第十節 舞台に立つ資格 前

 週が明けて、月曜日。午後の〝発声と歌〟の授業の後、レグルスはまっすぐレッスンルームへ向かうことにした。マルコもそのつもりのようで、二人は一緒に移動することになったが、言葉を交わすことはなく、ただ重苦しい空気がまとわりつくばかりだった。


 今日の一番乗りはロイだった。初日に一分の遅刻を女性陣に咎められた彼は、昨日も一番に来ていた。六脚の椅子が、すでに円座に並べられている。ロイが並べておいてくれたのだろう。


「こんにちは、ロイさん。今日もよろしくお願いします」

「……っす」


 レグルスはきっちりあいさつをしたが、マルコは歯切れが悪かった。


「二人とも、体調は問題ないか」


 ロイがそんな問いを投げかけてくるとは思わず、レグルスは答えに迷ってしまったが、マルコはすぐに「はい」と答えた。その答えに、ロイは眉根を寄せた。


「強がっていないか? 明日の練習は休みにするよう、俺から班長に言っておく。休んだ方がいい」


 マルコは返事をしない。レグルスはレッスンルームの入口に、イレーナが立っていることに気がついた。


「ロイくん……今のあなたの練度で、休んでいる暇があると思うの?」

「……!」

「もっと上手くならないと、不安で休めないと思うのだけど。私は、休むなんて怖いわ」


 イレーナはおっとりと言った。休むなんて絶対に許さないと、その青い目が雄弁に告げている。


「……入っていいですか?」


 イレーナの背後から声がした。シュルマだ。


「あら、ごめんなさい。入口を塞いでいたわね」


 中に入ると、イレーナは円座になっていた椅子を壁際に寄せ始めた。


「今日も武踊ぶよう合わせをしましょう。まだ全然、お互いの動きに合わせられていないし」


 ロイが、椅子をどけるイレーナの背中を睨みつけている。


「やあ、昨日はすまなかったね」


 そこへフランツがやってきた。タイミングがいいのか悪いのか。


「急にベッドから起き上がれなくなってしまってね。やむを得ず休ませてもらったよ。それで、僕の演技プランはどうすればいいかな?」

「じゃあ、最初から最後まで通してみましょうか」


 イレーナが笑顔で合図をし、レグルスとロイは最初の場面の所定位置に立った。話が進んでからの登場になるマルコとシュルマは、壁際に追いやられた椅子に座る。


「やれやれ……」


 フランツが渋々位置につくと、イレーナも椅子に座った。




(この二人、ちゃんとやってない……)


 レグルスがそう思ってしまうほど、ロイとフランツの動きが悪い。昨日は大きく伸びやかな動きをしていたロイが、今日はこぢんまりとまとめてしまっている。大柄な彼が小さく動くといかにも窮屈そうで、気持ちよさがない。

 フランツはそもそも、やる気がないように見えた。セリフにも武踊にもまったく心を込めていない――それも、わざと。

 サジェ役のフランツがいったんけ、入れ替わりでブランヴァ役のマルコが立つ。

 マルコも、様子がおかしかった。


(マルコって、もっと上手いはずなのに)


 だがストーリアは進む。月の神殿の扉が開き、シュルマ演じる〝月姫神げっきしんの巫女リュヌ〟が、カノープスたちを出迎える。


        ★ ☆ ★


『人間たちよ、何用か。なにゆえ、我が主ヴィルジェーニアスにまみえんと欲するのか』


 カノープスは答える。


『私はカノープスと申します。今、世が大いに乱れ、多くの血が流れていることは、巫女殿もご存じでしょう。いくさを終わらせたい。そのために、神の力と知恵をお借りしたいのです』


 カノープスロイに対し、リュヌシュルマは硬質な声で淡々と返す。


『人の業を神にすすがせようというのか。なんと傲慢な。神は世界の守り手にあらず、創り手である。創られた者どもよ、血は己の手ですすぐがよい』

『いいえ。今の戦は、我らを分かった神の罪にるもの。神が我らをひとつの種に創っておられたなら、我らとて、争わずにすんだのです』

『……神が間違っていると申すか、ものめ』


 このセリフだけ、なぜかシュルマの声の輪郭がぼやけた。それに気づいてか、イレーナが台本に何事か書き付けた。


『里の長よ、なぜ神殿の扉を開いた?』


 里長レグルスは答える。


『巫女様、世界中にはびこる騒魔どもを一掃するには、人の心に安らぎを取り戻さねばなりませぬ。彼らは信頼に足る者。託してもよいと思料いたします』

『強く善き者たちだと、判じたと?』

『はい』


 リュヌはうろうろと歩き回る。カノープスロイブランヴァマルコを品定めするかのように。二人は、胸を張ってはいるものの――ひどく、疲れた顔をしている。

『……痴れ者よ。神の裁定を仰いでみよ。だが、尋常ならざる試練が待つと知れ』

『ありがとうございます、巫女殿』

『ついてくるがよい。里の長はここで待て。私の代わりに扉を見張るのだ』


 深く頭を下げる里長を残し、リュヌに先導され、カノープスとブランヴァは捌けていった。


        ◆ ◆ ◆


 場面が終わると、イレーナは盛大なため息をついた。


「……どうしてこんなメンバーなのかしら。私はヴィルジェーニアス役を射止めるつもりだけれど、あんまり足を引っ張られると、できることもできなくなってしまう」


 イレーナは変わらずおっとりと話している。だがその響きは、レグルスの背筋を凍らせた。


「すみません、イレーナ先輩!」


 マルコが勢いよく頭を下げた。


「さっきのシーン、自分のセリフがないからと気を抜いてしまいました。次はちゃんとやります!」

「わかっているならいいわ。でもマルコくん、あなたはすごく上手よ。自信を持って」

「……はい」


 マルコは顔を上げないし、返事をする声は震えていた。


「ねえ、レグルスくん」


 次は、矛先がレグルスに向いた。未熟さを糾弾されるのかと思うと身が竦んだが、そうではなかった。


「一生懸命にやっているあなたなら、わかっているでしょう。手を抜いている人がいるって」

「へっ……」


 まさか、責めろというのか――カノープスをこぢんまりと演じたロイを。


 意図的なものかどうかはわからないが、ロイの動きが悪いのも、マルコの気が抜けたのも、体力を温存しているからだ。特にロイは、このストーリアではカノープスが出ずっぱりなせいで、まったく休めていない。最初の武踊合わせのときから今日の通し稽古まで、イレーナよりずっと長い時間立ち回っている。


「一生懸命なら許されるのかい?」


 レグルスが答えに窮していたら、フランツが口を挟んできた。


「彼はまだまだだよ。まあ、だからこそ頑張っているんだろうが……純粋でうらやましいな」


 レグルスは、フランツの物言いに呆然としてしまった。努力を冷笑する人がいるなんて、信じられなかった。


「おい……」


 凄まじい形相のマルコが、今にもフランツに食ってかかろうとしている。


「ま、待って!」


 レグルスはマルコを後ろから抱えて止めた。


「止めんなよ、幻の!」

「先におれに話させて!」


 いかなる場合でも、暴力は悪だ。それに、今フランツに言い返さなければ、ずっと抱いてきた自分のこころざしが傷ついてしまう。


「フランツさん! おれは下手だけど、頑張りたいんです。六人なんて大勢でストーリアを演じるの、初めてだから……楽しい舞台にしたい。みんないろんなことを考えて、悩んでいると思うけど、見た人が元気になれるような、そんな舞台をやりたいんです!」

「……お前」


 マルコの体から力が抜けた。レグルスが腕をほどくと、彼は振り返った。

 ロイも、シュルマも、イレーナも、レグルスを見ている。

 そしてフランツは――大きなため息をついた。


「学年末試験には、観客がいないのに?」

「へっ……」

「やれやれ。君がそんなことを臆面もなく言えるのは、まだ自分の限界を知らないからだ。絶対に超えられない輝きを知らないからだ。僕には眩しい才能がないこと、君もわかっているだろう? 君は僕を、くらべただろう? 月姫神げっきしんに愛された天才、君の麗しきルームメイト、ユアン・アークトゥルスとさ」

「……っ!」


 レグルスは強く拳を握った。その拳が、ぶるぶる震えた。


「図星か。まあ、彼がいれば、僕は不要だろう。僕がサジェを演じる舞台に立つことはない。君が理想を語ったところで、現実はそう。君も心のどこかでわかっているんだろう?」

「……そうだ。デネボラがいる限り、カノープスを演じる機会は、絶対に回ってこない」


 フランツに同調したロイの声は、絶望に塗りつぶされている。大柄な彼がひどく小さく見えた。


 チャリティーストーリアで役をもらえるのは、一人。オーディションで選ばれた、最も優秀なたった一人だ。過酷な狭き門に心が折れてもおかしくはない。誰もが夢を叶えられるわけではないと、レグルスもわかっている。だが、夢を見なければ、叶う可能性は絶無になる。母の手紙にあった言葉を彼らに返そうとした、その時――



「ふざけんじゃないわよっ!」



 その場の空気が、ビリビリと振動した。叫んだのは、シュルマだった。


でしょ!? カノープスもサジェも! あんたたちにはでしょ!? 才能があろうがなかろうが、アステラが一致してなかったら、挑戦すら許されないのよ! ねえ、ここにプリドル候補生は何人いる? よ。アステラは何種類存在する? よね? じゃあ、ナイドル候補生は何人いる?」


 まくし立てるシュルマの目尻には、涙が浮かんでいる。


「あんたたち、男でしょ? いいわよね、ナイドルは。四つのアステラ全部の役があるんだから! 本当に恵まれてるわよね!」

「シュルマちゃん、落ち着いて」


 イレーナの言葉にも、シュルマは耳を貸さない。


「あたしとイレーナさんは、ルーナだからここにいられる。けど、あたしのルームメイトはいない! ソール・アステラだから! あんなにいい子なのに、あの子が絶対に一番才能あるのに、百年に一度の天才なのに!」

「……やれやれ」


 だがそんなシュルマの態度にも、フランツはどこ吹く風だ。


「君たちの感傷に付き合えるほど僕は暇じゃない。君たちは学年末試験を大切な舞台ストーリアだと思っているんだろうが、所詮はただの試験テスト。不可さえつかなければいいんだ」


 試験は舞台じゃない――

 レグルスはフランツとの間に決定的な断絶を感じた。


――この人にはもう、何を言っても無駄だ。


「そんな考え方だから成績が悪いのよ。あなた、根本的に間違ってる。一年生の顔を見てみなさい、恥ずかしい」


 イレーナの目には怒りの色はない。あるのは、冷ややかな侮蔑だけだった。

 レグルスは、一年生の――マルコの顔を見た。そして、すぐに目を背けた。それほどまでに、マルコの表情は沈痛だった。

 自分も、こんな顔をしているのだろうか。

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