
不意に目眩がして、アクウォスは寝床に倒れ込んだ。水と砂を織り交ぜた寝床は柔らかに彼を受け入れる。
「へえ、エリス様がそんなことをしたんだ」
彼の身体を押さえつけているのは、金色の髪をなびかせた、豊満な体つきの女性士官だった。赤い魔力は、やはりアクウォスの身体を外から浸食している。
言葉が出ない。窒息しそうなほど押さえつけられていた。エリスの時とは段違いの、ひとたび抵抗すれば生命をも奪いかねないほどの強さ。自分と同い年なのに、なぜ彼女は准尉で、准一級魔術士なのか、その力の差を思い知らされた。
「ごめんねえ、あたしはエリス様ほど優しくないから」
灼熱のような痛みと、全身を切り開かれるような感覚が彼を襲った。もっとも正確にはこれは追憶であって今この時、彼の身体に物理的な傷などありはしないのだが――アクウォスはしかし、抵抗を試みた。その圧倒的な力を前に、抗えば死すらあり得るその環境で、快楽に身を委ねることもできたにも関わらず、いや、むしろ快楽に身を委ねていたからこそなのではあるが――彼は身体の奥底に押さえられていた魔力をぶつけた。
「っ」
「ほらね」
次の瞬間、彼の身体はずたずたに切り裂かれ、全身から血が吹き出した。
「でも、やると思ってた」
エルマ・ブラヴィアは悪意を秘めた天使のように官能的に微笑むと、鈍く光る、拳ほどの大きさの石を傷口のひとつにねじ込んだ。
「好きよ」
「だから、一生愛してね?」
意識が反転した。
「アル?」
我に返ると、いつの間にか帰宅していたキサラが、帝国軍の制服のままアクウォスの額に手を当てている。
「エルマの夢?」
彼女は心配そうに、それでいて腫れ物にふれるかのように訊いた。
「ああ――すまない」
「謝らなくていいって」
このような形とはいえ、自分以外に忘れようのない
たとえそれが政略結婚であったとしても、キサラにとってはずっと好きだった幼なじみであることには変わりない。
「エルマの居場所がわかった」
「会いに行くんだ」
「事実上の討伐指令だ」
「ルースも?」
「ああ。課長からの指示だ」
キサラは小さくため息をつく。
そして、制服の隠しポケットから小さな石の板を取り出した。
「これ、持って行って」
「それが、緊急脱出用の」
板には魔術回路が刻まれている。ほんの少し魔力を注ぐだけで、あとは魔石と魔術回路の反応で魔術が発動する仕組みだ。
「あんたもルースも、風属性はからきしでしょ」
アクウォス持つ魔力は火属性特化、ルースは冷属性偏向、どちらも別の理由で風属性を有する魔術は苦手としている。
「これを使えば、ゴルタビアからでも帝国領に戻れる。ただし、一回しか使えない」
「何度も要るものでもないから、大丈夫だろう」
アクウォスは板を手に取った。寝床から起きあがる。まだ、軽い目眩がしたがそれを無理矢理振り払って、涼しい顔をした。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫だ。キサラがいるから」
そこに心がないことを、知ってしまうキサラはほのかな自己嫌悪に陥っている。
「俺はお前を愛している」
「無理、しなくていいからね」
「してない」
アクウォスは冷静に、きっぱりと言った。
それだけは否定されたくなかった。
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