藤原広嗣の乱

 難波の知識寺で大仏を見てから半年後の、天平十二年(七四〇年)八月二十九日に、大宰少弐だざいのしように(大宰府次官)である藤原広嗣から、朝廷に上表文が届き、九月三日には広嗣が大宰府で挙兵したという知らせが届いた。上表文の中で広嗣は、下道真備しもつみちのまきび僧玄昉げんぼうを非難し、朝廷から除くことを要求しいた。二人は橘諸兄の推薦を受けて、聖武天皇が特進させていたので、上表文は謀反であると断定された。

 聖武天皇は、右大臣である橘諸兄の進言を許可し、大野東人おおのあずまびとを大将軍に、佐伯常人さえきのつねひと阿倍虫麻呂あべのむしまろを副将軍に任じて広嗣追討を命じた。

 大野将軍は即日出発し、佐伯、阿倍将軍は、畿内で徴集した兵をまとめてから大野将軍を追った。軍団の出発と同時に、諸兄が、広嗣に味方しそうなものを次々に捕らえて取り調べを行い、平城京は大騒ぎとなった。


 大野将軍を送り出してからほぼ二ヶ月経った。十月も下旬になると日が短くなったが、まだ火鉢は必要ない。夕焼けが終わり、宮の北ある林の鳥たちがやっと静かになったと思ったら、内裏の庭に入ってきている鈴虫や松虫が騒がしいほどに鳴き始めた。宮中には昼間の喧噪が余韻となって残っている。橘諸兄は、広嗣に同心していると思われる公卿百官を一斉に捕縛した。特に藤原式家は、宿奈麻呂をはじめとして在京の者を全員拘束したので宮中だけではなく都中が大騒ぎとなった。橘諸兄が捕縛した者たちは、左兵衛府で厳しい取り調べを受けているだろう。取り調べに関係している式部省や刑部省は、まだ人が残って仕事をしているらしい。兵部省は非番の者も集めて宮中の警備を行うという。宮門は終夜に渡って篝火が焚かれるらしい。太刀を持ち、二人一組になって目を光らせながら歩く兵士が宮中の空気を張り詰めたものにしていた。

 下女たちが夕餉の膳を下げ、代わりに持ってきた油皿に火を灯した。部屋の中がほのかに明るくなる。

 聖武天皇の迷いを映すように炎が揺れ、壁に映った影が大きく揺れた。

 聖武天皇は、下女たちが出ていって光明皇后と二人きりになったときに、大きなため息をついた。

「朕は帝としての器がないのであろうか」

「何をおっしゃるのですか」

「朕が即位してから、瘡病かさのやまいがはやり、地震が起き、干魃で飢饉となった。朕が皇太子の頃から支えてくれていた太政官たちは瘡病でほとんど死に、百官や民も多く死んだ。ようやく天下あめのしたや朝廷が瘡病から立ち直ってきたときに、臣下から謀反を起こされた」

「藤原広嗣のことですね」

「乱暴者という評判であったが、朝廷のために生涯を捧げてくれた藤原宇合卿の嫡男であるから、いずれ活躍してくれることを期待して大宰少弐にしたのに、朕の政に異議を唱え、大宰府で兵を挙げた。大王おおきみ、天皇の時代を通じて、謀反を起こされたのは朕だけだ。朕に徳がないばかりに、災厄が起こり臣下は謀反を起こす」

「謀反は広嗣の邪な考えが起こしたものです。大野大将軍がじきに戦捷の報告を持ってくるでしょう。お気になさいますな」

「大宰府は西海道の権限を一手に握っているから、広嗣は大軍を作るだろう。大宰府のことも気がかりなのだが、橘卿が調べている平城京の内通者が気になってしかたがない」

「念のため、広嗣の兄弟は蟄居させていますし、橘卿や鈴鹿王はうまくやってくれると思います。天皇様におかれては泰然と構えていてください」

「橘卿にも気にするなと言われた。自分でも腰を落ち着けていなければならないと分かっているのだが、どうしても不安な気持ちが抑えきれない。平城宮を兵で包囲されたうえで、狼藉者が内裏に入ってきて、朕や光明子、阿倍を殺してしまうのではないかと心配なのだ」

 因果応報だ。

 長屋王を殺したときと同じようにして、朕も殺されるのではないか。根拠のない噂に乗って、長屋王と子供たち、朕が子供の頃から世話になっていた吉備内親王まで殺してしまった。長屋王を殺した悪逆の責任は朕にある。天神あまつかみは広嗣をして、長屋王を殺した罰を朕に科そうとしているのだ。

 油皿の炎に飛び込んだ虫がパチパチと焼かれる。梟のホーホーという鳴き声が不気味に響く。

「明日から東国巡幸に出かけようと思う。壬申の乱の際に天武天皇がたどった道をなぞる旅に出かけたい」

「大宰府の広嗣が謀反を起こしているときに、天皇様が都を空けられるのはよろしくないと思いますが」

「朕は居ても立ってもいられないのだ。都は敵がたくさんいるように思えて心が落ち着かない。天武天皇が壬申の乱の時に指揮を執ったという野上行宮のかみのかりみやが安全に思える」

 朕は危険から逃れようとする情けない人間かもしれないが、不安な心は収まらない。

「光明子も朕と一緒に行って欲しい」

「糸は針についてゆくものです。天皇様の行かれるところへご一緒します」

 光明子の笑顔に救われる気がする。

「西国へ行っている大野将軍が不安になるかも知れません。文を出されてはいかがでしょうか」

 光明子が持ってきてくれた紙に筆を走らせる。

『大野大将軍に勅する。朕は思うところがあって、今月の末よりしばらく、関東に行く。行幸するときでないと分かっているが、やむを得ないことである。将軍はこのことを知っても、驚き怪しまないようにせよ』

 そう。関東へ行幸することは仕方がないことなのだ。

 この勅を読めば、大野将軍や佐伯将軍は朕の心を理解してくれるだろう。

 光明子の手のひらを握ると、光明子は体を寄せてくれた。

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