全部、全部かなぐり捨ててさ、フィジーのリゾートに行こうよ。

「お薬、減らしてみましょうか」


 先生が言った。病院へ通い続けて六年が経っていた。


「減らす」

「はい。病状も安定していて、それがもう一年以上続いていますから。××××××と、×××××については少しずつ段階的に減らしていっていいと思います」

「そうですか。ではお願いします」


 PCに何やら打ち込みながら、先生は「はい」とも「ふい」ともつかない返事を寄越した。六年の間に何度か主治医は変わったが、この先生はあまりハキハキ喋らない。


 診察が終わって、会計も済ませ、薬局で薬の錠剤をもらう。

 本当に減っていた。


 不安はない。先生の言う通り、安定しているからだ。もう幻覚や幻聴はないし、毛穴に住んでいたナメクジたちもどこかへ行ってしまったし、ここが日本ではなく謎の異世界なのだという思い込みもなくなった。僕は確実に健常者への道を踏み出していて、その道のりは、けっこう楽しい。


 どんよりと、暗く、重く、泥の中でもがくような毎日があった。中学を卒業して、高校を中退して、就職して、怒鳴られながら仕事をして、それから、まあ、いろいろあって救急車に乗った。数年間は何もできなかった。徐々に回復して、同じ病気を持つ人たちとの交流も経て、僕は今、確かな足取りで病院からの帰り道を歩いている。


 街をゆくのが楽しかった。


 これまで生きてきて全く気づかなかったが、街にある針葉樹の生えた並木道は、洋風のマンションが脇にあるということもあり、とても綺麗だ。僕は駅からの帰り道、最短ルートを通らずあえて遠回りをしてここを歩く。

 風吹く春も、蝉の鳴く夏も、紅葉の秋も、葉の落ちる冬も。この並木道は、いつだってうつくしい。

 でも、意外とここを通る人は少ない。たぶん、この道を通らなくても、もっと早く到着できる道が他にあるからだ。


 僕はひたすら時間を無駄にしないようにと足早に歩く人々のことを考える。


 彼らはきっと、家や職場でやりたいこととかやるべきことがあって、さっさと歩いているのだろう。でも、そんなに急ぐと、いろいろなものを見逃してしまいやしないだろうか。例えば、建物にできたツバメの巣。例えば、落ち葉を踏んだ音。例えば、誰かが無造作に置いた植物の植木鉢。


 僕もきっと見逃していて、感動する機会を逃し続けてきたのかな、と思う。なにせ、二十年も暮らしてきた街の魅力に今になってようやく気付き始めたくらいだし。僕は病気のせいで謎の異世界にいたけれど、そこから帰ってきたら、自分が立っていた本当の世界はこんなにも空気がおいしかったのか、と気づけた。


 だからみんなも異世界に行ったらいいと思う。

 フィジーとかどうかな。南国だし、日本と比べたら異世界なんじゃないか。青い海、白い砂浜。オーシャンビューを望むリゾートホテルで優雅なバカンスを過ごすのがいい。仕事とか、人間関係とか、そういうの全部、全部かなぐり捨ててさ、フィジーのリゾートに行こうよ。立ち塞がるなんかよくわかんない壁を一旦スルーして、別の場所に立ってみて、遊びまくって、そしたらさ。


 そうしたらここに戻ってきて、何か、いいことに気づいてほしい。


 のんびり歩いて家に帰ると、叔父さんが出迎えてくれた。早速、薬が減ったよと報告する。叔父さんは我がことのように喜んでくれた。じゃあ記念に家族でどっか旅行でも行くか! そんなことを言うから、僕は少し考えて、冗談めかして口を開く。


「フィジーのリゾートに行きたい」


 すると叔父さんは、いいねえ! と明るく言った後で、すぐに難しい顔をした。考え込み、それから申し訳なさそうに頭を掻く。

 右手でコインのサインを出した。


「熱海あたりで勘弁して」


 僕は、いいよ熱海で、と笑った。

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