第2話 鬼子の母 (少年犯罪加害者の家族)

他家の墓に参る人などそう多くはないであろう。その数少ない1人が今ここにいる。この墓に参るのは今年で5度目になる。「M子 享年5歳」、墓石の脇に刻まれた戒名が痛々しく私の心に語り掛けてくる。この名前を見る度に、胸の奥の傷が激しく疼く。決して癒えることのない深い心の傷…。

 しかし私はこの墓参りを止めることは出来ない。実の親の墓よりも、実の夫の墓よりも、そして実の子の墓よりも、もっともっと大切な墓、私はこの墓参りを一生涯続けてゆかなければならない。なぜなら私は鬼子の母だからである。


 思い返せば5年前、短い秋の日の夕暮れ時であった。私はいつものように夕飯の支度を始めていた。勝手口の窓から差し込む夕日の色がいつになく弱々しく、背筋が薄ら寒くなるような木枯らしの吹く日であった。

 夫の帰りはいつも遅かった。夕飯はいつも私と1人息子A(敢えて名前は伏せさせてください)の2人で取っていた。プクプクプクとご飯の炊ける音がキッチンから聞こえる。いつもと同じ平穏な夕暮れ時の風景が眼前にあった。ガス台に鍋を仕掛けた私は、ほっと一息ついてテレビのスイッチを入れようとした丁度その時。

「ピンポーン」

 玄関のベルを鳴らす音が聞こえた。夫の帰りにはまだ大分時間があった。今ごろ誰であろう。どうせまた新聞屋のセールスか何かであろう。そう言えば最近強引な訪問販売が増えているから注意しろという呼び掛けが自治会の方からも回ってきていた。私は慎重にインターホンの受話器を上げた。

「あのー、A君のお宅ですね。警察の者ですが、ちょっとよろしいでしょうか。」

 警察と聞いて私は一瞬たじろいだ。一体警察がわが家に何用があるというのか。確か相手はA君のお宅かと聞いた。また息子が何かやらかしたのか。そう言えば、半年ほど前、息子は一度万引きで補導されたことがあった。学校の遊び友達と一緒に、ほんの出来心だった。一度きりの。あれから後は本人もよく反省し、夜遅く出歩くこともなくなった。真面目で平凡な中学校2年生であった。

「はい。どういったことでしょうか。」

 玄関の扉を開けると背広姿の男が2人、コートを手にして立っていた。警察と言うのでてっきりお巡りさんとばかり思っていた私は、一瞬不審な気持ちを抱いたが、2人が差出す警察手帳らしいものを確認すると、改めて尋ね返した。

「あのー、息子がまた何か…。」

「ええ、ちょっとお尋ねしたいことがありましてね。A君ともども署までご足労頂けませんでしょうか。」

 署までご足労と聞いて、私は少しばかり狼狽した。どうやらここで済むような話ではないらしい。

「少々お待ちください。すぐに用意いたしますから。」

 私はそう言うと、一旦玄関の扉を閉めようとしたが、片方の男が手でそれを遮った。

「いえ、このままここで待ちますから。」

 男は片方の足で扉を押し開けたまま玄関先に立ち塞がった。私は慌てて台所の煮物の火を消すと、2階の息子の部屋に向って叫んだ。

「ちょっと、下りてきなさい。話があるから。」

 2階はシーンと静まり返っていた。いつもはよく聞こえていたテレビゲームの音も最近はあまりしなくなり、2階の息子の部屋は静かなことが多かった。ようやく勉強する気になったかと思うと、内心嬉しいようなまた寂しいような複雑な心持ちであった。しばらくすると微かに扉の開く音がし、息子は静かに階段を下りてきた。

「警察の方が来られて…。一体あんたまた何をやらかしたの。」

 私が拳を上げようとするのを遮るように男が呟いた。

「A君だね。ちょっと一緒に来てくれるかな。聞きたい事があるんで。」

 息子は小さく頷くとあまり怖がる様子もなく静かに警察の2人に付き従った。私も慌ててサンダルを足に引っかけて表に出る。玄関の鍵を掛ける間もなく、先行した3人はもう表の通りに出ていた。 

 通りには目立たぬように少し離れて一台のパトカーが止まっていた。私は一瞬ホットした。短い秋の日はあっという間に暮れて、辺りは顔の見分けがつき難いほどの黄昏時に変わっていた。ご近所の手前、あまり息子ともどもパトカーに乗り込む様子を見られたくはないものである。私は顔を隠すようにして小走りに先行する3人の後を追った。

「お母さんは前の助手席に乗って下さい。A君と私らは後ろに乗りますから。」

 私は言われるがままに助手席に乗り込んだ。後ろでは1人目の男が先に乗り、続いて息子、そして2人目の男がまた息子の隣に乗り込んだ。丁度息子を挟んで両脇に男2人が乗った形となった。こうした場合、こういう席順になるものなのであろうか。何となく物々しい雰囲気に先程の不安な気持ちがさらに膨らんだ。

 全員が乗り込むとパトカーは静かに走り始めた。

「あのー、すみません。息子が一体何を…。」

 不安に駆られた私は改めて尋ねた。

「それは署に着いてから…。私どももまだハッキリとしたことは…。」

 男から歯切れの悪い返事が返ってくる。私は一心にバックミラーを覗き込んだ。ミラーは丁度息子の顔の当たりを写しているはずであったが、薄暗くて息子の顔色を窺い知ることはできない。息子はどんな気持ちで座っているのであろうか。特に泣いたりしている様子もない。不気味なほどの静寂がますます私の不安を掻き立てた。

 家から警察署までは車で15分ほどである。程なくパトカーは到着した。家を出た時と同じように男2人と息子が先に立って署の中に入る。私は恐る恐るその後に続いた。昼間は免許証の書き換えやらでいつも混雑している署の中も、この時間になると灯も消えてひっそりとしていた。ところどころにある常夜灯の明かりだけがやけにこうこうと目に付いた。

 この前は半年前であった。息子が同級生ら3人と市内のスーパーで万引きをして補導されたということで呼び出された。あの時は昼間だったし、他の子供達の親ともども四人で注意を受けただけであった。ほんの30分ほどで終わったような気がする。今日もそれくらいで終わるのであろうか。それとも今日は2犯目だからもう少し掛かるのかもしれない。主人が家に帰ってくるまでには終わるだろうか。この時、私はまだそんなことを考える余裕があった。しかし…。

「申し訳ありませんが、お母さんはこちらでお待ちください。」

 2階へ上がる階段を上がり切ったところで私は呼び止められ、廊下のソファで待つように指示された。意外であった。この前は息子と私と2人並んで注意を受けた。それが今日は1人で待つようにという。私はまた不安な気持ちになった。

「あのー、息子と一緒じゃ…。」

「ええ、すぐ終わりますから。お母さんとはその後で…。」

 そう言い残すと、男2人は息子を連れて奥の部屋へと消えて行った。1人取り残された私の心臓の鼓動は次第に高鳴っていった。全てがこの前と違う。一体息子の身に何が起きたというのか。私は襲い来る不安を消し去ろうと両手を組んでその上に額を乗せた。

 それからどれくらい時間が経ったであろうか。慌てて家を出てきたため時計を忘れてきた私は、すっかり時間のこと忘れていた。はっと気がついて、ぐるりと周囲を見回すとすぐに時計は見つかった。何の変哲もない丸い壁掛け時計が1つ、廊下の壁に掛けてあった。時刻は7時を指していた。家を出たのが5時頃だったとしたら、もう2時間も過ぎている。また愕然とした。一体2時間もあの人達は何を息子と話しているのであろう。

 私は手術室の前で手術が終わるのを今か今かと待ち続ける患者の家族のような気分であった。極度の不安と緊張のため口の中がカラカラに渇いていた。私はじっと座っていられなくなり、ソファから立ち上がろうとした丁度その時、ガチャリと扉の開く音がした。私の心臓は途端に早鐘のように打ち始め、一瞬にして背筋がピンと伸び上がった。

「お母さん、ちょっとよろしいですか。」

「息子は、息子はどこでしょうか。あの子は…。」

 私は、男の声が耳に入らず取り乱してオロオロと廊下を右に左に行ったり来たりした。

「まずはこちらへどうぞ。」

 男は先に立って私を部屋へと案内する。私は足がもつれるのをじっと堪えてやっとのことで男に付いて部屋の中に入った。しかし、そこには期待した息子の姿はなかった。その部屋は小さい窓のある小部屋で、中央にスチール製のテーブルが1つと、両脇にパイプ椅子が2脚ずつ置かれていた。よく刑事ドラマ等で見る取調室のような風景がそのまま目の前にあった。

「申し遅れました、私、刑事課の右田といいます。」

 ようやく男の1人が名乗りを上げた。私は最初は何のことが良く分からなかったが、少なくともこの男の人が刑事であったということは認識できた。と同時に、先程までの不安が再び襲ってきた。

「で、息子はどこでしょうか。あの子一体何をしでかして…。」 

 私は高鳴る動悸を抑えながら振り絞るような声で訴えた。もう緊張の度は限界に近付いていた。これ以上緊張が続くと本当に心臓が止まるのではないかと思われた。

「ま、まずはお座りください。」

 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、その刑事とかいう男は落ち着き払って清ましている。まるで苦しむ私の心を弄ぶかのように、焦らして、焦らして時が過ぎるのを待った。私は突然の脱力感に襲われてヘナヘナと椅子の1つに崩れ落ちた。

「お母さん、落着いてよーく聞いて下さい。」

 確か刑事は最初にそう言った。よくは覚えていない。なぜなら、次にその人の口から出てきたあまりに恐ろしい言葉に、私は瞬時に気を失ってしまったからである。

 何時間たったのかよくは覚えていない。気がついた時私は廊下のソファの上に横たわり、傍らには夫の姿があった。まだ夢見心地の中で、何故かその時の夫の顔だけはハッキリと覚えている。鬼面ような形相で辺りを睨み付ける目は赤く血走り、何か訳の解らないことをブツブツ呟いていたように記憶している。

 この日が私たちの悪夢の始まりの日であった。


「今夜はとりあえずお引き取りを。ご子息さんは我々が責任をもってお預かりします。」

 結局その日、私たちは息子とともに家に帰ることはなかった。なぜなら息子はこの日から少年Aとなったからである。容疑は殺人死体遺棄、しかも相手は5歳の女児。それ以上のことは余りにおぞましく、到底ここで筆にすることはできない。詳しくは後程おいおいと紹介していくことでお許し願いたい。

 その日の夜、私たち2人は一睡もせず夜を明かした。明るい団欒の場になるはずのわが家が悪夢の城と化した。見るもの全てが昨日とはまったく別世界のもののように思えた。夢なら覚めて欲しい。なぜ息子はあんなことを…。全く思い当たる節はなかった。

 私たちはその答えを求めて息子の部屋に分け入った。そう言えばここ長らく息子の部屋に入ったことはなかった。私たちはまるでお化け屋敷にでも踏み込むかのような心持ちで恐る恐る息子の部屋の扉を開いた。

 明かりをつけることが憚られるような気がして、私たちは窓から僅かに差し込む月明かりを頼りに部屋の中を見回した。何の変哲もない子供部屋が眼前に広がった。部屋の中は思ったよりも奇麗に片付けられていた。ベットの布団はきちんと敷かれ、本棚の本は几帳面に並べられていた。窓際の学習机の上には、読みかけのマンガ本が開いたままとなっていた。静かだった。信じられないほど静かだった。コチコチという目覚し時計の音だけが異様に高く部屋の中に響く。このまま時間が止まって欲しいという思いに駆られた。

 居間に戻った私たちは、真っ暗な中でソファに向かい合って座った。明かりの下で互いの顔を見るのも怖いような、そんな気がしたからである。夫は両手で頭を抱えたまま、時折訳の判らぬことを口走った。しきりとこめかみの辺りを拳で叩く。声を掛けると殴り掛かられそうな、そんな殺気を感じて私は小さくソファにうずくまっていた。

 何時間もそんな状態が続いた。やがて無情にも夜が白み始めた。私たちが事の重大さを咀嚼しきらないうちにも、どんどん辺りは明るくなっていく。輪郭しか見えていなかった夫の顔も次第に目鼻立ちが見え始めた。一晩でまるで別人のようになっていた。髪はボサボサに乱れ、頬は落ち、目の周囲には黒々とした隈ができていた。目は異様に充血してギラギラ輝き、口の周囲は伸び始めた髭で黒ずんで見えた。恐らく私も同じような顔になっていたのであろう。疲れているはずなのであるが、目は爛々と冴え渡り神経だけが研ぎ澄まされたように鋭敏になっていた。

「カタカタ。」

 玄関の外で何やら音がした。私たちは跳び上がらんばかりに驚いた。一体こんな時間に誰。私たちはさらに耳を清ます。何も聞こえない。さらに耳を清ます。微かに遠ざかっていく自転車の音が聞こえ、ようやくその音が新聞配達の音だと気付いた。

 しばらくするとスズメのさえずる声が聞こえ始めた。いつもであれば心地よいまどろみの中で聞くはずの声が、今日は地獄の幕開けを告げる声のように思えた。私は恐る恐る窓のカーテンを手繰ると、そっと窓の外を窺い見た。いつもと同じ庭が広がっている。いつもであれば大きく窓を開き放ち、朝の新鮮な空気を部屋一杯に流し込むところである。しかし今日は違っていた。誰かが外から家の中を覗き見しているような気がして、思わずカーテンをさっと引いた。

 夫は大きなため息をつきながら、ようやく手を動かした。次の瞬間テレビの画面がパッと明るくなった。

「それでは次のニュースです。今月初めさいたま市の5歳の女の子が拉致殺害された事件で、浦和警察署は近くに住む中学2年生の男の子に任意同行を求め、現在事情聴取を行っております。」

 私はいきなり金槌で頭を殴られたような気がした。つい昨夜のことが早くもテレビで報道されている。画面にはつい何時間か前に見た警察署の入口がデカデカと映し出され、その前で1人の記者がレポートをしていた。

「昨夜八時ごろ、浦和警察署は近くに住む中学生A君を任意同行、間もなく殺人死体遺棄の容疑で身柄を保護すると見られています。事件発生以来2週間、当初は捜査が難航すると見られていましたが、コンビニエンスストアの防犯カメラに写った映像が決め手となり異例の早期解決となる見込みです。」

 夫は食い入るように画面を見詰めていた。目は眼球が跳び出しそうな程に大きく見開き、鬼のような形相の額には青筋が立っているのがハッキリと見えた。画面に映った記者はまるで他人事のように淡々と原稿を読み上げていく。悲劇の劇場の幕はもう上がってしまった。後は筋書き通り進むだけである。もう何者もこの劇の進行を止めることは出来ない。唯一できることは目を閉じ、耳を塞ぐことだけである。

「あなた、テレビを切って下さいな。お願い、お願いだから…。」

 私は詰まりそうな喉から振り絞るように声を出して夫に訴えた。聞こえているのか聞こえていないのか、夫は相変わらず石のように画面を睨み続けている。画面は再びスタジオに切り替わり、キャスターらしい人物が現れた。

「このところ少年による凶悪犯罪が増加しておりますが、今回の事件は犯罪史上希に見る異常なものでした。殺されたM子ちゃんは、発見された時全裸で両手両足をビニールひものようなもので縛られ、下腹部を鋭利な刃物で…。」

「やめてーーー。」

 私は両耳を塞いで絶叫した。その瞬間夫はリモコンスイッチを力任せに壁に向って投げつけた。一瞬にしてテレビ画面は真っ暗になり、リモコンスイッチの乾電池が床に転がり出た。夫は興奮の余り、肩でゼーゼーと息をし、両足をガクガクと震わせた。M子ちゃんがどのようにして殺害されたかは既にマスコミでも報じられ、知らない者はなかった。その内容はあまりに恐ろしくかつ猟奇的であり、到底言葉に出来るものではなかった。

 それからどのくらい時間が経ったであろうか、私たちは朝ご飯を食べることも忘れてただひたすら黙って石のように座り続けた。辺りはすっかり明るくなり、表の通りを賑やかに登校していく子供たちの声が聞こえ始めた。

 その時、突然夫が立ち上がると、廊下へと出て行った。

「はい、はい。じゃあそういうことで、失礼します。」

 しばらくして、廊下から電話口で話す夫の声が居間にまで届いてきた。一体夫はどこに電話を架けているのであろう。私はこんな時に平然と電話を架ける夫の気が知れなかった。その直後、受話器を置く音がして夫が戻ってきた。

「取りあえず会社には、風邪で休むと連絡した。」

 夫は一言そう言うと、ヘナヘナとその場に座り込んだ。会社? そう言えばとっくに家を出る時間を過ぎていた。いつもなら夫と息子を送り出し、テレビの前でホッと一息つく頃であった。今日はその一瞬の安息もない。夫はもう立っているのさえ辛そうな感じであった。


 しかし、無情にも悲劇のシナリオは前に進んでいく。

 時計の針が午前九時を少し回る頃、恐怖の玄関チャイムが静かな家の中に鳴り響いた。私は心臓が止まりそうなほど驚いた。一体こんな時間に誰が何の用で。私は全身が震えて、インターフォンに近づけなかった。たまりかねた夫が出る。

「はい、はい。分かりました。」

 二言三言話をしていた夫は、そっと受話器を置いた。

「警察だ。家宅捜索だそうだ。」

 夫は私の方に振り返ると一言静かに呟いた。ああ、来るものが来てしまった。やはり昨晩のことは夢ではなかった。私はそっとカーテンを開いて表を見た。表にはいつ来たのか、パトカーのものと思しき赤いランプが3つクルクルと回っているのが見えた。その周囲を多くの警官がウロウロしている。もう隠すことは出来なくなった。昨晩は遠慮がちに少し離れて止めてくれた。しかし、今朝は堂々と家の前に、しかも3台も。

 私はご近所の人達が見に来ているだろうなと想像した。テレビの上では少年Aでも、近所の人には実名はすぐに知れるところとなる。もう隠すことも逃げることも出来ない。私たちの家は犯罪者の家として全ての人の前に明らかにされるのである。

「只今からM子ちゃん殺害の容疑で家宅捜索を行わさせて頂きます。家の中の一切のものに手を触れないで下さい。」

 玄関先に刑事と思しき人が2人と紺色のジャンパー姿の3人が立ちはだかった。その中に昨晩来た刑事の姿もあった。先頭の人の手の中には令状らしき紙片が握られ、ご丁寧にも再び警察手帳の提示があった。私は急に頭の中が空っぽになった。もうどうにでもしてくれという思いであった。

 大きく開け放たれた玄関のドアの外では、多くの警官たちが忙しそうに立ち働き、ロープを張ったり青いビニールシートを広げたりしていた。よくテレビ等で見かけた風景が今眼前で進行している。しかもこのわが家で。

「A君の部屋は2階ですね。」

 3人の捜査官がドヤドヤと狭い階段を駆け上がる。私は昨晩覗いた息子の部屋の様子を思い出した。何の変哲もない子供部屋、あんなちっぽけな部屋に何があるというのか。2階の方で3人の刑事が歩く足音がミシミシと聞こえる。時折何かを話す声が聞こえるが、内容は見当もつかない。

 私と夫は玄関に残った刑事の傍で不安そうに佇んだまま、階段の上の方を覗き込んだ。開いた玄関の外から晩秋の朝の冷たい空気が流れ込んで、私たちは思わず身を縮めた。

「おーい、あった、あったぞー。」

 しばらくして階上から叫ぶ声が上がった。階上の人は何を見つけたというのか。私と夫は思わず顔を見合わせた。少し経って1人の捜査官が階段を慎重に下りてきた。白い手袋をはめた捜査官の手の中にビニールの袋が1つ握られていた。捜査官は袋の中身を隠すようにして玄関にいた刑事に見せると、2人は私たちに背を向けて袋を何度も弄りながら中に入れられたものを点検した。

 一体袋の中に何が入っているのか。チラリと見たところそれほど大きなものではなかった。一頻り点検を終えた刑事はようやく私たち2人の方を振り返った。

「これ、A君のものですね。」

 刑事は振り向き様にビニール袋を見せるといきなり尋ねた。私は刑事の手の中にあるものに見覚えがあった。息子のカッターナイフであった。半年ほど前、工作に使うということで駅前のスーパーで買ったものであった。息子はこのナイフがとても気に入り、他人のものと間違えないようにとキャラクターのシールをペタペタと貼っていたので、間違いはない。

「ええ、確かに息子のものですが。」

 しかし、そのナイフをよく観察していた時、私は見てはならないものを見てしまった。その時の衝撃と恐怖は今でもはっきりと覚えている。

「この茶色くこびり付いているもの、ほらここです。これ血痕なんですよ。」

 刑事はナイフを指差しながら説明する。私は生まれて初めて人の血液の付着したナイフというものを見た。よくテレビの刑事ドラマ等で見る凶器のナイフ、あんな鮮やかな赤い色ではなかった。乾ききった血はわずかに黒みを帯びたこげ茶色、血を吸い込んだナイフには恐ろしいほどの毒々しさがあった。

 私は思わず目を反らせたが、時既に遅かった。私の耳の奥では先程のテレビのキャスターの声が何度も何度も執拗にこだまし始めた。そしてその声はやがて映像へと合成されていく。カッターナイタを片手にした私の息子、そして全裸で縛られた5歳の女の子、やがて息子の手が伸びて…。その瞬間、私は気が遠くなっていくのを感じた。

 次に気がついた時、私は居間のソファの上に横になっていた。傍らには夫がいた。

「今、終わったよ。どうやら容疑に間違いはなさそうだ。」

 夫は観念したように肩を落として呟いた。廊下の方ではダンボール箱を運び出す警官たちの姿が見えた。一箱、二箱、三箱…、箱は一体いくつあるのか。息子の部屋の中が空っぽになるのではと思われるほどの数の箱が運び出された。

「さっきのあのカッターナイフ、恐らくあれが凶器だろうって。」

 私はまた思い出したくないものを思い出し、思わず吐き上げそうになった。やっとの思いで悪心を堪えると、私はソファの上に起き上がった。

 しばらくして陣頭指揮を取っていた刑事が戻ってきた。私はようやく落着いてその刑事の顔を正面から見ることが出来た。刑事にしては柔和な顔付きで、物腰も低く人当たりもよさそうな人であった。

「ご協力ありがとうございました。いや何と申し上げてよいか。私にもA君と同じくらいの息子がいましてね。胸中お察し申し上げます。」

 刑事とは思えない優しい言葉がその人の口から出てきた。私は人前を憚らず、思わず声を上げて泣き崩れた。

「今日お預かりしました資料を細かく分析しまして、改めて結果をお知らせします。残念ですが、A君はしばらくお預かりすることになりますので、後程着替え等を持って行ってやってください。それと署の中は退屈ですから、好きな本でもあれば一緒に…。」

「あ、あ、あ、ありがとうございます。息子を、息子をどうか宜しくお願いします。」

 私は、額の前で両の手を合わせて頭を下げた。

「私も息子があんなことをしでかしたなんて今でも信じられません。どうかよーく調べていただいて…、何卒。」

 夫も併せて深々と頭を下げた。

「承知しました。それと申し上げ難いのですが、ご両親ともこれからが非常に大変になりますから。特にマスコミの連中はひどいですから用心して下さい。あまりひどいようでしたらまたご相談下さい。」

 私たちは、逐一頷きながら刑事の言うことを聞いていた。しかし、この時私たちはまだこの刑事の言う「大変」の意味をよく理解できていなかった。身内から犯罪者を出してしまった家庭がどういうことになるのか。これまでの出来事は、これから起きる地獄の責め苦のほんの序章に過ぎなかったのである。


 警察が全て引き上げたのは午後の遅い時間であった。傾き始めた西日がキッチンの窓に映えて、家の中をセピア色に変えた。見るもの全てに色はなく、まるでサングラスをかけているか、それともモノクロの映画を見ているかのような気分であった。

「何か食べるか。」

 夫が疲れきった表情で呟いた。そう言えば夕べから何1つ口にしていなかった。胃袋が小さく縮こまってとても物を食べる気分ではない。カサカサに渇き切った喉を食べ物が通るような気がしなかった。

「無理にでも食べないとまいってしまう。」

 夫がそう言ってキッチンに立ちかけた時、地獄のチャイムが鳴り響いた。警察がまだ残っていたのか。何か忘れ物でもしたのか。私は恐る恐るインターフォンの受話器を上げた。

「A君のご両親ですね。日々新聞のものですが、少しお話を…。」

 若い男の声が受話器の向こうで響いた。マスコミ? それもこんなに早く。私の顔から一瞬にして血の気が引いていった。ライオンがいなくなるのを待ち構えていたハイエナどもが死にかけた獲物に食らいついてきた。まだ息のある餌食から血をすすり肉を引きちぎるために玄関の戸口のすぐそこまで忍び寄ってきた。

「あのー、済みません。今日のところはご勘弁を…。」

 私は枯れかかった喉から、消え入りそうな声を出した。

「ちょっと待って下さい。一言でいいんです。一言で。」

 受話器の向こうの声は少しボルテージが上がったように聞こえた。

「済みません。ごめんなさい。今日はとても…。」

 私は緊張の余り声が詰まり、受話器を持つ手がプルプル震えた。

「そりゃあないでしょう。人一人死んでるんですよ。それも5歳の女の子が。親としてノーコメントはないでしょう。」

 表にいる記者らしい人は恫喝するような大声を張上げた。その声は受話器を耳から離してもハッキリと聞こえるほどに響いた。傍らにいた夫がマスコミと気がついたらしく、受話器を取り上げた。

「何も言うことはない。帰って下さい。」

 ガチャリ。主人は相手の返事を待たずに受話器をインターフォンに戻した。

 しかし、玄関チャイムは鳴り止まなかった。ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、執拗に繰り返しチャイムは鳴り続ける。まるで地獄の劇場の開幕を告げる予鈴のようにチャイムはいつまでも鳴り続けた。

「こん畜生ー。」

 ブチッ。夫はインターフォンのコードを根元から力任せに引っこ抜いた。一瞬にして部屋の中は静寂に包まれた。家の中がこんなに静かだったのかと思わせるほどの静寂が流れた。私はワッとソファの上に泣き崩れた。夫は目を閉じて両肩をプルプルと震わせた。夫の荒い息遣いだけが異様に大きく聞こえた。

 しかし、執拗な攻撃はこれだけでは終わらなかった。

「あのー済みません、一言だけお話を…。」

 今度は居間に面した垣根越しに呼ぶ声がした。少し開いたカーテンから外の様子を窺うと、生け垣の隙間からマスコミの人間らしい人影が数名ウロウロと行き交うのが見えた。中には生け垣を掻き分けてカメラのレンズ口を差し込もうとする者もいた。私は思わずカーテンを締め切った。

 その時、私の脳裏に表の通りの様子が浮び上がった。お向かいのKさん、3軒向こうのOさん、それに町内会の役員をされているSさん、いつもなら四人で夕方前の井戸端会議が始っている時間であった。今日はそのうちの1人が欠けている。残りの3人が私には聞こえないように何やらヒソヒソ話をしている。時折こちらに向けられる視線は、明らかに蔑視と畏怖の念に満ちていた。


「人殺し、人殺し…。」

 マスコミの攻勢が止んだと思ったら、今度は表から子供たちの合唱する声が聞こえてきた。下校してくる子供たちがわが家の前を通る時間になっていた。

 少年A。どこか遠い見知らぬ土地の人にはただの「A」である。しかし、この界隈ではAがAでなくなる。息子のしでかした事件を知らない者はなかった。それでも大人たちはまだ理性がある。噂話はしても、まだこちらに気を遣ってわざと聞こえないように陰で声を潜める。残酷なのはむしろ子供の方である。昨日までは仲のよかった遊び友達が、突然牙を剥く野獣と化した。

「ガシャーン。」

 突然、表に面した玄関の小窓のガラスが割れる音がした。大慌てで玄関に走り出ると、小窓のガラスは無残にも打ち破られ、砕け散ったガラスに混じって小石が1つ床の上に転がっているのが見つかった。窓の外から流れ込む木枯らしの風に乗って、「人殺し、人殺し。」の合唱の声が一層大きくなって耳に届く。

「ちくしょー。」

 夫は思わず拳を上げて、玄関のドアノブに手を掛けた。しかしそれが無理とわかると、肩を震わせてうな垂れた。ドアのすぐ外には先程のハイエナたちが渦を巻いている。今玄関のドアを開くことは、地獄への扉を開くようなものであった。私たちは、両耳を塞いで一目散に家の裏手へと逃げ込んだ。家の中で唯一外界から隔絶された安息の場はもう浴室しか残されていなかった。私たちは浴室の中でじっと息を殺して耐えた。

 それから何時間が経過しただろうか。浴室の窓の外はいつしかどっぷりと日が暮れ、微かに残る残光が赤々と曇りガラスに映えた。日が暮れるとさすがに表通りも静かになった。どうやらマスコミも今日のところは諦めたようである。私たちは恐る恐る居間に戻った。カーテンを締め切ったままにしていたため、日が暮れた後の居間は真っ暗闇で、微かにテレビや食器ボートの影が闇の中に浮かび上がった。

 私たちは居間の電灯を点けず、キッチンの明かりだけを頼りに夕食の準備を始めた。わずかの明かりも外に洩らさぬようカーテンは隙間なくピッシリと締め切り、私たちは息を殺して食器を並べた。

 冷蔵庫の中には作りかけのシチューの鍋が入っていた。そう言えば昨日の夜の献立はシチューだった。じゃがいも、にんじん、玉ねぎをシチュー鍋で煮て、さあこれからシチューの粉を入れようという時に警察が来た。鍋はその時のままであった。冷たくなった鍋が唯一楽しくなるはずだった団欒の時間を留めているような気がした。

 私は黙って鍋を火にかけると、いつものように冷凍したご飯を冷凍庫から取り出した。わが家では夫の帰りがいつも遅いので、ご飯はまとめて炊いて冷凍庫に入れておく。後は必要な分だけ都度電子レンジで解凍して食べることにしていた。冷凍庫には昨夜食べるはずだったご飯がビニール袋に入ったまま転がっていた。そのうちの1つを取り出すと私はそっと電子レンジに入れた。

 間もなく、鍋がくつくつと音を立てはじめた。シチューの煮えるいい香りがキッチンに充満していく。本来なら食欲をそそるはずのその香りも、今日ばかりは胸くそを悪くする異臭のように思えた。

 私はわずかなキッチンの灯を頼りにダイニングテーブルの上に皿を並べた。副菜は何もない。やや大き目のシチュー皿と茶碗が1個ずつ、寂しげにテーブルの上に並んだ。丸1日何も食べていないのに、全然お腹が空く気配もない。今の私たちの胃袋にはこれだけでも10分であった。

 こうして1日遅れのわが家の夕食が始まった。

「一体、これからどうなるんだろう。どうすればいいんだ。」

 夫はスープをすすりながら独り言のように呟いた。私は何と答えてよいのか分からず、黙ったままご飯を口に運んだ。乾ききった舌の上で、柔らかいはずのご飯がしゃりしゃりと音を立てた。砂を噛むようなとはまさにこういうことを言うのだろう。私は思わずスープを口の中に流し込み、ご飯粒を呑み込んだ。スープが食道を伝って胃袋の中に落ちていくのが分かった。

「どうすれば、どうすればいいんだ。」

 夫は相変わらず独り言を止めない。一口すすってはまた一言、一口すすってはまた一言、何十回となく繰り言を言いながら長い時間をかけて少しずつ皿の中のものを口に運んだ。私は黙ったまま、とにかく胃袋を満たした。


 その日私たちはいつもよりかなり早く床に就いた。昨夜から一睡もしていないこともあったが、正直言うとテレビを点けるのが怖かった。テレビという機械をこれほど忌まわしく思ったことはない。恐らくいずこの放送局も今朝の出来事を報じているであろう。それを思うだけで心臓が萎縮していくような気がした。

 起きていても他にすることはない。会話もない。少なくとも眠っている間はこの悪夢から解放される。そう思うと一刻も早く眠りにつきたかった。夫も同じ気持ちだったらしく、早々にパジャマに着替えた。

 私たちの寝室は2階の息子の部屋の隣にあった。私たちは枕を並べて横になった。疲れているはずなのだが、神経は高ぶり、目はらんらんと冴え渡り、一向に眠気が襲ってくる気配はない。私は仕方なく耳を清まして隣の部屋の様子を窺った。いつものように息子は隣の部屋のベッドで安らかな寝息を立てているのではないか。ひょっとしたら今日1日の出来事が夢だったのではないか。私は自らに問い掛けながらじっと隣の部屋のことを思い続けた。夫も眠れないらしく、何度も苦しげな嘆息とともに寝返りを打っていた。

 どのくらい経ったであろうか。多分午前3時を回った頃だったであろうか。私はさすがに浅い眠りについた。熟睡とは程遠い、夢と現の境をさまようよな、そんな気持ちの悪い眠りであった。

 私は浅い夢の中で息子を見た。いや正確には息子に似た男の子を見た。実のところ暗くて顔がよく見えなかった。その男の子は野球帽を深くかぶり、白色のTシャツにGパン姿だった。服装は絵に描けるほどよく覚えているのに、なぜか顔だけはよく見えない。よく見るとその男の子の右手にナイフのようなキラリと光ものがあった。男の子はゆっくりと私の方に近付いて来る。

 私は必死になってその場から逃げようとするがなぜだか身体が動かない。肩に思いっきり力を込めて起き上がろうとするが、身動きすら出来ない。やがて私のすぐ右傍にまで迫って来た男の子はゆっくりと右手を上にあげた。

「わーっ。」

 私はベッドの上に跳び起きた。全身にびっしりと汗が噴き出し、頚動脈がヒクヒクと波打つのが分かった。

「おい、大丈夫か。どうしたんだ。」

 傍らには夫の姿があった。

「ごめんなさい、夢を見ていたわ。それも何かとても怖い気持ちの悪い夢…。」

 私はまだドクドクと動悸を打っている心臓を抑えながら、ネグリジェの乱れを取り繕った。今見た夢のことを夫に話そうとするが、怖くて思い出すことすら憚られた。

「仕方ないさ。昨日の今日だから。夢も見るさ。」

 夫は私の背中を擦りながら慰めの言葉を掛けてくれた。どうやら夫は2晩続けて眠れなかったようである。目の周囲にはひどい隈ができて、頬はげっそりと落込み、まるで別人のようになっていた。


 3日目の朝。

「今日も会社休む。」

 全く味のしない朝食を済ませた後、夫は昨日と同じように会社に電話を掛けた。

「そうですか、はい、はい。」

 今日の夫の電話は昨日より随分と長かった。やはり課長さんともなると2日続けて休むといろいろあるのだろうか。私はキッチンで洗い物をしながら、廊下の方から聞こえてくる夫の声に聞き耳を立てていた。

 しばらくして夫の電話が終わった。

「当分出てこなくていいって。騒動になるとまずいからということだ。もう会社の連中も知っていた。」

 夫はガクリと肩を落としてソファの上に崩れ落ちた。私は愕然とした。もう夫の会社にも…。息子は既に少年Aではなくなっていた。

「クビだろうな、恐らく。」

 夫は力なく嘆息を洩らした。クビ? なぜ? 夫は何も悪いことはしていない。犯罪を犯したのはうちの息子。なのにどうして夫が会社をクビにならなければならないのか。

「クビでないにしても、もう会社には戻れない。どの面下げて部下に会えるのか。俺にはそんな勇気はない。」

 夫は両の手で髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き混ぜながら、何度も何度も拳で頭をゴツゴツと叩いた。事件の波紋は留まるところを知らず、どんどん拡散していた。「これからが大変になりますよ。」、昨日あの刑事の言った言葉が早くも現実になりつつあった。息子が殺人事件を犯す、それも世間を震撼させるような猟奇的な事件、もちろんただでは済まないことは分かっている。でも一体どれほどの衝撃があるのか、私にも夫にもその答えは分からなかった。


 午前九時を回る頃、夫が思い出したように呟いた。

「そうだ、あの子に着替えを届けなきゃ。」

 私ははっと昨日の刑事の言葉を思い出した。しばらく息子さんを保護しますので着替えとか本とか持ってきてあげて下さい、ということであった。

 私は早速整理ダンスの前に行くと、息子の下着を何枚か取り出した。ブリーフが恰好悪いので柄物のトランクスが欲しいと息子が言い出したので、この春駅前のスーパーでまとめ買いしたばかりであった。随分小生意気なことを言うなと思ったが、息子が一歩大人に近付いたような気がして内心嬉しかったことをよく覚えている。そう言えば、あの頃からであった。息子が1人部屋にこもるようになったのは。中学生ともなるとそろそろ親離れして自立し始める頃である。特段気には留めなかったが、今から思えばあの時息子の心に何か大きな変化があったのかもしれない。

 その時、私ははっと気がついてまた手を動かし始めた。今度は着替えのTシャツやズボン、それに何冊かの本。取調べが済むまで何日掛かるか分からないので少し多めに用意する。最初はリュックサックに詰め込んだが、すぐにとても入らないと分かって、夫の出張鞄に詰め替えた。

 九時半過ぎ、背広姿に着替えを済ませた夫は鞄を持って玄関に立った。

「私も行くわ。」

 私はエプロンをはずしながら夫に付いて外に出ようとした。

「いや、君は家にいろ。」

 夫から意外な言葉が返ってきた。どうして家にいなきゃいけないのか。私だって子供の顔を見たい。今一度会ってきちんと話をしたい。そうすれば何かが分かるかもしれない。

しかし、そんな私の思いがいかに浅薄であったかすぐに思い知らされることになる。

 夫が玄関のドアを半開きにした瞬間、ワーッという喚声が外から上がった。わずかに開いたドアの隙間から十数名のマスコミと思しき人影が見えた。と同時に夫のわめき声が聞こえた。

「どけ、どいてくれ。」

 私は思わずドアを締め、中からしっかりと鍵を掛けた。夫は正しかった。ハイエナどもは今日も朝早くから獲物が巣穴から出てくるのを待ち構えていたのである。もし夫と一緒に外へ出ていたら…。

 と同時に、私は急に夫のことが心配になった。あの人たちにもみくちゃにされ、罵倒され、悪くすると叩き殺されるのではないかという恐怖心に駆られた。ひょっとして昨日の刑事に助けを求めた方が、と思い始めた時、パッパァーというクラクションの音とともに車が発進していく音が聞こえた。続いて記者たちの怒声とドヤドヤという靴音が通りの方ら響き渡り、そして間もなくまた元の通り静かになった。

 私はようやく安堵の嘆息を洩らすとソファの上に崩れ落ちた。と同時に止めどもなく涙が溢れ始めた。私たちの家族はもはや軟禁された囚人同然であった。何をするにも、どこへ行くにも監視の目が付きまとう。もう私たちの家族には自由という言葉すらなくなった。

 しかし、そんな感傷に浸っている閑はなかった。私には新たな試練が待ち受けていた。居間に戻って間もなく、私は跳び上がらんばかりに驚いた。その音は廊下の方から響いてきた。確実に等間隔で規則正しくその音は私を呼び続けた。

 私はその音に吸い寄せられる夢遊病者のように廊下を歩むと、震える手でそっと受話器を上げた。

「もしもし。昭子さんどすか。」

 電話の向こうに聞き覚えのある声が聞こえた。大阪にいる姑からであった。私の心臓は張り裂けんばかりに高鳴った。主人もいない、最悪のタイミングであった。どうしよう、姑は事件のことをもう知っているのであろうか。何て話せばいいのだろうか。私が頭の中で返事の言葉を探しあぐねている間にも、電話の向こうの姑は勝手に先へと進む。

「いやー、今朝のニュース見てびっくりしましてなー。どこかで見たような家が映ってましたよってに。まさかとは思うたんどすが、心配で。」 

 私は、ああと思った。悪い事は隠しおおせないものである。姑はどうやらテレビのニュースでわが家が映っているのを見て電話をかけてきたらしい。2年前新しい家を買ったということもあり、舅と姑が泊りがけで上京して来たのであった。2人とも新しい家をたいそう気に入って、何度も家の前で主人や息子と記念写真を撮っていた。この家の玄関先を見紛うはずはない。私はまだ返す言葉が思いつかず、ただ黙り込むしかなかった。

「昭子さん、どないしたん。聞こえてはる?。」

 私が返事をしないので、姑は少し語調を強めて聞き返してきた。

「あ、はい。」

 私が曖昧な返事をしたため、勘のいい姑は即座に反応した。

「あ、はい、て、あんたまさか…。」

 私は観念した。私の脳裏には、電話の向こうで次第に顔色を変えていく姑の顔が、手に取るように浮んだ。私の心はもうボロボロに滅裂し、もう自制の効く状況ではなくなっていた。

「お、お母さま、わ、私ーー。」

 私は、胃袋をしぼるようにしてかろうじて声を上げると、そのまま電話口でワーッと泣き崩れた。

「昭子さん、どないしたん。昭子さん、なあ、どないしたん。返事してーな。」

 耳元で何度も何度も叫ぶ姑の声が聞こえた。私は受話器を抱えたまま電話口にしゃがみ込んでしまった。

「昭子さん、うちの子なんやな。うちの子なんやな。そやな。」

 電話の声が変わった。舅であった。舅は何とか心を平静に保とうとしているようであったが、声の調子はもう尋常ではなかった。

「は、はい。」

 私は消え入りそうな小声で、最後通告の一声を発した。しばらく沈黙が続いた後、

「え、えらいこっちゃー。」

 舅は確かそう言ったように記憶している。よくは覚えていない。その後もお互いに何かを言い合ったが、2人とも混乱していて何をどう話したのかよくは覚えていない。

「祐司は、祐司はおるか。祐司に代わってくれ。」

 しばらくして、舅は私では埒が明かないと思ったのか、夫の名を呼んだ。

「祐司さんは、今警察に行ってます。あの子に着替えを届けに。」

「そ、そうか。」

 それから長い沈黙が続いた。その間にも受話器の向こうでワンワンと姑が泣き叫ぶ声が聞こえた。何か大声でわめいているが、何を言っているのかわからない。

「う、うるさい。お前は黙っとれ。」

 舅は一喝すると、最後に一言言い残した。

「とにかく今からそっちに行く。」

 私は受話器を握り締めたまま、廊下にへたり込んだ。

 夫の実家は大阪船場にある老舗の繊維問屋で、ことのほか世間体を重んじる家風であった。夫が私と結婚したいと言い出した時も随分と反対されたと言っていた。得意先からのいい縁談話を断っての決断であっただけに、私も随分と気まずい思いをさせられたことをよく覚えている。

 でも息子が生まれてからは、両親も時折顔を見に来てくれるようになり、来る度ごとに息子にとたいそうなお小遣いを置いて帰った。私はようやく夫の家の一員になれたと思い始めた矢先の出来事であった。


 電話が終わってから、どれほど廊下にうずくまっていただろうか。表に車のエンジン音がした。恐らく夫であろう。バタンというドアの閉まる音ともに玄関先がまたしても騒々しくなった。夫が出かけた時と同じであった。怒声が鳴り響き、ドヤドヤと複数の人の靴音が聞こえた。私はタイミングを見計らって玄関の鍵を開けると夫を家の中に招き入れようとした。

「お願いします。少しだけ…。」

 記者のものと思しき高い声が聞こえたかと思うと、フラッシュの光がパチパチと輝いた。まるでテレビに登場するヒーローのように大勢の人間に追い回された夫は、ゼーゼーと肩で息をしながら玄関先にうずくまった。

「だ、大丈夫?」

 私は心配そうに覗き込みながら声をかけた。夫の顔色は蒼ざめてはいたものの、特に怪我をさせられた様子はなかった。しばらくして夫は立ち上がり、フラフラしながら廊下を居間の方に歩いていった。

「あの子はどうだった?。」

 私は急き込むように夫に尋ねた。

「いや、会わせてくれなかった。今取調べ中だということだった。で、荷物は担当の刑事に預けてきた。近く少年鑑別所に移送されることになるだろうって。」

「少年鑑別所?」

 私は耳慣れない言葉に思わず聞き返した。

「ああ。事件を起こした少年が、審理が済むまで入れられる拘置所のような所らしい。」

 後で聞いた話では、少年鑑別所は重大事件を起こした少年を暫定的に抑留する施設で、それを観護措置というのだそうである。私は、手錠をはめられて移送される受刑者の姿を息子の姿と重ね合せてみた。息子もとうとうあのような姿になってしまったのかと思うと、また胸が締め付けられる思いがした。

「つい今しがた大阪のお母さまから電話があったわ。」

 仕方なく、私は話題を先程の電話のことに戻した。しかし、その一言で夫の空ろな表情がピクリと変わった。

「そ、それでお袋や親父はこのことを…。」

「え、ええ。」

 私は返す言葉が見つからず生半可な返事をした。電話の向こう側の舅や姑の胸中を察するとそれ以上の言葉が出なかった。

「し、知ってたんだな。」

 夫は目をつり上げるようにして詰問した。私は口が裂けても私の口から告知したとは言えなかった。少なくとも私はこの件について何も言わなかった。ただ電話口で衝動を抑えられなかったのは確かである。私が黙って頷くのを見た夫は、またしても両手に顔を埋めて呻き声を上げた。隠していてもいずれ分かることではあったが、少なくとも大阪の親には自分の口からしかるべく告知をしたかったらしい。

「そ、それで何か言っていたか。」

「明日こっちにいらっしゃるって。」

 その一言で夫の形相はさらに険しくなった。そうでなくても家の表には報道陣が大勢詰め掛けており、そもそもこの界隈全体が異様な空気に包まれている。このような場所に両親が出てきたらそれこそ何が起こるか…。

 夫は震える手で電話の受話器を上げた。何度もボタンを押そうとするが指が震えてうまく押せない。夫は四度、5度とためらいながらボタンを押していたが、とうとう諦めて受話器を置いてしまった。

「明日の朝一番で架ける。」

 今の心境では到底落着いて話しは出来ない。夫は電話機に手を置いたまま、何度も首を横に振り続けていた。


 こうして長い1日がようやく終わりにさしかかり、また辛い夕飯の時が近付いてきた。少なくともお腹の中は空っぽのはずであったが、不快な痛みとつかえが食道の下の辺りに渦巻いていた。何でもいいから食べないと3つてしまう。私は思い腰を上げて冷蔵庫の扉を開いた。

「何も食べるものが無いわ。」

 息子が警察に連れて行かれてから丸2日、一度も買い物に行っていなかった。この非常時に買い物かごなど下げて表に出られるはずもない。昨日作ったシチューの残りもお昼にはなくなっていた。

「米はあるだろう。ご飯だけでいい。」

 夫が居間の方から一言声を掛けてくれた。私は米びつから米を取ると炊飯器を仕掛けた。

 ご飯が炊き上がるのを待っている間、私たちはビール一本を2人で分けた。つまみは何もない。わずかに残ったきゅうりの漬物をかじりながら、私たちはビールを口の中に流し込んだ。ビールの苦みがまるで漢方薬でも飲んでいるかのように舌を刺激した。こんなまずいビールを飲んだのは恐らく生まれて初めてであろう。

 その後、我が家の侘びしい夕飯が始まった。私たちは、炊き上がったご飯にふりかけをかけて口の中に押し込んだ。会話もない。2人は押し黙ったまま、もくもくとご飯を口に運んだ。今後のことを話そうにも何をどう話していいのかも分からない。それほど心のうちは空っぽの状態になっていた。

 そして眠れぬ3日目の夜が始まった。さすがに3日目ともなると、神経が高ぶっていても瞼がそれを許してくれない。私は夜中に何度も目を覚ましながら、うつらうつらと夢と現の間を行き来した。昨晩に引き続き何度も悪い夢を見た。よくは覚えていない。が、何とも言えぬ気味の悪さだけが残る、暗い夢であったような気がする。


 翌朝、早くに夫は意を決して大阪の実家に電話を入れた。早く電話をかけないと両親が大阪を出てしまってからでは手後れになる。私は夫が話すのを聞くのが怖くて、わざとキッチンの中に隠れていた。夫の電話は長かった。1時間経っても終わらなかった。何を話しているのか皆目見当もつかなかったが、時折夫の怒鳴り声や泣き声がキッチンにまで伝わってきた。

 どれくらい経ったであろうか。夫が受話器を上げてから2時間ほどが経ったであろうか。ようやく夫は居間に戻ってきた。夫の顔は蒼ざめ、額には青筋が立っていた。じっと立っていただけなのに、夫のシャツの背中はジョギングをしてきたのではないかと思わせるほど汗の形が付いていた。

「お袋が熱を出したんで、こっちには来れないって。」

 夫は入って来るなり一言そう言うと、そのまま黙り込んでしまった。両親とどういう会話があったのか、少なくともその一部でも聞きたかったが、今ここで尋ねるのも酷なような気がした。

「そ、そう。」

 私は相槌ともつかない生返事をしたが、実を言うと内心ホッとしていた。昨日の電話のこともある。舅も姑の混乱ぶりも尋常なものではなかろう。今東京に出てこられても、到底面と向って会えたものではない。姑が熱を出したのは気の毒ではあるが、私は若干の時間的猶予を得たような気がして少しばかり気が楽になった。しかし、今にして思えばこれはほんの束の間の安息であったかもしれない。その後大阪の両親の常軌を逸した言動が取り返しのつかない混乱を我が家にもたらすことになる。


 その日の昼少し前に警察から電話があった。息子が女の子の殺害をほのめかす供述を始めたというのである。今日の午後にも容疑が固まるので、署の方で詳しく説明をしたいとのことであった。私たちはとっくの昔に覚悟を決めていたので特段驚きはしなかった。が、なぜ息子があのような事件を起こしたのか、いわゆる動機については全く思い当たるふしがなかった。その点について息子は一体どういう話を警察の人たちにしたのか。とにかく警察に出向くしかなかった。

 夕暮れ少し前、私たちは浦和署に着いた。この前と同じ2階の刑事課の一室に2人は通された。鉄格子のついた小さい窓の外は茜色に染まり、殺風景な部屋の中は見るもの全てがセピア色に映えていた。

 その後どのくらい待たされたであろうか、いつしか外はどっぷりと日が暮れ、ジーッという蛍光燈の音だけが静かな部屋の中に響いた。時計をチラリと見やると既に午後六時を回っていた。もう1時間近くも待たされた。一体これから後どのくらい待つのであろうか。そう思い始めた頃、ようやく部屋の扉の開く音がした。私たちはさっと立ち上がると、深々と頭を下げた。

「いやー、お待たせしました。申し訳ありません。」

 聞き覚えのある声がした。先日家宅捜索の時に来ていた刑事と、もう1人は最初の夜に息子を連れに来た右田さんという刑事であった。

「まあ、どうぞ。」

 2人は私たちのはやる心を知ってか知らずか、落着いて席を奨める。私は仕方なくハンドバッグを両膝の上に載せ着席したが、上半身は思わずテーブルの上に乗り出していた。

「A君ですがね、ご両親には誠に申し訳ないんですが、M子ちゃん殺害の容疑をようやく認めてくれましてね。」

 年配の刑事の方から説明があった。決して高圧的な態度はなく、その目にはむしろ気の毒そうな同情の色が見て取れた。

「時間は10月6日の午後5時半頃、場所は大鳥神社の裏の雑木林の中です。林の中の草むらからM子ちゃんのものと思われる血液反応が出ましたので間違いありません。それと、この前お預かりしましたA君のカッターナイフからも同じ血液型の血液が検出されました。」

 私はまるで刑事ドラマの一シーンを見ているような気持ちで刑事の説明を聞いていた。午後5時半といえば丁度息子が塾に出かける時間であった。息子は塾に出かけたように見せかけてその間にあのような恐ろしいことをしていたのであろうか。そして何事もなかったような平然とした顔でいつもの時間に家に帰ってきたのであろうか。

 私は俄かには刑事の言っていることが信じられなかった。息子を容疑者に仕立てるため、全てをでっち上げているのではないかと思いたくもなった。その間、夫はというと両手を膝の上に突いたまま、瞬き1つせず刑事の顔を見ていた。


「問題は、動機ですがね。」

 話題が核心の部分に迫ったので、私の心臓の鼓動は一気に高まった。息子がなぜあのような恐ろしい事件を起こしたのか、私は未だに気持ちの整理がついていなかった。夫の緊張も頂点に達しているらしく、乾いた喉の中を何度となくゴクリと鳴らしている。刑事はじっと私たちの目を見据えるようにして、徐に一冊のノートをテーブルの上に差出した。

 私にはそのノートに見覚えがあった。間違いなく息子のものであった。表紙には「交換日記帳」という表題とともに、息子の名と担任教師の名が書かれていた。学校の方針で生徒全員が毎日日記を書き、それに両親と担任教師がコメントを添えることになっていた。

 私も何度か日記を読んだことがあった。どんな些末な内容でも担任の先生は欠かさず毎日キチンとコメントを付して下さっていた。40人全員の日記を毎日読んでコメントを書くのはさぞ大変だろうなあと思ったこともある。それに引き換え、私の方はついついコメントを書くのをさぼっていた。というよりも、最近は息子が日記を見せないため、実際は読んでいなかったというのが正しかった。

「ほら、ここのページ。私たちはこの日の日記に注目してまして…。」

 刑事はパラリと日記帳を開いた。日記の日付は9月30日となっていた。事件の約1ヶ月前である。私と夫は食い入るように、そのページを覗き込んだ。

「今日は理科の時間にカエルの解剖の実習があった。カエルの鼻にアルコールを染ませたガーゼを当てるとカエルはすぐに動かなくなった。カエルを仰向けにすると手と足をピンで押さえた。その後、カエルのお腹を解剖用のメスで切り開いた。プチッとはじけるようにして中から内臓が出てきた。カエルの生命力はすごい。内臓を全部取り出しても心臓はまだ動いていた。少し気持ちが悪かったけれど、面白かった。この次はほかの生き物の解剖もしてみたい。」

 そのすぐ下に先生のコメントが青ペンで書かれていた。

「命の大切さがよく分かりましたか。実習のために死んでいったカエルのためにもよくお祈りをしてあげましょう。」


 日記を読み進める私の眼球は凍り付き、心臓は微妙に痙攣を起こし始めた。息子がこんな日記を書いていたなんて全く知らなかった。子供の日記にしては、内容は恐ろしくリアリティーがあってグロテスクである。「この次はほかの生き物…。」、まさか息子は…。私は日記を読み返しながら思わずハンカチで口を覆った。

「A君にこの日記を見せましたらね、それから俯いて黙り込んでしまいましてね。」

 刑事はゆっくりとタバコに火をつけながら、ため息をもらした。

「亡くなったM子ちゃんの状態がね…、多分ご存知でしょうけど。」

 M子ちゃんがどういう状態で発見されたかは、新聞やテレビでも報道されており知らぬ者はなかった。私は、胃液が食道を逆流してくるのを感じた。

「む、息子に会わせて下さい。」

 夫がテーブルの上に身を乗り出して叫んだ。血の気の失せた夫のこめかみがヒクヒクと動くのが見えた。

「申し訳ありませんが、今日のところはまだ無理です。一両日中に弁護人から連絡があると思いますので、まずはよくお話し合いをなさって下さい。」

 刑事は半分も吸っていないタバコの火を灰皿に押し付けながら、気の毒そうに説明を続けた。高圧的な態度は微塵もなかったが、その物静かな様子がかえって事の深刻さを言い表しているように感じられた。

 私たちは放心状態で警察を後にした。夫も無言のまま車を走らせる。自分でもどこをどう走ったのかよく覚えていない、気がついた時には家に着いていた。

 

 また寝苦しい夜が始まった。その日の夜も私は夢を見ていた。夢の中の私は、どこかの病院の一室と思われる場所にいた。ベッドの上に仰向けに寝かされ、身体の上にはグリーンのシートがスッポリと掛けられていた。頭の上から強烈に差し込む照明灯の明かりが目を刺激する。傍らには白衣を着た医師と忙しそうに立ち働く2人の看護師の姿が見えた。 

 ここはどこだろう。そして私はここで何をしているのだろう。私がゆっくりとシートに隠された自らの下腹部に神経を集中しようとした時、強烈な痛みが襲ってきた。私はこの痛みに覚えがあった。ずっと遠い昔、私は確かにどこかでこの痛みを経験した。

 その時、私の耳元で人の声が聞こえた。

「大きく息を吸って、はい吐いて。はいもう一度力んで…。」

 私は言われるままにゆっくりと息を吸って、下腹部に力を入れる。私はようやく思い出した。初めての子供、そして初めて経験する陣痛、期待と不安が交錯する中で私は産みの苦しみと闘っていた。

「はい、もう少し。ほーら見えてきましたよ。」

 間もなくズルズルという感触が私の股間に走り、スポッと何かが抜けていくのを感じた。

しばらくして甲高い泣き声が分娩室の中に響いた。

「おめでとうございます。元気な男の子ですよ。」

 看護師の声が聞こえる。初めての赤ちゃん。私の心は至福に満たされ、天にも昇るいい心地に包まれた。程なく看護師が産まれたばかりの赤ちゃんを抱いて私の枕元に近付いてきた。白い産着に包れた赤ちゃんは、この世に産まれ出た喜びを全身で表わすかのように元気に手と足を動かした。これが私の赤ちゃん。私は、思わず手を差し伸べてほお擦りしようとしたその時、私の心臓は一瞬にして凍り付いた。

 笑った赤ちゃんの口の中に、私は無いはずのものを見てしまった。何本ものギラリと輝く白い歯、赤ちゃんはその歯を剥き出しにしてニッと笑ったのである。

「ギャーッ」

 私は大声を出して跳ね起きた。明るい分娩室は一瞬にして真っ暗な寝室へと変わった。全身がガタガタと震え、パジャマはびっしりと汗に濡れていた。鬼子だ、間違いなく鬼子だ。私は鬼の子供を産んでしまったのだ。

「A君、M子ちゃん殺害の容疑を認める。」

 翌日の朝刊の社会面に無情な文字が躍っていた。


 それから3日後の午後2時頃、とうとう来るべきものが来てしまった、あの事件の日以来、最も怖れていたものが来てしまった。大阪の両親である。2人は何の前触れもなくわが家の玄関口に立った。舅の右手に下げられた小さな旅行鞄が、取るものも取りあえず慌てて出てきたことを物語っていた。

 姑はこの前見たときよりも1回りも2回りも小さくなり、頬は落ち、髪は乱れ、目だけが異様にぎょろりと大きくなっていた。そうでなくても神経質そうな額に一層深い皺が刻まれていた。姑は、あの電話の日以来3日三晩床に臥せっていたという。昨日ようやく熱が下がったため上京してきたのである。

 夫も私も予想外に早かった両親の登場に狼狽した。少なくとも2人ともこの家に両親を迎える心の準備は出来ていなかった。どう話を切り出せばいいのか、その言葉すら見出せなかった。2人は無言のまま居間へと上がった。舅は疲れた表情でドサリと鞄を床の上に投げ出した。いつもであれば笑顔で息子を抱きしめるシーンが目の前にあるはずであったが、今日はそれもない。

 私は、その場にいたたまれずキッチンに入ってお茶の用意を始めた。

「それで、間違いないんやな。ほんまにあの子なんやな。」

 ボソボソと話す舅の声がキッチンまで聞こえた。それに対し夫が二言三言何か返事をしたようだったが、よく聞こえなかった。続いて姑の号泣する声が聞こえてきた。急須を握る私の手がピクリと痙攣し、お茶が茶托にこぼれた。私は大慌てで茶托を取り替えると、改めてお茶を注ぎ直した。やっとのことでお茶を入れ終わった私は、お盆に載せたお茶を持って慎重にキッチンを後にした。

 居間が近付くにつれ私の身体は硬直し始め、両親の前に進み出る頃には身体全体が石のように固くなった。手が震えてとても両親の前にお茶を出せそうにない。夫の介添えでようやくお茶を出し終えた私は、小猫のように小さく床にうずくまった。

 姑はまだヒーヒーと声を上げて泣き、舅は仁王像のように腕を組んだまま黙りこくっていた。私は何百本もの針に囲まれた小さい篭の中に閉じ込められていた。寸分でも動こうものならあちこちから針が刺さる。私は膝の上に両手を載せたままじっと目を閉じた。その時である。

「昭子はん、あんたのせいや。全部あんたのせいや。」

 姑は顔を伏せたまま涙混じりの声で呟いた。その声は邪悪な響きに満ち溢れていた。予想だにしなかった姑の一言に、私の心臓はさらに縮こまった。やがてゆっくりと姑は顔を上げた。私はあの時の姑の顔を一生忘れない。赤く充血した目からは血の涙が溢れ、眉間に深く刻まれた皺は般若の面そのものであった。

「あんたようそんな平気な顔してここにおれるなあ。あんた自分のしたことが分かってはるのか。」

「母さん、昭子を責めるのはよさないか。」

 隣から夫が姑を制しようとしたが、効き目はなかった。

「そやかて、子供をきちんと育てるのは嫁の勤めやろ。それをこともあろうに…。」

 姑は「人殺し」と言いかけて、ゴホゴホと激しく咳き込んだ。

「昭子だけが悪いわけじゃない。子育ては夫婦の問題や。」

 夫は今度は少し語気を荒めてたしなめた。その声に姑は再び声を上げて泣き崩れた。再び居間に重苦しい沈黙が流れた。

 その沈黙を破ったのは今度は舅の方であった。

「やっぱし、止めとけばよかった。」

 舅は確かにそう言った。

「わしがあれほど言うたのに、お前が言うこと聞かへんからこんなことに…。」

 私は最初舅が何のことを話しているのか分からなかった。しかし、次の瞬間舅の口が出てきた言葉に私は跳び上がらんばかりに驚いた。そしてこの一言が私を破滅の底へと引きずり込むことになる。

「あれはうちの筋やない。うちの筋にあんな気狂いはおらん。そやからわしがどこの馬の骨か分からんやつは止めとけと言うたんや。それがおまえ…。」

 どうやら舅は私の血筋のことを言っているらしかった。恐ろしい犯罪を犯した息子を「気狂い」と呼び、そしてそれを私の血筋の所為にしようとしていた。所詮この人たちは赤の他人であった。いや他人どころか今となっては私に牙を剥く野獣になりつつあった。ついこの前まではあれ程かわいがっていた息子を気狂いと呼び、そして手の平を返したように私に矛先を向けてきたのである。

 私は怒りに震える肩をじっと抑えながら黙って聞いていたが、次の舅の言葉に卒倒した。

「昭子さん、悪いが祐司と別れてくれへんか。」

 私の心は怒りを通り越して、ポッカリと大きな穴が開いたように空ろになった。絶句している私を横目に夫が口を開くが、もう尋常な会話が出来る状態ではなかった。

「父さん、何をばかなことを。」

「お前は黙っとれ。この3日間寝んと考えた結論や。うちの家に気狂いの筋はいらん。昭子さん、それにあの子もや、2人ともうちの家から籍抜いてもろて…。」

「やめてーー。」

 私は両耳を塞いで絶叫した。

「ひぇーん。」

 その声に反応するかのように姑の泣き声は一段と高くなった。

 その後のことはよくは覚えていない。私は一目散に玄関の方へと駆け出すとサンダルをつっかけた。それから後のことは全く覚えていない。とにかくあの家から逃げ出したかった。出来る限り遠くへ離れたかった。あの舅と姑が吐いた空気を吸うことすら汚らわしように思えた。

 途中私は数え切れないほどの視線を浴びた。お向かいの奥さん、いつも行くパン屋のご主人、そして見も知らぬ通りがかりの人、全ての人の視線が私の身体を貫き通した。その目は畏怖と好奇の念に満ちていた。少年Aの親、気狂いの親、鬼子の親が、今まさに町内を駆け抜けていく。恥ずかしい姿を人前に晒し、何かに憑かれたように駆けていく。鬼子の親が駆けて行ったあとを人々は次々と振り返った。

 どこをどう歩いたのか全く覚えていない。気がついた時、私は高架橋の上にいた。私は小さい時からこの場所が好きだった。橋の上はいつ歩いても気持ちがいい。橋の欄干に手を当てて遠くを見るとどこまでも遮るものがなく真っ直ぐに線路が延びている。その線路の上を時折走り抜けていく電車を見るのが好きだった。いろいろな形、いろいろな色をした電車が代わる代わる流れていく。私はそんな光景をいつまでも飽きることなく眺めていた。

 そんな私をよく母が迎えに来てくれた。夏の夕暮れ時、母に手を引かれて家路を辿る私の心は幸せに満ちていた。母は危ないからといつも私を叱った。でも私はというと叱られるのが楽しくてわざとここへ来ていた。

 私の頬を止め処もなく涙が流れた。今日は誰も迎えに来ない。もう帰る家もない。いっそのことあの電車に乗って、どこか遠いところへ行ってしまいたい。私は突然そんな衝動に駆られた。私が夢遊病者のように欄干にもたれかかろうとした、その時。

「こんなところにいたのか。随分探したよ。」

 夫の声であった。私がようやく我に返った時、高架の下をガタゴトと音を立てて電車が通り過ぎて行った。もし後少し夫が来るのが遅かったら…。

「さっきは済まなかったな。2人とも大阪に帰したよ。」

 夫は優しい口調で声を掛けてくれた。その一言に私は全身の力がヘナヘナと抜けていくのを感じた。やっとのことで夫に腕を支えられると、そのまま夫の胸の中に顔を埋めて号泣した。夫が何事かブツブツと呟いているが、私の耳には全く届かない。しばらくして夫の大きな手が私の小さな手を優しく包み込んだ。その手は母の手のように大きくて温かかった。


 翌日、弁護士と称する人物がわが家を訪ねてきた。背広の襟元に大きな弁護士バッジを付けたその人物は、いかにも法曹界の住人といわんばかりの硬い雰囲気が漂っていた。

「増田といいます。宜しく。」

 弁護士は名刺を差出しながら一礼した。歳は50過ぎであろうか、目尻の皺が丸い眼鏡越しに見える。髪は少し薄くなり始め、白いものが目立っていた。増田弁護士はソファに座るなりいきなり話を切り出した。

「昨日、鑑別所の方でA君に会いました。会って話をしました。」

 その一言に私たちの頬に朱がさした。息子が連れて行かれたあの日以来、警察から断片的に洩らされる情報以外、息子の消息を知る手だてがなかった。この男はその息子に会ったという。

「で、息子は、息子は元気でしたか。今回のことで何か言っていましたか。」

 私は勢い込んで尋ねた。夫も好奇の気持ちを抑えられず膝を前に進めた。

「人格障害ですな。人格障害とするしか手がありませんな。」

 弁護士の口から意外な一言が返ってきた。

「じ、人格障害? ですか。」

 夫が、えっ?という表情で聞き返した。弁護士は突然話を遮られたので一瞬戸惑ったような表情をして見せたが、すぐさま説明を続ける。

「え、ええ。つまり何かをしたいという衝動を理性をもって抑えられない、要するに人としての性格あるいは気質に著しい問題があり、その結果として他人を傷付けてしまったりすることを言うんです。刑法ではまず責任能力の有無が問われます。つまり責任のない者が事件を起こしてもその罪は問われないという考え方です。A君の場合、その人格に著しい障害があったということが立証されれば、責任能力なしということで無罪ということも有り得ます。」

「は、はあ。」

 私たちはまだ何のことかよく分からず、生半可な返事をした。今度は弁護士の方も少しイラッとした口調で声を高めた。

「要するに精神異常ですよ。ご両親ともA君の日記はお読みになられましたか。」

 日記と言われて、私はすぐさま警察署で見せられたあの日記のことを思い出した。「この次はほかの生き物も…」、あの不気味な最後の一言は忘れようはずもない。私たちは黙ってコクリと頷いた。

「あの日記、異常だと思いませんでしたか。誰だって生きた物を解剖するなんて気持ち悪くて、普通は嫌がりますよね。それが面白かったとか、この次はほかの生き物もとか、そんなこと考えますかね。やはり精神を病んでいるとしか。」

 私にはようやく弁護士の意図するところが分かってきた。要するに息子を気狂い扱いしようという訳である。気狂いのやったことだから仕方のないことなんだということで、この問題を片付けようとしているのではないか。

 その時、私の脳裏に昨日の舅の言葉が鮮明に蘇えってきた。「うちの筋に気狂いはおらん。」、確か舅はそう言っていた。そしてこの弁護士先生も今目の前で同じことを言おうとしている。皆が寄ってたかって息子を気狂い扱いにしようとしていた。

「息子は気狂いなんかじゃありません。だって普通に学校に行き、普通に宿題をして、普通に食事もして、いつもと何にも変わったところは…。」

 そう言いながら私の声はみるみる涙声となった。

「奥さん、お気持ちは分かりますが、人格障害はれっきとした病気なんです。奥さんだって、あのA君のしたこと、普通じゃないって思っておられるでしょう。病気なんであれば、きちんと原因を調べてしかるべく治療をしなければなりません。」

 私は返す言葉がなかった。確かに息子のしたことは異常であった。どう説明しようにもまともな答えは見当たらない。

「とにかくこれから2人の精神鑑定医にA君の精神状態を鑑定してもらいます。その結果をもって我々はA君の無罪を主張していきますから、ご両親ともそのつもりでいて下さい。仮初めにもA君がまともだ、正常だというような言動は慎んで下さい。裁判で不利になりますから。いいですね。」

 弁護士は改めて念を押した。私は何となく納得がゆかなかったが、これ以上抗弁のしようもなく、黙って頷いた。


「ところで。」

 息子の人格障害の件がひとまず終わったところで、弁護士は話題を変えた。

「被害者のご両親には、もうお詫びに行かれましたか。」

 唐突に尋ねられたので、私も夫も答えに窮した。そう言えばまだであった。あの日以来とにかく気持ちが動転し、その日その日を過ごしていくのが精一杯であった。大変失礼なことではあったが、被害者の両親のことなどおよそ念頭には思い浮かばなかった、というのが正直なところである。それほど私たちは精神的に追いつめられていた。そう、この事件には被害者がいたのである。私たちの何十倍も苦しんでいるはずの被害者が。

「そりゃあ、まずいですな。非常にまずい。」

 黙っている私たちを見て、まだ謝罪に行っていないと気付いた弁護士は、頭をグリグリと引っ掻き回しながら、嘆息を洩らした。

「仮に人格障害で刑事責任を免れても、民事責任は問われますよ。」

「み、民事責任? ですか。」

 私たちはキョトンとした顔で弁護士を見返した。弁護士はまたイラッとした表情を見せて、説明を始めた。

「いいですか、A君はM子ちゃんを殺してしまったんです。たとえそれが病気だったとしても、親権者として被害者のご両親への何がしかの慰謝料の支払いは免れませんよ。」

「い、慰謝料ですか。」

 私たちの頭はまだそこまで辿り着いていなかった。そうであろう。交通事故を起こしても損害賠償だの慰謝料だのという話はある。ましてやこれは人1人の命を奪ってしまったのである。それもあのような残忍なやり方で。どのように詫びても許されるものではなかった。

「まあ、先方さんがどのように出られるか分かりませんが、M子ちゃんはまだ5つでしたし、最低でも5千万円というのが相場でしょうか。」

「ご、5千万…。」

 私たちは絶句した。5千万という数字が何度も頭の中を行き来した。夫は再び頭を抱えて沈み込んでしまった。この家の住宅ローンだってまだ3千万円は残っている。その上に5千万などという金額を言われても、一生かかっても払えるものではない。私たちは目の前にいる敵と闘っている間に、ふいに横から槍で脇腹を突き刺されたような気になった。泣き面に蜂とはまさにこういうことを言うのであろう。弁護士はさらに続ける。

「通常こういった民事訴訟の場合、お互いが合意すれば和解という方法が取られます。つまりお互いが納得の上で話し合い、慰謝料の金額を決める。ですからこちらとしては、まずは被害者の心情をよく掴むところから始めなければなりません。被害者に、加害者側も気の毒だと思わせることが出来たら、しめたものです。とにかく一刻も早く…。」

 弁護士は、私たちがまだ被害者宅に詫びにも行っていないと聞いて、苦々しく説明を続けた。手抜かりと言えば手抜かりであった。しかし、今は自らの気持ちをコントロールすることが精一杯で、とてもそこまで気が回らなかった。

「わ、わかりました。明日にでも早速。」

 主人はまるで被害者に頭を下げるように、弁護士に向って深々とお辞儀をした。


 翌日のお昼過ぎ、私たちは取るものも取りあえずM子ちゃんの家にお詫びに行くことにした。弁護士の言うとおり、一万回頭を下げて許されるのならそれもしよう、土下座をしろと言われるのならそれもしよう、とにかくどのような罵声を浴びせられようとも、水を掛けられようが塩を撒かれようが、ただひたすら詫びるしかない。私たちは覚悟を決めて身支度を始めた。

 朝一番に百貨店に行って、M子ちゃんの霊前へのお供え物も買った。そんなもので許されるはずもなかったが、とにかく行くしかない。

 私が何とか心を鬼にして重い腰を上げた、その瞬間、無情にも私の目はテレビ画面に釘付けになった。

「それでは、まだA君の両親からお詫びの言葉もない、ということですね。」

「えー。ひどいものです。自分の子供があれだけひどいことをしたのに、謝りにも来ない。呆れて物も言えません。ほんと引きずり出して、八つ裂きにしてやりたいですよ。M子がかわいそうで、かわいそうで…。」

 テレビからすすり泣く女性の声が聞こえてきた。顔はハッキリとは映されていなかったが、話の内容からしてどうやらM子ちゃんの母親だったようである。

「ご覧のようにA君の両親は被害者に対してもいまだ口を閉ざしたままとのことです。十四歳の少年が5歳の女の子を殺害するというこの異常な事件の真相は依然闇に包まれたままです。M子ちゃんの家の前には、事件から3週間が経った今でもたくさんの花やお菓子が供えられています。時折通り過ぎる近所の人が、家の前で必ず立ち止まり静かに手を合わせてゆきます。以上M子ちゃんの家の前からのレポートでした。」

 プチッ。夫がテレビのスイッチを切った時は、時既に遅し。私が全てを見聞きしてしまった後であった。出鼻を挫かれるというのはまさにこういうことを言うのであろう。テレビを見終わった私の心は複雑に揺れ動き始めた。「八つ裂きにしてやりたい。」、M子ちゃんの母親の涙声が頭に付いて離れなかった。

 夫も微妙に心がぐらいついたのか、多少躊躇するような気色を見せたが、勇気を奮い立たせるように立ち上がった。

「やっぱりダメ。今日はとても行けそうにない。」

 私は居間の床にへたり込んで泣きそうな声を上げた。嘘ではなかった。実際、まだ家にいるのに既に心臓は跳び出さんばかりに踊り狂い、頭もグルグル回り始めていた。

「何を言ってるんだ。あんなテレビくらいで。とにかく行くんだ。」

 夫はしり込みする私の手を引いて無理やり立ち上がらせた。私はヨタヨタしながら玄関まで行き、やっとのことで靴を足につけた。

 わが家からM子ちゃんの家へは歩いて10分ほどの距離であったが、私たちは人目を避けてわざと人通りの少ない回り道を選んだ。ご近所では既に私たちのことを知らない人はいなかった。どこでどんな嫌がらせを受けるかも分からない。私たちにとって、もうこの街は大手を振って歩ける街ではなくなっていた。

 いくつかの角を右に左に折れながら、私たちはだんだんとM子ちゃんの家のある方角に近付いて行った。と同時に私の鼓動はさらに高まっていく。いよいよ後1つ角を曲がればM子ちゃんの家が見えるというところまで来た時、突然私の両膝はガクガクと震え始め、一歩も前へ進めなくなってしまった。顔から血の気が引き、胸は激しく動悸を打ち、全身から冷や汗がタラリと流れ落ちた。私は、いわゆるパニック障害のような症状に見舞われその場にしゃがみ込んでしまった。

 朦朧とする意識の中で、私の脳裏にはM子ちゃんの母親の姿が浮んでいた。顔はよく見えなかったが、姿恰好は間違いなくテレビで見たあのM子ちゃんの母親だった。M子ちゃんの母親は、手に何かキラリと光るものを持っていた。無言のままゆっくりと私の方に近付いてきて、やがて手にしたものを振り上げて…。

「ギャーッ。」

 私は悲鳴とも呻き声とも取れぬ声を上げてその場から逃げ出した。よくは覚えていない。ただ夫が何か訳の分からないことを口走りながら私の後を追いかけてくるのだけは分かった。気がついた時、私は家の玄関にいた。私の両足に靴はなく、はいていたストッキングはボロボロに破れ、足の裏は擦り傷だらけになっていた。

「今日は行くのはよそう。」

 程なく、玄関先に私の靴をぶら下げた夫の姿があった。


 その翌日は比較的平穏に過ぎた。それまでの大嵐が嘘のように静かな日であった。玄関先をウロついていたハイエナたちも1人減り2人減りし、今日は朝から誰もいなくなった。この静かさは何なのか。昨日までの喧騒が信じられないくらい静かであった。居間も、キッチンも、寝室も、家の中の至る所に何事もなかったかのような平穏な空気が流れていた。わずかに、割られた窓ガラスの代わりに貼られたダンボール箱だけか、この1週間の嵐の余波を留めていた。

 夫は相変わらず黙りこくっていた。もともと家では口数の多い方ではなかったが、事件の発覚以来、時々ブツブツと訳の分からない言葉を発する以外は本当に喋らなくなった。傍目に見ても何を考えているのか分からない。怒っているのか、泣いているのかすらも分からない。感情を内面深くに押し隠し、じっと物思いに沈んでいる様子は石膏作りの彫像を思い起こさせた。

 夫は舅の言ったことをどのように受け止めたのであろうか。私と一緒になったことを後悔しているのであろうか。もしそうだとしたら、あの日高架橋のところまで私を探しには来なかっただろう。私は夫の頭の中にあることを想像しようと試みたが、じっと考えに耽ける夫の横顔からはその一端すら垣間見ることは出来なかった。

 まるで時間が止まったかのように静かに1日が流れていく。私はそっとに目を閉じてこの1週間に起きたことを振り返ってみた。1週間前のあの恐ろしい告知の瞬間、忌まわしい家宅捜索の日の出来事、大阪の両親の話、そして息子の異常な日記…、どれ1つを取っても思い出すことすら憚られる忌まわしいことばかりであった。これから一体どうなるのであろう。そんなことをつらつら考えているうちに私はついウトウトと浅いまどろみの世界に落ちていった。

 しかし、このわずかな平穏の時間が、地獄劇の最終章を前にした幕間のひと時であったことを、この時の私は微塵も気付いていなかった。


 どのくらい時間が経ったであろうか、ほんの30分程度であったように思う。玄関のドアの外で微かに聞こえたパタンという音でハッと目が覚めた。手紙が郵便受けに投げ入れられる音であった。そう言えばあの日以来郵便受けの中を覗いていなかった。特段急ぐ手紙もあろうはずがない、と言ってしまえばそれまでだが、正直今の私の心にはそんな余裕すらもなかった。

 郵便受けの中はかなり混乱していた。手紙やチラシの類がごちゃ混ぜに入れられており、どう見てもだらしなさだけが目立つだけの箱になっていた。手紙は全部で10通程あった。電話代の請求書、クレジットカードの利用明細、そして化粧品のバーゲンの案内…、いつもと変わらぬ日常がそこにはあった。

 1枚1枚手紙を繰っていた私の手はふと1通の白い封書のところで止まった。何の変哲もない普通の白い封書、宛名にはワープロで打ったと思われる字で確かに夫の名が記されてあった。ただ、差出人の名らしきものはどこにも記されていなかった。

 一瞬嫌な予感が脳裏を過ぎったが、私は徐に封を切った。中から白い便箋か1枚出てきた。何とはなしに便箋を開いた私は、一瞬にして眼球が凍り付いていくのを感じた。便箋にはやはり同じようなワープロの文字で次のように書かれていた。

「殺人鬼よ、覚悟せよ、お前を必ず処刑してやる。」

 私は慌ててもう一度封筒を手に取り直してみた。その時、封筒の中に微かに指に触れるものを感じた。大きな物ではなかった。私は左手で封筒の口を大きく開くと、逆さにして右手の手の平の上に中に入っていた物を振り落とした。その物はコロリと転がり出た。

「キャーッ。」

 その瞬間、私は全身から血の気が引いていくのを感じ、手の平の上の物を思わず下駄箱の上に放り投げた。私の声に驚いた夫が慌てて居間から出てきた。

「と、どうした?」

「あ、あ、あ、あれ。」

 私は震える手でテーブルの上に落ちたものを指差した。1センチほどの小さな物体は、真ん中の当たりで小さくくびれ、黄色と黒の縞模様が見えた。紛れもないスズメ蜂の死骸であった。しかし無残にも、蜂の頭と羽はもぎ取られ、腹部からはわずかに毒針の先が覗いていた。

「ちくしょー、何てひどいことを…。」

 夫は蜂の死骸を二本の指でつまむと、玄関の外へと放り投げた。

「一体誰がこんなことを。」

 夫はそう言いながら封筒と便箋を私の手からもぎ取った。無論そこには差出人の名前など書いてはなかった。しかし私はあることに気がついた。封筒には切手が貼ってなかったのである。そして消印も。ということはこれを投函した人物はわざわざわが家の前まで来て、自分でこの手紙を投げ入れたことになる。私は身体の震えを抑えるために、両手を胸の前に合わせて縮こまった。

「ただのイタズラだ。気にしなくていい。」

 夫は何とか虚勢を張ろうとするが、もう自制の効く状態ではなかった。顔は蒼ざめ、息遣いは浅く早くなり、手は怒りのためプルプルと震えていた。ハイエナどもがようやく姿を消したと思ったら、今度は禿げ鷹が襲ってきた。どこかわからない遥か遠い天空から我々の苦悩を嘲笑うかのように見守っていたのである。

 そしてこの後、恐怖のジェットコースターは最後の大崩落に向けて一気にスピードを増していくのである。


 翌朝。

「今から会社に行ってくる。」

 夫は一言そう言うとそそくさと着替えを始めた。気が付くと事件の発覚後十日が経っていた。管理職である夫にとっては、もうこのあたりが限界のようであった。これ以上、会社と会社の同僚たちに迷惑を掛けることは出来ない。例えどのようなしん惨な仕打ちが待ち受けていようと、行って全てを自らの口から説明しなければならない。夫の後姿は暗にそう語り掛けていた。

 私は夫は本当に勇気があると思った。夫は一体どういう顔で会社に入っていくのであろうか。そして会社の同僚たちの反応は…。私は、会社の中で周囲から千本の矢を射掛けられる夫の姿を思い浮かべると、とても夫を送り出す気にはなれなかった。

 しかし、そんな私の思いを尻目に夫は淡々と準備を進めていく。

「ねえ、あと1日、2日何とかならないの。」

 私はおねだりする駄々っ子のように夫に訴えた。本当のことをいうと私は夫が家からいなくなるのが怖かった。昨日のこともある。どんな嫌がらせを受けるかもしれない。寄りによってこんな時に会社に行かなくても。私は少し膨れっ面をして見せた。

「大丈夫、すぐに帰ってくる。ちょっとやり掛けの仕事を片付けてくるだけだから。」

 夫は微かに微笑んだ。いや微笑んだように見えた。今にして思えば、その僅かの微笑みが夫の固い固い心の内を表わしていたのかもしれない。


 その日の午後3時過ぎ、学校の担任の先生が訪ねてきた。息子のクラスは2年B組、担任はS子先生。先生になって5年目、今年の春初めての担任を任されたということであった。まだ女子大生のような愛らしさの残る先生は、クラスでも男の子たちの人気の的だとよく息子が言っていたのを覚えている。

 この前訪ねて来られたのは確か梅雨の頃、定例の家庭訪問の時であった。初めての家庭訪問ということで緊張されて、お茶をスカートの上に溢されたのを、昨日のことのようによく覚えている。

 そんな新米先生をいきなり大変な目に遭わせてしまった。私は本当に申し訳ない気持ちで先生と対面した。親としてどの面下げても会えたものではなかったが、私は先生の口から何か息子のことを聞き出せるのではないかと内心期待していた。

「この度は息子がとんでもないことをしでかしまして、本当に何とお詫びを申し上げてよいか…。」

「い、いえ。」

 S子先生の方もすぐに返す言葉が見付からなかったらしく、一言返事ともつかない声が口端から漏れた。私も二の句が告げず黙り込んだ。しばらく沈黙が続いた後、S子先生は徐に口を開かれた。

「A君の日記、お母さん読まれましたか。」

 日記と聞いて、私はすぐにピンと来た。息子が事件を起こす1週間前に書いたカエルの解剖実習の日記のことだろう。思い出すのも忌まわしい、あのグロテスクな内容の日記。

「え、ええ。」

 私は生半可な返事をした。警察に言われて後から読んだなどとは恥ずかしくて口に出せなかった。親として子供の日記も読んでいない。家庭での教育が全くなされていないことを白状するようなものである。

「ご、ごめんなさい。わ、私、まさかこんなことになるなんて思いも寄らなかったので。」

 そこまで言うと、S子先生は突然テーブルに突っ伏して大声で泣き始めた。

「わ、私がもっと注意して日記を読んでいれば…。」

 S子先生はどうやら今回の事件を未然に防ぐことが出来なかったことについて責任を感じておられるようであった。別にS子先生が悪いわけではない。事件を起こしたのは私の息子である。私は毛頭S子先生を責める気はなかった。

「あの日、A君は3匹のカエルを解剖したんです。」

「えっ?」

 私はS子先生の言葉にわが耳を疑った。あの気持ちの悪いカエルの解剖、一度でも嫌なものを息子はどうして三度も。

「あの日クラスを7班に分けて実習をしたんですが、女の子ばかりの班が怖がって…。

そしたらA君が僕がやってやろうって。」

 何と息子は他の班の分まで解剖をしてしまったのである。私はそれを聞いて背筋に鳥肌が立っていくのを覚えた。精神異常、この前の弁護士の言葉が何度となく私の頭の中にこだまし始めた。息子はやっぱり気狂いだったのか。少なくとも尋常ではない。

「私、A君は勇気があるわねって言って、特段気にも留めずに、そのまま…。」

 そこでまたS子先生はハンカチで口と鼻を覆った。

「でも、警察の事情聴取で、学校での解剖実習が今度の事件の引き金になったんでは、と言われて。それで…。」

 S子先生はぎこちない様子で何どもしゃくり上げながらたどたどしく話を続ける。先生は何かを言いた気な様子であったが、なかなかそのことが切り出せない、そんな風に見えた。その直後にS子先生の口から出てきた言葉に私は卒倒した。

「県の教育委員会の方から言われて。全ては家庭教育の所為にしろと。少なくとも学校には責任はない、指導方針に問題はない、そのことをきちんと説明するようにと…。」

 そこまで言うとS子先生はワッと泣き崩れた。私は開いた口が塞がらなかった。むろん悪いのはうちの息子である。別に学校の所為にするつもりもなかった。でもあの解剖実習のことは今でも心の奥底のどこかに引っ掛かっていた。もしあれがかったら。そう思うと悔しいやら悲しいやら。それを学校側は全て家庭の責任として片付けようとしていた。

 S子先生は自らの良心の呵責に苛まれているようであった。少なくとも息子の異常について自分は気が付いていた、教師としてそれを見過ごしにした責任はある。先生はそう言いた気であった。

「先生、どうぞお顔をお上げください。」

 今の私はとても人に対して同情なんか出来る余裕のある身ではなかった。ただS子先生をこれ以上責めても詮のないことであった。事件は起きてしまった。そして息子の精神状態に異常があったかどうかは専門家の手によって分析されることになる。

 S子先生はすっかり化粧の落ちてしまった顔で、何度も何度もお辞儀をしながら帰っていった。


 その日の夕方であった。すっかり日の暮れたわが家に、地獄劇の最終章の幕開けを告げる予鈴が鳴り響いた。あの瞬間のことを思い出すと今でも心臓が引きちぎれそうになる。私は、何かとても気持ちの悪い嫌な予感がしてその呼鈴から耳を塞ごうとした。電話に出てはいけない、出たらよくないことが起きる、もう1人の私が耳元で囁いた。

 私は、廊下に出たところで躊躇した。出るべきか、出ざるべきか。私が決断しかねている間にも、電話の呼鈴の音は十回をとっくに超えで鳴り続けている。私は、意を決して受話器に飛びついた。

「ああ、やっとつながった。」

 電話の向こうで、少し上ずった男の声がした。

「奥様でいらっしゃいますでしょうか?、ご主人様の会社の者ですが、実は、あの、その…。」

 男の声の調子から、かなり気が動転しているらしく、なかなかその先の言葉が出てこない。私は咄嗟に会社で夫の身に何かあったんだと思った。ひょっとして、クビ? それとも降格…。その時の私はまだそんなことを考える余裕があった。

 しかし、次の瞬間私の脳天から爪先に落雷が貫通した。そして何百メートルもの高さの断崖から奈落の底へと落ちていくような感覚を覚えた。

「ご主人様が飛び降り自殺を図られて…。す、すぐに病院に…。」

 男の声が電話口で絶叫していた。私はヘナヘナとその場に崩れ落ち、右手から受話器が床に転げ落ちた。その後のことはよく覚えていない。意識はあった。でも心の中が空っぽで何をどうしたのかよく覚えていない。

 覚えていることと言えば、それからしばらくして何人かの男の人に両脇を抱えられて、そして黒塗りの乗用車の後部座席に押し込められて…。後から聞いた話では、私が電話に答えないので電話を架けてきた会社の人が心配して迎えの車を寄越してくれたとのことであった。

 夫は即死だったそうだ。遺体の損傷が著しくとてもまともに直視できる状態ではなかったらしい。ただ、魂の抜けた私には、そんな恐ろしい光景もただの映像に過ぎなかった。目の前に見えているものが何で、それが何を意味しているのかすら、理解していなかったようである。涙もない、叫びもない、何時間も何時間も、茫然自失のまま夫の亡骸の傍に座っていたそうだ。

 私がようやく我に返ったのは姑の悲鳴を聞いた時だった。大阪の実家にはやはり会社の方から連絡が行ったようだ。私が気が付いた時、姑は鬼女のような形相で夫の亡骸に取りすがっていた。あの時の悲鳴は今でも脳裏に焼き付いて離れない。

「お前が殺した。お前が祐司を殺したんや。」

 確か姑はそんな言葉を繰り返していたように記憶している。

 

 3日後、夫の葬儀がごく親しい身内の者だけで執り行われた。このような場合、喪主は本来は妻である私が務めるべきところであるが、舅たちは無理やり夫の亡骸を大阪の実家へと移送した。身内の恥をこれ以上東京の多くの人に見られたくないという思いもあったのであろうが、何よりも夫を私という存在から遠ざけたかったようである。今にして思えば、その時の私は心身ともボロボロでとても喪主という重責を務められたものでもなかったのかも知れない。

 仕方なく私は通夜の当日東京から新幹線で駆けつけることになった。夫の実家は大きな門構えのある旧家であった。あいにくその日は夕方から冷たい霧雨が降りしきっていた。普通であれば門前には花輪や灯明が飾り付けられるはずであったが、そのような装飾は一切なく、家の中も灯が消えたようにひっそりしていた。読経の声が外に漏れることすら憚られるかのように家の窓といい扉といい全てが固く閉じられていた。

 私は玄関口から中の様子を窺いながら、黙って上がるかそれとも案内を乞おうか躊躇していた。その時。

「あれ、昭子さんやない。この度はまたえらいことで…。」

 その声に、ふと振り返るとそこには義兄夫婦がいた。傘から滴る雨の滴を払い落としながら、こんな場に相応しくない大きな声で話し掛けてきた。兄嫁に会うのは結婚式の日以来三度目のことであった。普段は京都に住んでいることもあり、特別の用がない限り滅多に顔を合わせることもない。

 私は突然の来訪者に言葉を失った。自らの恥を何と弁解すればよいのか。恐らくどのように弁解してもこの兄嫁の前では無駄であろう。私の記憶では、確か結婚式の折も散々嫌みを言われたように覚えている。晴れの舞台で随分礼儀を知らない人だと思ったが、後になってそれは私の夫への競争心から出たものだと分かった。

 義理の兄は正直言って出来が悪く、大学卒業後は自力で就職も出来ずに舅の口利きで京都の呉服問屋に勤めていた。対して弟であった私の夫は東京の大学を出た後大手の商社に就職し、いわゆる世間で言うエリートコースを歩んでいた。むろん兄嫁としては面白いはずかない。二度目に会った時は確か結婚してから何年目かの正月であった。帰省した際にたまたまバッタリ会ってしまった。あの折も義兄とあまりうまくいっていないと散々愚痴を言われたように記憶している。

 その兄嫁は今日は勝ち誇ったように胸を張っていた。その有頂天ぶりは声の調子からもハッキリと感じ取ることが出来た。

「なんぼエリートやて言われても、家の中のことがキチンと出来へんようではなあ。ほんまこっちもえらい迷惑や。身内から犯罪者、それも殺人犯なんか出してしもて。幸い東京でのことやさかい、まさかうちが少年Aの親戚やなんて思てる人もおらへんとは思うがな。それにしても…。」

 予想通りネチネチとした嫌みが始まった。何を言われても仕方がない。私は虎の前の猫のように背を丸めて縮こまった。一方義兄はというと、そんな兄嫁の嫌みを止めようともせずただ黙ってさっさと靴を脱いだ。本当に凡庸な義兄であったが、今の私には無口な義兄が仏様のように思えた。

 私は無言のまま口を脱ぎ、義兄夫婦に付き従った。夫の葬儀は離れの仏間で執り行われるらしかった。私はこの家の仏間には一度しか入ったことがなかった。十5年前、夫との結婚をご先祖様に報告するため、舅と姑に連れられて仏壇の前で手を合わせて以来である。長い廊下を渡り、霧雨の降りしきる濡れ縁に出てようやく奥の仏間に灯る灯明の明かりが見えた。 

 もう何人かの親戚の人が集まっているらしく人の話す声が微かに漏れてきた。その声は私を地獄の底へと誘う悪魔の囁きのように聞こえた。親戚の人々は私の顔を見て何と言うのであろうか。先程の兄嫁の嫌みどころでは済まないかもしれない。私は一斉に罵りの言葉が上がるのを怖れて身を固く縮めた。

 その間にも義兄夫婦は何の躊躇するところもドンドンと地獄の入口を目指して歩みを進めていく。私は心の準備が整わないまま仏間の入口に立った。

「どうも、遅くなりまして。」

 こともあろうに兄嫁はまたしても仏間中に聞こえるような大きな声で挨拶した。仏間にいた全員の視線が私たちの方に向けられた。仏間を仕切る襖は取り払われ、2つあった八畳の間が一続きになり、奥の祭壇まで見通せた。祭壇には白い菊の花に包れるように夫の遺影が飾られ、灯明の光がゆらゆらと輝いて見えた。部屋の中には一見して20人ほどの人が居並んでいた。義理の叔父・叔母、義妹夫婦、それに今まで見たことのない顔もあった。

 そしてその一番奥にあの人たちがいた。黒の礼服に身を包んだ舅は終始無言のまま夫の遺影を見上げている。何日も寝ていないのであろう、目の下には黒々と隈が出来、額には苦悩の皺が何本も走っているのが遠目にもよく見えた。姑は黒留袖を身につけ舅の傍らに小さく蹲っていた。顔を伏せているのでその表情はよく見えないが、3日前東京の病院で見た時よりもさらに1回り小さくなったように見えた。

 兄嫁の声で舅と姑もほぼ同時に私たちの方に向いた。その時の姑の表情は3日前よりもさらに恐ろしく変化していた。髪はバサバサに乱れ、頬は死人のように灰色に変わり、目は空ろに中空をさ迷い、まるで断末魔の声を上げる鬼女のように見えた。そしてそのすぐ後、私はとんでもない光景を目の当たりにすることになる。

「お前は何しに来た。帰れ。帰らんか。祐司は誰にも渡さへん。祐司は私の子や。祐司は私の…。」

 姑はそう言うなり、祭壇の前に仁王立ち

となり、力任せに焼香台を私に向って投げつけた。ガシャーンという音ともに焼香台は砕け散り、辺り一面に灰が舞い上がった。

「な、何すんねん。これ、落着きなはれ。ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ。」

 仏間にいた人々全員が咳き込みながら一斉に立ち上がった。その間にも姑は次々と祭壇に供えられた供物や献花の類を手当たり次第に当たりに投げつけ始めた。怒声と悲鳴が飛び交う中、私は辛うじて兄嫁の叫ぶ声を耳にした。

「昭子さん。何ボーッとしてはるの。早、出て行き。早…。」

 私は思わずその場から裏庭へと裸足のまま飛び出した。仏間の混乱は障子越しにもはっきりと見えた。鬼女が踊り狂い、物を投げつける、それを何人かの男が取り押さえようと走り回る。その様子がハッキリと影絵となって障子に映るのが見えた。私は放心状態のまま、降りしきる霧雨の中に立ち尽くした。喪服はたちまち湿気をたっぷりと吸い込み、頭から頬を伝った滴が顎の先からポタポタと落ちるのが分かった。

 このような恐ろしい屈辱があろうか。嫁が夫の葬儀にも立会えない。その場に居合わせた何十人という人の誰からも声を掛けられることなく、その夜、私は降りしきる雨の中から夫の魂を見送るよりほかなかった。


 翌日、私は東京に戻ることにした。昨夜の霧雨は上がったものの、朝からどんよりとした雲が垂れ込める肌寒い日であった。私は、告別式にも参列せず、夫の棺を見送ることもないまま、静かに実家の前で手を合わせた。もう二度とこの家に来ることもあるまい。不思議と涙は出なかった。心の中が空ろのままで、怒りも、悲しみも湧いてこなかった。 

 全ての感情を失した人形のように私は静かにその場を立去った。が、この時私の心の中には既にある固い決意が芽生えつつあった。

 その日の夕方、私はわが家に戻った。わずか1日空けていただけなのに、私には部屋の中が昨日とは随分と違って見えた。見るもの、触れるもの全てが何故か無性に懐かしく思えた。私はゆっくりと時間を掛けて1つ1つ部屋を回った。

 最初は私たちの寝室。2階の東側に面していたその部屋は既に薄暗くなり始めていた。十畳もある部屋もベッドと洋ダンスが入ると小さく見えた。私はこの部屋で夫と2年間を過ごした。それまでは二LDKのマンションで家族3人「川」の字になって寝ていたが、息子が中学生になったのを機にこの家に引越してきたのだった。夫と2人きりで寝るなんて新婚の時以来であった。何となく心がウキウキして嬉しかったことがまるで昨日のことのように思い出された。

 私は壁際にあった鏡台の前に腰掛け、鏡に映った自分の顔を見て驚いた。そこに居たのは自分ではなかった。髪は乱れ、頬は落ち、目はギョロリと輝き、血の気の引いた青白い顔には死相が漂っていた。そう言えば昨日から化粧もしていなかった。私は鏡台の引出からそっと口紅を取り出すと、唇を拭った。だがそれが失敗だった。口の回りだけが赤く染まり、まるで死肉を食らう獣のような顔になった。私は思わず鏡の上に口紅を何度もこすり付け、不気味な自分の顔を消し去ろうとした。

 次に私の手に触れた物は枕元に置いてあったオルゴールであった。1年前家族3人で箱根に出かけた時に、オルゴール美術館で買った物であった。思えば、家族3人揃って旅行したのはあれが最後であった。息子は中学生になって後、友達と出かけることが多くなり、親と一緒に出たがらなくなった。大人になったなあと思いつつも、少し寂しい気もした。

 私はそっとオルゴールのネジを巻いた。ピンポンポン…、置き時計の形をしたオルゴールが静かに回り始め、「古時計」のメロディーを奏で始めた。オルゴールの音色は何故こんなに侘びしい音がするのか、いつも不思議に思っていた。きっとオルゴールは寂しがり屋なのだろう。誰の伴奏もなく自分1人で音を奏でる。私は今の自分がオルゴールのように思えた。

 しばらくしてネジが巻き戻ってくると、オルゴールが奏でるメロディーは次第に訥々と小さくなり、やがてピンという微かな音とともに完全に止まってしまった。

 続いて私は、すぐ隣の息子の部屋に入った。西側に面していた息子の部屋にはまだ微かな秋の日の残光が差し込んでいた。セピア色の光に照らされた息子の学習机の上には薄っすらと埃が積んでいた。ベッドの上の布団はきちんと整頓され、枕元の目覚し時計が静かに時を刻んでいた。

 ここが、あの恐ろしい事件を起こした鬼子の部屋とはとても思えないほど静かで平和な空気が流れていた。このまま待っていると今にも息子が階下から上がってくる音が聞こえるのではないかと思えるほどであった。私はベッドの端に腰掛けて静かに目を閉じた。ここでこうしていると息子の心と和合できるのではないかという気がして、私はじっと目を閉じたまま精神を集中した。

 どのくらい時間が経ったのであろうか。いつしか夕闇の影が息子の部屋の中にも広がり始めた。しかし息子はいつまで経っても答えてくれなかった。やはりあの子は鬼子だったのだろうか。息子の仮面を被った鬼の子だったのかもしれない。正直、この時の私にはまだ一抹の期待があった。もし息子が鬼子ではなく、私の問い掛けに答えてくれたなら、私の固い決意は揺らいだかもしれない。私は必死に心の中で呼び掛けるがついに返事を聞くことはなかった。

 

 居間に戻った私はついに地獄への旅路の準備を始めた。まず睡眠薬の瓶とコップ一杯の水を用意した。そして化粧台から持ち出した化粧用の安全カミソリ。私は確実に自らの決意を遂行するために着々と準備を進めた。窓の外はもうどっぷりと日が暮れ、居間の中は真っ暗になった。私はカーテンの隙間から差し込む微かな光を頼りにまず睡眠薬の瓶を空にした。2粒、3粒ずつ口に含んでは嚥下していく。朝から何も食べていなかった私の胃袋はスーッと薬効を吸収していった。

 続いて私は安全カミソリを割って刃を取り出した。もちろん初めての経験である。カミソリの刃は不思議なほど簡単に手首の肉の中に入っていった。痛みはなかった。と同時に温かいものがスーッと手の平を伝い、人差し指の先からポタリポタリと滴り始めた。私はそっと目を閉じてソファに背をもたれかけた。もうすぐ全てが終わる。鬼子と決別し、夫の元へ行ける。私の心は大きく温かなものに包まれ始めていた。痛みも苦しみもない。これまでに経験したことのないような安らぎであった。

 私は1人広い道を歩いていた。どこまでも続く広い道は暖かい春の陽射しに満ち溢れ、道端には赤や黄色の花が咲き乱れている。遠くの方は春霞のようにボンヤリと霞んで見え、頬に当たる風が心地よい。今にして思えば、これが臨死体験というものだったのかもしれない。

 しばらくこの広い野原を歩いていた私は、やがて夫らしい人影を見かけた。私は息を切らせてその人影を追いかけた。大声で呼びかけるが、夫は相変わらず歩みを止めない。ゆっくり歩いているように見えるが一向に距離は縮まらない。私は次第に焦りを覚え始めた。1人置いてけぼりにされたような焦燥感に駆られて、必死になって駆け出した。その時、ようやく夫が振り向いた。あんな穏やかな顔の夫を見たのは生まれて初めてであった。

「すまなかったな。1人にして。」

 夫は確かにそういった。遠く離れていたのでよく聞こえなかったが、15年間夫婦であった、そこは以心伝心である。

「ううん、いいのよ。」

 答える私の頬には、何故だか止め処もなく涙が溢れた。私は手を振りながら夫の傍に走り寄ろうとした。しかし、夫は私の方を向いたままどんどん後ろずさりしていく。どうしたのだろう。ぴったりと等距離を置いて、近づきも遠ざかりもしない。私が足を速めれば夫の遠ざかるスピードも速くなる、私がゆっくり歩めば夫のペースも落ちる。そんなことがしばらく続いた後、夫はやっと口を開いてくれた。

「君はここまでだ。」

 私は最初夫が何を言っているのか分からなかった。変なことを言う人だなと思った。でも私が次の一歩を踏み出そうとした時、夫の顔は急に険しい表情に変わった。

「君にはまだやり残したことがあるだろう。」

「やり残したこと?」

 私が尋ね返した時、夫の姿は春霞の中に溶けるように消え始めた。足が消え、腕が消え、夫の姿がどんどん薄くなっていく。私は必死になって夫の名前を呼び続けるが、夫はニコニコと微笑みかけるだけでそれ以上何も話してくれない。

「待って、待ってー。」

 私は手を伸ばして、絶叫した。

 その瞬間、私の目の前は真っ暗な闇に変わった。同時に遠くから私を呼ぶ音が聞こえてきた。その音は着実に等間隔で私を呼び続ける。私はクラクラする頭を押さえながらソファの上に置き上がった。ソファの上はぬめぬめした液体でベットリと濡れていた。その瞬間、私の手首に激痛が走り、私は現の世界に連れ戻された。

 私は立ち上がると、フラフラと音のする方向に歩いていった。

「もしもし。」

「ああ、やっとつながった。」

 受話器の向こうに聞き覚えのある声がした。町田弁護士であった。

「A君との面会の日取りが決まりました。」

 A君、息子…、私はようやく夫の言い残した言葉の意味を悟った。そう、私にはまだやり残したことがあった。息子と会って話をしなければならない。何故息子があのようなことをしたのか、そして息子が鬼子であるのかないのかこの目で確かめなければならない。

私はベットリと血糊のついた手首を押さえながら、決意を新たにした。


 それから5日後、息子との面会の日が来た。

 私は弁護士に付き添われて少年鑑別所へと出向いた。私は、手首の傷痕が見えないようにと、思いっきり袖の長いスーツを着ていった。

「面会時間は三10分ですから。要領よく有効に使って下さい。」

 弁護士は少しでも裁判に有利になるようにということしか頭にないようであった。息子に精神異常を思わせるようなところがないか、慎重に様子を観察して来いということであった。

 私は1人面会室の中に入ってその時を待った。面会室は殺風景で、南側に面した窓から見える木々の緑がわずかに彩りを添えていた。中央当たりに大きなテーブルが置かれ、そのテーブルを挟むようにして簡単なスチール製の椅子が2脚ずつ置かれていた。

 待っている間、私は次第に精神状態が高揚していくのを感じた。息子とはあの日以来である。そしてこの2週間余りの大混乱である。自分は果たして息子に会って平然としていられるであろうか。会った途端息子に掴みかかり殴り殺してしまうのではないか、私は突然そんな恐怖に襲われて身を固くした。

 その時ドアの外に人の気配がした。私の心臓の音は一気に高まった。落ち着け落ち着けと心の中で叫ぶが、脈拍はドンドン速くなり、手首の傷痕がドクンドクンと痛んだ。ああ、もうダメだと思った瞬間ドアがガチャリと開いた。

 制服を身につけた男2人に付き添われるように息子が部屋に入ってきた。その姿を見た私は、一瞬にして拍子抜けし全身の力がヘナヘナと抜けていくのを感じた。鬼子ではなかった。そこにいるのは鬼子ではなかった。息子の様子はあまりに自然で、あまりに平凡で、あまりに静かであった。休みの日にいつも家で着ていた青色のジャージ姿、ここが鑑別所でなければまるで普通の中学2年生である。やつれた様子もない。私はきつねにつままれたように息子を凝視した。

「面会時間は三10分です。我々はすぐ外にいますから、何かありましたら…。」

 鑑別所の人たちは、そう言い残すと表に出た。

 部屋の中は私と息子の2人きりとなった。息子はやや伏し目がちに下を向き、私の顔を正視しようとはしなかった。私も何から話していいやら分からず、しばらくは重苦しい沈黙が続いた。持ち時間は30分しかないのに、もう1分、2分が過ぎていく。息子は相変わらず黙ったままであった。

「どう、元気にしてる?」

 私は思い切って声を掛けてみた。自分の息子に声を掛けるのにこんなに緊張したことはなかった。わずか2週間程しか経っていないのに、もう何年も会っていないような気がした。

「うん。」

 息子はコクリと頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。また重苦しい沈黙が流れた。息子は微かに震えているようにも見えた。私は敢えて事件のことには触れないようにした。ここで息子を叱ってみても詮ないことである。この2週間の出来事が私の心の中から全てを奪い去り、怒る気力すら湧いてこなかった。その時、息子の唇が微かに動いた。

「お父さんは?」

 私は予期していなかった質問に狼狽した。息子にはまだ知らされていない、少なくとも夫が死んだことについてまだ鑑別所から話を受けていない様子であった。私が返事をしなかったので息子はまた同じ質問を投げかけてきた。

「お父さんは、どうして来ないの?」

 息子はどうやら夫にこの場に来てもらいたかった風であった。大声で叱られて、そして思いっ切り張り倒してもらいたい、息子の顔にはそう書いてあった。

「お、お父さんはね。仕事があって、遠いところに出張に行ってるの。すぐには帰って来れないの。」

 私は口から出任せの作り話をした。しかし、息子は鋭敏であった。私の声の調子や仕草から何かを読み取ったようであった。ひょっとすると「遠いところ」という言葉の意味も薄々感付いたのかもしれない。私がそれ以上話を続けないのを見て、息子は突然全身を小刻みにプルプルと震わせ始めた。

「ご、ごめんなさい。僕のせいで。本当にごめんなさい。」

 そう言うなり息子はどっとテーブルの上に突っ伏した。息子の背中は大きく揺れ、激しい心の疼きにじっと絶えているようであった。鬼子ではない。この子は列記とした人の子、鬼子などではない。その時私はそう思った。そして、あまりに激しい息子の慟哭に私の感情の糸もプッツリと切れた。もう何事も言葉にならない。2人とも時の経つのを忘れて面会室の中で泣き叫び続けた。

 どのくらい時間が経ったであろう。息子は高ぶった感情の中で辛うじて呟いた。

「僕、死刑になるのかな。」

 私はまたしても答えが見出せず絶句した。「死刑」という言葉がこれほどの重みを持って聞こえたことはなかった。新聞やテレビでは毎日のように殺人事件や強盗事件の報道が流されている。そうした犯人に死刑判決が出されたという報道もよく目の当たりにする。いつもはまるで他人事のように、凶悪犯は早く死刑になればいいと思っていた。その忌まわしい言葉が今眼前にいる息子の口から流れ出た。私の頭の中を、「死刑」という言葉がグルグルと何度も巡り回った。

「だ、大丈夫。今弁護士の先生と話をしているから。それにあなたはまだ未成年だし…」

 そこで息子はまたワーッと泣き崩れた。私は気慰みのつもりで言ったつもりであったが、本当のところ私の心の中にはギリギリとするような葛藤が渦巻いていた。息子を助けるには息子を精神病患者にするしかない、弁護士はそう言っていた。しかし、現実に今目の前にいる息子は精神病などではなかった。どう見ても普通の男の子であった。気狂いを選ぶのか死刑を選ぶのか、どちらを選ぶのかと言われても、それは答えようのない選択であった。

 この時の私はうかつであった。息子の言葉に自らが取り乱して、左手首のことをすっかり忘れていた。息子は目敏く私の左手首に目を留めていた。息子の視線に気が付いて、私は慌てて手を引っ込めたが既に遅かった。青黒く腫れ上がった手首の肉、それが何を意味しているのか息子は瞬時に悟ったようであった。犯罪者の家庭がどういうことになるのか、もう分からない年齢ではない。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。」

 息子は、再び深い深い慟哭の淵へと落ちていった。

 それからどのくらい時間が経ったであろうか。私が何かを口にしようとした時、無情にもガチャリとドアの開く音がした。

「時間です。」

 ほとんど何も話が出来ていなかった。あっという間であった。まさに面・会である。顔を見るだけであった。息子は男たちに両脇を抱えられるように立ち上がった。部屋を出て行く時、息子はかろうじて今一度私の方を振り返った。その目は明らかに何かを語り掛けようとしていた。何かを訴えようとする悲しい、悲しい目であった。


 息子の死が知らされたのは、それから1週間後のことであった。

 鑑別所の部屋のカーテンレールに裂いたシーツを結び付けて首を吊ったということであった。鑑別所からの知らせで病院に駆けつけた時は既に息子の息はなく、目の前には冷たい骸となった息子の姿があった。

 その時の私は自分でも不思議なくらい冷静であった。少なくとも夫が死んだ時よりは、遥かに明瞭にその時の状況を覚えている。鑑別所の人が頻りと申し訳ありませんでしたと謝罪していた。別に鑑別所の人が悪いわけではない。息子は自らの意思で「死」を選んだのである。

 私の心の中は複雑に揺れ動いていた。息子を亡くして喜ぶ親はどこにもいない。でも不思議な安堵感が私の心の中に漂っていた。不埒であると思われるかもしれないが、本当はこれでよかったのかもしれない。息子が生き続けても苦しみは増すばかりである。息子は自らの心の中に棲みついていた鬼子を自分の手で抹殺したのかもしれない。私が成し遂げられなかったことを息子は自分の手で遂行したのだ。

 世の人から見ると随分身勝手と思われるかもしれない。人の子を殺しておいて、今また自らの命まで絶ってしまう。何とも無責任な親子だと人の目には映るかもしれない。一生かかってでもその償いをすべきと言う人もいるかもしれない。

 でも私にはそんな勇気はない。そんな力もない。鬼子の母として生きていくことがどんなに辛いことか、それは経験した者にしか分からない。


 それから2ヶ月が経ったある日のこと、私は一大決心をした。今こそM子ちゃんの霊前にお詫びに行かなければならない。行ってご両親にも詫び、そして何よりもM子ちゃん自身にもお詫びを言わなければならない。事件の発生から2ヶ月余りが経ってようやく私の心は固まった。夫に無理やり連れられて今一歩のところまで行っておきながら、結局怖じ気づいて面会を果たせなかった不甲斐なさを償うべき時が来たと思った。

 ご両親はどんな顔で私を迎えられるであろうか。どのような罵声を浴びせられようと、どのような仕打ちを受けようと、いや殴り殺されても構わない。とにかく行かなければならない。私の決心に揺るぎはなかった。

 年も改まったその日、街中は新年を祝う人々でごった返していた。私は1年前のことを思い出しながら、M子ちゃんの霊前に供える品を探していた。1年前には私の右隣には息子がいた。そしてその息子の向こうには夫がいた。息子を挟むようにして親子3人手を繋いで初詣に出かけた。

 街の様子は時の流れが止まったかのように1年前と何も変わっていない。パン屋さんの前のしめ縄も、おもちゃ屋さんの前の門松も去年と同じであった。でも私の隣には息子はいない。夫もいない。言い知れぬ孤独感だけが私の周囲を包んでいた。

 私は大きな熊のぬいぐるみを買った。確か新聞の記事か何かで亡くなったM子ちゃんが熊のぬいぐるみをとても大事にしていたと読んだ記憶があった。きっと心の優しい子だったのだろう。私の脳裏にぬいぐるみを抱っこしてスヤスヤと眠る幼子の顔が何度となく過ぎっていった。


 その日の午後いよいよ私は運命の面会に向った2ヶ月前泣き叫んでしりごみした街角も今日は難なく通り過ぎることが出来た。角を曲がって3軒め、M子ちゃんの家の屋根が次第に大きく迫ってきた。さすがに私の心臓は次第に高く波打つようになってきた。しかし今日はもう後戻りはしない。泣き叫ぶこともしない。一度死に臨んだ者にもう恐いことなど何もなかった。淡々とM子ちゃんの家の前まで辿り着いた私は、門前で深呼吸をして息を整えた。

 M子ちゃんの家の玄関には白い鉄製のポーチがあり、小さな石段を上ったその奥に茶色の玄関扉が見えた。玄関の脇の車寄せには赤い子供用の自転車が1台置かれたままになっていた。恐らくM子ちゃんのものであろう。今にも玄関からM子ちゃんが飛び出してきてその自転車に乗ってどこかへ出かけそうな、そんな平和な空気に包まれていた。

 私は微かに震える指先で玄関チャイムを押した。しばらくして奥さんらしい声で返事があった。私が名乗りを上げると、一瞬沈黙が流れた。私はその沈黙の意味を推測した。突然の訪問に狼狽したものなのか、それとも怒りが込上げて声も出なかったのか。10分に準備が出来ていたはずの私の心の中にも急速に暗雲が広がり始めた。ほんの10秒ほどであったろうか、そんな長い時間ではなかったが、その時の私には無限の時間のように思えた。

「はい。お待ちください。」

 ようやく小さな声で返事があった。

 しばらくして玄関ドアを開ける音がした。私の緊張は一気に高まった。もし奥さんが包丁を振り上げて出てきたらどうしようか。「八つ裂きにしてやりたい。」、2ヶ月前のテレビのインタビューが鮮明に私の脳裏に蘇った。一瞬にして私の身体は石のように固くなっていった。

 玄関先にはご主人と奥さんの2人が揃って出てこられた。ご主人は思ったよりは年上に見えた。休みの日ということもあり青のジャージにグレーのカーディガン、すっかりくつろいだ様子であった。奥さんはというと、ピンクのセーターにエプロン姿、恐らくお昼の片付けでもされていたのであろう。

 2人は最初訝しそうに私の顔を見ておられたが、しばらくしてどうぞという仕草でポーチを開けて下さった。私は一瞬拍子抜けした。よくて帰れと怒鳴られるか、悪くすれば植木鉢か何かが飛んでくるのではと思っていた私には全く意外であった。私は促されるままにゆっくりと石段を踏みしめて、玄関の中へと進んだ。

 玄関の中も表と同じく平和な空気が流れていた。下駄箱の下には小さな赤い靴が2足、そして幼稚園に行く時に下げていく黄色の傘が寝かせて置いてあった。今でもM子ちゃんが毎日使っているかのようにきれいであった。

「どうぞ。」

 相変わらず奥さんのモノトーンな案内が続く。その表情には、怒りもなく、笑いもない、まるで能面を被ったように無表情のまま、静かに淡々と座敷へと誘導されていく。ご主人も黙ったまま、私の少し斜め後ろから付いて来られた。

 私は2人の心の内を測り兼ねていた。当然地獄の烽火のごとくメラメラと燃えたぎっているはずである。しかし、2人の表情や仕草にはそのようなところは微塵も感じられない。一体この静かさは何なのか。この人たちは何故怒りの言葉を発しないのだろうか。目の前に、憎っき娘の敵がいるのに。

 そんなことを考えているうちに私はとうとう仏壇のある座敷にまで辿り着いてしまった。床の間の隣に置かれた仏壇には今朝生けられたと思われる白い菊の花が飾られ、それに少し隠れるようにしてM子ちゃんの遺影があった。写真の中のM子ちゃんはピンクの幼稚園の制服を身につけ、得意気にカメラに向って笑っていた。こんな可愛い子供に息子は何故あのように残忍なことをしてしまったのか。それを思うと私の胸は張り裂けんばかりで、とても写真を正視できたものではなかった。

「どうぞ。」

 奥さんは再びモノトーンな口調で座布団を奨められた。その瞬間である。私の心の奥底で張り詰めていた糸がプチリと音を立てて切れた。

「申し訳、申し訳ございませんでしたーー。」

 私は畳に額をこすり付けて絶叫した。全身がワナワナと震え、身体が萎縮していくのがはっきりと分かった。こうなるともう自制の効く状態ではなかった。私の両眼からは大粒の涙がポタポタと音を立てて畳の上に落ち、両手の爪が畳の目に食い込むほど指が強ばった。このままここで心臓が停止するのではないかと思われるほど全身がピクピクと痙攣した。

「ま、まずは、お手を…。」

 今度はご主人の声がした。奥さまと同じようにモノトーンな調子で、喜怒哀楽の全てを失ったような声であった。ご主人は座敷机を挟んで丁度仏壇の正面くらいの位置に正座したまま座っておられた。私はまたしても不思議な感覚に囚われた。この静けさは一体何なのか。何故この人たちは私を罵倒しないのか。2人が静かであればあるほど、それに比例するかのように私の心の乱れは増幅された。

 どれくらい経ったであろうか。私が少し落ち着きを取り戻したのを確認するかのように再びご主人の声がした。その時、私は決して聞いてはならない一言を聞いてしまった。

「お宅さまの方も大変なことに…。」

 私は一瞬わが耳を疑った。この人は一体何を言っているのだろう。ひょっとして…。ご主人が呟いた一言の意味を咀嚼していくうちに、私の心は驚きの余り次第に凍り付いていった。加害者の親が被害者の親から慰めの言葉を聞く。決してありえないことが今目の前で起こりつつあった。

加害者の父親が自殺したことも、そしてついには加害者本人までもが自らの命を絶ったことも、全てが報道されていた。当然この家の人たちの耳にも届いているはずであった。私はうかつであった。よもや被害者の親の口からこのような言葉が出てくるとは思ってもみなかった。私は何と答えていいのか分からず、我を忘れて絶叫した。

「も、申し訳ありませんでしたーー。」

 私の額はピッタリと畳に押し付けられ、全身がヒクヒクと痙攣した。私の脳裏には死んだ夫の顔、そして息子の顔が次々と現れ、それは次第にボンヤリと輝きを失していった。一体私の人生は何だったのだろう。何のため夫と結ばれ、そして何のために息子を産み、そして何のために今ここにいるのか。私は心の中にポッカリと大きな穴が開いたような気持ちになった。

「さ、どうぞ。」

 今度は奥さんが私を仏壇の前へと促して下さった。私はすっかり化粧が落ちて醜くなった顔をハンカチで抑えながら、仏壇の前へと進んだ。仏壇の前まで進むと先程のM子ちゃんの写真がより大きく鮮明に見えた。パッチリと開いた目、丸い小さな鼻が愛らしさを一層引立てる。口には白い歯が覗いていた。

 M子ちゃんはさぞかし息子を恨んでいることだろう。何のことか分からぬまま、手足を縛られ、身体を切り刻まれて…、そこまで考えると私の心は再び錯乱した。線香を持つ手はプルプルと震え、合唱しようにも両手がうまく合わせられない。全身が硬直して両肩が小刻みに波打った。やっとのことでお供え物の熊のぬいぐるみを仏壇の脇に置くと、膝をついて一歩後ろずさりした。

「どうぞ、座布団を。」

 ご主人の声がした。ふと顔を上げると、丁度奥さまがお茶の入った湯のみを茶托の上に載せておられるところであった。私はまたしても当惑した。塩を顔に投げつけられても仕方のないはずの私の目の前に今お茶が出されようとしている。これは一体何なのか。

「よくご存知でしたのね。」

 奥さまは静かに一言尋ねられた。

「えっ?」

「熊のぬいぐるみ。死んだM子がとっても好きでしたの。いつどこへ行くのにも持ち歩いておりました。邪魔になるのに置いていきなさいと言ってもきかなくて…。」

 そこまで言うと奥さまはそっとハンカチで目頭を押さえられた。その仕草がまたあまりに気の毒で、ようやく乾き始めていた私の目も再び大粒の涙が溢れ出した。

 その時である。奥さまは急に具合が悪そうにハンカチを口に当てられた。どう見ても普通の鳴咽の声ではなかった。悪心を堪えるかのように、さっと席を立ち座敷の外に出られた。私は急に不安になった。先程まであれだけ静かだった奥さまが。ひょっとして抑圧された怒りを抑え切れず…。今度こそ包丁を持ってこの座敷に…。

「四ヶ月ですよ。」

 その私の不安を打ち消すかのようにご主人が呟かれた。私は一瞬何のことか分からなかった。しかしそれが妊娠四ヶ月を意味していると悟った時、心の底から喜びが沸き立つのを覚えた。他人の妊娠をこれほど嬉しく思ったことはなかった。

「そ、そ、それは、お、おめでとうございます。」

「丁度M子が死んだ頃でした。私にはお腹の子がM子の生まれ変わりじゃないかと思えましてね。」

 ここで今度はご主人が涙声になられた。

 私の心はこの一言で随分と楽になった。先程まではグレー一色に塗りつぶされていた私の心の中に、一点の朱が灯るのを感じた。もちろんこのことでM子ちゃんが殺されたという事実が消えるわけではない。息子の、そして私の罪が消えるわけではない。ただ私の心の負担は間違いなく軽くなった。どのような些細なことでもいい、被害者の家庭に福が訪れ、加害者の家庭に災いが降り注ぐ。それで息子の犯した罪の千分の一でも償われるのなら、私の心の負担はそれだけ軽くなる。

 結局、この日お2人の口からは一切の譲許の声は聞かれなかった。むろんそんなことは端から期待もしていなかった。ただ私はこの日M子ちゃんの家にお伺いして本当によかったと思っている。あの日がなかったら、私は一生心に鉛色の重りをつけたまま生きていくことになったであろう。いやひょっとするとまたカミソリの刃を手首に当てることになっていたかもしれない。


 あれから5年が経った。私はM子ちゃんの命日には毎年欠かさずM子ちゃんのお墓に参り、霊前にも必ずお線香を上げさせてもらっている。お2人はいつも変わらず、終始言葉少なに私を迎え入れては、また送り出して下さる。特に恨みごとを言われたこともない。ただ、許しの言葉はまだない。恐らく一生その言葉を耳にすることはないのかもしれない。来る年も来る年も同じように静かな会釈が交わされることであろう。

 新しく生まれた女の子も今では丁度M子ちゃんと同じくらいの年になり、差し上げた熊のぬいぐるみを抱えて愛敬を振りまいていた。私はこのまま時間が5年前に戻って欲しいと願った。今目の前にいる女の子がM子ちゃんで、そして何事もなかったように平和な夕飯の時間が訪れ、談笑の声が聞こえる。

私も自分の家に戻り、夫と息子の3人で温かいシチューを分けて…。

 その頃からであった。私はようやく鬼子の夢から解放されるようになった。息子は鬼子などではなかったのかもしれない、本当は心根の優しい人間の子であったのではないか。それがどうしてあのようなことをしてしまったのか、本当のところは今でもよく分からない。

 私は、今年の春からカウンセリングを始めた。いつどこで生まれるか分からない鬼子の母のために。

 今日も全国から多くの電話がかかってくる。私は目の前にある息子の写真を見ながら、受話器を取り上げた。

「はい、こちらは全国少年犯罪加害者家族の会です。」

(了)

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