第13話 馬鹿だなぁ、国明

国明が女を抱きたいと言ったわけではない。この時代なら当たり前の感覚だということもわかっている。しかし、やはりムカムカした。菓子と昼食を運んできた秀次がしばらくモゾモゾしていたが、むかっ腹が立ってたまらない藤木は気づかない振りをした。


昼から藤木は、いつものように忠興を相手に弓の稽古をした。チラチラと館のほうを伺ってみるが、国明の姿は見えない。


『鎌倉の屋敷に来い。京よりよいおなごが来ておる』


義秀の声が脳裏に響く。ジリッと胃の辺りに焼け付くような痛みが走った。

まさか、国明は誘われるまま、女を抱きに鎌倉へ行ったのではないだろうか、そう思うと居ても立ってもいられない気分になる。冷静に考えれば、義秀が帰ったその日に、国明が鎌倉の和田の屋敷へいくはずはないのだが、藤木の頭の中では義秀の言葉がぐるぐると回って離れなかった。忠興や秀次、いや、郎党の誰かにでも尋ねれば、国明の所在などすぐに知れるだろうが、それをするのは癪に触る。詫びぬと言われたからには、藤木にも折れてやる気はさらさらなかった。


「くそっ」


苛々はつのるばかり、藤木は弓を思い切り引き絞った。


「くにあきめ~っ」


はったと的を睨み付け、ひょうっと放つと、矢は的の真ん中に勢いよく突きたった。


「お見事っ」


無邪気に忠興が手を打っている。その暢気さが今は恨めしかった。









「で、なんで君が来るのさっ」

「着替えはおれがすると言ったはずだ」

「何だよ、それっ、ってか、寝間着ぐらい一人で着られるよっ」


湯を張った盥をはさんで、藤木と国明はにらみ合っていた。その横では、秀次が為す術もなくおろおろしている。


「だいたいさ、夕食終わるまで顔も見せなかったくせ、お風呂の時だけやってくるってどういうことさ」

「顔を見せてほしかったのか」

「誰がそんなこと言ったっ。自惚れないでよっ」


ぎっとまなじり吊り上げた藤木はすさまじい迫力があった。しかし国明はまったく引くつもりがないらしくその場を動こうとしない。腕組みしたまま表情を動かしもしない男に藤木はいらついた。


「着替えの時だけ顔出すのが変だって言ってるんだよ。どういうつもりっ」

「藤木こそ着替えにこだわっているではないか。それとも他の男から着替えさせてもらいたいのか」

「なっ…」


人をなんだと思っているのだ、この男は。自分は女を抱く算段をしてもらっているくせに。

かぁーっと藤木の頭に血がのぼった。


「僕を女の代わりにする気?迷惑だよ」


さっと国明の顔色が変わった。だが藤木も止まらない。


「女、抱きたいなら鎌倉へいけばいいだろうっ」


国明の肩が揺れた。腕組みは解かれ、拳が握りしめられている。見たこともない国明の目の色にはっと藤木は口をつぐんだ。怒りか、哀しみか、なんとも言い難い光を目に湛えたまま、国明はぐっと藤木を見据えた。


「あ…」


だが、藤木が何か言う前に国明は目を伏せた。ぐっと唇をかみしめると、そのまま部屋を出ていった。藤木は呆然とその後ろ姿をみつめる。ひどく傷ついた背中だと思った。そして傷つけたのは自分だ。だけどどうして…


「わけわかんないよ…」


藤木は誰にいうともなく呟く。


「…泣きたいのはこっちだよ…」


バカ国明…


ため息をこぼし、藤木はのろのろと盥の側に歩み寄った。秀次が黙々と衝立を動かし、寝間着と手ぬぐいを塗り盆の上にそろえている。


「ありがと…」


藤木の声に秀次は困り果てた顔でわずかに笑った。それから平伏したまま、縁の方へ下がろうとして動きを止めた。その場にじっとしている。


「…秀次?」


藤木が怪訝そうに首をかしげた。秀次は何も言わない。じっと平伏したままだ。


「どうしたの?秀次…」


藤木はぺたんと床に腰を下ろした。秀次が何を心配しているかはわかっている。榎本の守り神である自分と大事な主君の国明がもめている、それで心を痛めているのだ。今だって目の前でケンカした。藤木は秀次のことを気の毒には思う。板挟みで苦労しているのだ。だからといって妥協してやる気はなかった。藤木は盛大に息をつくと秀次の肩を二、三度軽く叩いた。


「ごめんね、秀次。でもさ、僕にも言い分、あるしさ。だいたい君の殿様って、勝手気儘すぎっていうか、あの気まぐれに僕、付き合う気ないから」


そりゃさっきはちょっと言い過ぎたかな、とは思うけど…


藤木が決まり悪げにごにょごにょ付け加えていると、秀次がさらに床にへばりついた。


「申し訳…ござりませぬ…」


藤木は肩をすくめた。秀次が悪いわけではない。


「秀次、君が謝ること…」

「申し訳ござりませぬ。ただ、しばらく秀次が言にお耳をお貸し下さりますようお願い奉りまする」


つぶれたカエルよろしく床に這いつくばったまま、秀次は声を絞り出した。緊張のせいか体がガチガチに強ばっている。藤木はきょとんと目を瞬かせた。が、秀次の様子は尋常ではない。床に座り直すと、秀次の肩に手を置いた。


「き…聞くから、だから顔、あげてよ。それじゃ話、できないでしょう?」


藤木に促され、ようやく秀次は顔をあげた。必死の面もちだ。体を起こし、しかし両手はまだ床についたまま、秀次は口を開いた。


「それがしは…あのような殿を見たことがござりませぬ」


藤木は思わず鼻で笑った。


「そりゃそーでしょ。あ~んな我が儘勝手、フツーは…」

「そうではござりませぬ。そうでは…」


秀次は辛そうにうつむいた。


「御渡り様が榎本に渡らせ給い、殿はお変わりになられました。あのように楽しげに、闊達に笑う殿を某は知りませぬ」

「…え?」


藤木は目を見開いた。あの満月の夜以来、気まずいままだが、それまでの国明はよく笑っていなかったか。それこそ、何かある度に楽しそうに人をからかってきたではないか。それが、いつもはそうではないと言うのか。床に着いた手を握りこみ、秀次は一気に話し始めた。


「殿の元服前にお母上が亡くなられ、大殿も病に倒れられました。烏帽子親を買って出てきた本家の狙いが榎本の庄にあるのは明白、いくら和田の力添えがあるとはいえ、気をぬけば潰されまする。殿は榎本を守るためのみに力を尽くしてこられました。何もかも、殿の望まれることは全て榎本のためでござりました。その殿が…」


秀次の肩が震える。


「御渡り様の御前でのみ、殿は笑うのです。お母上様が生きておられた頃のように、子供の頃のように無心に笑うのでござります。ご無礼の段は重々承知しておりまする。あの月の夜に、殿が何ぞ不埒な振る舞いに及び、御渡り様のお怒りを買ったということも察しておりまする」


うわ、気づいてたんだ。


藤木は顔が熱くなるのを感じた。だが、藤木の狼狽をよそに、秀次は再びがばりと平伏した。


「殿の振る舞いをどうかお許し下されませ。ただ、不敬を覚悟で申し上げまする。殿が、殿が初めて、殿自身のために望まれたのが御渡り様なのでござります。家のためでも、榎本の庄のためでもなく、初めて殿が手を伸ばされたのが恐れ多くも御渡り様だったのでござりまする…」


秀次はそのまま、お許しくだされませ、と繰り返した。藤木は呆然としていた。言葉が出ない。告げられたことがあまりに意外で、かえって考えがまとまらない。ただ、ひたすら許しを乞う秀次の姿を可哀想だと思った。藤木は平伏している秀次の手を取ると、体を起こしてやった。不安そうな目をする秀次にほほえみかけ、しかし何も言えず、藤木は立ち上がる。


「お風呂、入るね」


一言だけ告げると、秀次はさっと衝立を寄せ、自分は縁側に下がった。

いつものように湯をつかい、いつものように着替えをする。秀次の持ってきた白湯を飲み、夜着の支度を眺める。体だけが機械的に動いているような気分だった。板戸を閉めようとする秀次に、もう少し起きているから、と言ってさがらせ、藤木は柱にもたれて座った。四月も半ばで、暖かい春の宵だった。頬をなでる夜風が湯を浴びた体に心地よい。夕方、空にかかっていた下弦の半月はもう沈んだのだろう、夜空には銀の砂粒をまいたような星が瞬いているばかりだ。


「…綺麗だなぁ」


ぽつっと藤木は独り言ちた。この世界にきて初めて見た夜空を思い出す。銀の煌めきが海になだれ落ちていた。違う世界なのだと絶望した自分を温かい手が支えていてくれた。心細くて泣きたい夜に、優しく髪を梳いてくれた手、頬を撫でる大きな手、国明の手…


『大丈夫だ、藤…』


胸が締め付けられる。いつも大丈夫だと、心配ないと自分を抱き寄せてくれていた国明。なのに自分は、榎本の全てを背負って、何よりも榎本を優先して、あらゆる敵と対峙して…


「国明…」


涙が溢れてきた。


「バカだ、君は…」


初めて自分のために欲しがった物が僕だなんて、本当に大馬鹿だ。涙がとまらない。


「馬鹿だなぁ、国明…」


何故ここまで胸が痛むのか、その理由がただ国明への同情なのか何なのかよくわからないまま、藤木はいつまでも夜空を見上げていた。





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