第20話

 潮崎先輩は手を止めた。

「誰に、そう言われたの?」

「いえ、誰かに言われたわけではないですけれど」

「嘘。貫行くんの聞き方じゃない」

「僕の、聞き方ですか?」

「貫行くんは、そんなに突っ込んだ質問して来ないもの。よくもわるくも、私との距離をとった質問をするでしょ」

 あぁ、言われてみれば、そうかもしれない。

 貫行は、密な関係を良しとしない。できれば、他人のままで、一定の距離をとって、面倒でない関係を築きたいと思っている。

 だからこそ、相手の心の奥に立ち入ったりしない。

 そういう生き方をしてきた気がする。

 なのに、どうして、と潮崎先輩は思ったのだろう。

 あんなに踏み入った質問をしてしまって、貫行自身が驚いていた。

 少し考え、貫行はためらいながら応えた。

「ちょうど最近、そういう騒動にでくわしたんです。勝負にすごいこだわりをもった奴らとそうでない奴のいざこざで。さっき言いましたよね、調停役をやっているって」

「あぁ、なんか言ってたね」

「正直、僕も勝負事には関心がなくって、こいつら何をこんな真剣にやってんだって思ったんですけれど」

「その子達と話している内に、その子達に興味をもってきた、と」

 潮崎先輩はつまらなそうに話を継いだ。

「だから、私に聞いたのね。この私も勝負の世界の住人だと気づいて、その子達のことをもっとよく知るために、私の話を聞きたがっている、とそういうことなわけ?」

 ふん、と潮崎先輩が鼻を鳴らすので、貫行は、とりあえず一度首肯してから、

「いえ」

 と返答した。

「いえ、話せば話すほど、意味わかんないなと思うようになってきて、あいつら、ほとんど話通じないし、気も遣うし、まじで面倒なので、もう少し話の通じる人に聞こうと思っただけですけれど」

「お、おう」

 潮崎先輩は、気まずそうに顔を逸した。

「じゃ、なぜ頷いたし」

「いや、ドヤ顔してたんで、わるいかなって思って」

「てい!」

 また蹴られた。

「話してあげない」

 そしてへそを曲げた。

「そうですか」

 まぁ、そもそも話したくないと以前に言っていたし、さほど無理強いするつもりもなかった。

 貫行は、モンブランを平らげ、コーヒーを飲んだ。糖分の補給もできたし、そろそろ帰ろうか、と思ったところ、

「別に、勝負事が嫌になったわけじゃないけど」

 潮崎先輩は、話しだした。

「努力するのが、怖くなった、のかな」

 それも、けっこう重いやつを。

「私にとって、自転車ってね、速さだったの。誰よりも速く、何よりも速く、とにかく速い。それこそが自転車だった。そのためだったらどんな努力も惜しまなかった。今思えば、乙女の風上にもおけない中学時代だったわ」

 ガラス玉のような目をする潮崎先輩には、遠い日の自分が映っていることだろう。

「でも、誰よりも速くはむりだった。私もけっこう速かったんだけど、私よりも速い奴がいたの。勝とうとして、できるかぎりの努力をしたつもり。でも、中学三年間じゃ、勝てなかった。最後のレースが終わったとき、高校では、絶対に勝ってやるって思った」

 だけど、と潮崎先輩は続けた。

「入部届けは出せなかった」

 潮崎先輩は、コーヒーをスプーンでくるくるとまわした。

「どうしても、出せなかったの。あれは、我ながらびびったわ。心臓破りの坂を登り切ったあとみたいに胸がバクバクとして、そのまま死んじゃうんじゃないかと思ったもの」

 怖かったの、と潮崎先輩は告げる。

「高校三年間を注ぎ込んで、また、勝てなかったら。それが怖くて、怖くて、一時期は自転車も触れなかった。勝てると思えるから、つらい努力ができる。でも、勝てないのに、自らに苦行を強いられるほど、私はマゾじゃないの」

 その理論は、まぁ、理解できないまでも、わかる気がする。

 ただ、疑問もある。

「そんなに自転車から離れたがったのに、どうして自転車旅行部なんてつくったんですか?」

「あぁ、うーん。何でかなぁ」

 潮崎先輩は、揺れるコーヒーの局面を眺めていた。

「友達に言われたから。自転車部に入るように、しつこく言われて、けれども、入る気はなくって、でも、適当に文化部に入るのも嫌だったから、それなら、もういい塩梅の部活を創っちゃえばいいかなって」

 そんなハンバーグ造っちゃおうかなみたいなノリで。

「人はほとんど集まらなくて、規定人数までいかなかったんだけれど、自転車部の顧問が便宜を図ってくれて、晴れて創立できたのが、自転車旅行部。まぁ、数少なかった部員もすぐやめちゃって、一年後には無愛想な後輩と私だけになっちゃってたけど」

 そんな経緯だったとはつゆ知らぬ無愛想な後輩は、次の言葉を待つ。

「何で、創ったかっていうとね」

 潮崎先輩は、しばらく黙して、かるく唸ってから呟くように言った。

「自転車が好きだったから」

 カランと来店の鈴がなる。どこの誰ともしれない来客が、テーブル席に座った。マスターのカップを拭く音が厨房の方から聞こえてくる。

 貫行は、コーヒーを飲み干して、

「そうですか」

 とだけ応えた。

 それから、貫行と潮崎先輩は、とりとめのないことを話した。基本的に潮崎先輩の自転車部への愚痴を聞いていただけだけれども、ふと、懐かしくなる思いだった。

 そういえば、と歌詠みの会のための自転車の貸し出しを、塩崎先輩に頼んだ。

 初めは渋っていたけれども、

「しっかり布教するように」

 と念を押された上で、潮崎先輩は承諾してくれた。

 潮崎先輩のコーヒーカップの底が見えた頃、貫行達はブルーラビットを後にした。

 駅へ帰る社会人と、宵の始まりを謳歌する学生達。路地に立ち並ぶランプが、夜の街を黒と白に塗り分けていた。

 階段を降りたところで、貫行は潮崎先輩と別れた。

「ねぇ?」

 別れ際に、潮崎先輩がくるりと振り返った。

「ねぇ、どうして、今日、ここに来たの?」

 その問は、貫行にとって意外だった。

 それはあまりにも当たり前で、どうしてそんなことを聞くのかわからなかったからだ。

 仕方なく、貫行は自然に応じた。

「え? モンブランが食べたかったからですけど、それ以外にありますか?」

 ちかちかと点滅するランプの灯りの下で、貫行が首を傾げたところ、潮崎先輩は、くすりと笑って踵を返した。

「ううん、ないわね」

 

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