第四章 聖武天皇

大仏造立の詔

難波の大仏

 風は肌寒いが、日差しは十分温かくなり、大きくなった蕗の薹が春を感じさせるようになってきた。天平十二年(七四〇年)二月、難波に巡幸していた聖武天皇は、光明皇后の勧めで河内国の知識寺(大阪府柏原市太平寺町)を訪れた。

 大きな山茶花の木から散った花びらが、車駕を止めた広場から中門まで赤い絨毯を作っていた。寺を囲む塀は、ところどころに漆喰が補修された跡があり、小さいが品のある八脚門は、苔がむしている瓦と新しい瓦が混ざっている。

 境内は俗世と切り離され、清らかな空気に満ちていた。

 庭は白い玉石ではなく、川原から拾ってきた砂利が敷いてあったが、掃き清められ、竹箒の跡がきれいについている。梅の古木が四方に植えられていて、白い蕾をふくらませていて、来客に驚いた目白が何羽も飛び立っていった。百日紅や藪椿も植えられている。

 金堂は、白壁、朱塗りの柱、瑠璃色の瓦で、青い空や白い雲を背景に堂々と建っていた。ただ、塀と同じくところどころに補修の後がある。左右の五重の塔は平城京の寺の塔に比べると小さい。

 太陽を隠していた小さな雲が動くと、まぶしい光が境内に降り注いできた。

 墨染めの法衣をまとった初老の僧侶に先導されて、聖武天皇は光明皇后と一緒に金堂の中に入った。

 境内が明るすぎたために、薄暗い金堂の中は何も見えない。ひんやりとした空間の中に、建物いっぱいの大きな影があった。

 僧が寺男に窓を開けるように指示した。

「我が寺のご本尊様です」

 明かり取りの窓が、一つずつ開けられてゆくたびに、大きな影は輪郭をはっきりさせてゆき、正面の扉が大きく開けられると、蓮花座の上に鎮座する丈六の盧舎那仏が現れた。

 見上げた大仏は全てを優しく包み込んでくれた。

 肉髻につけい螺髪らほつの髪の毛、広い額には白毫がある。面長でやや角張った顔には、伏し目、丸みを帯びた鼻、かすかに笑うような太くて閉じた唇が、釣り合いよく配置されている。耳とうは控えめで、三道はゆったりと流れる。

 右手の施無畏印せむいいんは見る者の緊張をほぐし、膝の上に載せられた左手は与願印よがんいんを結び、慈悲を与えてくれる。前を大きく開けた納衣のうえは厚い胸板を見せ、吉祥坐に組んだ足は不動の安定感がある。光背からは癒やしと救いの光が放たれていた。

「天皇様、いかがなされましたか」

 やわらかい声に横を向くと、光明皇后が微笑んでいた。

「やっと気づいてくださいました。何度も声を掛けたのにどうかなされたのですか。長い間、大仏様を見上げたままでいらっしゃいますから、魂がどこかへ行ってしまったのかと心配しました」

「仏様のあまりの大きさに圧倒されていた。慈悲深いお顔を拝んでいると救われる気がする」

 正面の扉から差し込んできた光に金色の光背が照らされて、黒光りする大仏が浮かび上がった。

 思わず手を合わせた。

 光明皇后も手を合わせ、案内してくれた僧侶が、般若経を唱え始めた。

 人の声に気がついて振り返ると、金堂の外には僧侶の他に多くの人が集まり、座り込んで両手を合わせ、頭を下げて経を口ずさんでいた。

 泥や汗で汚れてみすぼらしい身なりの人々が、穏やかな表情で経を唱えている。母親に背負われた子供も、大人のまねをして小さな手を合わせている。

「御仏を信仰する者たちにございます。私どもの寺や大仏様は、近隣の人々の知識によって造られました」

 読経を終えた僧は、穏やかな口調で説明してくれた。

「知識とは?」

「知識とは、仏縁を結ばせる物や人のことであり、人々の協力のことです。仏様に救いを求める民が、少しずつの財や労力を持ち寄って大きな仏像を造りました。官寺と違い民の寺ですので傷みがあっても十分な修理を施すことができずに、お恥ずかしい限りです」

「塀の白壁が一様でなかったり、瓦に古いものが混じっているのは……」

「素人の修理ですので、どうしても見劣りします。庭の掃除は老婆や子供たちが行ってくれます。屋根の葺き替えは、近隣の民が総出で行いましたが、財力に限りがありますので全てを新調することができず、使えるものを残したために新旧の瓦が混在しています」

 一人一人の小さな力を集めて、見上げるほどの仏様を造ったのか。

 境内へ入ったときに、清らかさ以外の「何か」を感じた。「何か」とは、知識という民が持ち寄った心なのだ。多くの人の志が境内に満ち、大仏様の形になっている。仏様のお顔が慈愛に満ちているのは、民の心に応えてくださっている証しなのだ。

「仏様は乾漆像か」

「塑像でございます。皆で心木に藁を巻き、荒土から細かい仕上げ粘土へと順次盛り上げ、おおよその形を作ったところで仏師に頼みました。一人一人が、ひとからげの藁を持ち寄り、手に一杯ずつの土を塗り功徳を積んできました」

「民の思いがこもった仏様であると」

「仏様を収める金堂も人々の知識によっています。民が寺を大事にしますので、仏様は民の暮らしを守ってくださっています」

 聖武天皇はもう一度大仏を見上げた。

 子供から年寄りまで、小さな力やわずかな財を持ち寄って造られた大仏様。慈愛に満ちた表情、大きく安心感がある体から、民が積んだ功徳が計りしれる。自らの汗が染み込んでいる故に、民の信仰は厚く仏の加護は大きい。朕が目指す天下泰平、万民安楽の形が知識寺にあった。

「天皇様、いかがなされましたか」

 光明皇后の声に気がついて、頭を元に戻すと首や肩がコキコキと鳴った。

「魅入られたように固まってらっしゃいました」

 光明皇后は首をかしげて聞く。

 目を閉じると、瞼の下に涙がにじんできた。

「何か悲しいことがあったのですか」

 仏様の大きさに息もできない。民が積んだ知識に身動きができない。自分の徳のなさに涙が止まらない。

「仏様の慈悲の深さに感動していた。知識寺の大仏様は大きく、力強く、そして優しく見守っていたくださる。仏様の力で国を治める雛型が河内国にあったのだ。朕も盧舎那仏を百官や民の知識とともに造りたい。仏様の功徳で朕の徳のなさを補い、天下泰平、万民安楽を実現するのだ」

「ぜひ天皇様も大仏様をお造りください。仏様の力で国家を安らかに、万民を幸せに導きましょう」

 案内の僧侶が再び般若経を唱えだした。

 思わず両手を合わせて頭を下げて唱和した。

 傾き始めた春の日差しが、背中を心地よく温めてくれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る