第3話

 その日も撮影があり、少し帰りが遅くなった。真冬に比べて気温は上がって来てはいる、桜だって散りかけだ。春爛漫は過ぎても三寒四温は過ぎやらない、迷惑な気候。冬用パジャマをしまうかどうかで母親が苦悩するその季節、乙茂内はその日もいつもと同じルートで家路についていた。どのルートを通っても必ず辿り着く家の前には、誰かが立っている。

 ぱあっと顔を綻ばせて、乙茂内はその陰に近づく。


「お兄ちゃん!」


 だがそのお兄ちゃんの手にあったのは。

 メスだった。

 気付いた乙茂内は足を止め、ひっと小さな悲鳴を漏らす。

 お兄ちゃん、こと、長束椎菜ながつか・しいなは明らかに異常な目をしていた。


「美女」

「おっお兄ちゃん?」

「せっかくお前が危ないバイト始めたから守ってやってる僕を、ストーカー扱いかい? 誰が知らない頃も美女の可愛さを一番知ってるのは僕だったのに、お前はそれを全国に晒して。僕の物だった美女はみんなのものになって。美女は僕のだろう? 昔からお兄ちゃんのお嫁さんになるって言ってくれてたのに。あんな阿婆擦れた雑誌に載るようになって! 僕の美女がっ!」

「ひッ」


 本当に怖い時って声も出ないんだよ。

 乙茂内が陰鬱そうに言った事を、俺も知っている。高校二年の、秋雨の日に。


「はいストーップ」


 青い髪を獅子のように乱しながら、メスを振り上げた長束椎菜の胴に釘バットの一撃を入れたのは、百目鬼先輩だった。

 乙茂内が振り向くと、ゆったりしながらも存外速い速度で歩いてくるキツネさんがいたのだという。


「貴方の愛玩衝動を満たすためにいるんじゃなくてよ、乙女ちゃんは。彼女は彼女の選択をしてここにいるの。学業も頑張って進学校に入ったし、素行不良もなく教師の受けも上々、校内でも控え目な美少女として人気者。羨ましいの? 自分が、懐かしい世界に置き去られたことが」

「げぇっ……げ、うぇっ」

「耳目ちゃん、警察に電話」

「ま、待ってください!」


 乙茂内の声に三人が目を丸める。


「け、警察沙汰にしちゃったら、お兄ちゃんお医者さんになれなくなっちゃいます! ずっとずっと頑張って来たんです、だから、警察は呼ばないでください! お願いします、百目鬼先輩、佐伯先輩!」


 刃物を振りかざされて尚、相手の将来を心配してしまう。自分よりも相手を庇ってしまう。

 それは乙茂内の悪癖だ。

 多分一生治らない、悪癖だ。


「……キツネさん、で良いわよ。美女ちゃん」


 髪をかき上げてキツネさんはため息を吐く。


「その代わりあなたにはある事をしてもらうわ」

「あること……?」

「そう」

「ずばり! チラシ作りなのだ!」

「へ?」

「私達二人だとどうしてもダサい仕様になっちゃうのよね、昔のホームページみたいなワードで作ったみたいな。だからデザイン案が欲しいの、あなた一応そう言う世界の人でしょう?」

「で、でも美女そう言うのに関わったことなくてっ」

「はいこれ。百目鬼印のデジカメ。これで動画取ってきてくれれば良いからさ、頼むよー、二人じゃ本当同好会にもなれなくて困ってるんだわー」

「実際の作業は私がどうにかしてみるわ。これでもデジタルネイティブ世代ですもの、努力はきっと実を結ぶし解らなくなったら父さんに訊けばいいし」

「全然デジタルネイティブじゃない!」

「あら、今の高齢者の方が色んな使い方を試行錯誤してきたものよ。だからそちらを利用した方が良い。そしてもう一つ、美女ちゃん」

「は、はい?」

「あなた私達の部に入りなさい」

「え……えええー!?」

「大丈夫よ、こういう事件は滅多にないからあなたが釘バット振り回さなくても良いかもしれないし。同好会は四人だから、あと一人、男の子が欲しいわね。女子だけじゃ敷居が高いわ」

「あ、あのあのあのっ! だったら入れたい人がいるんですけど、良いですか?」


 悶える長束はすでに視界の外である、この三人。


「犬吠埼哮太君って言って、その、美女の事あんまり見た目とか気にしないでくれる人で」

「具体的には?」

「シャーペン拾ってくれたり、消しゴム貸してくれたり」

「小学生か」

「でも! 美女の事、本当に虐めない人なんです! お願いしますっ!」


 ぺこんっと頭を下げる乙茂内に、キツネさんと百目鬼先輩は笑って良いよと快諾したそうだ。

 ――って。

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