大仏開眼供養

 天平勝宝四年(七五二年)四月九日。聖武太上天皇は大仏開眼供養を行うことにした。

 前日の雨は嘘のように上がり、東大寺の上には澄み切った青空が広がり、東の空に昇った太陽が朝露を消していた。

 東大寺は、金鍾寺時代の伽藍が全て取り壊されていて、塀一つなく、整地された敷地が広がっていた。鋳造の時に作った土手、仮の大仏殿も開眼供養のために撤去されている。近くの林、東隣の若草山の木々は大仏造立のために切られて一本も残っていない。

 大仏は、別途作っていた螺髪の取り付けが終わり、陸奥国から来た金で鍍金が始まっていた。鍍金を始めてから間もないので、首から下は鋳込みのままであるが、緑青は生じていないので全身が金色をしている。

 朝日の中、大仏の巨大な体は、何も遮ることのない広場で青空を背にして黄金色に輝いていた。

 大仏の周りには祭壇が設けられ、諸氏族、公卿百官、民からの供物や造花が文字どおり山と積まれている。

 広場の東西には金色、四方には五色の大きな灌頂幡かんじようばんが下げられて風に揺らいでいる。朝賀のときだけに使う日像につしよう、青龍、朱雀のはたは東に、月像がつしよう、玄武、白虎の幡が西に上げられる。吹き流しや諸氏族の旗は、広場を囲むように揚げられているが、灌頂幡や日像幡よりも高くならないように配慮されていた。

 大仏の正面に設けられた、天皇一家の桟敷の後ろには公卿百官が床几に腰掛けて開式を待っている。公卿や五位以上の官人は元旦に行われる朝賀の儀と同じ礼服を着用、六位以下の官人は位階に合わせた朝服を来て参加する。公卿たちは新調した服で臨み、服が新調できない下位の者たちは、良く洗って汚れや皺がない服で臨んだ。中には染め直して新調したかのように装う者もいた。朝廷が集めた一万余の僧尼と沙弥が、東大寺を囲んで思い思いの場所に座る。さらに外側には、大仏造立のために働いている人々、平城京の人、開眼供養を見物し功徳にあずかろうと、畿内から来た数万の人がいた。

 治部省じぶのしよう玄蕃頭げんばのかみが先導して高位の僧千人が入場し大仏の横に整列した。

 開眼導師・菩提僊那ぼだいせんなが輿に乗り大仏の正面に到着し、賀茂角足かものつのたりの助けを借りて雲梯に登った。華厳経の講師を勤める隆尊りゆうそん、呪願師の道セン、都講の景静けいせいも橘奈良麻呂の案内で所定の席に着いた。

 聖武太上天皇は正面に付けた車駕から降りて大仏を見上げた。

 座っていた公卿百官、僧尼は起立して頭を下げる。見物の人々のざわめきは潮が引くように収まっていった。

 大仏様は、朝日の中で輝き微笑んでいらっしゃる。万難を排して大仏造立をしてきた甲斐があった。

 百済の聖明王が仏像一体、教典一巻を贈ってくれたことが我が国の仏教の興りだという。聖明王の仏教公伝からちょうど二百年目の今年に、大仏様の開眼供養を行えることに、日本国と仏のえにしを感じる。

 本当ならば、四月八日の灌仏会にあわせて開眼供養を行いたかった。橘卿が雨のために順延すると発表してくれたが、内実は朕の体調が悪くて起き上がれなかったのだ。朕の不徳をまずは仏様に詫びたい。

 ゆっくり息を吸うと、雨上がりの爽やかな空気が体を満たしてくれた。

 一晩寝たので体調は今日の天気のようにすがすがしい。大仏様のお顔を見ることで、体の調子がみるみる良くなってゆく。

 鎮護国家

 朕は天皇の位を継ぐにあたって、伯母様から、天下泰平、万民安楽を常に考えるようにとの教えをいただいた。徳の薄い身にあっては、ことのほか重い課題であったが、本日の開眼供養で役目を果たすことができる。

 聖武太上天皇は、光明皇太后、娘の孝謙天皇が輿から降りるのを待って、大仏の前に設けられた桟敷に進む。

 足の下の玉石がシャリシャリと小気味の良い音を立てる。

 大仏様に近づく一歩一歩は朕の人生そのものだ。写経を行い、寺を建て、仏像を納めて国と民の安寧を願ってきた。受戒し沙弥にもなった。今日は朕の人生を完成させる良き日なのだ。

 桟敷に座ると、年若い僧が恭しく細い開眼縷かいげんるを渡してくれた。藍で染められた縹色はなだいろの糸は、台上の菩提僊那の筆につながっている。

 開眼縷は光明皇太后、孝謙天皇、公卿に次々と伸ばされて、会場は蜘蛛の巣を張ったようになった。

 朕と開眼導師・菩提僊那は糸で結ばれ一体となった。菩提僊那だけではない。光明子、孝謙天皇、橘卿以下公卿、高僧とも結ばれた。開眼に参加している僧尼、沙弥、見物に来ている民には縷を配ることはできないが、心はしっかりとつながっている。先に亡くなった行基大僧正ともつながっている。

 朕は知識で大仏を建てることができたのだ。開眼供養に参加する喜びを民と供にしよう。

 開眼縷が行き渡ったところで、太鼓が一発大きく鳴らされた。

 雲梯に立つ菩提僊那は、聖武太上天皇に一礼してから、大仏に向き合った。

 いよいよ婆羅門僧正が眼睛を入れ、大仏に魂が籠もる。縷によって、朕や日本国は仏様がさしのべてくださる手と結縁けちえんすることができる。

 朕の体に力が満ちてくるのが分かる。民が救われてゆくことを実感できる。

 橘卿はいつも費用を心配しているが、今日の感動と将来の幸せには代えられない。

 大仏の両眼に黒い目玉が入れられると、大歓声と拍手が起こった。

 涙で大仏様のお顔が見えない。生きていて本当に良かった。

 光明皇太后が布を差し出してくれた。

 菩提僊那が使った雲梯が片付けられると、大仏の前が空いた。

 大仏の周りに座った千人の僧尼が華厳経の読経を始める。周りに散らばった一万人の僧尼、沙弥も声を合わせ、平城なら盆地は経を読む声で埋まった。

 読経が終わると隆尊りゆうそんによって華厳経の講義が行われた。講義が終わると、朝庭からの下賜品、大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺からの様々な進物、諸氏族からの献上品が披露された。

 聖武太上天皇たちは中央の桟敷を下り東側に設けられた別の桟敷に移る。公卿百官も床机を持って立ち上がり、大仏の前を空けると、聖武天皇たちが座っていた桟敷は特設の舞台となった。

 雅楽寮に勤める歌女うたいめと舞人が合わせて三十人が入ってきて舞台に上がり、雅楽の調べに合わせて五節の舞を踊り始めた。同時に酒と昼餉が公卿百官、供養に参加している僧侶、見物人に振る舞われ、華やいだ雰囲気が出てきた。

 雅楽寮の歌女の次には、大伴拍麻呂おおとものはくまろが一族の男女二十名を率いて久米舞を披露した。佐伯全成さえきまたなりは二十人で剣舞を、文黒麻呂ふみのくろまろあや氏二十名、土師牛勝はじのうしかつが土師氏二十名を率いて舞台に登り、勇壮な楯伏舞たてふしまいを踊った。観客からは盛んな拍手と声援が起こる。

 次々と、氏族がそれぞれに趣向を凝らした衣をまとって歌い踊る。一舞ごとに拍手や歓声は大きくなっていく。

 中央の宴会に参加できない、僧尼、工人、民はあちこちで小さな組を作って、振る舞い酒や肴を味わいながら歌や踊りに興じている。

 日本の歌謡が終わると、海外の舞踊が始まった。

 最初は少女たち百二十人による女踏歌おんなどうかが歌い踊られた。女踏歌は長安や洛陽で正月の十五日に行われる舞である。色とりどりの衣を身にまとった、あどけない少女たちが異国の曲に合わせて歌い舞う様子は、天女の踊りを思わせた。女踏歌の演奏には、橘諸兄左大臣も鼓の奏者として加わり大いに場を盛り上げた。

 少女たちが舞台を下りた後には、唐の古典音楽である古楽、中楽、散楽が演奏された。唐への留学経験がある者たちが曲に合わせて舞を披露する。高麗楽こまがくも三回披露され、渡来系の氏族が舞台に上った。林邑(ベトナム)出身の僧仏哲らの林邑楽もあった。酒や肴は尽きることなく出され、笑い声や手拍子は絶えない。

 東西に分かれた歌合戦で盛り上がり、余興が終わる頃には、日が西に傾いていた。

 西日に当たって大仏は黄金色に輝く。

 聖武太上天皇が持っていた布は、絞れば滴が垂れそうなくらいに、涙で湿っていた。

 朕と民の気持ちは大仏様を介して一つになった。

 今はお顔しか金鍍金されていないが、陸奥国から来る金は豊富で、いずれ全身が金鍍金できるだろう。錆びることのないお体は、民に慈愛の光を永遠に届けてくださる。

 大仏様を納める金堂も建立する予定である。金堂の他には塔や回廊、講堂、宿坊など伽藍を順次作ってゆき、総国分寺としてふさわしいものにしてゆく予定だ。

 小野老おののおゆが詠んだ歌が何回も心の中に浮かんでくる。

  青丹あをによし 寧樂ならの都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

 そう、平城ならの都は盛りを迎えている。そして、

 鎮護国家

「朕が生涯を掛けた事業が完成した。東大寺の盧舎那仏があれば、天下泰平、万民安楽がかなうのだ。我が国は千年の後も仏の国として栄えてゆくのだ」

 聖武太上天皇が帰りの輿に乗ったときには、日が西の空に沈もうとしていた。

 輿は茜色の空の下、平城宮を目指した。


 東大寺盧舎那仏は、源平合戦の治承四年(一一八〇年)、戦国時代の永禄十年(一五六七年)に消失して、聖武天皇が造立したときの部分はほとんど残っていないが、現在も奈良の大仏様として親しまれ、日本を守護している。

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あをによし-奈良の都は盛りなり- しきしま @end62

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