第12話 サイッテーだ

その夜は腹が立って腹が立って藤木はよく眠れなかった。国明が部屋へ帰った後とんできた秀次がなにか言いたげにしていたが、黙って夜着の支度をし、控えの部屋へ下がった。


なんで僕が責められるんだよっ。


むかつきながら藤木は真綿をつめた夜着にもぐりこむ。


悪さをしかけてきたのは国明だ。突然、襲いかかってきて変なところを触って…


「なーにが、おれは詫びぬ、だよ」


まるで子供が我をはるような言い方だった。


「榎本の長たるものが情けないんだ、くそったれっ」


廊下に突っ立って自分を睨み付けてきた国明の姿を思いだし、藤木は悪態をついた。


明日から無視だ、無視っ、徹底的に無視してやるっ。


藤木はごそごそと寝返りを打った。このままでは腹が立って眠れない。他のことを考えよう。


母さん…


心配しているだろう、泣いてないだろうか。姉さんや健太はどうしているだろう、父さん、単身赴任先から日本に帰ってきたかもしれない…


「あ、ヤバ、涙でそう…」


藤木は慌ててもっと気楽なことを考えようとした。


テニスのこと、秀峰のこと、友達のこと

そういえば後輩の上城が佐見に聞こえないよう愚痴ったことがあった。


『藤木先輩、来年オレらで秀峰テニス部支える自信ないっスよ。秀峰の柱の部長と藤木先輩いなくなっちまったら部の柱、なくなるじゃないッスか。秀峰の柱っ、どうすりゃいいですかね。堂本なんて役にたたねぇだろうし…』


その時の上城の顔ったら。


普段自信満々のモテ系イケメンが台無しだった。藤木は夜着の中でぷぷっと笑った。


あんな情けない顔をした上城はみたことがない。あれで結構繊細なのだ。佐見が寄ってきたら大慌てで口止めしてきた。そりゃあ佐見に聞かれたりしたら大喝されるに決まっている。佐見は結構厳しいのだ。あの仏頂面に怒られでもしたら上城、卒倒すること間違い無しだ。


佐見…


佐見の顔を思い浮かべようとした。秀峰のレギュラージャージをきた佐見、テニスボールを追うときの厳しい顔、学生服姿の佐見、桜並木の先で振り返る佐見、呼びかけると佐見の目元が和らいで…


『藤』


低く響く佐見の声。


『藤』


佐見が手をさしのべてくる…


『藤…』


たくましい腕に抱き寄せられる、佐見の匂い…


『藤…』



えっ



藤木はばちっと目を開けた。頭で描いていた佐見はいつの間にかメガネをはずして直垂を着ている。


うっうそっ


佐見の姿は榎本国明に変わっていた。抱き寄せられた腕の感触も匂いも、榎本国明のものだ。藤木は焦った。だが、一度よみがえった国明の感触は治まらない。直垂ごしにかんじる鍛えられた胸板、自分の体にふれる無骨な指、素肌を這う国明の手、そして唇が藤木のものを包み…


かぁ~っと熱が下半身に集まった。


どっどうしようっ


国明の裸体が目の前にちらつく。満月の青白い光に浮かんだそれは、たくましく美しかった。その体が覆い被さってきたのだ。

波の音、潮の香り、生温かい国明の舌の感触。


ヤバイ…


こっちへ来て以来、あまりに色々なことがありすぎて処理することなんか忘れていた。しかし、藤木とて健康な十七歳の男子だ。


ダメだ、ダメ、隣の部屋には秀次がいるんだ…


必死で藤木は押さえようとするが、いったん熱をもった下腹部は収まりがつかない。しかも、国明に触られた感触が生々しく蘇ってしまった。


「くそっ」


藤木は小さく呻いた。一応紙は常備してある。こうなったらとっとと処理して紙は明日の朝、トイレに捨てよう。そう決めて藤木はそろそろと手を下半身にのばし目を閉じる。浮かんでくるのは熱っぽい国明の眼差し、耳元へかかる吐息。


「……くっ…」


疼く自身に手を添え、本格的にやろうかとしたその時、がたん、と大きな物音がした。びくっと藤木は身を竦める。目を開けて音のしたほうを伺うと、秀次が声をしのばせ、誰かを叱責していた。


「たわけっ、居眠りとは何事ぞっ。音なぞたてて、御渡り様のお目が覚めたらどうするっ」


どうやら控えの郎党の一人が居眠りをして戸にぶちあたったらしい。


びっびっくりした。


藤木はほっと力を抜いた。幸か不幸か、今のショックで息子はすっかり萎えている。ごそごそと藤木は夜着をかぶりなおした。


「寝よ…」


ため息をついて再び目を閉じる。なんだか頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えたくなかった。








目覚めは最悪だった。眠りは浅く、色々な夢を見てぐったり疲れた。極彩色の中で佐見だの国明だの秀峰の仲間だの秀次達だのがグルグル回っていたような気がする。


「う~、トイレ…」


藤木はごそごそ夜着から這いだした。起きた気配に気づかないのか、秀次はまだ顔を出さない。寝間着のまま藤木は板戸をガラリと開けた。



目の前には黒塗りに金銀蒔絵の物体。

藤木はその物体ごしに遠くを見やる。


今日もいい天気だ、空が青い…


ずいっと金銀蒔絵が迫ってきた。


えっと、たしかこれって遠山蒔絵、とかいうんだよね。姉さんが無理矢理みせてくれたもんなぁ…


「御渡り様にはご機嫌うるわしゅうっ」


蒔絵がしゃべったよ…


「今日こそはこれをお使いくだされませっ」

「これまで便所であそばされておったとは、おいたわしゅうござる。忠興めが今まで何をやっておったやらっ」

「ええいっ、義秀のうるさいわっ」



廊下には忠興と義秀がおまるを捧げ持って控えていた。いかつい大男が二人、並んでいると通り抜けるのもままならない。

藤木は半眼のままじっと見下ろしていたが、ふいっと踵を返して部屋へ戻った。


「おっ御渡り様っ」

「ああっ、お待ち下されませ。これをお使いあそばされよっ」


慌てて腰を浮かせた二人の前に,藤木はまたスタスタと戻ってきた。すっとなにやら差し出す。


「これ、あげる」


ミルクキャンディだ。義秀と忠興はとりあえずおまるを脇に置き、畏まって受け取った。藤木はにっこり笑う。


「食べて」


二人の鎌倉武者はおっかなびっくり艶のある包み紙を眺めていたが、藤木が包み紙を指で開いて中身を指し示すと、おそるおそる口に入れた。藤木が笑みを深くする。


はらり…


包み紙が床に舞い落ちた。へたっと腰が抜けたように座り込んだ大男の間をすり抜け、藤木は廊下に出た。ちら、と振り返ると目が宙をさまよったまま二人は呆けている。


「しばらくそうしていてね」


効果絶大、くすっと藤木は笑いをもらすと、そのままトイレに駆け込んだ。





トイレから戻っても、忠興と義秀はまだ廊下に座り込んでいた。丁度朝の膳を運ばせてきた秀次が、床に落ちた包み紙を見て納得したように口元をあげた。藤木も笑いをかみ殺しながら部屋へ入る。


「お二人ともしばらくは大人しゅうしておられますでしょう」


秀次がこっそり囁いてきて、二人、くつくつと笑い合った。




朝食が終わる頃、藤木は秀次に着替えを頼んだ。忠興と義秀はおまるをあきらめ引き下がった。こころなしか足下がふらついていたようにみえた。


やっぱ楽しい反応するよ~


食後の白湯を飲みながら藤木は一人で思い出し笑いをする。


これで国明だったらどうするかなぁ…


そう考えて、すぐにぶんぶんと首を振った。


無視だ無視、僕は許してないんだから、無視っ。


だいたい、不埒な振る舞いを詫びるどころか藤木が悪いと言い放つなど、言語道断もいいところだ。夕べの会話を思い出すとまた腹が立ってきた。


「まったく何様だよ、あ、殿様か」


一人でオヤジなボケと突っ込みを呟いて、それからずん、と気分が重くなった。


その国明で自分は夕べ、何をしようとした…


「最悪…」


藤木はまた首を振る。

夕べ自分はどうかしていたのだ。佐見の声が聞きたかった。国明ではなく佐見の声が。藤木は脇に置いていたスマホをとりあげ、留守録画面をあける。


『藤、出発時間が変更になった。七時半に校門前集合だ。…また明日』


佐見…


藤木はまた再生した。


『藤、出発時間が変更になった。七時半に校門前集合だ。…また明日』


もう一度。


『藤、出発時間が変更になった。七時半に校門前集合だ。…また明日』


藤木の手の中に残された唯一の佐見。


『…また明日』


「藤」


突然、佐見に呼ばれて藤木は飛び上がった。


「なっなっなっ…」

「何だ」


見上げると、ぶすっと不機嫌きわまりない顔の国明が直垂を抱えて立っていた。国明は眉間に皺を寄せながらずかずかと部屋に入ってくる。藤木は焦った。昨日の今日で何のつもりなのだろう。なかばパニックを起こしながらも藤木は国明を睨み付けた。


「なっ何の用っ」

「着替えだ」


ぶっきらぼうに答えた国明は、藤木の傍らに膝をついて直垂や小袖を広げる。


「着替えって…」


国明は黙ったままぽかんとする藤木の寝間着に手をかけた。


「わーーっ、なっ何すんだーーっ」


藤木は慌てて寝間着の合わせ目を押さえると後ろへずり下がる。国明がいっそうしかめっ面になった。


「藤が着替えたいと言ったのだ」

「いっいいよっ、秀次にやってもらうからっ」


国明の目が剣呑に光った。


「おれがやる」


じろっと睨まれ藤木は一瞬ひるんだが、ここで負けてはいられない。


「いいからっ、秀次を呼んでよ、秀次を…」


藤木は最後まで文句を言うことができなかった。秀次の名を連呼したとき、一瞬、国明がひどく傷ついたような表情を浮かべたのだ。

国明は藤木から視線をはずすと、小袖を手に取った。それから黙ってもう一度藤木の寝間着に手をかける。藤木は動けなかった。黙々と国明は藤木を着替えさせる。そして終わると黙ったまま部屋を出ていこうとした。


「あ…くにあ…」


藤木は思わずその背中に呼びかけた。国明がぴたっと足を止める。それからぼそっと呟くように言った。


「着替えはおれがやる」


そして振り返りもせず、部屋を出ていった。後には白地に金糸銀糸の縫い取りも美しい直垂を着せられた藤木が残される。思考はすっかり停止状態だ。


「あ…あの…御渡り様…」


秀次が恐る恐る戸口から顔を出した。その声にハタと藤木は我に帰る。秀次を見ると、恐縮しまくった顔で藤木を伺っていた。藤木は目を瞬かせ、それからだんだんとはっきりしてきた頭で今のことを反芻する。ふるふると拳が震えた。


「なんなんだよ、あれーーっ」


絶叫する藤木の前で、秀次はただただ平伏していた。



「手を離せ、忠興」

「なんの、こりゃ忠興が務めにござ候」


馬の鼻先で大男が二人、もめていた。


「だいたい義秀殿、昼には和田の屋敷にゆかねばならぬと言うておったではないか。とっととお帰りなされ」

「おうよ、帰るわ。その前に御渡り様の馬の轡をわしがとるんじゃ」

「ええ、しつこいことよ」


埒があかない。藤木は勝手にぽこぽこ馬を進めた。


「ああっ、御渡り様っ」

「おっお待ち下さりませっ」


二人は栗毛の馬の尻に慌てて追いすがる。藤木はかまわずぽこぽこ馬を歩かせた。


「この義秀が轡をっ」

「いや、わしじゃっ」


牽制しあうせいでなかなか轡に手がとどかず、お互い馬の尻の周りでわめきあう結果となっていた。見ていた郎党達が腹を抱えて笑う。可笑しくて藤木も笑い声をあげた。母屋の廊下に国明が立っているのはわかっていたが、ムカついていたのでわざと無視した。



結局、もう帰らねばならぬのに、と泣きをいれた義秀に藤木が絆されて、忠興が轡をとる権利を譲ったことで落ち着く。国明が帰宅を促しに来るまで、義秀は上機嫌で藤木の馬の轡をとっていた。

厩から義秀の馬が引いてこられ、しぶしぶ義秀は藤木を馬から下ろした。そして名残惜しそうにその手を取る。


「今日はお暇いたしまするが、なに、またすぐに参りまする。お寂しゅうございましょうが、御渡り様にはご健勝であらせられませ」


藤木はにこっと笑って義秀の手をきゅっと握った。


「気をつけて。また来てよね、義秀」


藤木の笑顔に義秀はでれっと口元を緩める。握られた手を両手でぶんぶんと振った。


「もちろんじゃ。またなんぞ美味しいものをお持ちいたしましょうぞ」

「伯父上、おじじ様がお待ちになっておられる。はよう行かれよ」


国明が苛立ったように義秀をせかした。その後ろでは忠興がぶすっと義秀を睨んでいる。


「やれやれ、身内のほうが厳しいわい」


義秀はそれでも楽しげに笑い、さっと馬にまたがった。


「国明、婚儀をあげる前に一度鎌倉の屋敷へ来い。京よりよい女子が来ておる。宴をはろうぞ。お主が好むなら白拍子を呼んでもよいぞ」


ふっと国明が眉をひそめた。だが、律儀に返事をする。


「そのうちに」

「相変わらず堅物よのぅ」


義秀は豪快に笑うと手綱を引いて馬首をめぐらせた。その姿は稀代の豪傑といわれるだけあって威風堂々としたものだ。


「御渡り様、失礼つかまつりまする」


馬腹を蹴って義秀は駆け去った。颯爽とした後ろ姿に思わず藤木は見ほれていた。それと同時に、一抹の寂しさも感じる。気分を変えたくて藤木は秀次に振り向いた。


「秀次、なんだかお腹すいちゃった。昨日義秀が持ってきてくれたお菓子、頼めるかな」


義秀は唐渡りの菓子だの京の甘味だのを一日では食べきれないほど持ってきてくれていた。


「お部屋へお持ちいたしまする」


一礼して下がろうとする秀次の横では、忠興が真面目な顔で国明に話しかけている。


「殿、義秀殿の言うことはもっともじゃ。婚儀のなる前に鎌倉でおなごを抱いてこられよ」


え?


藤木は思わず国明の顔を見た。渋い顔をしている。秀次が慌てたように手をばたつかせたが、忠興は気がつかない。


「わしはのぅ、殿、三浦の息のかからぬ子がおった方が榎本のためじゃと思うておる。数日、和田の屋敷に逗留して抱きつくさば、婚儀のなる前に孕むおなごも一人や二人、おるじゃろう」

「おっ叔父殿っ」


秀次が必死で止めるが、間に合わなかった。


「なに、産まれた子は和田がしばらく面倒をみると言うておる。時期をみてひきとればよい」


藤木は国明をきっと睨んだ。国明は仏頂面のままだ。だが、困惑の色が微かに浮かんでいる。


「最低…」


藤木は国明に向かって小さく呟いた。国明はふいっと目をそらすと、踵を返す。


「叔父貴、その話は後だ」


ぶっきらぼうに言い、館の上がり口へ姿を消した。


「殿、真面目にお考えあれよ」


忠興がその後を追う。


「サイッテー」


藤木は吐き捨てるようにもう一度呟いた。その横では秀次が一人、困り果てた顔を片手で覆っていた。




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