晧月ー2

 動揺している間に薫香の匂いが漂ってくる。


(どうすれば)


 柘榴と会い今さら話すこともない。それならいっそ殺してくれたほうがましだ。

 足早に部屋に入ってきた帝を見て、とっさに折れた龍笛の片方を握りしめていた。

 いつも不安になったとき、緊張したときには笛をつかむ。黒くがっしりとした竹の冷たさは常ならささくれだった気を静めてくれるものだが、今は半分に折れ使いものにならない。それどころか不安を煽ってくる。


「起きたの? 具合は」


 柘榴帝は白い顔をさらに白くし、水色の瞳でじっと眺めてきた。片腕に簡易筝を抱えた帝は、駆けてきたのか息を乱していた。一歩ずつ近づいてくる青年に、蓮はどうしようもなく龍笛の切っ先を向けた。


「来るな!」


 つき出したのはなんとも頼りない武器だった。ぎざぎざに折れた笛の先、それでも刺されば致命傷にはなる。

 柘榴帝を見て反射的に膨らんできたのは慣れ親しんだ敵愾心だ。これまで十余年、天帝憎しと殺意を磨き続けてきたのだ。その延長線上から簡単に柘榴帝が外れることはない。

 すると相手はなぜか安堵に顔をゆるめた。つき出された笛など見えないとばかりまっすぐ寝台へ近づいてきて、気軽にそばに腰かける。


「体調は?」

「う、……」


 後じさろうとしたのに動けなかった。

 自身の顔が強張るのがわかる。薫香くんこうのせいだ。鼻から入るあまやかな香りが身体を痺れさせ、脳から思考を奪っていく。以前は抵抗できたそれに今はなぜか抗うことができない。「七夕の会」では薫香のことなど気にもとめなかったのに。


(なぜ体が動かない?)


 神触れ人は神の寵を失えばただびとに戻ってしまう。蓮を加護していた毘沙門天神びしゃもんてんじんは、ゆるがぬ決意以外に興味のない神だった。加護神に背を向けられ、蓮は赤子のようになすすべがない。

 笛を握る手が震え力なく落ちた。頭の芯が痺れぼうとしてくる。熱と上がる息を抑えるために目を閉じた。なけなしの理性にしがみつくしかない。


(落ちつけ、落ちつけ……!)


 ゆっくり目を開くと、柘榴帝は折れた龍笛の先を寂しそうに眺めていた。膝上にある簡易筝の弦をなぞりうつむいている。


「憶えているだろう、これ……昔のことも。後宮の裏庭で、こっそりふたりで遊んだよね。君はその龍笛を、俺は筝の練習をしてた」


 憶えている。そうは答えずに蓮は気を静めようと黙っていた。答えを一拍待ってから、柘榴帝は諦めたのかまた口を開く。


「君は蔣家しょうけの子どもだった。君の家は武官だったけれど、刀より笛のほうが好きだとよく言っていたね。朝議や祭事のたびに裏庭に来て。だから俺も自分を武官の息子だと偽った。君はまるで疑いもしなかった」


 迂闊だったのだ。

 幼い日、父に連れられ待たされている間に、暇をもてあまし勝手に王宮内をうろついていた。広い王宮の林の奥が後宮の裏庭に通じるなんて知りもしなかった。植えこみのなかに隠されるように抜け穴があったのだ。探検している子どもにしか見つからないような秘密の通路。草をかきわけた先に東屋があり、そこに柘榴帝がいた。退屈そうに暇をもてあまし、手すさびに筝の練習をしていた博識で綺麗な青年が。今思えば、彼はあそこに隠れていたのだろう。第二皇子たる柘榴は幼少期、常に暗殺の危機から逃げ回っていたと噂には聞く。


「……昔は、こんな匂いしなかっただろ」


 歯ぎしるような蓮の悔悟に、年若い帝はきょとんと瞬き笑う。束の間、昔に戻れた気がした。幼い日々。友としてただ演奏をともにした穏やかな時に。幸せな瞬間がずっと続くものだと幼いころは考えていた。ただ無知だったのだと今ならわかる。

 柘榴帝は穏やかに笑っている。


「薫香は天帝になる者に移るからね。昔はまだ兄さんがいた。それに、こんなことになるなんて思ってもみなかったよ」


 喉に引っかかるもの言いをしたのは、父帝のことを口にしかけたからだろう。

 蓮は先帝を恨んでいる。幼い柘榴の暗殺を目論んだとして蓮の一族はとり潰しとなったのだ。その命をくだした先帝だけでなく、きっかけとなった柘榴帝をも蓮はゆるせないままだ。それを彼はよく知っている。


「なぜ殺さない?」


 天帝の暗殺をもくろんだ者は九族みな殺しだ。死よりつらい拷問を受け必ず殺される決まりなのに。

 柘榴帝は膝に乗せた簡易筝を物憂げに眺めていた。最後に会ったときに約束をした。次に再会できたときには、


「いつかまた筝と笛を合わせようって。昔、そう約束したね」

「憶えてない」


 絶句する相手に蓮はもう一度告げてやった。


「それにそんなこと、今さらどうでもいい」


 落胆の表情をみせる相手が蓮にはおかしかった。いったい何を期待しているのだろう。昔に戻れるはずもないのに、自分に幼いころの日々を重ね見ているのか。

 柘榴帝はそっと簡易筝を床へ降ろした。本当に演奏をするつもりで、約束をはたせると思って持ってきたものだとしたら滑稽だ。自分はもう昔のようには振舞えないし柘榴帝におもねるつもりもない。そう失笑した瞬間に薫香の匂いがいっそう強まった。


「蓮。本当に、憶えてないの?」


 視界が回った。後ろに倒されたと理解したときには柘榴帝が上に乗っていた。


「ッ、離せっ!」


 頭が、身体が心がしびれていく。甘ったるい匂いが鼻腔に満ち、吸いこむまいとしても徐々に指先から侵されていく。蓮は本能的な恐怖におののいた。自身のコントロールがきかないのだ。身体だけじゃない、心の自由も曖昧になってくる。

 水色の憂いを帯びた目が降りてくる。綺麗な瞳だ。白くて大きな手のひらがこちらに伸びてくる。その手にすがりつけばいいのか。そうすれば、すべてを忘れ昔に戻れるのだろうか。


「っ、やめろ!」


 とっさに握っていた龍笛を渾身の力で振り上げた。伸ばされていた手のひらに赤い筋が走る。蓮はそれを茫然と見た。うすく切れた柘榴帝の肌から血がひとたま滴り落ちている。たいした怪我じゃない、かすり傷。けれど振り上げた尖端をもう一度と相手に向ける気にはなれない。


(どうして。どうしてどうして)


 殺すつもりだったのだ。たかが血の一滴、怪我のひとつくらいで動揺していたらきりがない。こんなことになるなんて。これじゃとても暗殺なんて無理だ。自分は柘榴帝を殺せないのか、元々殺せなかったのか。いつから――どうしてこんなことに。こんなことになるくらいなら。それならそれなら、いっそのこと。


「殺せよ」


 真上で息をのむ気配があった。


「蓮、俺は――」

「殺せ!」


 涙にくもる視界でやみくもに舌を噛みきろうとした。止めようとした帝の片手が伸びてきて、その手に思い切り噛みつくことになった。自害もさせない気か。手をひっこめろと強く噛みつくと、痛そうにしながらも相手はそのまま耐えていた。


「殺す気はない聞いてくれ! あれからずっと俺は君のことを」


 うるさい、うるさいうるさいうるさい、聞きたくない!


「――っ! ―――ッ!」


 振りきろうとあがく耳に祈るような声が届けられた。


晧月こうげつ


 びくりと全身が固まった。すでに捨てた自身の本名が見えない縄のように身を縛っていく。


「晧月、晧月」


 何度も名を呼ばれた。唇が頬を、鼻先や瞼をかすめていく。茫然と凍りついていると頬をぬぐわれた。どうやら自分は泣いていた。


「晧月。君は呼んでくれないの?」


 目の前にあるのは水色の瞳だ。時を経てなお変わらないうつくしい色。過去の思い出が怒涛のように押し寄せ、現在と未来が混濁する。自分がどの地点にいるのかわからなくなる。確かなのは、手を伸ばせばそこに見知った顔があるということだ。

 頼れる友、兄のような存在で、いつかまた会いたいと願ってきた記憶の奥底の存在。そっと閉じこめていた思い出は、蓮のなかではたしかに昔から特別で甘美なものだった。外界の出来事に壊されないよう、しまいこんできたそれが勝手になだれこんでくる。


紅呂くろ……」


 それが柘榴帝の幼名だった。皇族は成年すると名に一字足す。そんなことですら蓮は思い至らなかった。

 水色の目が暖かく笑んでいる。

 これは誰だ。

 誰だ。誰。


「誰……?」

「俺は紅呂くろだよ。昔のままの、紅呂だ」


 手のひらが頭を撫でていく。昔はよくそうやってほめてもらった。遊んでもらった、甘やかしてくれた懐かしい紅呂。大好きだった憧れの人との思い出は優しく、少し切ない。


「紅呂、紅呂」


 やさしい笑顔が降りてくる。甘い匂いだ。

 幼子に戻ったように蓮はすんと鼻を鳴らした。目を閉じる。ここに紅呂がいる。昔のように紅呂に会えたのだ。混濁する意識が優しい思い出を呼び起こした。またおやつをくれるだろうか。紅呂は思い切り甘やかしてくれた、いつも。武官である厳しい実の父より、時たま会う紅呂のほうが蓮は好きだった。自分もいつか彼のようになれるだろうかと憧れていた。無条件に彼を求め、いつも会いたいと焦がれていた。美しい瞳の気品に満ちた少年。今思えばそれは恋心に近かったかもしれない。


(また、いなくなってしまうだろうか)


「大丈夫だよ。もう大丈夫」


 心を読んだような紅呂の声がする。手放しつつある理性と意識の片隅で蓮はほうと息をつく。もうなにも怖がることはない。考えることを放棄すれば、後に残るのは薫香の甘さと与えられる快楽だけだ。堕ちるときは甘美で無心だった。理性が消えた瞬間に、蓮は昔のままの紅呂を晧月として受けいれた。

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