第31話 絶望

それは二日後、四月三十日のことだった。朝食を終えた藤木は白湯を飲んでいた。国明はその隣で書簡や書き付けを確かめている。のんびりとした朝だった。


「殿」


膳を下げに来た秀次が弾んだ声で呼びかけた。


「小刀の鞘と柄が仕上がったと、先程鎌倉より職人頭自ら届けに参りました」

「そうか」


国明の顔がぱっと輝いた。秀次がにこにこしながら言う。


「三宝に戴き御神器の部屋へ祭ってござります」

「なかなか良い業物であったからな。楽しみだ」


藤、と国明はその手を引いて立ち上がった。


「何、どうしたの?」

「まぁ、見ればわかる」


そのままぐいぐい藤木を引っ張って国明は神器を祭る部屋へ向かった。あまりに嬉しそうな様子なので藤木はそのままついていく。


「なかなか良いなどと殿、御渡り様から拝領いたした刀でござりまするぞ。類なき業物と仰せになるべきでござりましょう」


口では窘めながら秀次も足取りが軽い。神器の部屋へ入ると、上座に白木の三宝が据えられ、和紙を敷いて白木の鞘と柄の小刀が祭ってあった。


「ほう」


国明はそれを取り上げ、しげしげと眺める。


「よい出来だ」


鞘の具合をみた国明は、すらりと小刀を引き抜く。刀身が冷たい光を放った。白木の柄によく映える。後ろから覗き込むように頭を左右させていた秀次が頷いた。


「まっことよい刀でござります。さればこそ、塗りに蒔絵などほどこした鞘がよかったのではないかと某は存じまするが」

「おぬしも見かけによらず派手好きな男よ」


呆れたように国明は言い、刀をかざした。


「かような業物にごてごてと飾りはいらぬ。刀身の良さを際だたせるための柄と鞘だ」

「国明…それ…」


国明は藤木に刀を差しだしてみせた。


「藤が持っていた小刀だ。鞘がなく柄も古かったからな。鎌倉に良い職人がおるゆえ、新しく作らせた」

「え…」


藤木は渡された小刀を見つめた。藤木の胸に嫌なものが走った。すっかり忘れていた。そういえば、この時代にくるきっかけになったのがこの小刀だったのではなかったか。そして、この小刀の不吉ないわれを聞いたから、自分は祠へ返しにいくところだった。佐見と一緒に…


ふっと宿の主人の声が脳裏によみがえった。


『呪の刀ってんで、昔から大事に祭られてたんだそうだ』


藤木の中でガンガンと警鐘が鳴る。

思い出せ、宿の主人は何と言った。上城と堂本がいつも通りの言い合いをして、中丸が怯えて、和田義盛がどうとか日本史の勉強を…


『最後の当主、なんつー名前だったか、榎本なんとかってその当主が自害した刀がそれだとの言い伝えがあってな。』


ざぁっと血が下がる。


榎本なんとかってその当主が自害…


がくがくと膝が震えはじめた。宿の主人の声がぐるぐると頭の中を駆けめぐる。


自害…


藤木はよろめきがたっ、と小刀を取り落とした。


「藤っ」


慌てて国明が藤木を抱きとめた。秀次があわあわと小刀を拾い上げ鞘へおさめる。


「藤、どうした」


藤木は蒼白だった。震える手で国明の直垂を掴む。


「国明…」

「秀次、夜着の仕度を。藤はおれが連れて行く」


秀次が急いで飛び出そうとする。


「待ってっ」


藤木が叫んだ。国明と秀次が驚いて藤木を見る。藤木は震えながらも一人で立った。


「待って。その…調べなきゃいけないことがあるんだ。だからっ」

「藤…?」

「だからしばらく僕の部屋に来ないで」


藤木の必死な様子に二人とも気圧されて頷いた。藤木は小刀に視線を移し、ぐっと拳を握った。


「確かめないと…」


自分に言い聞かせるように呟き、藤木は自室へ駆け出した。藤木の勢いに居合わせた郎党達が目を丸くする。部屋へ飛び込んだ藤木は、がたがたと文箱を開けて本を取りだした。例の「教育委員会監修 郷土の歴史と文化」である。一緒に入れてあった薄青い陶片と土鈴が床へ転がり落ちた。藤木はその場に座り込んでページをめくった。家系図を探す。本の終わりあたりについている年表の次に家系図が示してあった。


国明国明…


その名はすぐに見つかった。榎本家系図の一番下のところ、国忠の横に忠興の名があり、国忠の下に国明の文字がある。その下には何も書かれていない。榎本国明が最後である。


「最後の当主…」


ぐらぐらと世界が揺れる。


嘘だっ。


藤木は必死で本文をめくった。和田義盛と朝比奈義秀の名をたよりに探す。


「あったっ」


本の前半、歴史の記述部分にそれを見つける。そして藤木は今度こそ打ちのめされた。そこにつけられているタイトルは『榎本家の滅亡』、がくがくと震えながら藤木は本文を読んだ。


『1213年(建保元)5月2日、三浦氏の裏切りによって和田義盛一党は計画を暴露され、地方からの一族の到着をまたずに蜂起し、幕府にせまった。榎本家当主、国明は知らせを受けてすぐに一族郎党を引き連れ駆けつけ善戦するが、和田勢の最初のつまづきは大きく、一族親戚すべて全滅する。当主国明は手勢をまとめて敗走するが、鎌倉からの討っ手は厳しく、病床にあった前当主、国忠ともども全員が自刃して果てた。ここに榎本一族は滅亡した』



自刃して…



「自刃…」


藤木の手から本が滑り落ちた。指先に感覚がない。頭の中は真っ白だった。うまく息ができない。自刃、の二文字だけがぐるぐると回る。


「国明が自刃…」


乱れる息の合間に絞り出した声が、他人の声のように響く。嘘だ、信じられない、国明が、榎本国明が自刃するというのか。しかも藤木が持ってきた小刀で。


「…嘘だ…」


国明は強いのに。弓も太刀も強くて、そうだ、義秀も言っていたではないか。戦があっても心配いらないと。手柄をたてこそすれ、死ぬことはないと。


「嘘だ…国明が死ぬなんて嘘だ…」


つい二日前、自分は国明の夢を聞いたばかりだ。榎本を強くすると、大きな戦がないから、船を使って榎本を豊かにすると、そう国明は言っていた。目を輝かせて、力強い光りを湛えて、国明は希望に満ちあふれていたではないか。


「そんなわけ…ないじゃないか…」


明るい朝の日差しが射し込んできている。穏やかな館の朝だ。冷たい床にぺたりと座り込んだまま藤木は動くことが出来なかった。






「藤」


のろのろと藤木は顔を上げた。どのくらい座り込んでいたのか感覚がない。目の前に心配そうな顔の国明がいた。国明は座り込んだ藤木の前に膝をついた。


「おぬしが来るなと言ったが…すまぬ、気になった」

「国明…」


ぼんやりと藤木は国明の名を呼んだ。藤木の目の前にいるのは榎本国明だ。確かな存在として国明は今、ここにいる。藤木は手を国明に伸ばした。指先が頬に触れる。


温かい…


温かい人の肌だ。生きた人間の体温だ。それが失われるというのか。国明だけではない、忠興も秀次も、ここにいる皆がすべて死ぬというのか。


「…国明…」


藤木の手が力を無くしてぱたりと落ちる。国明がその手を掴んだ。


「藤?」


藤木はうつむき、掴まれた手ごと国明の手を胸に抱き込んだ。


この手が…この手で己の命を断つというのか。


「国明…国明…」


両手で国明の手を包み頬を押し当てる。


力強い手だ。温かく大きな手だ。藤木を抱きしめ、快楽を与えてくれる手だ。それなのに、国明は死んでしまうのか。


でも、もし国明が和田義盛の蜂起に駆けつけなければ…


ふっとひらめいた考えに藤木は目を見開いた。榎本が何をしようと、和田は滅びる。ならば、歴史の流れが変わらないのならば、榎本が生き延びる道をとってもいいはずだ。もし、そのために藤木がここにきたのだとすれば…勢いよく藤木は顔を上げた。


「国明っ」


藤木は国明の腕にしがみついた。国明が驚いて藤木を支える。


「国明、国明っ、和田義盛の戦に行ったらだめだ」


国明が驚きの表情になる。だが、そんなことにはかまわず、藤木は必死で国明の腕を揺さぶった。


「和田義盛の計画は失敗する。だから断って。三浦と仲良くして、結婚してもいいから、だからっ」

「なにゆえ藤がお爺様の計画を知っている」


国明の目が険しくなった。


「誰から聞いた。他にもお爺様のことを知っている者がいるのか」

「違う、国明っ」

「どこまで知ったのだ。いつから…」

「だから違うってば」


国明はぐいっと藤木の肩を掴んで正面から見据えた。


「正直に言え、藤」


厳しい声音で問いつめる。


「藤、誰から聞いたんだ」

「僕は未来の人間なんだよっ」


とうとう藤木は怒鳴った。どうしてこう、すんなり話が通じない。


「八百年先では歴史の勉強だってするんだ。本に書いてある。三浦が裏切る。和田義盛は滅びるんだよっ」


じっと国明は藤木の目を見つめた。睨むように藤木も見返す。しばらくじっと藤木を見つめていた国明の視線が、ふっと床に落ちている本にいく。藤木がはっと息を飲んだ。掴んでいた藤木の肩を離し、国明は本を手にとった。


「あっ」


止めようと藤木は手を伸ばそうとするが、上手く体が動かない。国明は開いてあったページに目を落とした。『榎本家の滅亡』の部分だ。国明は黙って文字を追っている。しばらくして国明は静かに目を上げた。


「おれには読めぬ文字も多いが…」


ぎくりと藤木の体が強ばる。国明は抑揚のない声で言った。


「おれは死ぬのだな」

「国明っ」


藤木は悲鳴のように叫んだ。


「だから、だからっ…」

「ここに建保元年とある。」


和田義盛のところへ行ったらだめなんだっ、と叫ぶ藤木を遮り、国明は本を指さした。


「藤木の時代の暦はわからぬ。だが今は建保元年、卯月だ」


絶望に藤木の眼前が真っ暗になった。日にちならわかる。ここへ来てから毎日、本の裏に日付と簡単な日記をつけていたのだ。今日は藤木の暦で4月30日、和田義盛の蜂起は1213年5月2日、つまり2日後だ。5月3日には榎本一党が鎌倉へ駆けつけることになっている。


「二日後だよっ、二日後には三浦が裏切って和田義盛が蜂起するんだ」


藤木は床を叩いた。


「何度も言わせないでっ。行けばみんな死ぬんだ。わかってるの?榎本が滅びるんだよっ」


国明は黙っていた。床に腰を下ろしたまま一点を見つめている。藤木は焦れた。いらいらとジャージの裾を握りしめる。国明は動かない。ただ、部屋の空気だけがピンと張りつめていた。静かな朝、さえずる鳥の声だけが聞こえてくる。時折、海風がそろりと部屋へ入ってきた。ばさばさっ、と翼の音がする。数羽の小鳥が庭木の枝から飛び立ったのだ。その時、国明がふと身じろいだ。ハッとする藤木と目をあわせる。


「和田義盛はおれの祖父だ」

「そっそんなのっ」


今更何をわかりきったことを、と藤木は苛ついた。


「そんなの知ってるよっ」


それよりも今はもっと大事なことがある。生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。だが、国明は慌てる風もなく淡々としている。ざわめく嫌な予感を振り払うように藤木は声を荒げた。


「そんなわかりきったこと、どうだっていい。だからっ…」

「義秀伯父もいる」

「だからわかってるってばっ」

「おれは裏切れぬ」

「国明っ」


藤木は思わず国明に詰め寄った。


「何いってるのっ、死んじゃうんだよ、みんな死ぬんだよっ」

「それでもおれは裏切れぬ」

「バカっ、何に拘ってるのさっ」


藤木は国明の胸を叩いた。国明は黙って藤木の拳を受け止めている。


「死んだら全部おしまいじゃないかっ。なんでわかんないんだよっ」

「弓矢の家に生まれたからには死しても守らねばならぬことがある」

「じゃあ、忠興や秀次やみんなが死んでもいいっていうんだねっ」


藤木は叫んだ。こうなったら皆に打ち明けて国明を止めてもらう。だが、国明は藤木の拳を両手で包むと静かに言った。


「皆、誇り高き板東武者どもだ。名を汚すよりは死を選ぶ。たとえ当主のおれが行かぬと言っても」

「なんだよそれっ」


藤木は激昂した。


「そんなの、僕の時代じゃくそくらえだっ」

「ここは藤の時代ではない」

「じゃあ僕はどうなるんだよっ」


はじめて国明の瞳が揺れた。


「僕も死ねってことでしょうっ」


卑怯なことを言っている、心の隅で自覚していた。ここにいるのは藤木が自分で決めた結果だ。それを引き合いに出すのは筋違いだ。だが、止まらなかった。


「武士の誇りがなんだって言うんだ。そんなもののために僕は死にたくないよっ」

「それは…」


国明が動揺しているのがわかる。藤木もなりふりかまっていられなかった。国明の胸にすがったまま必死で訴える。


「君が死ねば僕も生きてられない。国明っ」


国明の手が藤木の肩にかかった。辛そうに顔が歪んでいる。


「藤…」


絞り出すような声音だった。


「おれは板東武者なのだ…」

「それが何っ」

「板東武者の誇りを捨てて生きることはできぬ」


今度こそ、本当の絶望だった。がっくりと藤木の体から力が抜ける。涙が溢れてきた。みんな死ぬ。国明も忠興も秀次も、そして自分も。


「藤…」


国明が藤木を抱き寄せようとする。反射的にその手をはじいた。


「出てけっ」


ぼろぼろと涙を零しながら藤木は叫んだ。


「出てけよっ、顔なんか見たくないっ。出てけーっ」


一瞬、国明の体が震えた。何か言いたげに口を開いたが、言葉は出ない。ふっと辛そうに顔をそらした。


「……人払いをしておく」


それだけ言うと、国明は立ち上がった。部屋を出ていくとき、ふと足を止める。が、そのまま歩み去った。


「う…」


国明の背中が見えなくなると、力が抜けた。がくりと床に両手をつく。ぽたぽたと涙が板の上にしみを作った。


「う…うぅっ…」


二日後にはすべてが終わる。なにもかも…


「うぁぁぁぁぁ…」


はらわたを裂かれるような激情に藤木は慟哭した。哀しみ、怒り、恐怖、全てが綯い交ぜになって藤木を押しつぶす。


「あぁぁぁぁっ」


藤木は床をかきむしって泣く。


「あぁぁっ、うぁぁっぁぁっ」


藤木は泣いた。辺りかまわず声を上げて泣いた。泣く以外何も出来ない自分が惨めだった。



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