mémoire

 仕方ないな……話すよ。


 その日、僕は走っていた。大雨だった。駆け込んだ軒下はシャッターの閉まった〝純喫茶 クロワーゼ〟だったな。そういえばこの日に、あの喫茶店が潰れたことを知ったっけ。

 ざあざあと降りしきり、ばらばらと屋根を叩くにわか雨は、軒下で縮こまっていても風次第で足下を濡らしてきていた。天気予報をきちんと見ておくんだったな、と後悔しながら息を整えていると、横から話しかけられたんだ。


 あれ、もしかして、〇〇か? って。


 そりゃ、名前は伏せるよ。個人情報だろ。で、僕は答えた。××じゃん、久しぶり。ってさ。そっちも雨宿り? って当たり前のことを訊いて、傘を忘れちゃって、とかまた当たり前のことを返されたりしてた。


 元気してたか?

 そこそこかな。

 俺は元気だぜ。

 そりゃよかった。


 そんな感じの、他愛もない会話をしていたよ。で、どうしてあの話になったんだったかな。確か最初に××が、俺、叔父さんになったんだぜ、って言ったんだ。

 ××とは高校が同じだった。お互い趣味が同じだったから、割と意気投合していた。だから久々に××節みたいなのが聞けたのが嬉しくて、話し込んでしまったんだ。


 ××が叔父になったと聞いて、僕は驚いた。友達の誰かが叔父とか叔母とかになる日が来るなんて露ほども思っておらず、動揺した。まだ二十代になりたてだった僕にとって、新しく身内が、それも赤ちゃんだぜ、増えるなんて想像もつかないことだったんだ。


 でもそうやって僕らは大人になっていくんだろうとか生意気にも思った。


 あいつは、××は幸せそうだった。別に自分に息子ができたわけでもないのに、姉ちゃんの旦那さんは立派でどうの、甥っ子赤ちゃんが可愛くてどうの、とか聞いてもないことをどんどん喋ってさ。で、突然真顔になって言ったんだよ。

 気づいたことがある、って。


 気づいたこと?

 うん。赤ちゃんって何もないところを見て笑うよな。

 そうらしいな。それが?


 僕が訊ねると、××は笑って……俺に見えない何かを見ることのできる赤ちゃんはスゲーよ、って本気で感心していたんだ。


 面白いなと思った。それで僕は、僕にも、見えたら思わず笑ってしまうような、普通の人には見えない何かを見ることができたらいいのになーみたいなことを言ったんだ。

 そんな何かが見えたなら楽しそうだと思ったから。

 ××は、少し考えているふうだったけれど、すぐに口を開いた。××の長所は考えすぎないところだな。でもなかなか鋭いことを言うんだ。


 別に見えなくても、見えない何かはそこにいるし、いいんじゃないのか。

 そう言った。


 それを聞いて、僕は、なんというか。

 僕はね。

 僕は……、

 僕はその頃、すごく悩んでいたことがあってさ。

 なんで世の中はこうじゃないんだろうとか、なぜ人は死ぬんだろうとか考えては、いろいろなものを呪って、どんよりとしていた。


 でもそれってさ。


 それって、楽しいものに気づいていないだけなんじゃないかって思ったんだ。僕の目はもう見えない何かを見ることはできないけれど、何かはきっとまだそこにいる。でも別に、その存在に気づけなかったり、忘れてしまってもいいんだ、とも思った。ただ、楽しくて見えない何かはいつでも世界を満たしているんだって、それだけ覚えていればいいんだろうなって。それだけでも、ちょっとだけ豊かになれるんじゃないかって。


 雨が止んだから、僕と××は別れた。じゃあなっつって、さっぱりとしたものだったよ。

 でもこの再会を、僕はずっと覚えている気がするなって、なんとなく思った。


 帰り道では、虹を見た。

 空に架かる光の環を見て、気づいたよ。

 僕らは虹を七色だと思っているけれど、自由な瞳で見つめれば、無限の色が現れる。

 なんだ、僕にだって見えるじゃないか。そう思えて、少し軽やかになった。


 はい、話したよ。

 じゃあ次はそっちの番。

 きみの思い出を聞かせて。

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