明日に橋を架ける

第28話

 また、ここに戻ってくるなんて、思ってもみなかった。


 というと嘘になる。

 高峰白妙は、会場の前に設置されている看板を睨みつけて立っていた。

 開場前のざわめきと、それに相反するように、ふと訪れる静寂が懐かしい。

 もう戻ってきたくないとは思っていたけれども、いつか、戻ってくるんだろうな、とは心のどこかで思っていた。

「高峰さん。どうしたの?」

 先行していた辻先生が振り返って心配そうな声を出した。

「いえ、何でもありません」

「本当に? 気分とかわるくない?」

「大丈夫ですって」

 心配してくれているのはうれしいが、いささかうっとうしい。

 辻先生にも、白妙の事情を話している。ただし、いくつかオブラートに包んでいるため、辻先生の中で妄想が膨らんでいるようだ。

 まぁ、以前の勝負のことを根に持っていないだけでも、よかったと思うべきなのかもしれない。

 あのときは、白妙も、かなり視野が狭くなっていて、辻先生を完膚なきまでに叩き潰してしまった。しかも、態度もあまり、いや、かなりわるかったから、辻先生には恨まれていても仕方ないと思っていたのだが。

 かるたが激弱でも、先生は先生だということか。

「もう! せっかく高峰さんの復帰戦だっていうのに、みんな冷たいのね!」

 というか、もう通り越して、辻先生はぷりぷりと怒っていた。

「応援に来てくれてもいいのに。同じ百人一首研究会の仲間なんでしょ。しかも、平野先生まで来ないなんて、信じられない」

「いえ、辻先生。私が来ないでって言ったんです」

 辻先生にはわるいが、事実である。

 復帰戦などといえば聞こえがいいが、実際には、ブランクありの不安極まりない試合のことだ。

 醜態をさらすかもしれない試合を見られたいとは、どうしても思えない。

 応援に効果がないなどと冷めたことを言うつもりはない。けれども、今日の試合は、できれば自分の力で乗り越えたかった。

「それでも無理を押して応援に来るべきだと私は思うの!」

 意外と辻先生は押しが強かった。

 辻先生なら見られても平気、というのは関係性が乏しいからなのだが、それは言わぬが華というものだろう。

「先生、私、控室に荷物置いてきますね」

「あ、うん」

 白妙が、サッと奥の廊下に進むと、一転して、辻先生はそわそわとし始めた。

「じゃ、先生はちょっと他の先生方に挨拶してくるわね」

 辻先生は、スタッフの控室の方に歩いていった。

 かるた大会の顧問をやるような先生は年配の人が多い。つまり、辻先生にとっても、先生だということだ。先生同士でも、緊張するのだろう。

 白妙は、丸まった辻先生の背中を見送ってから、生徒の控室に向かった。

 県の規模も小さいから、かるた大会が開かれれば、たいてい顔見知りに会う。できれば、顔を合わせたくないので、と試合時間ぎりぎりに来たのだけれども。

 控室に向かわないわけにはいかないよね。

 白妙は、足取り重く、廊下を歩いた。気が重いからか、廊下がやけに暗く感じる。

「高峰さん」

 ピシッとした声が廊下を張った。

「はい!」

 反射で、応答してしまって、白妙は冷や汗をかいた。

 振り返ると、そこには老婆が立っていた。おそらく逆に染めているのであろう白髪を貝のように巻き上げている。あじさい柄の和服が、そのピンと張られた背中に似合い過ぎており、シャープな眼鏡の奥の青みがかった瞳が、しびれるほど鋭く光っていた。

「お久しぶりです、北条先生」

 北条先生は、少し距離をとって立っているにもかかわらず、その威圧感からか、やけに大きく感じられた。

 思えば、小学生の頃からか。

 かるたのすべてを北条先生に教わったといっても過言ではない。彼女は見た目の通り、ひどく厳しく、そのせいでやめてしまう子も多かった。

 その点、白妙は、練習が厳しくてやめようと思ったことはない。北条先生に従っていれば、かるたに強くなれる。そう信じて疑わなかった白妙は、従順に鍛錬をこなした。

 意識したことはなかったけれども、あのときは、きっと、楽しかった。

 いつから、だろう。

 かるたがつまらなくなったのは。

 勝てる気がしない。

 体が鉛のように重く感じ、神経に錆がついたかのように反応速度が落ちていく。速く動こうとすればするほど、意思と身体のズレが拡大していき、まるで頭蓋を揺すられうかのように吐き気がする。

 北条先生を罵倒したのは、今思えば、ただの八つ当たりだった。もう、どんなことを言ったのかは覚えていないけれど、むしろ、思い出したくないけれど、絶対に後悔するような、ひどいことを言ってしまった。

 つまるところ。

 気まずいったらありゃしないのよ。

 呼び止めた北条先生は、じろりと咎めるように白妙をみつめていた。メデゥーサではないけれど、あの目に睨まれると、身体が意思のように固まってしまう。

 叱られるのだろうか、と白妙が身構えていたところ、北条先生は、何か確かめるように頷いてから、

「何をぐずぐずしているのですか。もう試合が始まりますよ。早く会場に行きなさい」

 ぴしゃりと言った。

 びくびくとしていた白妙は、何を言われたのかわからず、しばらくしてからやっと脳が理解した。

「は、はい!」

 白妙は、荷物を控室に放り込み、あわてて会場の方へと走っていった。

 だから、白妙は、聴き逃した。


「おかえりなさい」


 安堵の笑みを浮かべた北条先生の小さな呟きを。











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