第29話

 い草の乾いた香りが、白妙を出迎えた。

 広い畳の部屋で、多くの選手が一度に競技を行う。均等に用意された競技スペースの近くで選手が試合の開始を待っている。座って精神を整えている者、ストレッチをして体の稼働を確かめている者と、待ち方は人それぞれ。

 しかし、白妙が会場に足を踏み入れたときの反応は、同じだった。

 高校から始めた者もいるだろうが、多くは中学からの馴染み。

 したらば、白妙の顔と、その強さと、それから、競技かるたをやめた、という噂を知っているだろう。

 その白妙が、戻ってきた。

 揃って興味の視線を向ける選手、だが、思惑は、異なるだろう。戻ってきたことを喜んでいるのか、怯えているのか、嘲っているのか。

 針にちくちくと刺されるかのような居心地わるさを感じながら、白妙は、自分の席位置へと向かった。

 対戦者は、男子だった。

 中学の頃に顔を見たことがある気もするし、気のせいな気もする。ただ、彼の視線を見るに、白妙のことを知っているようだった。

 背は高く、その腕ならば、敵陣の奥深くまで簡単に手が届きそうだ。

 どうやって戦おう、と白妙はぐっと背を伸ばし、ふと笑みを零した。

 嫌々来たはずなのに、勝ち方を考えている。そして、それを楽しいと、どうしても感じてしまう。

 負けた時、すごく悔しい思いをするのに、それでもその試合に臨んでしまう、この中毒性に、白妙は哀れにすら感じていた。

 進行の先生と詠み手が入ってきて、ざわつきが収まり、選手はそれぞれの位置に座る。

 まだ心の準備ができていない白妙であったが、進行は着々と進められた。使用する札の選択と配置、それから暗記時間に入る。

 ひどい札。

 白妙は独り言ちる。一字決まりが一枚しかなく、二字と三字決まりが半々。速さよりも、いかに待てるかが勝負の境目となるような配札。

 一方、敵陣はなかなか好配札である。自分の利き手側に一字決まりを固め、速攻を決めようという腹だろう。

 並べながら、白妙は腕の振り方を考える。

 その中で、ハッと気を止めた。

『かささぎの――』

 この歌が、手元に来たのだ。

 競技かるたをする上で、この札には、二字決まりという意味以外に情報はない。歌の意味など、知っていようが、反応は速くならない。

 けれども、なまじ知っているだけに、どうしても視野に入ってくる。

 白妙は、扱いかねて、とりあえず上段右内という中途半端な位置においた。

 自陣にいても邪魔なので、すぐにあげてしまおう。

 残り二分となり、畳を叩く鈍い音が、会場のそこかしらで鳴り響く。白妙もかるいストレッチをしてから、札をかすめるように素振りをした。

 やはり対戦者は熟練のようで、素振りも様になっていた。予想通り、腕が長く、座り位置を少し後ろ側に下げていた。

 進行の先生が、暗記時間の終わりを告げる。

 それは、同時に、試合の始まりを告げた。

 詠み手は、若い女性であった。若いといっても、先生方に比べればという意味であって、雰囲気的には大学生か。おそらくどこぞのかるた部のOGだろう。

 進行が詠み手の名を告げる。

 それを契機に、選手が互いに礼をして、それから詠み手に礼をする。

 半年ほど離れていたが、この所作は、体に染み付いており、白妙は思わず苦笑した。

 詠み手が礼を返し、そして序歌を詠む。

 

『難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花』


 きれいな声だ。

 一音一音を捉えるように、詠う彼女の声は、まだ慣れていないのか、ビブラートとは別に少し震えていた。

 その声が、歌詠み会での泉美の恥ずかしがった顔を思い起こされた。散りかけの桜と、足羽川から吹きすさぶ冷たい風と、陽気に降り注ぐ白い日差し。

 頬を染める泉美、それを眺める平野先生、にやつく千秋先輩と能面の紀本先輩。

 初めてにしては、つっかえながらも、よく詠めていたように思う。いずれは、詠み手として、白妙の試合で歌を詠んだりするかもしれない。

 いや、それは、とっぴ過ぎか。

 白妙は、心の中でクスリと笑って、姿勢をぐいと伸ばし、腰を浮かせた。

 両手を畳につけ、足の指と膝で地面を掴む。まるで獲物を睨みつける虎のように、体を小さく揺らして札に視線を貼り付ける。

 広い会場に、静寂が訪れる。

 静寂の中に、白妙の意識は落ちていき、聴覚神経を研ぎ澄ませる。

 部室でやった試合とはまったく異質な勝負の空気。

 この場の張り詰めた雰囲気が、白妙の勝負師の心を呼び戻す。

 

『今を春べと 咲くやこの花』


 下の句が繰り返され、選手が一斉に身構える。

 緊張の糸が限界まで張りつめられる。臨界点に達した会場の空気が、全員の意思を飲み込んでいく。次の音を待つ、選手の浅い息。詠み手との呼吸にぴたりと合わせる。

 まるで刻が止まったかのような凍った空気に、詠み手は、その潤った舌を震わせて、ビーダマのような調べを転がせた。


『村雨の 露もまだひぬ 真木の葉に』


 空気が弾ける。

 耳から入ってきた情報が、身体をめぐる。

 視線が札をさらい、脳内を電流が走り、腕が振るわれる。

 一文字目が詠まれるや否や、すぐさま、破裂音が響き、札が散った。

 白妙の目の前で、敵陣の札が舞う。

 対戦者の手が札をかすめ、白妙の手は空振った。

 そのまま対戦者は立ち上がり、そして、飛ばした札をとりに歩いていった。

 白妙は、ふぅ、と一息つく。

 

 あぁ、帰ってきたんだな。

 

 い草の乾いた匂い、詠み手の滑らかな歌声、きしめく腕の筋、畳を弾く音、舞い散る札、そして、札を捕れなかったときの、胸のうちのざわめき。

 また、ここで札をとるんだ。 

 負けたら、のた打ち回るくらいに悔しくて、勝っても安堵しかない。

 頂点に立つまでに、どれだけ負け続けなくてはならないのか。そして、本当に、頂きに届くのかという不安。

 しかも、一振りでわかった反射の衰え。

 音が身体の中にない。今まで積み上げてきた耳から腕への反射の経路に錆がついているのがわかる。山の中で電話しているみたいに音への感度がわるく、油を差してないブリキのおもちゃみたいに肩がまわらない。

 つまるところ、マイナスからのスタート。

 考えれば考えるほど、つらいことばかり。

 それでも、負けるのは嫌だというのだから、業の深い性格だと、白妙は一人で気を落とす。

 一度、肩をまわしながら、白妙は、つい思う。

 やっぱり、辞めたいな。

 心の中に渦巻く勝負心と、怠惰と、諦めに気づく。ずっと目を背けていた感情が、ここ一ヶ月の揺さぶりによって、かき乱されてしまった。

 一札詠まれて、まだここに座るべきではなかったのではないか、と白妙は当惑する。

 悩んでいる自分には、戦う資格がない。

 札への真摯な執着心。

 それ以外を、この場に持ち込むべきではない。

 スッと意識が遠のくのを白妙は感じる。 


『霧立ちのぼる 秋の夕暮れ』


 下の句が詠まれ、選手は腰を浮かせた。

 反射で、白妙も臨戦態勢に動じる。

 よそ事が渦巻くなかで、勝負師の思考が、耳を済まさせた。

 でも、こんな状態で手が出るだろうか。

 なんだか、札までの距離がやけに遠く感じる。

 そう気づくと、冷や汗がパッと出て、急に息が苦しくなる。

 やばい、倒れそう、かも……


 そのときだ。

 白妙の視界を一羽の鳥が横切った。


 『かささぎの 渡せる橋に おく霜の』


 自然と手が出た。

 あまりに、自然過ぎて、白妙自身が驚いた。

 今、自分は二文字目を聞いただろうか。まだ、『風――』の二札も、『かくとだに』も出ていない。いつもならば、二文字目のタイミングで動く。終盤の勝負をしかけるときでもなければ、あんな賭けに出ない。

 いや、賭けじゃない。白妙は、ほとんど確信して動いた。

 詠み手の口から溢れ出た文字と一緒に現れたかささぎの幻覚。

 たまたまかもしれない。

 けれども、白妙は、何か得たいの知れない世界に足を踏み入れたような気がした。

 札が弾かれると同時に、会場いっぱいに散らばった星々。

 夜というよりも宇宙の中に落ちたような。

 闇に沈み込む世界を、銀河の灯りが照らし出す。

 足羽川の上空の薄い天の川とも違う。見たこともない風景が、まるであの天の川の中に落ちてしまったような、そんな絶景の中を、一枚の札がかささぎと化して羽ばたき、一迅の線を引く。

「あの、高峰さん?」

 声をかけられて、白妙は我にかえる。

 思わず見惚れて、白妙は札をとりにいくのを忘れてしまっていた。

 あわてて立ち上がり、札を追いかけた。札は思ったよりも遠くに飛んでいて、まさか本当にかささぎになっていたのではなかろうか、と白妙は妄想した。

 でも、さっきのは何だったのだろうか。

 札を手にってみて、よく眺めてみたが、別段おかしなところもない普通の札だ。

 プロセスは違えど、動作は同じ。

 だとすれば、異なるのは、白妙の認識の差。

 少し歌の意味を知っているだけだが、そんな些細なことが、白妙の反射を加速させた、のかもしれない。

 実質はわからない。

 けれども、白妙は、なぜか肩の荷がおりた気がした。

 一枚、気持ちよく抜けたからかもしれない。考えていることが、面倒になったからかもしれない。ただの先延ばしだと思うし、問題は何も解決していないとも思う。

 だけど、今は、この勝負に集中しよう。

 先を一瞬だけ見て、この道の先があることに気づけた。

 それだけで、まだ、白妙はかるたを続けられる。

 札を眺めてかるく頷き、白妙は自陣へと足を向けた。

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