東国巡行

 十月二十三日、追討将軍である大野東人から、広嗣軍と板櫃川で対峙したという知らせが来たとき、聖武天皇は東国巡幸を言い出した。諸兄は突然の巡幸に驚いて急遽参内した。

「急なことで私は驚いております。東国巡幸はよろしいのですが、時期が悪うございます。なぜ中務卿に下命される前に私にご相談くださらなかったのですか」

 諸兄の勢いに聖武天皇は思わず後ろに引いた。

「橘卿が言いたいことはよくわかる。だが朕は東国へ行かねばならないのだ。都にいてはいつ広嗣に同心した賊に襲われるかと不安で枕を高くして寝ることができない」

「昨日の大野将軍の文にもありましたとおり、官軍と賊軍が一大対決を行おうとしています。このようなときに天下あめのしたを治められる天皇様が都に不在では、軍の士気に関わりますし民も不安になります。なにとぞ天皇様におかれては泰然と都に構えてください」

「広嗣に同心するものが数十人単位で都にいたことに朕は愕然としている。しかも、ほとんどが公卿百官であったと思うと気持ちが休まらない」

 右大臣となった今でも、官人のときと同じ感覚で、取り調べの状況を隠さずにそのまま天皇様へ報告したことが間違いだった。広嗣の一味がいたという話は乱が終わってから上奏すれば良かった。天皇様は、私の配慮のない言葉で心を乱されている。

 自分の不徳を嘆くばかりだが、東国巡幸について一言も相談がなかったことは口惜しい。二十七で出仕してから三十六年間朝廷で働いてきた。参議となって天皇様から下問されるようになってからでも十年経つが、未だに全幅の信頼を得ていない自分がふがいない。

「宮中であれば十二の御門を警護するだけで事足りますが、宮中を出られますと警護に支障が出ます。巡幸中はどこから賊が襲ってくるかわかりません。天皇様が都に不在となりますと、兵の士気に関わります。天皇様は私ども太政官が命に代えてお守りしますので、巡幸は取りやめてください」

「外からの敵に対しては門を守るだけでよいかもしれないが、内の敵に対しては無力であろう」

「広嗣が藤原氏の出であれば、友誼を結ぶ者に公卿百官が多いのは当然です。宮中にも五衛府の兵を配していますのでご安心ください」

「五衛府にも広嗣に同心する者がいるかも知れない。卿の言い分はよくわかるのだが、朕は宮中にはいられない。曾祖父である天武帝のように東国へ行かねばならないのだ」

 諸兄は、聖武天皇の焦躁したまなざしに見つめられた。

 天皇様の居ても立ってもいられないという気持ちが伝わってくる。視線は自分を通り越して、遙か東に向いていらっしゃる。

 天皇様は、平城宮に座っていなければならないことを理解なさっているが、心の内から湧いて出る恐怖と情動を押さえきれないでいらっしゃる。ちょうど、自分が新嘗祭や朝賀の担当をしていたときに、式次第や宴会の料理を、大丈夫だと分かっていても、何回も何回も確認した心持ちと同じだ。

 本来ならば右大臣として身を張ってでも諫止しなければならないが、長年の官人生活の習性で天皇様の言葉を覆すことができない。

「卿の気持ちはわかる。大野大将軍らも不安になるだろうから、勅を出して東国に出かけることにする」

 聖武天皇は懐から紙を取り出した。

『大野大将軍に勅する。朕は思うところがあって、今月の末よりしばらく、関東(不破の関、鈴鹿の関以東)に行く。行幸するときでないと分かっているが、やむを得ないことである。将軍はこのことを知っても、驚き怪しまないようにせよ』

 驚き怪しむなとおっしゃるが、このような勅をいただいたら逆に何事が起こっているのかと不安になってしまう。勅を握りつぶすことは畏れ多くてできないので、大野将軍にはこのまま送るしかないが、詳細について説明する文を自分が送ることにしよう。

「己の内なる情念に逆らえない朕を許してくれ。すでに、塩焼王、石川王、藤原仲麻呂、紀麻路らに命じて、車駕など巡幸の準備をさせている」

 天皇様の気持ちを追い込んだのは私の不徳である。無理強いして宮中にお留めしては、心や体に障りが出るかもしれない。天皇様のお気持ちが晴れるのであれば、警護を万全にして巡幸していただくことが臣下の道だ。

「天皇様が臣下に許しを請うことはありません。御心のままになさってください。東史部やまとのふひとべ西史部かわちのふひとべ秦忌寸はたのいみきらの騎兵をすべて徴集し、天皇様の道中を守らせます。西国では大野将軍が広嗣を討ちます。都にあっては私が広嗣に関係した者たちを捕縛します。めどが付きしだい私も巡幸に駆けつけます」

 聖武天皇は、

「橘卿には手間をかけさせるがよろしく頼む」

 と言って部屋を出てた。

小柄なお人であるが、今日は一段と小さく見えてしまう。

 誰が考えても、謀反が起きている最中に天皇が都を空けるなどおかしなことだ。

 持統帝が農繁期に東国巡幸を行おうとしたときに、三輪高市麻呂みわのたけちまろは冠をかけて諫めたという。公卿百官の中で天皇を諫めることができるのは、右大臣の自分だけであろうが、官人として飼い慣らされてしまった自分には、高市麻呂ほどの気骨はない。自分自身が情けなくなる。

 中庭に出ると、巡幸の用意で舎人たちが右往左往していた。

 急な話に慌てていることは分かるが、一人ぐらい私に気づいてくれても良いのではなかろうか。自分は臣下筆頭の右大臣なのだ。天皇様にとっても、宮中の舎人たちにとっても自分は空気のように透明な存在なのだろうか。

 空を見上げると太陽に暈が掛かっていた。燦然と輝く太陽のまわりを、取り囲むように大きな輪ができている。

 太陽は天皇様だ。自分は太陽を取り囲む暈なのだ。透けて見えるほどに薄く色もない。太陽がなければ光ることもない。

 日暈はお日様と一緒に動く。ならば、自分も天皇様の忠臣としてどこまでも従うまでだ。

 中庭に天皇、皇后の車駕が出されると、騒ぎはいっそう大きくなった。

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