恭仁京遷都

 十月二十九日に平城京を出発した聖武天皇は、伊賀国名張、伊勢国河口、鈴鹿、朝明、桑名、美濃国不破、近江国横川、蒲生、守山と壬申の乱で天武天皇がたどった道筋を歩み、十二月十五日に山背国やましろのくに相楽郡さがらかぐん(京都府木津川市加茂町)の頓宮かりみや(仮宮)に着いた。

 頓宮は、天皇と皇后が巡幸先で寝起きするためだけに作られた屋敷で、平城宮の大極殿や内裏とは比べものにならないほど小さい。急造の宮の柱は白木のままで漆は塗られておらず、床板からは切り出したばかりの木の香りが漂っている。白壁は十分乾いていなく、手で押せばへこむところがある。屋根瓦は間に合わず、平城宮の西池宮の瓦を流用したので、新しい柱や壁とは釣り合っていない。中庭は土を踏み固めただけで玉石は敷かれていない。塀は幔幕で間に合わせて、鎧甲で身を固めたいかめしい兵士が、槍を持ち十間おきに立って警護していた。宮を作るために掘り出した土は脇に無造作に積み上げられている。

 山に囲まれた頓宮は日が当たるのが遅い。明るくなっても、宮の前を流れる泉川は川霧で白くかすんでいる。冬枯れの狛山から降りてくる風は冷たく、体を芯から冷やし、焚き火の側から離れたくなくなる。霜柱が立った庭を歩くと、シャリシャリという音がして足跡がくっきりと付く。指先も足の先もかじかんで感覚がなくなってくる。

 頓宮の「大極殿」に諸兄以下太政官が集められた。

 部屋の中なのに吐く息が白く、火鉢に手をかざしても指先はなかなか温まらない。厚着をしていても、足の先がしびれるように冷たい。年を取ると寒さに弱くなる。心なしか、髪の毛が薄くなり白髪が増えた。諸兄の体は、一ヶ月以上の旅、急な頓宮の建設、広嗣の乱に関係した者の捕縛などで悲鳴を上げていた。腕を回すと肩がきしみ、ふくらはぎはパンパンに張って元に戻らない。食も細くなってしまった。

 諸兄はかじかんだ手をよく揉んでから、乱の処分について書いた紙を取り上げる。

「藤原広嗣の乱についての処分を上申します」

 諸兄は、死罪二十六人、没官もつかん(官位、財産没収)五人、流罪四十七人、徒罪ずざい(懲役)三十二人、杖罪じようざい百七十七人を読み上げた。死罪の中には、広嗣や綱手など西国の戦いで死んだ者が含まれ、流罪の中には広嗣の弟の宿奈麻呂、田麻呂など藤原式家の関係者が含まれた。

 諸兄が奉じた書状に聖武天皇は「可」と朱書きして返してくれた。

「裁可がおりましたので、処分を中務省に回します。処分とは別に、広嗣の乱に関して藤原一門より、藤原不比等様の代に下賜された五千戸の食封を返したいと申し出がありました」

 末席にいた藤原豊成は深く頭を下げた。

「自分の従兄弟である広嗣が天皇様に対して弓を引いたことを深くお詫びします。私ども藤原一門は曾祖父の鎌足の代から骨身を惜しまず天皇様に尽くしてまいりました。これからも子々孫々天皇様に尽くす所存であります。今回右大臣様の勧めがあり、反省と謝罪の意を込めて祖父不比等が賜った食封五千戸をお返しいたします」

「藤原卿から申し出があった五千戸を、天皇様が以前から考えられていらっしゃる国分寺、国分尼寺を建てる費用に回してはいかがでしょうか」

 聖武天皇は懐から紙を取り出し、諸兄たちに見せた。紙には楷書で、

『鎮護国家』

 と、大きく書いてあった。

「鎮護国家とは仏様の力を借りて国を治めることである。食封の返却については皇后から内々に聞いている。橘卿の提案どおり返してもらった食封を国分寺、国分尼寺に当よう。これは、国分寺建立の詔である」

 諸兄は天皇から詔を受け取った。

 瘡病が流行したときから聖武天皇様の仏教への傾倒が著しくなった。朝賀のときに高御座たかみくらに仏像が据えられるようになって久しく、今では違和感がなくなっている。天皇様が仏教に情熱を傾けるようになったのは、光明皇后様の影響が強いのだろうか。

 諸兄は受け取った詔を読み上げる。

「朕は天皇という重責を受け継いだときから、民を導く良い政を行い、天下泰平、万民安楽、除災福至を願ってきたが、近年は不作で疫病もしきりに起こっていて、我が身の不徳を嘆き恥じている。去年、諸国に一丈六尺の釈迦尊像を造らせ、大般若経を写経させたところ、今年は春から秋にかけて天候がよく五穀もよく実った。ありがたいことである。

 そこで、諸国には七重塔を造らせ、金光明最勝王経こんこうみようさいしようおうきようと妙法蓮華経を一揃え写経させたい。仏の法を盛んにして、加護を世の中に広めるのである。七重塔を建てる寺の名前は金光明四天王護国之寺こんこうみようしてんのうごこくのてら(国分寺)とし、尼寺は法華滅罪之寺ほつけめつざいのてら(国分尼寺)とせよ。国司は寺を厳かに飾り清浄に勤め、月ごとに金光明最勝王経を転読させよ」

 干魃や流行病が人知の及ばないところであるから、神や仏に頼りたくなる気持ちはよくわかる。天皇様が仏の力を借りて国を治めようとなさるのであれば、臣下としては、従うまでだ。

「国分寺の建立に五千戸も不要である。持統帝から仕える藤原不比等は朕に政を教えてくれた。不比等の子である武智麻呂、房前、宇合、麻呂は朕に大変尽くしてくれたことを鑑み、五千戸を返納してもらった上で、新たに二千戸を藤原に下賜しようと考える」

 天皇様いけません。おっしゃるように国分寺には五千戸も不要ですが、自分が豊成卿にすべて返納させるように迫ったのは、大きくなりすぎた藤原氏の力を削ぐためなのです。太政官は倭以来の伝統氏族から一人ずつというのが慣例でありましが、先代の藤原氏は太政官に四人も送り込み権力を独り占めするまでになりました。一つの氏族だけ力が強くなったのでは、皇室をないがしろにして権力を欲しいままにします。大きな力が奢りを生み広嗣の乱につながったのです。太政官には伝統氏族が釣り合いよく入って互いに牽制しあうことが重要なのです。故に自分は、太政官を誰にするかという諮問を受けたときに、大野東人おおのあずまびと、巨勢奈?麻呂こせのなてまろ大伴牛養おおとものうしかい県犬養石次あがたいぬかいのいわすきを推薦し、光明皇后の藤原豊成のほかに、永手、広嗣、仲麻呂を入れたいという要望を、鈴鹿王と一緒になって断ったのです。

 広嗣は大宰府で挙兵したために失敗しましたが、唐国の歴史書には、臣下の力が強くなりすぎて王家が乗っ取られてしまったという例がたくさんあります。広嗣の乱を奇貨として藤原氏の力を削ぐべきなのです。藤原氏で参議になっているのは豊成卿一人だけの今が好機なのです。

 天皇様には腹芸ではなく、直に自分の考えを伝えた方が良かったが、太政官たちの前でおっしゃったことを否定できない。諸兄は唇を噛んだ。

「天皇様の御心をかなえるように、我らは努めます」

 諸兄が頭を下げると、鈴鹿王たちも一様に頭を下げた。

 広嗣の乱の処分が決まったので、平城京に戻って骨休めができる。

 諸兄は下女に酒と肴を持ってくるように命じた。

 熱めの濁り酒は体の芯を暖め、火であぶられた干物は香ばしい味で舌を楽しませてくれる。思わず白米が欲しくなった。

「平城京を西の京とし、相楽の地を恭仁京くにきようと名付けて都に定めたいと思う」

 諸兄は、聖武天皇の言葉に、持っていた土器かわらけを落としそうになった。

「相楽の頓宮は文字どおり平城京に帰るまでの仮の宮です。天皇様は平城京に戻っていただき、民の心を安んじてください」

「朕は東国巡幸中に色々と考えるところがあった。平城京は良い場所ではあるが、長屋王の祟りで多くの人が死に不吉な場所となった。広嗣の謀反もあった。人心を一新するために遷都を行おうと考える」

 今回の東国巡幸は時期が疑問であったが、通過した郡里は税を軽減したし、天皇の権威を諸国に知らしめることができた。国分寺、国分尼寺は藤原氏から返却があった食封でまかなえるし、仏様の力を借りて国家国民を安楽にするということは良いことだと思う。

 しかし、理のない遷都は国帑の浪費、民の疲弊につながる。

 相楽の地は、大きな川があり山が背後にあって夏に涼しいし、平城京に近いから自分も避暑地として別宅を構えたが、そもそも、土地が狭く、大極殿や朝堂院だけで平地がなくなってしまい都を作ることはできない。条坊を整え、宮を新築するためには莫大な費用と年月がかかる。民のことや国家の行く末を考えれば諫言しなければならない。

「都を遷すためには莫大な費用がかかります。今年は豊作でしたが、天下あめのしたは瘡病の傷が完全に癒えていません。加えて広嗣の乱があり出費がかさんでいます。都を遷すという考えは……」

 天皇の不快な顔に諸兄は口をつぐんでしまった。

「藤原京は十五年で平城京に遷した。藤原京以前は歴代遷宮と称して天皇の代ごとに宮を遷していたという。朕も即位してから十六年を経ているので遷宮しても良いと考えている」

「歴代遷宮の頃は、掘っ立て柱の宮でしたので二十年くらいで新しい宮に遷る必要がありましたが、平城宮はすべて礎石建ちで十五、六年では何も問題もありません。相楽の地は四神相応になっておらず、山に囲まれ、中央に川が流れておりますれば、平城京や藤原京ほどの広い土地を取ることができません。平城京はここから二、三里のところではないですか」

「鹿背山の東を左京、西を右京とすれば十分な大きさの都を作ることができる。狛山が玄武、泉川を朱雀とみれば背山臨水の四神相応にかなっている。唐国は首都を長安と定め、陪都として洛陽と太原を持っているという。朕も恭仁京を首都とし、平城京、難波宮を陪都として国を治めたい」

「都を遷すという大事業は私たちと良く計ってから……」

「橘卿が言うように大事業であるからこそ朕は決定したのだ」

「費用が大変です。諸国から人を大量動員しなければ……」

「すべて橘卿ら公卿に任せる」

 天皇様の固い決意を感じると何も言えなくなる自分が情けない。

 聖武天皇の横に座っている光明皇后と目があった。

「橘卿の言いたいことはよく分かりますが、天皇様の強いお考えです。かなえてやってもらえませんか」

 諸兄は思わず頭を下げてしまった。

 皇后様に頭を下げられては嫌といえない。費用や人足については我々で何とかせねばならないのか。

 鈴鹿王や大伴卿たちの、「右大臣であるお前が諫止せよ」という視線がつらい。

「来年の朝賀は恭仁京で行う。平城京にある兵庫を恭仁京に運ばせよ。五位以上の貴族は夏が来る前に恭仁京に移り住むように。もし、平城京に帰らなければならない場合は太政官へ申請し許可を得てから帰ることにせよ」

 今日の天皇様は、東国巡幸に出られたときと打って変わって強気な発言が多い。巡幸で心が晴れたのだろうか。それとも、気分が高ぶっていらっしゃるのだろうか。臣下として主君のお心が優れてきたことは喜ばしいが……

「橘卿、鈴鹿王には苦労をかけるがよろしく頼む」

 諸兄以下全員が頭を下げた。

 晴れやかに笑う天皇様に何も言えない自分がもどかしい。藤原不比等様や長屋王様ならば諫止できたろうか。天皇様ではないが、自分の不徳を嘆きたい。

 諸兄は部屋を出て行く天皇、皇后の後ろ姿を見送った。気がつけば土器を持ったままの右手が固まっている。

 腹に流し込んだ酒は冷えていた。

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