鬼母の子

ツジセイゴウ

第1話 鬼母の子 (児童虐待)

自身の親の墓に参らない子供などそう多くはないであろう。余程の事情がない限り、1年に1度や2度は親の墓参りはするはずのものである。しかし、その数少ない子供がここにいる。思い出すだけでも忌まわしいあの顔。あの顔を思い出すたびに夜中にうなされる。決して思い出したくないあの顔。しかし、私はこの悪夢のような思い出を一生背負って生きてゆかなければならない。なぜなら私は鬼母の子だからである。


思い返せば8年前、まだ私が小学校4年生の時のことだった。窓の外を吹く木枯らしの音がいつになく大きく聞こえる晩秋の夕暮れ時だった。母は、いつものように夕飯の支度をしていた。今日は寒いからシチューにしようねと言って、いつもより早く支度を始めた。

シチューは私の一番好きなメニューであった。大きな鍋のふたを開けた時に広がる湯気が楽しみで、いつもふたを開けるのは私の当番であった。妹の亜里沙もシチューが好きだった。熱いから火傷するよと言っていつも母がフーフーと息をかけてやっていたのをよく覚えている。

父はいつも帰りが遅かった。普段は滅多に一緒に夕飯は食べなかったが、何故かシチューの日だけはいつも早く帰ってきてくれた。シチューは皆揃って食べた方がおいしいと父は常々言っていた。でも、本当のところは自分が一番食べたかったのかもしれない。

妹の亜里沙は4歳。来年から保育園に入園するとかで、もう幼児向けの英会話ソフトなんか買ってきて、家族揃って大変な力の入れようであった。私の学校の成績があまりよくなかったので、妹の亜里沙の方に期待していたのかもしれない。

秋の短い日が暮れかかり、キッチンの窓に赤々とした夕陽が映え始めた頃、鍋の支度を終えた母は、エプロンを外しながら居間に入ってきた。

「ほら、亜里沙。お勉強は。今日はまだでしょう。」

 英会話のテープなんかそっちのけで、一心にテレビを見ていた妹に対して、母はため息混じりに話しかけた。考えてみれば4歳の子供にお勉強も何もあったものではない。妹は、まるで聞こえないふりをしてテレビに集中していた。

「ねえ、朋美、あんたも宿題なさい。あんたはお姉ちゃんなんだから、いちいち言われなくてもちゃんとなさい。」

 とんだとばっちりであった。いつものことである。何かあれば、すぐに「お姉ちゃんなんだから。」である。つくづく姉というのは損な立場だと思った。しかし、今にして思えば、皮肉にも姉であったがために、そう姉であったというだけで、妹とは天と地ほどに運命を分けることになってしまったのである。

「はーい。」

 私は、渋々重い腰を上げて、2階の勉強部屋へ上がろうとした、その時。

 居間の電話の呼鈴が鳴った。私は一瞬父であろうかと思った。そう今日はシチューの日。あのシチュー好きの父のことだから、もう家の近くまで帰ってきているのかもしれない。私は、うきうきした心持ちで、電話に出る母の背中に擦り寄って聞き耳を立てた。

「はーい。」

 電話に出た母の声も心なしか軽々しかった。しかし…。受話器の口から聞こえた声は父のものではなかった。よくは分からないが、何かとても興奮した声が受話器の外にまで漏れ聞こえてきた。

「えっ。」

 一瞬、母はそう言ったような気がした。そして、その声を境に母は完全に黙り込んでしまった。何が起こったのか、私には一向に見当がつかなかった。ただ、何となくとても嫌な予感がしたことだけは、今でも鮮明に覚えている。

時折、「はい」を繰り返す以外、母は何もしゃべらなかった。ただ、ひたすら「はい」を繰り返す母の表情は、電話の声に同調するかのように、次第に固く険しくなっていった。

「はい、聖マリアンナ病院ですね。はい、すぐに。」

 ようやく、電話が終わった。受話器を置いた母の手は微かに震えていた。

「朋美、お父さんが、お父さんがね。交通事故で病院に運ばれたらしいの。」

 その一言を発した瞬間、母は緊張の糸が切れたようにヘナヘナとその場にへたり込んだ。

「ねえ、お母さん、お母さん、しっかりして。お父さんは、どんな具合なの。」

 私は、母の様子から幼心にも何か大変なことが起きていると感じ取ったのであろう。母の腕を揺さぶって声を張り上げた。1人、妹だけが何のことかすら理解できず、ケラケラとテレビに向かって笑っていた。


 支度を済ませた母は取るものも取り合えず、私たち2人を連れて表に出た。外はすっかり日が暮れて、わずかに地平線のかなたに沈んだ夕陽の残光が赤々と輝くのが見えた。小春日和だった昼間に比べるとグッと気温も下がり、寒い木枯らしの風が私たちの不安を一層駆り立てた。

「ねえ、どこへ行くの。」

 母に手を引かれた妹の亜里沙は、いつも大事にしていた犬のぬいぐるみを小脇に抱えて、よちよちと歩いた。たまりかねた母は、妹を背負うと足早に駅へと向かった。私も遅れまいと息を切らせて後に続いた。

 駅前は、通勤帰りの人たちで混雑が始まっていた。私は、父がひょっこりと改札から出て来るのではないか、あの電話はイタズラで父は本当はもう駅に着いているのではないか、と思い、キョロキョロと父の姿を追い求めていた。無論父はいなかった。

駅からタクシーに乗り込んだ私たちは、一路聖マリアンナ病院へと向かった。

「お願いです。急いでください。」

 母は幾度となくタクシーの運転手にせっついた。いつもなら20分ほどの道程が、日暮れ時の渋滞で車は一向に前に進まなかった。母は、焦燥感からか、痛いほどに私の手をギュッと握り締めた。汗でネットリとした母の手が、ただ事ではないことを私に伝えてきた。私は、乾き切った喉をゴクリと鳴らした。

 1時間弱かかり、タクシーはようやく病院のエントランスに入った。とっくに診療時間の終わった病院の廊下は薄暗く、所々に輝く緑色の非常口のサインだけがやけに目に付いた。看護師の指示に従い、私たちは救急病棟へと急ぐ。

 廊下に数人の男の人たちが立って話をしていたので、すぐにそれと分かった。会社の人たちであった。

「奥様でいらっしゃいますか。こちらです。」

 男たちの中の1人が恭しくお辞儀をして、私たちを病室の中へと案内した。私たちは病室の入り口に立ちすくんだ。ベッドの上には変わり果てた父の姿があった。酸素吸入器や点滴の管が縦横に走り、心電図のモニターだけが異様に大きく室内に響いていた。一見して、父の意識がないことは分かった。私たちは恐る恐るベッドの脇に進むと、父の顔を覗き込んだ。包帯がグルグル巻かれていて、父だかどうか判別できない。頭が異様にはれ上がり、ところどころ薄っすらと血が滲んでいる。父だと言われれば、そのように見える。別人と言われれば、そのようにも見える。

 母は、見ていられなくなったのか、口に手を当てて目を逸らした。私は不思議と怖いという感じがしなかった。今目の前に見えている光景をハッキリと理解していなかったのかもしれない。これが何を意味し、そしてこれから何が起こるのかも、分かっていなかったのである。

 その時、入り口脇に控えていた医師がそっと母に目配せし、廊下に出るように促した。母は、私にここにいるようにと指示すると、医師の後に続いた。

「ママ。」

「ダメよ。ママは先生と大事なお話があるの。」

 妹が母の後を追おうとしたので、私が妹の手を掴んでそれを制した。本当のことを言うと、自分が一番母の傍にいたかったのだが、お姉さんぶって妹をたしなめたのであった。

 程なく、廊下から母の号泣する声が聞こえてきた。その声に私はビクンと反応した。小学校4年生、もう母の号泣の意味が分からない年齢でもない。同時に、私の目からは突然止め処もなく大量の涙が溢れ出始めた。1人、妹だけが犬のぬいぐるみをおもちゃにして遊んでいた。

その夜、父は意識が戻らないまま帰らぬ人となった。後で聞いた話であるが、父はほとんど即死状態だったらしい。営業活動の途中で無免許の高校生が運転する暴走車に跳ねられ、病院に担ぎ込まれた時は既に手がつけられない状態だったのだそうだ。加害者の高校生はそのまま逮捕されたらしいが、その後本人からも、その親からもついに見舞いの一言もなかった。


「南無大師遍上金剛、南無大師遍上金剛…」

 葬祭場に読経の声が響く。祭壇には、白い菊の花に飾られた父の遺影があった。憔悴し切った母は叔父の介添えを受けてやっとのことで立っていた。私はというと、まだ父の死が受け入れられず、放心状態で最前列の親族席に座っていた。

 会葬者の焼香が次々と進んでいく。祭壇の前ですすり泣く人もいれば、形だけの合掌をする人もいる。私は、頭の中が真っ白になったまま、空ろな視線を天井の方に向けていた。不思議と涙は出なかった。

「パパ、どうしてそんな所にいるの。パパ、パパ。」

 時折、妹の声が葬祭場に響く。その声が響く度に、葬祭場の中にすすり泣く声が漏れた。葬儀は1時間ほどであっけなく終わった。人一人が死んだのである。こんな簡単でいいのだろうか。私は、幼いながらも奇妙な憤りを覚えた。

 会葬者が三々五々引き上げた後、親族の控えの間で母を囲んで親類縁者の会議が始まった。夜の十時を回ろうというのに延々と密談は続いている。子供は中に入れてはもらえなかったが、わずかに開いた扉の隙間から時折母の号泣する声が漏れ聞こえてきた。

 後で聞いた話ではあるが、この時、母と叔父夫婦はどうやら私と妹の亜里沙のことを話していたらしい。父が死んで、母1人に幼子2人、どう見ても女手一つで育てていくのは難しかった。幸か不幸が、叔父夫婦は子宝に恵まれなかったこともあり、叔父たちにとってはある意味父の死は格好のチャンスであったのかもしれない。叔父たちは私たちを引き取りたいと申し出たのだそうだ。

 人の不幸を顧みず、それも当の本人の葬儀の日に何もそんな話をしなくてもいいものを。無論、母は即座に謝絶の返事をしたらしいが、叔父たちは簡単には諦めず、結局葬祭場の係員に促されてようやく叔父夫婦と母の長話は終了した。しかし、今にして思えば、あの時母が素直に叔父夫婦の申し出を受けてくれていたら、少なくともあの悲劇はなかったかもしれない。そのことが未だに悔やまれてならない。


 四十九日の法要を過ぎる頃、それまで死人のような顔であった母の表情にも次第に生気が戻り始めた。父の突然の死による傷跡はそう簡単には癒えるものではないが、母にしてみれば早く立ち直ることで悲しみを消し去ろうとしていたのかもしれない。

「ねえ、朋美。ママ、働きに出てもいいかしら。」

 母は突然、働きに出ることについて私の同意を求めてきた。と言われても、10歳だった私にその是非の判断は出来なかった。ただ、ボンヤリと家計が大変なんだろうなあということくらいは何となく想像ができた。

 母の話では、駅前のスーパーでレジ打ちのパートタイマーを募集しているとのことであった。時給は大した額にもならなかったようであるが、加害者からの損害賠償に多くを期待出来ない以上、たとえわずかな収入でも家計の足しになるとの思いからだったらしい。

「朋美はもうすぐ5年生だから、少しは家のことお手伝いしてくれるよね。」

母は、少し済まなさそうに言った。私は、この時、まだそのお手伝いとやらがどれほど大変なものになるのか想像も出来ず、黙ってコクリと頷いた。

掃除や洗濯、食器洗いくらいなら、今時ほとんど機械がやってくれるので、私でも何とかなる。ただ、一番厄介なお荷物については、果たして私の手に負えるのか心配であった。亜里沙である。亜里沙はまだ4歳。父が死んだことも明確には理解していない。未だに、パパはいつ帰ってくるのかと時折駄々をこねる。私は、亜里沙の方にチラリと視線を向けた。

「亜里沙のことは心配しないで。三月からは保育園に入園させるし、朝送っていって、仕事帰りに迎えに行けば何とかなる。だから朋美は心配しないで、きっちり学校に行けばいいわ。」

 母は、私の不安を見透かしたかのように回答を用意していた。私はこの時、母の言葉に何の疑問も抱かなかった。そう、亜里沙はもうすぐ保育園に上がる。私が心配することではない。亜里沙のお守りは保育園の先生がしてくれる。私の学校でのお勉強には障りはない。私はそう判断した。

 しかし、この判断が甘かった。子供であった私には、不測の事態もありうるという考えに及びもしなかった。そして、その不測の事態の度重なりが亜里沙の運命をも大きく変えていくことになる。

「ママ、大丈夫。まかせて。シチューだったら1人でも作れるわ。」

 私は、母に心配をかけまいとして、胸を張って見せた。

「そっかー。朋美はもうシチュー作れるんだ。よーし、今夜はシチューにしようか。」

「わーい。シチューだ、シチュー。」

 私は、飛び跳ねて喜んだ。そう言えば、父が亡くなってからしばらくシチューというメニューが我が家の食卓に並んだことはなかった。父の死を思い出させる悲しいメニューとして、我が家のレシピからいつの間にか消されてしまっていたのである。


 3月が来た。亜里沙は保育園に入り、母は駅前のスーパーに働きに出始めた。毎朝9時に亜里沙を保育園に送って行き、3時には迎えに行く。最初はむずかっていた亜里沙も、すぐにご機嫌で毎日保育園に通うようになった。私も頑張った。朝は掃除に洗濯、学校から帰って来てからはお遣いやら夕飯の支度の手伝いもした。母も、いつも助かるわと言って褒めてくれた。

そんな楽しい日々か半年も続き、3人ともいつしか父の死を意識することすらなくなりかけていた。しかし、悪夢の芽はすでに出かかっていたのである。

「ねえ。パパは。パパはいつになったら帰って来るの。」

 ある日、唐突に亜里沙が父のことを話し出した。

「パパはね、お仕事があって遠い所に行っているの。すぐには帰って来れないの。」

 父のことを尋ねられて母の顔に一瞬暗い影が射したように見えた。

「今度ね、保育園のお絵描きでパパの絵を描くの。パパ、早く帰って来ないかな。」

 最悪のタイミングであった。私はいつも嫌だと思っていた。最近では父親のいない家庭も多いのに、どうして父親参観だの、父親の絵だの、父親の作文だのという宿題が出されるのか。父親のいない子の身にもなって欲しいものである。

「パパはね、パパはね…」

 母の目に涙が溢れ始めた。

「パパはね、死んじゃったの。もう帰って来ないの。」

 亜里沙は一瞬キョトンとして、母の顔を覗き込んだ。大きく開いた円らな瞳は瞬き1つせず、じっと母の顔を見つめていた。この瞬間、亜里沙はどうやら事態を少し飲み込み出したように見えた。その恐ろしい結論を頭ではなく身体で感じ取るかのように、ヒクヒクと肩を震わせた。

「ウソ、パパは帰ってくる。パパは明日帰ってくる。」

 亜里沙の目からポロポロと涙が零れ落ちた。

 この日を境に、母の顔から次第に生気が薄れ始め、母は時折大きなため息をつくようになった。父の死の重さを実感したのか、それとも仕事と家庭の負担が知らず知らずのうちに母の肩に重く圧し掛かり始めていたのか、とにかく母の表情には明らかに疲れの色が見え始めた。

 それに呼応するかのように、亜里沙のわがままも増幅していった。それまでの亜里沙はどちらかと言えば、大人しいあまり手の掛からない子であった。時折、私と姉妹ゲンカをすることもあったが、歳が少し離れていたこともあり、そもそもあまりケンカにもならなかった。ところが、父が本当にもう帰って来ないと分かってから、時として年齢が逆戻りしているのではないかと思わせるほどむずかるようになった。

 私がふとそんなことを感じたその日から半月ほど経ったある日のこと。

「亜里沙、また残したの。キチンと食べなさい。」

 その日の亜里沙はいつも以上にグズグズと夕食を食べていた。食べ始めてもう三10分になろうかというのに、わずかに残ったポテトサラダを目の前にして、ジュースばかり飲んでいた。私なら一口で片付きそうなサラダを、スプーンで何度もかき回してグチャグチャにしては、少しずつ口に運ぶ。傍目に見ても嫌々ながら食べているのが分かった。

「お芋さん、キーライ。お芋さん、あっちに行け。」

 亜里沙は、手にしたスプーンの背の方で、ポテトサラダをお皿の隅に押しやった。その時である。バンとテーブルをたたく大きな音がした。

「亜里沙、いい加減にしなさい。もうご飯作ってあげないから。」

 あんな怖い母の顔を見たのは初めてだった。いつもは温厚な母の顔が、この時は少し強張っているように見えた。亜里沙は一瞬何が起きたのか分からなかったかのようにキョトンとした表情をして見せたが、叱られたというのが分かった途端、大声を上げて泣き始めた。

 母は、そんな亜里沙を無視するかのように後片付けを始めた。亜里沙が食べ残したサラダをディスポーザーに流し込むと、黙ってごしごしと食器を洗い始めた。亜里沙は相変わらずエーンエーンと声を上げて泣いている。私は、そっと亜里沙の手を引いて、居間に移った。

「亜里沙、ダメよ。ママ、お仕事で疲れてるんだから。いい子にしてなきゃ。」

 亜里沙は泣きじゃくりながらコクリと頷いた。

 片付けを終えた母は、私たち2人を無視するかのように洗濯物をたたみ始めた。いつもならば、亜里沙と一緒にお風呂に入るところが、今日はそんな素振りすら見えない。母は、まだ怒っているのだろうか。私は、仕方なく、亜里沙を連れてお風呂に入ることにした。

 先程まであんなに泣きじゃくっていた亜里沙も、私とお風呂に入った途端ケロッとしてアヒルのおもちゃを湯船に浮かべてはしゃいでいた。私の不安は、無邪気な亜里沙の笑顔でかき消された。結局、その日母とは一言も口を聞かないまま寝床に入った。一晩寝れば、そして明日が来れば、母の怒りも解けているだろう。何事もなかったかのように、また笑顔で私たちを起こしてくれるだろう。そんなことをつらつら考えているうちに、私はいつの間にか夢の世界へと落ちていった。


 翌朝、昨日何もなかったかのようにいつもの朝が始まった。母はいつも通り起きて、朝食の準備に洗濯にと、いつもと同じような段取りでテキパキと進めていく。でも、その顔にはどことなく疲れの色が見えた。どこが、と言われても、ハッキリとは分からない。でも、どこかがいつもと違っていた。母は、昨晩のことをまだ怒っているのだろうか。でも、亜里沙にはいつもと同じように話しかけているし、何が違うのか分からなかった。

 私が朝食を食べ終わる頃、母は徐に口を開いた。

「ねえ、朋美、お願いがあるんだけど。」

「なーに。」

「今日、保育園に亜里沙を迎えに行ってくれない。」

 私は、突然の頼まれごとにビックリしてすぐには返事が出来なかった。亜里沙の送り迎えはこれまでずっと母がやってきていたし、もちろん初めての経験である。保育園は学校と同じ方角であったし、無理にと言われれば出来ない相談でもない。ただ、放課後にクラスメートの友達と遊べないのが少し気にはなった。私が、黙っているのを確認した母は、仕方なく事情を話した。

「ママね、今度フロア主任に選ばれたの。主任になるとお給与は上がるんだけど、夕方の会議に出なくちゃいけないの。それで亜里沙を。」

「へえー、すごい。ママ。主任さんって偉いんでしょう。」

 私は、ようやく母のお願いの理由が分かった。と同時に、このところの母の疲れたような表情の意味も分かったような気がした。後で知った話ではあるが、スーパーのレジパートさんも仕事ぶりがよければ給与や資格が上がるのだそうだ。母は、きっと一生懸命仕事をして、それで認められて主任になったんだ。よくは分からなかったが、子供心にも母が偉いなあと感心もした。

「保育園の先生にはママからもよく言っておくから。3時ごろに迎えに行ってくれる。」

「うん、分かった。」

 私は母の依頼を引き受けた。保育園に行って亜里沙を引き取ってくる、別に難しい話でもない。

「会議はそんなに頻繁にあるわけじゃあないし、明日はママが行くから。」

 私は、その言葉を信じた。でも、それが甘かった。こんな些細なことが、こんなちょっとしたことが、母と亜里沙の関係に目に見えない亀裂を走らせたのである。

 その日の午後、学校の授業が終わった私は、保育園が終わる時間を見計らって学校を出た。学校から保育園までは私の足でも10分足らずである。私が保育園に着く頃、ゲートの前は迎えの親たちで一杯になっていた。ブルーとピンクの制服に身を包んだ園児たちが次々に元気よく飛び出してくると、それぞれ自分の親と手を取り合って帰っていく。

 私は、キョロキョロして亜里沙の姿を探し求めた。皆同じ色の制服を着て、同じくらいの年恰好である。いつも見慣れている亜里沙がすぐには分からなかった。ようやくゲートの片隅に1人立っている亜里沙を見つけた。

「亜里沙。」

 私は、駆け寄って亜里沙に声を掛けたか、亜里沙は最初誰だか分からなかったようである。当然のように母の姿を待っていた亜里沙にとって、一回り小さい私が迎えに来たので少し驚いたようであった。

「お、お姉ちゃん。」

 ようやく私と分かって、亜里沙はニコリと笑った。

「朋美ちゃんね。ママから聞いてるわ。ご苦労さま。」

 保育園の先生が声を掛けてくれた。

「亜里沙ちゃん。よかったわねー。今日はお姉ちゃんと一緒。」

 先生は、黄色い帽子を被った亜里沙の頭を優しく撫でた。私は、軽く会釈をすると、亜里沙の手を引いて歩き始めた。

「ママはどうしたの。」

 歩きながら亜里沙が私を見上げて尋ねてきた。どうやら母は、今日私が迎えに来ることを亜里沙に話していなかったようである。亜里沙がむずかってもいけないし、どの道私が来るのだから敢えて話す必要もなかったのかもしれない。

「ママはね、ちょっとお仕事があって。それでお姉ちゃんが代わりに来たの。」

「ふーん。」

 分かっているのかいないのか、亜里沙は生半可な相槌を打った。その直後である。

「ママ、亜里沙のこと、キライになったのかなー。」

 私はドキリとした。子供は敏感である。油断も隙もない。私の脳裏に昨日の出来事がよぎった。亜里沙は昨日叱られたことをまだ覚えていたのである。そして、そのことと今日のことを関連付けようとしていた。

「そんなことないわ。ママはお仕事があって・・。ホントよ。」

 私は、慌てて亜里沙の話を打ち消した。しかし、そんなことは亜里沙に通用しなかった。その後、家に着くまで亜里沙は一言も話をしなかった。唯一、私の手を握りしめる亜里沙の手の力だけがひしひしと私の指に伝わってきた。

 その日の夕刻、5時頃に母は帰ってきた。

「ただいまー。ごめんね、朋美。会議が長引いて。」

 母は、いつもと違うブルーのスーツを着ていた。主任ともなると着るものにまで気を遣うのかなと思った。

「亜里沙は?」

 母は、亜里沙の姿を探し求めた。いつもなら一番に玄関にしゃしゃり出ていく亜里沙が今日は1人で犬のぬいぐるみと遊んでいた。母の声が聞こえないはずはない。私は、母の顔に向かってゆっくり頷いて見せた。母も、事態を理解したのか、そっと亜里沙の脇に近づいた。

「ごめんねー、亜里沙。今日迎えに行けなくて。ママねー。」

 母は、今日迎えに行けなかったことを弁解しようとしたが、亜里沙は犬のぬいぐるみを抱いたまま、プイッと背中を向けてしまった。何となく気まずい空気がリビングに流れ、母は仕方なく着替えに立った。

 反抗期。私は亜里沙の行動を単純にそのように理解した。自分にも身に覚えがあった。4歳から5歳位の頃、母の気を引こうとしてわざとむずかったり、時には無視してみたりと、我ままのし放題であった。それでも夜になると、結局は母の懐で眠ったものである。しかし、今の亜里沙と母の関係は少し違うような気がした。何かは分からない。でも、自分が経験したのとは違う何かが、2人の間を引き裂き始めていた。

その日の夜のメニューはハンバーグであった。ハンバーグは2人の大好物であった。それを知った上で、母は主任へ昇格したその日にこのメニューを作ってくれた。今日は母の昇格祝いの夕飯になるはずであった。ところが・・・

「亜里沙、どうしたの。もう食べないの。」

 昨日の続きが始まった。亜里沙はお皿の上で、ハンバーグを細切れにしてグチャグチャに掻き回していた。食欲があるのかないのか、それとも単なる我わがままなのか、スプーンを幾度となくこねくり回していた。母のこめかみが僅かにひくついているのが見えた。

「亜里沙、いい加減になさい。ママ、怒るわよ。」

 しかし、亜里沙は止めなかった。

「ママなんか嫌い。ママなんかあっち行け。」

 亜里沙は、細かく切り刻んだハンバーグをスプーンの端で弾き飛ばし始めた。1つ、また1つとハンバーグの破片がテーブルクロスの上に飛び散っていく。洗ったばかりのテーブルクロスにハンバーグの黒い煮汁がしみ込み始めた。

「亜里沙、ダメよ。」

 私が亜里沙に注意しようとしたが、遅かった。私の目の前で初めての恐ろしい出来事が起きてしまった。思い出したくもないあの瞬間。私は、一瞬何が起こったのか分からなかった。気がついた時、亜里沙のハンバーグの皿は床の上に転げ落ち、亜里沙は火が点いたように泣きわめいていた。その亜里沙の口元からはわずかに血が滲み出ていた。母が初めて亜里沙をぶった瞬間であった。

 母は、繰り返し肩で息をしていた。あの時の母の形相は尋常ではなかった。目は血走り、髪は乱れ、眉間に刻まれた皺が一層濃くなったように見えた。私は、あまりの怖さに両の手を胸の前にギュッと押し縮めて、じっと母をにらみつけていた。

「ご、ごめんね。亜里沙。ごめんね。痛かったでしょう。」

 しばらく放心状態だった母も、ようやく我に帰ったのか、自分がしてしまったことに気付いて、亜里沙をギュッと胸の中に抱きかかえた。亜里沙は、母の胸に顔を押し付けて一頻り泣いていた。純白の母のエプロンに僅かに赤いしみが付いた。

 その日の夜、私はなかなか寝付けなかった。怒った母の顔、そしてぶたれた亜里沙の顔が目に焼きついて、ますます私の目を冴えさせた。何時ごろだかよく覚えていない。多分真夜中を少し過ぎる頃だったのだろう。私はようやく浅い眠りについた。

私は夢を見ていた。夢の中の私は風邪でも引いたのか高い熱にうなされていた。何故だかものすごく寒い、そして息も苦しかった。そんな私を母が優しく看病してくれていた。寝ている私の真上から覗き込むようにしている母の笑顔が目に入った。

「ママ、ありがとう。」

 そう呟こうとした瞬間、私は世にも恐ろしい光景を目の当たりにした。優しく微笑んでいたはずの母の口はいつの間にか大きく裂け、目は釣り上がって爛々と輝き、そして大きく開かれた口から蛇のように長くてくねくねした舌が伸びてきて…、

「キャー。」

 私は、大声を上げて飛び起きた。鬼だ、間違いない。鬼がママに乗り移ったのだ。パジャマの中はねっとりとした寝汗が噴出し、心臓は止まりそうなほどにドクドクと音を立てた。

「ど、どうしたの、朋美。大丈夫?」

 すぐに、隣の部屋で寝ていた母が起きてきた。私は余程大きな声を出したらしい。

「うん、何か、とっても怖い夢を見てたわ。」

「どんな夢?」

 私は、尋ねられて再度ドキリとした。今目の前にいるのは、本当に母なのか。ひょっとして、あの口の中で、蛇のような長い舌を巻き直しているのではないか。私は思わず目を凝らして母の顔を凝視した。

「どうしたの、そんな怖い顔をして。」

 私は、余程繁々と母の顔を見ていたらしい。まさか、母に口を開けて見てとも言えず、黙って俯いていた。

「ごめんね。私が亜里沙をぶったりしたから。」

 母は、そう言いながらそっと私に布団を掛けてくれた。大きくて温かい母の手が凍りついた私の手を優しく包んでくれた。私は、ようやく深い眠りについた。


 それから数日は何事もなく過ぎた。母も、亜里沙も何事もなかったかのように普段の生活に戻った。しかし、悪夢は終わっていなかったのである。それどころか母に棲みついた邪悪な鬼は密かにその力を増していたのである。

 その日は、朝から冷たい雨が降っていた。お昼休み、給食を食べ終わった丁度その頃に、携帯電話が鳴った。母からだった。

「もしもし、朋美。ママだけど。悪いけど、今日亜里沙を迎えに行ってくれない。仕事があって、どうしても出られないの。ごめんね。」

 近頃、母の仕事がますます忙しくなり、私もたびたび保育園に亜里沙を迎えに行くようになっていた。先週は半分以上が私の当番だった。私の不満も頂点に達し始めていた。

「ダメよ、ママ。今日は、お掃除当番の日なんだから。」

「そこを何とか。ね、お願い。」

 一方的に電話は切れた。私は、ムカッと来たがぐっと堪えた。母も大変な思いをして働いているんだ、姉として出来ることは何とかしなきゃ。そうは思ってみても、事は予定通りには進まない。やっと掃除を終えて時計を見ると、3時をとっくに回っていた。

 私は、大急ぎでカサをさして降りしきる雨の中を保育園に急いだ。亜里沙はいた。お迎えの行列はとっくに終わり、ただ1人、ポツンと下駄箱の脇の軒下に立っていた。降りしきる雨がピンク色の制服にしみ込み濃い紫色に変色していた。

「ああよかった。朋美ちゃん、ご苦労さま。今、お家の方に連絡しようとしてたところなの。」

 保育園の先生が、教室の中から出てきた。

「遅くなって、済みませんでした。」

「ううん、うちは一向に構わないけど。朋美ちゃんも大変ね。ホントに偉いわ。」

 私は、先生から優しい言葉を掛けられて、思わず泣いてしまった。亜里沙も、私が来て安心したのか、大声でエーンエーンと泣き始めた。私は、そっと亜里沙の手を引いて雨の中に歩き出した。亜里沙の手は氷のように冷たくなっていた。

 雨は激しく降っていた。家に着くころには、カサを差していても2人ともすっかり濡れてしまった。私は、合鍵を使って家に入った。人気のない家の中は、寒くて薄暗かった。私は、亜里沙の濡れた制服を脱がせると、タオルを取りに風呂場に行った。

「ちょっと待ってね。今拭いてあげるから。」

 私は、亜里沙の髪の毛を拭き、肩から腕、そして脇から背中へとタオルを動かす間に、見てはならないものを見てしまった。亜里沙の脇の下から背中にかけて、五センチ程が赤黒く変色していた。白くて滑らかな亜里沙の肌が、そのアザを一層鮮明に浮き上がらせた。

「亜里沙、どうしたの、これ。痛くなーい。」

 私は、そっと亜里沙のアザの上に手を当てた。冷たい手が、亜里沙の温かい肌に触れ、亜里沙はビクリと動いた。

「ご、ごめーん。冷たかった?」

 私は、亜里沙の背中から手を離すと、お尻から足へとタオルを動かしていった。その時、亜里沙の口から驚愕の言葉が漏れた。

「ママがぶつの。」

「えっ?」

 私は、最初亜里沙の言っていることがよく分からなかった。

「ママがぶったの。」

 亜里沙は同じ言葉を繰り返した。まさか。亜里沙の言葉に私の頭は石膏のように固まっていった。母が、なぜ、あんなに優しかった母がどうしてそんなことを。しかし、次の瞬間、私の脳裏にあの恐ろしい夢の中の怪物か浮かび上がった。母の仮面を被った鬼、あの鬼はやはり夢ではなかったのであろうか。

 私の知らない間に、こんな小さい妹の亜里沙に対して、あの鬼は一体何をしたのか。亜里沙の怪我のあとを見る限り、どう見ても平手でぶって出来るようなアザではなかった。拳骨で殴ったか、あるいは蹴飛ばしたか、されとも突き飛ばされた拍子に何か固いものにでも打ちつけたか、いずれにしても相当痛かったであろう。亜里沙はよく辛抱したものだ。

 私がそんなことを考えている間にも、亜里沙の白い肌に鳥肌が立ってきたのが分かった。

「ご、ごめん。寒かった。お洋服取って来るからね。」

 私は、亜里沙の洋服ダンスから適当に何枚か服を引き出してくると亜里沙に着せてやった。亜里沙はようやくニコリと愛らしい歯を見せた。

 私は、いつものように炊飯器の仕掛けに取り掛かった。亜里沙を迎えに行った日は、母の帰りが5時を過ぎるので、炊飯器の仕掛けは私の役目となった。最近は、母も疲れているのか、そういう日は決まってスーパーでお惣菜を買ってきた。夕方になると、売れ残りのお惣菜が安くなるので持ち帰ってきていたようである。

 私は、腕まくりをして、お米を研ぎ始めた。冷たい水が指にしみるのを辛抱して、グルグルお櫃の中を掻き回す。後は、炊飯器をセットするだけ。私は、手を拭きながらキッチンからリビングに戻って、愕然とした。部屋の片隅で、恐ろしいことが起きていた。

「ママなんか嫌い。ママなんか死んじゃえ。ママなんか嫌い、ママなんか・・」

「な、何してるの、亜里沙。」

 私が注意した時は、もう遅かった。クリーニングから戻ってきたばかりの母のワンピースは無残にも亜里沙が塗りたくったケチャップで真っ赤に染まっていた。いつの間に持ち出したのか、冷蔵庫の中にあったケチャップのチューブは中身が半分くらいなくなっていた。たっぷりとケチャップを吸い込んだワンピースは気持ち悪いほどに毒々しく私は吐きそうになった。一体、亜里沙はどうしてこんなことを。

「ママなんか嫌い、ママなんか死んじゃえ。」

 亜里沙は呪文を唱えるようにブツブツと同じ言葉を繰り返し、ケチャップを洋服の上に撒き散らしていた。

「止めなさい。亜里沙。」

 私は、大慌てで亜里沙の手からケチャップのチューブを取り上げた。エーンエーン、亜里沙は途端に火が点いたように泣きじゃくり始めた。かわいそうに、亜里沙は母から頻繁にぶたれる度に母への恨みを募らせていたのである。

 私の心の衝撃は計り知れないほど大きかった。あの母がどうしてこんなことになってしまったのか。家族3人で力を合わせて父の死を乗り越えたはずであった。しかし、それはほんのひと時の安らぎであった。父を欠いた家庭の崩壊は既に始まっていたのである。

 私はしばらく、ケチャップのチューブを手にしたまま放心状態でリビングの床にへたり込んでいた。一体これからどうなるんだろう、どうすればいいんだろう。止め処もなく涙が溢れ、頭の中が真っ白になった。

 しかし、こんなことをしていられなかった。もしこれがあの鬼に見つかったら…。そう考えただけでもゾッとした。早く、このワンピースをどこかに隠さなきゃ。私は、真っ赤に染まったワンピースを抱えて部屋の中をウロウロした。しかし、時既に遅し。

「ただいまー。ゴメンね、遅くなって。」

 玄関に母の声がした。私は全身から血の気が引いていくのを感じた。私は咄嗟にワンピースをグルグル巻きにすると、リビングの脇のクロゼットの下に突っ込んだ。間一髪、リビングのドアが開いて母が入ってきた。私の心臓は張り裂けんばかりに高鳴った。口の中の全ての唾液が一気に干上がったかのように、喉がカサカサになった。

「ただいまー。ゴメンね。会議が長引いちゃって。」

 そこには、いつもと変わらぬ母の姿があった。私は拍子抜けしてヘナヘナと床にへたり込んだ。

「どうしたの、朋美。そんな怖い顔をして。」

 隠し事は出来ないものである。母は、目敏く私の強張った表情に気付いたようだ。その時、私は、テーブルの上に残されたケチャップのチューブに気付いた。母のワンピースは隠した。でも、ケチャップのチューブまでは間に合わなかった。私は、母に気付かれないようにそっとそのチューブに手を伸ばそうとしたが。

「亜里沙は、どこにいるの。」

 母は、クルリと私の方に向き直った。私は慌てて、伸ばしかけた手を引っ込めたが、間に合わなかった。

「あれ、どうしてこんなところにケチャップが出てるのかしら。」

 母は、怪訝な表情でケチャップのチューブを持ち上げた。万事休す。私は、思わず固く目を閉じた。

「ちょ、ちょっとお料理の下ごしらえをしようと思って。」

 私は、口から出まかせの嘘をついた。しかし、そんな付け焼刃の嘘が通用するはずもない。母は、ケチャップを握ったまま、ゆっくりと部屋の中を見回した。

 ドックンドックン、私の鼓動の音が耳の奥で大きく鳴り響く。その時、私はまたしてもマズイものを見つけてしまった。クローゼットの扉に小さな赤いドットが付いていたのである。万事休す。私は、そっと目を閉じて、頭の中で両手を合わせた。

母は、何かを探すかのように、まだ部屋の中を徘徊していた。そして、ついにその時が来た。石のように固くなっている私の目の前で、母は両手でクローゼットの扉を両脇にドバッと開いた。

「あ、あ、亜里沙、亜里沙はどこにいるの。」

 母の絶叫がリビングの中にこだました。あの時の母の表情は母ではなかった。釣り上がった目、眉間に深く刻まれた皺は般若の面そのものであった。つ、ついに鬼母が姿を現した。

「私がやったの。ぜーんぶ、私がやったの。」

 私は、咄嗟に母の前に立ち塞がった。母は、そんな私を突き飛ばすと、亜里沙を探し求めてリビングから出て行った。しばらくして、2階から亜里沙の悲鳴が聞こえてきた。

「ごめんなさい。ごめんなさい。」

 亜里沙は火が点いたように泣き叫んでいた。母が亜里沙を激しくぶつ音が1階まで届いてきた。

「今日という今日は許さないから。」

 母のお仕置きは執拗に何度も何度も続いた。その度にヒーヒーという亜里沙の泣き声が聞こえてくる。私は、やっとのことで起き上がると、階段を一歩また一歩と2階へ上がっていった。そこには世にも恐ろしい光景が繰り広げられていた。

 母は幼い亜里沙の上に馬乗りになり押さえつけて折檻していた。亜里沙の頬はぶたれたときに流れ出たと思われる鼻血で真っ赤に染まっていた。母は、亜里沙の下半身を丸裸にすると、その小さくて柔らかいお尻に何度となくビンタを打ち下ろしていた。

「ごめんなさい。ごめんなさい。もうしないから、ごめ…」

 亜里沙のお尻はピンク色から赤色へと変色し、不気味に腫れ上がり始めていた。

「やめてー。」

 私は、咄嗟に母の手にむしゃぶりついた。母は、私を振り払ってなおも亜里沙への攻撃を続けようとしたが、私が力任せに母の腕にぶら下がったので、流石の母も腕を上げられなくなった。

 母は、興奮を鎮めるかのようにゼーゼーと肩で息をすると、静かに手を下ろした。と同時に、鬼母の表情は次第に和らぎ、いつもの母の顔に戻っていった。

「今夜は、2人ともご飯なしね。よーく、反省なさい。」

 母は、一言言い残すと1階へと下りて行った。

 私は、まだヒーヒーと泣いている亜里沙の手を引くと、私の部屋に連れて行った。

「亜里沙、大丈夫。痛い?」

 私は、ティッシュペーパーで亜里沙の鼻血を拭いてやった。幸い鼻血はもう止まっていた。しかし、お尻の方は真っ赤に腫れ上がり、見るだけでも痛々しかった。私は、亜里沙にパンツとズボンをそっとはかせてやった。亜里沙の興奮も次第に収まり、ヒーヒーという泣き声もだんだん小さくなっていった。

「亜里沙、どうしてあんなことしたの。」

「分かんない。」

 私は、亜里沙が何故あんなイタズラをしたのかが分からなかった。ただの反抗期とは思えない、激しい怒りと恨みに満ちたイタズラであった。亜里沙自身も、何故自分があんなことをしたのかよく分かっていないようであった。あの鬼母への無言の怒り、そしてどうすることも出来ないやり場のない気持ちが、亜里沙をしてあのような行為に走らせたのかもしれない。母のワンピースを傷つけることで、どうせ適わぬ相手である母に対して、せめてもの抵抗を試みようとしたのかもしれない。

「グーッ。」

 亜里沙のお腹の虫が鳴いた。

「待ってて、ママが寝たら何か食べる物取ってくるから。」

「うん。」

 亜里沙は、また薄っすらと目に涙を浮かべた。その日、亜里沙は結局何も食べないまま、泣き疲れて私の部屋で寝てしまった。あの様子では、とても母と一緒に寝られたものでない。私は、亜里沙と2人で小さい布団を分け合って寝た。一体、これからどうなるんだろう。どうしてこんなことに。私の目も一晩中乾くことはなかった。

「2人とも早く起きなさい。」

 翌朝、母は何事もなかったかのように私たちを起こしに来た。その表情からはすっかり鬼が消え、いつもの母の顔に戻っていた。私は、まだ自分が夢を見ているのではないかと思った。今目の前にいる母は夢の中の母で、本当はあの仮面の下に鬼が潜んでいるのではないか。それとも昨晩の出来事の方が全て夢で、今目の前にいる母が本当の母なのか。倒錯した世界の中で私の頭の中は混乱した。

 しかし、私は自分の寝床の中にいる亜里沙を発見して、昨晩の出来事が夢ではなかったことを改めて確認した。そして、この後母の亜里沙に対する折檻はさらにエスカレートしていくのである。


 その日から数日は何事もなく過ぎた。母は相変わらず時折亜里沙を折檻しているようであったが、まあ通常のしつけと言ってしまえばそうとも取れなくはなく、また少し度か過ぎて虐待に近い行為だと言われればそのようにも見えた。いずれにしても、私たち子供2人ではどうすることもできなかった。

 ただ、不思議と母の折檻は私には向けられなかった。私ももう小学校5年生、背丈も母に近くなってきていた。亜里沙のように簡単にねじ伏せて折檻というわけにもゆかない。それに、何よりも私は母の手伝いもよくしていた。掃除、洗濯、食事の準備、買い物、妹の送り迎え等等、母にはなくてはならない存在となっていた。そんなこともあって、私は母の折檻の対象から外れていたのかもしれない。

 一方の亜里沙は、というとまだ5歳、駄々をこねる以外は母にとっては全くの邪魔な存在であった。亜里沙がいなければ、母の負担はどれほど違っていただろうか。そんなちょっとした差が、姉妹の間に天と地ほどの差を生み出してしまった。

 あの日から1週間ほどが経ったある日のこと、次の事件が起きた。土曜日であった。朝から何となく亜里沙の元気がないのが気になった。また母から折檻されたのだろうか。でも、いつもとは少し様子が違う。顔色もあまりよくなかった。しかし、母はそんなことは一向に気に留める様子もなく、いつもと同じように仕事に出かける準備をしていた。

「ママ、亜里沙が少し変なの。」

 私は、また怒られるのではないかと恐る恐る母に声を掛けた。

「いつもの駄々っ子でしょ。放っておきなさい。」

 母は鏡台に向かって一心に化粧をしていた。私の話など全然耳に入っていなかった。結局、母はそのまま仕事に出てしまった。スーパーは土日の方が忙しい。母も水曜が休みの他はほとんど毎日のように出勤していた。私たちを養っていくには仕方のないことだったのかもしれないが、その分家庭の中のことはドンドン置き去りにされていった。

 お昼になった。亜里沙は相変わらず元気がなかった。昨日の夜のチキンライスの残りを電子レンジで温めてやったが、亜里沙はほとんど食べなかった。仕方なく、私は1人で寂しい昼食を食べた。

「ねえ、亜里沙、お熱測ろうか。」

 私は、少し心配になったので亜里沙の熱を測ることにした。戸棚の薬箱の中から体温計を取り出すと、亜里沙の舌の下にそっと体温計を差し込んだ。

「動いちゃダメよ。」

 亜里沙は黙って頷いた。風邪かもしれない。私にも経験があった。風邪を引いて熱が出ると、本当に起きているだけでもしんどい。今の亜里沙は傍目に見ても辛そうであった。私は、脇から体温計の表示をのぞき込んだ、37.5度。やっぱり熱があった。

 でも体温計の表示はそこでは止まらなかった。38度を超えて、ドンドン上がっていく。38.5度、39度…、私は怖くなってそこで体温計を亜里沙の口から引き抜いてしまった。

「やっぱり熱があるわ。亜里沙、お布団引くから、大人しく寝てようね。」

 亜里沙はもう返事もするのも辛いらしく、黙ってコクリと頷いた。私は、亜里沙の布団を敷くと、そっと毛布を掛けてやった。悪寒がするのか、亜里沙は小さく丸まって少し震えているように見えた。私は心配で堪らなかった。母に電話をしようかなとも思ったが、どうせまともに取り合ってはもらえないだろうと、夕方まで待つことにした。5時過ぎに母が帰ってきた。

「ママ、亜里沙がお熱出して、だいぶ具合が悪そうなの。」

 私は、大慌てで母に亜里沙のことを報告した。母は、急に面倒くさそうな表情に変わり、渋々亜里沙の様子を見に行った。亜里沙の具合は昼過ぎに比べてさらに悪くなっていた。熱が高いのか、顔を真っ赤にして、ハーハーと苦しそうな息をしている。亜里沙の額に手を当てた母は、大したことはないとばかりに立ち上がった。

「風邪ね、薬飲ませた?」

 母は、亜里沙のことをよく見もしないで、薬を飲ませたかと聞いてきた。私は、黙って頷いた。

「それなら大丈夫よ。明日になったら元気になるわ。」

 母は、さっさと寝室から出て行った。私は心配で、心配で堪らなかった。そっと亜里沙の頬に手を当てて、私は飛び上がらんばかりに驚いた。人の身体がこんなに熱くなるものなのだろうかと思うほどに、亜里沙の頬は熱かった。

「亜里沙、大丈夫?」

 私は、亜里沙にそっと尋ねたが、亜里沙は薄目をそっと開けるのが精一杯であった。

「朋美、何してるの。早くいらっしゃい。ご飯よ。」

 一階から母の呼ぶ声がした。私は渋々、亜里沙の傍を離れた。

「亜里沙、大丈夫かなあ。かなり具合悪そうだけど。」

「大丈夫よ。去年も今頃熱出したし。薬飲んだらすぐによくなったわ。」

 母は、スーパーでもらってきたお惣菜の残りをテーブルの上に広げた。私は、亜里沙のことが気になってあまり食が進まなかった。かわいそうな亜里沙。高熱でうなされているのに放ったらかしにされて。母はなぜこうも亜里沙にだけ冷たく当たるのか。私にはあまり何も言わないのに、攻撃の対象はいつも亜里沙であった。

 食事の後、母は風邪薬とジュースを持って亜里沙のところへ行った。

「ダメよ、亜里沙。キチンと薬飲まなきゃ。」

 亜里沙が薬を飲むのを嫌がったのか、母が亜里沙をきつく叱る声が廊下まで聞こえていた。私は、亜里沙のことが心配で、心配で、ちょっとだけでも様子を見ようと寝室の扉に手をかけた。丁度その時母が出てきた。私は、ビクッとして伸ばしかけた手を引っ込めた。別に悪いことをしたわけではない。ただ、妹の様子を覗き見しようとしただけである。

私は、自分でも不思議であった。自分の母親を何故こうも恐れなくてはならないのか。他人ではないのに他人以上に気を遣わなくてはならない。少しでも触れると破裂しそうな、そんな腫れ物に触るような感じがした。

「ダメよ。朋美。風邪が移るから。」

 結局、母は私を中には入れてくれなかった。仕方なく、その夜私は亜里沙の様子を見ることなくそのまま床に着いた。亜里沙は大丈夫だろうか、明日には元気になっているだろうか、そんなことを考えているとなかなか寝付けなかった。しかし、事態は私の気持ちを裏切る方向に動いていた。

 何時ごろだったのだろう。外はまだ暗かった。私は救急車の大きなサイレンの音で目が覚めた。こんな朝早くから、一体あの救急車はどこへ行くのだろう、誰か交通事故でも起こしたのかしら。私はサイレンの音に耳を澄ましてじっとその行方を追った。いつもなら、サイレンの音は徐々に小さく遠ざかっていくのだが今日は違っていた。音はドンドン大きくなり、とうとう家の近くで止まってしまった。私はハッとして飛び起きた。

「済みません、こちらです。」

 母の声と同時に、ドヤドヤと玄関から人が上がってくる声がした。私は咄嗟に亜里沙だと思った。大慌てで廊下に出た私は、恐ろしい光景を目の当たりにした。

 担架に乗せられた亜里沙は一見して普通ではなかった。意識があるようには見えなかった。時折「グエッ」とかいう奇妙な声を上げ、肩の辺りがビクンビクンと波打つように反り返っていた。消防のレスキューの人がしっかり亜里沙の身体を抑えていたにもかかわらず、こんな小さい子供のどこにそんな力があるのかと思わせるほど、亜里沙の身体はねじ上がった。痙攣の発作であった。

「何時頃からですか。」

「よく分かりません。つい先程、変な物音で目を覚ましたら、隣に寝ていたこの子の様子がおかしいので。」

「昨日の夜は何か変わったことは。」

「はい、風邪を引いたのか熱がありましたので、風邪薬を飲ませて・・」

「そうですか、多分インフルエンザでしょう。かなり危険な状態です。」

 レスキュー隊のおじさんは、顔を強張らせながら、亜里沙を乗せた担架をあっという間に外に運び出した。母も大慌てでサンダルを突っかけた。私も靴を履いて外に出たら、亜里沙の担架はもう救急車の中に消え、母がその後に続こうとしていた。

「朋美、あなたは家にいなさい。ママ、亜里沙と一緒に病院に行くから。」

 続いて救急車に乗り込もうとした私を母はギュッと睨んで制した。私だって亜里沙のことが心配である。あのような姿を見てしまった以上なおさらである。でも、私は咄嗟に身を引いた。ここで行くの、行かないのと押し問答してもいられない。亜里沙は一刻も早く病院に運ばれなければならない。私が思案している間にも救急車の後部扉は閉じられ、救急車は未明の街中へと消えていった。

 私は、仕方なく家に入った。パジャマ一枚で表に出ていたことをすっかり忘れていた。冬の朝の身を切るような冷気が体中を刺激した。

「神様、お願いです。亜里沙が元気になりますように。」

 私は両膝を抱え込んで布団の上にうずくまり、組んだ両手の上に額を載せた。止め処もなく涙が溢れ、パジャマの袖口がしっとりと濡れた。私がもう少し気を付けてやっていれば、亜里沙はあんなに苦しそうだったのに。私は、自分が亜里沙に対して何もしてやれなかったことに対する後悔の念に駆られた。

 それにしても憎いのは、あの鬼母。一体あの鬼はどこまで亜里沙を苦しめれば気が済むのか。私の後悔の気持ちは、やがて深い、深い母への恨みの念へと変わっていった。そして、このことが後になって、とんでもない悲劇を巻き起こすことになる。

 昼過ぎ母から電話があった。亜里沙の病名はインフルエンザ脳症。インフルエンザウイルスが脳内に入り込み、その毒素により脳炎を起こす恐ろしい病気である。その時は、まだ子供でもあったし、病名を聞いても何のことかさっぱり分からなかった。ただ、しばらく亜里沙が入院することになったと聞いて、これはただ事ではないなという気がした。

 亜里沙の容態が落ち着いたということで、母は夕方に家に戻ってきた。幸い命には別状はなかったようだが、悪くすると後遺症が残るかもしれないということであった。

「もっと早くお医者さんに診せればよかったのに。」

 私は、その一言が喉まで出かかったが、グッとそれを飲み込んだ。実際、昨晩私は2度にわたって亜里沙が大丈夫かと母に訴えた。母はそれを無視した。それどころか、まるで心配した様子もなかった。やはりあれは鬼母なのであろうか。亜里沙にインフルエンザのウイルスを移し込み、殺害しようとしたのではないか。私は、母に話しかけるのが何となく怖くて、ずっと黙っていた。母もバツが悪かったのか、あるいは亜里沙が入院したことがショックだったのか、ずっと黙りっ放しであった。


 翌日は月曜日。

「朋美、あなたは学校へ行きなさい。ママは今日仕事を休んで亜里沙の様子を見に行ってくるから。」

 さすがの母も今日は仕事を休むと言った。私も、亜里沙のお見舞いに行きたい、会って話もしたいと思った。ただ、亜里沙はまだ重篤な状態でとても口を聞けたものではないとのことであった。家族も言えども「面会謝絶」であった。仕方なく、私は渋々学校に行くことにした。あんなに重い足を引き摺って登校したのは初めてであった。キライな算数の試験を百回も受けに行くような、そんな沈鬱な気持ちで学校に向かった。

 しかし、異変は続く。その日のお昼休み。

「朋美ちゃん、ちょっと職員室まで来てくれるかな。」

 昼休みに担任の佐藤先生が声を掛けてきた。私は咄嗟に亜里沙に何かあったと思った。生徒が職員室に呼ばれる何てことは、余程悪いことをして叱られる時か、そうでなければ家の方で何かとんでもないことでも起きた時くらいである。

 佐藤先生は自分が先に立って廊下を歩いた。私は、心臓がドキドキして喉がカサカサになった。亜里沙のことなら、どうしてここで話をしてくれないのだろう。それとも廊下での立ち話では済まないようなことが起きたのか。ひょっとして亜里沙が…。私の心の中を冷たい風がスーッと通り過ぎていった。

 佐藤先生は、職員室の隣にある応接室のドアを軽くノックすると、自分が先に中に入り、次いで私を招き入れた。そこには、グレーのスーツ姿の女の人が1人ソファに座っていた。先生は早々に私のことをその女の人に紹介した。

「朋美ちゃん、こちら児童相談所の上山さん。ちょっとお話したいことがあるって来られて。」

 私は何だか拍子抜けした。てっきり亜里沙が危篤になったとか、そんな話ではないかとばかり思っていたからである。それにしても「児童相談所」とはどんな所なのだろう。そして、そんな所のひとが何故私なんかに用があるのか。一見すると、30過ぎの少し取っ付き憎そうな感じの人であった。私は、少し不安になって先生の方を顧みた。

「朋美ちゃん、じゃあ後はよろしくね。よくお話をお伺いして。」

 私の不安はさらに増した。どうやら先生は一緒にいてくれないらしい。私1人で、この嫌な感じの女の人と話をしなければならない。一体、この人は私に何の話があるというのか。私が返事をする間もなく、先生は軽く会釈をするとサッサッと応接室から出て行ってしまった。

 私は、その上山さんとかいう女の人と2人っきりでソファに向かい合って座った。私は、緊張して胸をドキドキさせたまま、少し俯き加減に視線を逸らしていた。

「朋美ちゃんって呼んでいいかしら。」

 上山さんとか言う女の人は、少し前に身を乗り出して話しかけてきた。見掛けよりは和らかな声のトーンに、私の不安は少しばかり薄らいだ。どうやらこの人は子供の心を掴むことに長けている人のようである。しかし、その人の次の一言で、私の人生はすっかり狂ってしまうことになる。

「ねえ、あなたのお母さん、最近何か特に変わったことはなーい。」

 私は、最初上山さんが何のことを言っているのか分からなかった。確かに母のことを尋ねられた。しかも特に変わったことはないかと。変わったことがないと言えばウソになる。以前はあんなに優しかった母が、最近は何故かとても冷たく、そして特に妹の亜里沙には辛く当たるようになっていた。でも、一体どうしてこの人がそんなことを尋ねるのだろう。

「実はね、今日城西病院のお医者様から連絡があって。妹の亜里沙ちゃんのことだけど、身体中に殴られたようなアザの痕があるって。それでね、朋美ちゃんなら、何か知ってるんじゃないかなーと思って。」

 上山さんは、何か言いにくそうに遠回しに尋ねてきた。私は、すぐにピーンと来た。この前の雨の日、亜里沙を着替えさせたときに見たあのアザの痕。あれが全身に・・。ひょっとしてあの後も母は私の知らないところでもっともっと亜里沙にひどい折檻を加えていたのであろうか。私は、何と返事をしていいのか分からず黙りこんでしまった。

「やっぱりお母さんね。亜里沙ちゃんに暴力を振るっているのね。」

 上山さんは、今度はズバリと尋ねてきた。

「いえ、違います。そんなんじゃありません。ママは、ただ、ママは、ただ…」

 私の目にはみるみる涙が溢れ始めた。

「朋美ちゃん、お母さんを庇おうとする気持ちはよく分かるわ。でも、これはとても大事なことなの。お母さんは病気なの。分かる? このまま放っておいたら亜里沙ちゃん大変なことになってしまうの。」

 私はすっかり気が動転して声を上げて泣き出してしまった。亜里沙がかわいそうなことくらい誰よりもよく分かっている。と言って、母の幼児虐待を認めろと言われても、十一歳の子供には無理な判断であった。私は、何も答えずただ泣き続けた。

「ちょっと難しい話だけど、あなたももうすぐ6年生なんだし、よーく聞いてね。児童虐待防止法っていう法律があってね、もし虐待を受けている子供がいたら私たちはそれを救済する義務があるの。もし、あなたのお母さんが亜里沙ちゃんを虐待しているのがホントだったら、亜里沙ちゃんを保護しなくちゃならないの。分かる?」

 私は、黙って頷いた。

「じゃあ、もう1度聞くけど、あなたのお母さんが亜里沙ちゃんを殴ったり蹴ったりしたのね。」

 私は、再びワーッと泣き出してしまった。殴ったというのは間違いない。私も見ていた。でも蹴ったというのは少し言い過ぎではないのか。それとも、母は私の知らないところで、亜里沙に対して手だけではなく足まで出していたのであろうか。

 私は、すっかり心のコントロールを失い、止め処もなく取り乱した。上山さんは、さすがに済まないことをしたと思ったのか、最後に私に謝罪した。

「ごめんなさい。辛い思いをさせて。でも、本当にこれはとても大事なことなの。でも、安心して、私たちがきっとあなたたちを守ってあげる。そして以前のように幸せな家庭が戻ってくるようにしてあげるから。」

 私は、その優しい言葉に触れて一層深い慟哭の淵に沈んでいった。その時、午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。上山さんが佐藤先生に事情を話してくれたのであろう、先生は私に保健室で休んでいるようにと言ってくれた。私は、茫然自失のまま、保健室のベッドの上で横になっていた。下校の時間になるまで、私の涙は乾くことはなかった。


 それから1週間後、亜里沙の退院の日が来た。幸い後遺症もなく亜里沙は元気になって病院を出た。しかし、行く先はわが家ではなく、叔父夫婦の家であった。児童相談所によるカウンセリングの結果、一定期間母と妹は別々に暮らした方がいいという判断になった。父が亡くなった時にも話があったとおり、叔父夫婦にしてみればもとより私たちを引き取るつもりでいたため、事は2つ返事で決まった。

 当初は私もということのようであったが、母が私を手放すことを渋ったため、結局私は母とともに残ることになった。私は、少しだけ不安があった。亜里沙がいなくなることで、母の虐待の矛先が私の方に向けられるのではないかという危惧であった。しかし、母と2人きりで暮らすようになって、そんな私の心配はすぐに杞憂に終わった。

 亜里沙がいなくなって不思議と母は落ち着いた。以前のような母に戻り、洗濯や食事の支度もし始めた。やはり、母にとっては亜里沙が大きな負担になっていたようである。分別のつく年頃になっていた私と違って、亜里沙はことの他手間のかかる子であった。反抗期かと思えるほど母によく逆らいもした。そんな亜里沙がいなくなって、母は肩の荷が少し下りたようであった。

 私は、亜里沙がいなくなって随分と寂しい思いもしたが、それでも母の具合がよくなるのであればと辛抱した。亜里沙の方も、最初のうちは家に帰りたいと言って叔父夫婦を困らせたようだが、程なく叔父にもよくなついて、相変わらずのイタズラ振りを発揮しているようだった。私も月に1度は叔父夫婦の家にお泊りに行った。叔父夫婦は、私たちを実の子供のようにかわいがってくれた。

 全てはこれでよかったのだ。母の病気もよくなり、亜里沙も幸せになり、叔父夫婦も喜んでいる。何も言うことはなかった。強いて言えば、父の葬儀の日、あの日に叔父夫婦の申し出の通りにしておけばよかったのかもしれない。そうすれば、亜里沙はこんな辛い思いをしなくて済んだ。やはり女手1つで2人の子供を育てていこうということ自体が無理な話であった。随分と遠回りをしたが、ようやく落ち着くべきところに落ち着いたという気がした。

 しかし、楽しい日々は長続きしなかった。亜里沙が叔父夫婦の家に引き取られて半年と少しが経ったある日のこと、叔父が脳梗塞で倒れてしまったのである。一命は取り留めたものの、重い障害が残り、介護が必要な状態となってしまった。

 再び家族会議が開かれた。叔母は何とかなるからと言って引き続き亜里沙を育てていくことを望んだ。しかし、母は亜里沙を引き取ることを申し出た。自身の体調が大きく改善したこともあったが、これ以上叔父夫婦に負担をかけられないという思いもあった。そして何よりも亜里沙自身が、依然として母を恋しがった。あれだけ、ぶたれて、ひどい目に遭わされても、やはり母は母である。叔父夫婦の家でも時折「ママに会いたい」と言っては、ムズかっていたようである。

 結局、児童相談所の上山さんにも相談乗ってもらい、亜里沙は我が家に戻ってくることになった。最近の母の様子から、もう亜里沙を戻しても心配ないだろうとの結論であった。亜里沙も来年から小学校に上がる。以前よりは落ち着きも出てきて、叔母の話でもこの半年で随分と変わったとのことであった。

 十月の初め、亜里沙は約八ヶ月ぶりに我が家に戻ってきた。あの日の亜里沙のはしゃぎようは大変なものであった。つい半年ほど前まで母に虐待を受けていたことなどすっかり忘れて母に甘えた。母も亜里沙を抱き上げて頬ずりした。母の目には光るものがあった。

亜里沙が戻ってきたのを一番喜んだのは、何を隠そう私自身であった。また妹と一緒に暮らせるようになったことも嬉しかったが、何よりも母と妹の関係が元に戻ったのが嬉しかった。

 母は、その夜、久しぶりにシチューを作ってくれた。大きなシチュー鍋を3人で囲んで歌を歌った。あんな楽しい夕食は本当に久しぶりのことであった。このままこの平和な時間が止まって欲しいと願った。


 亜里沙が家に帰ってきて3ヶ月ほどは何事もなく平和に過ぎた。正月には叔父夫婦も家に来て大勢で賑やかなお正月も過ごした。亜里沙も随分と大人しくなり、イタズラもあまりしなくなった。もうすぐ小学生になる、自分でもお行儀良くしないと、という意識が芽生えてきていたのかもしれない。しかし…、そんな亜里沙の気持ちを踏みにじったのは、ほんのちょっとした出来事であった。

「ママ、お漏らししちゃった。」

 正月も過ぎた、ある寒い朝のこと、亜里沙はお寝小をしてしまった。そんな大きな地図ではなかったが、亜里沙の布団には確かにそれらしい跡がくっきりと付いていた。

「あらあら、夕べは少し寒かったから。寝冷えでもしたのかしら。」

母は一瞬いやな顔をしたが、さして叱ることもなく、さっさと亜里沙のパンツを取り換えし始めた。私にも覚えがあった。私のラストお寝小は小学校に入ってからだったので、あまり偉そうなことは言えないが、あの時は母にひどく叱られたような記憶がある。でも今日の母は不思議なほど静かであった。ニコニコとして亜里沙のパンツを取り換えてやっていた。そんな母の笑顔に私は何故だか微かな不安を覚えた。

次の日も亜里沙はお寝小をした。今度は昨日のより一回り大きかった。母は、その日も特に怒ることもなく淡々と亜里沙のパンツを取り換えた。

しかし、不幸は続くものである。その次の日も、またその次の日も亜里沙はお寝小をした。不思議なことに、お寝小というのは、してはいけない、してはいけないと思えば、思うほど余計にしてしまうものらしい。私の時もしばらく続いたような気がする。

「亜里沙、どうしてお寝小が止まらないんだろうね。」

 5日目の朝、とうとう母は大きなため息を漏らした。亜里沙のパジャマとシーツはこれで4日連続で洗濯されていた。ここまで来るともう根競べである。亜里沙のお寝小が止まるのが早いか、母の堪忍袋の緒が切れるのが早いか、私は朝起きるとヒヤヒヤしながら、母と亜里沙の寝室をのぞきに行った。

「亜里沙、1度お医者様に診てもらおうか。」

「やだ。」

 お医者様と聞いて、亜里沙は即座にしかめっ面になった。私もお医者様はキライだったが、亜里沙も私以上にキライであった。3つの時には、風邪でお医者様に行った際に診察室の中を逃げ回って大変だったらしい。

 結局、その日母は1人でお医者様のところへ行ったらしい。それがいけなかった。夕方、私が学校から帰ってくると、母は疲れたような表情でソファに座り込んでいた。夕陽が西に傾き、リビングの中も薄暗くなり始めていたのに、明かりも点けていなかった。傍らでは、亜里沙が1人犬のぬいぐるみをいじって遊んでいた。私は、いつか体験したような、とても嫌な気持ちの悪い感覚を覚えた。

「どうしたの、こんな暗い部屋で。」

「あっ、朋美、お帰り。」

 母は、ハッとしたように弱弱しい声で返事をした。私は、リビングの明かりを点けた瞬間、ドキリとした。母の表情は明らかに変わっていた。いつか見た顔であった。私は、母の表情から咄嗟に鬼の存在を感じ取った。髪が乱れ、目は空ろになり、化粧も半分ほど落ちたその顔は、いつもの母のものではなかった。

「今日、お医者様に行ってきたの。」

 母は力なく言った。

「心理的なものだろうって。小さい時に何かとても怖い思いをした記憶が残っていて、それが原因で夜中にお漏らししたりすることがあるとか・・」

 いわゆるトラウマというやつである。幼児の時に何かとても怖い思いをし、それが本人も気付かない潜在意識の中にあって、夜寝ている間に突然思い出してお漏らししてしまう。神経質な子供によく見られる症状だそうだ。

「私がいけないんだわ。私が、前にしたことをあの子はまだ覚えていて、それで・・」

 母は、そのことが余程ショックだったらしい。少なくとも表向きは、亜里沙は母によく懐いていたし、怖がる素振りも全く見せることはなかった。ただ、それは本人が忘れているかあるいは隠しているかのどちらかであった。本人自身も気付かない深い、深い心の奥底で、亜里沙は母に対する恐怖心をまだ捨て切れずにいたのである。そのことが、お寝小という目に見える形で表に現われた。

しかも、さらに悪いことには、そのことをお医者様から指摘されたという点であった。これで、母の自信は一気に消え失せた。幼児虐待という暗闇の世界からようやく立ち直り、以前のような平和な暮らしを取り戻したかのように見えた。しかし、それらは全て化粧された世界であったのだ。1度切り裂かれた傷跡は2度と癒えきることはない。表向きはきれいに治ったように見えて、実際は皮膚の下の見えないところでジクジクと膿を溜め込んでいたのである。

この日を境に母の心の闇に潜んでいた鬼が再び姿を現し始めた。


 それから1週間、亜里沙のお寝小は続いた。亜里沙も母の異変を感じ取ったのか急に口数が少なくなった。子供は鋭敏である。母に話しかけられても、うんとかううんとか言うだけで、自分から話をしようとはしなくなった。それどころか、お寝小をしても全く平気な顔で謝りもしなくなった。毎朝布団に地図を書いては、そ知らぬ顔で床から抜け出すようになった。

「亜里沙、お寝小したのなら、ちゃんと言いなさい。」

 母は、毎日大きなため息を漏らすようになった。明るかった家庭に再び暗い影が忍び寄り始めた。そして、母はついに禁断の果実に手を染めてしまった。

 その日の夕方。

「亜里沙、お寝小しないように、いいお薬買ってきたわ。」

 母はいつになく上機嫌で帰ってきた。母が買い物袋から取り出したものは、小さな袋包みだった。お薬というからてっきりビンか何かに入った錠剤だと思っていた私は、最初それが何だか分からなかった。小さいビニールの包みに入ったそれは白っぽい綿のようでもあり、よく見ると綿でもない奇妙なものだった。袋の表には「もぐさ」と書かれてあった。私は初めてもぐさというものを見た。

「薬局のおじさんに聞いたの。お寝小にはこれが一番よく効くって。」

 母は、ようやく亜里沙のお寝小を治す手がかりが見つかったことで、嬉しそうであった。しかし、これが後日とんでもない結果に結びつくことになるのである。

 その日の夜、お風呂上りに、母はお灸の準備を始めた。父の遺影が飾られている仏壇からお線香を一本取り出すと、マッチで火をつけた。私は、初めてお灸というものを見ることになった。お灸が熱いということくらいは聞いて知っていたが、それが本当にどんなに熱いものなのか、体験したこともないので全然想像もつかなかった。

 亜里沙はといえば、まるで何事が始まるのかという風に、興味深げに母の様子を見入っていた。かわいそうな亜里沙。

「さあ、亜里沙、お灸始めようか。」

 母は、亜里沙のパンツをずらした。亜里沙の白いお腹が露わになり、かわいいおへそが丸出しになった。

「この辺かしら。」

 母は、おへその下あたりを軽く押さえながらツボを探した。亜里沙はくすぐったいとばかりキャッキャッと声を上げた。母は、もぐさを1つまみ取ると親指と人差し指の間に挟みグリグリと丸めた。そして亜里沙のお腹の上、おへその下三センチくらいのところに丸めたもぐさを置いた。いよいよ、である。

「ちょっと熱いけど、辛抱するのよ。」

 母は、そっとお線香の火を近づけた。私は、じっとその様子を見てゴクリと生唾を喫飲した。初めて見るお灸である。一体亜里沙はどういう反応をするのか。もぐさに火がつき、白い煙が上がり始めた。直径二ミリほどのゴミみたいなもぐさが赤く輝くのが見えた。その瞬間。

「アツーイ。」

 亜里沙は、反射的にもぐさを手で払った。と同時に、火のついたもぐさが床に転がった。

「あっ、ダメ、亜里沙、じっとしてなきゃ。」

 母は、大慌てでパンパンと平手でもぐさを叩くと火を消した。幸い、もぐさの火はもう消えており床に焦げ跡は残らなかった。亜里沙のお腹にはわずかに赤いポッチがついた。

「さあ亜里沙、もう一遍ね。今度はじっとしてなきゃダメよ。」

母は次のもぐさを1つまみした。

「やだ、お灸キライ。お灸キライ。」

 亜里沙は、転がって起き上がろうとした。母は、そんな亜里沙をグイッと押し倒した。

「ダメよ、亜里沙。またお寝小してもいいの。」

 母は、むずかる亜里沙をもう1度仰向けに押さえつけた。亜里沙は必死になって逃れようと手足をバタバタと動かした。

「朋美、ちょっと亜里沙を押さえてて、危ないから。」

 突然、私にもお鉢が回ってきた。私はとても嫌な気持ちがした。亜里沙がかわいそうな気もしたし、また亜里沙のお腹の上で煙を上げるお灸を見るのも少し怖かった。

「朋美、何してるの、早く。」

 母に急かされて、私は泣く泣く亜里沙の両足を押さえた。これで亜里沙のお寝小が治るのなら、治ってくれるのなら、亜里沙ゴメンね。私は目をギュッとつむって脇を見た。

「熱い、熱い、ヤダ、ヤダー。」

 亜里沙の泣き声と絶叫が聞こえた。

「ほーら、もう済んだわ。」

 母の声でそっと目を開けると、お灸は消えた後だった。亜里沙のお腹の上の赤いポッチは先程よりも濃くなり、ハッキリとお灸の痕が付いていた。亜里沙の肌の白さが余計に赤みを際立たせた。私は、ホッとすると同時に、ゾクッとした。お灸なんて、自分でするのも嫌だけど、人がしているのを見るのはもっと嫌だった。亜里沙は、しばらくヒーヒーと泣きながら、頻りとお灸の痕を指でなぞっていた。

 翌朝、亜里沙のお寝小はピタリと止まった。それまで1週間連続して続いていたお寝小が止まったのである。やはりお灸が効いたのか。私はよかったと思った。少なくとも亜里沙はあんなに熱い目に遭ったのだから、これで効果がなければ最悪である。亜里沙もお寝小をしなかったことで今朝は上機嫌であった。

 その日の夜。

「さあ、亜里沙。今日もお灸してから寝ようね。」

 亜里沙は覚悟を決めていたのか、今日は大人しく仰向けになった。昨日のお灸の痕は赤みが消えて少し色が黒っぽく変色していた。母は、そのポッチを目印に昨日と同じようにもぐさを置くと火を点ける。亜里沙はギュッと目をつむって、耐えていた。私は怖かったのでなるべくお灸の様子は見ないようにしていたが、煙の匂いだけはどうすることもできなかった。

 その次の日も亜里沙はお寝小をしなかった。よかった本当にお灸が効いているのかもしれない。半信半疑だった私もいよいよ真剣にお灸の効力を信じるようになった。しかし、お灸は所詮お灸。心の病までは治すことは出来ない。

「ママ、お漏らししちゃった。」

 お灸を始めて4日目の朝、私たちの期待は裏切られた。その日の朝、亜里沙はまた地図を描いてしまった。しかもたっぷりと。まるて四日分のお寝小をまとめてしたかのような大きな地図であった。

「おかしいわね。昨日はちょっと小さかったからかしら。」

 その日の夜、どうやら母はもぐさの量を増やしたようであった。私は怖くて亜里沙の方を見ていなかったが、煙の量と匂いからいつもと随分違うように感じた。

「熱い、熱い、熱い…」

 亜里沙の泣き声も一段と大きかったような気がする。翌日、やはり亜里沙のお寝小は止まった。しかし、この中途半端な結果がいけなかった。お灸の効力に対する母の信頼感はますます増し、亜里沙がお漏らしする度に、それに比例するかのようにもぐさの大きさも大きくなっていった。そして亜里沙の悲鳴の大きさも。

 亜里沙のお寝小が止まったり止まらなかったり、そんな日が10日ほど続いたある日、私は恐ろしいものを見てしまった。久しぶりに亜里沙と一緒にお風呂に入ったその時、亜里沙の下腹部、おへその下辺りに直径2センチほどの大きなケロイドの痕が出来ていた。最初は蚊が刺したような赤いポッチであったのが、いつの間にかお灸の痕は亜里沙の柔らかい肌を焦がし、ドロドロとした膿を内包して赤黒く腫れ上がっていた。母は、繰り返し、繰り返し、そのケロイド上に新たなもぐさを載せては、火をつけていたのである。

「亜里沙、痛そう。大丈夫?」

 私は、恐る恐るその亜里沙の傷跡にそっと指で触れてみた。ニュルッとした気持ち悪い感触が私の指先に伝わった瞬間、亜里沙はビクンと動いた。

「ゴメン、痛かった。もうお灸は止めようね。お姉ちゃんがママに言ってあげる。」

 亜里沙は黙ってコクリと頷いた。その目には微かに光るものが見えた。

「ママ、亜里沙のお灸の痕かなり具合悪そう。もうお灸よそうよ。」

「ダメ、もうしばらくは。お寝小も少しずつ良くなってるし。」

「でも、見てるだけで痛そう。少し膿んでるみたいだし。」

 母は、そんな私を無視するかのように、せっせとお灸の準備を始めた。

「さあ、亜里沙、今日もお灸しようね。こっちにいらっしゃい。」

「やだ、亜里沙、もうお灸しない。」

 亜里沙は、私からの援軍を得て、きっぱりお灸を拒否した。

「だめよ、亜里沙。わがまま言っちゃ。またお寝小してもいいの。」

「やだ、やだ、やだ。」

 亜里沙はパンツを押さえながら、おへそを両手で抱えるようにして縮こまってしまった。そして、その直後、私は恐ろしい光景を目の当たりにした。

「亜里沙、こっちに来なさい。」

 その一言で、母の表情はガラリと変わった。私は、再び母の顔に鬼を見た。いつか見たのと同じであった。釣り上がった目、眉間に刻まれた深い皺、強張った頬。鬼母は、嫌がる亜里沙を素早く押さえ込むと、あっという間にパンツを取り去った。それは、まるで獲物に襲いかかる獣のような素早さであった。亜里沙は、あの痛々しいケロイド痕を露わにして、完全に仰向けに押さえ込まれた。必死になって逃れようとする亜里沙の両足の上に馬乗りになり、左手でしっかりと上半身を押さえ込んだ。

「ママ、止めて。ママ、ママ。」

 私は、必死になって止めに入ろうとした。鬼母はそんな私を一撃のもとに跳ね飛ばした。私は倒れた弾みにテーブルの角で背中を打ちつけ、息が出来なくなった。目の前が真っ黒になりそうなほどの激痛が背中に走った。そんな中、かろうじて私が目にしたのは、巨大なもぐさが亜里沙のおへその下で赤々と光り輝く光景であった。

「うぎゃー。」

 狼に襲われたうさぎのように、亜里沙は何とも言い表せない断末魔のうめき声を上げた。

「ハア、ハア、ハア。」

 全てが終わり、母は荒々しく肩で息をした。同時に鬼母の表情は徐々に消えていった。


翌日。

「そ、そんな、虐待だなんて。私は、ただお灸がお寝小に効くと聞いただけで。」

 母はそんな弁解口上を申し立てた。居間には叔父夫婦が来ていた。私が、昨日のことで叔父夫婦に相談したのである。叔父夫婦は母の虐待が再び始まったと思ったのか、すぐに飛んできてくれた。叔父は不自由になった身体を押して、杖を突きながらやっとのことで居間までたどりついた。それほどに叔父夫婦は私たちのことを心配してくれていたのである。

 しかし、私の期待は裏切られた。母は昨日のことなどすっかり忘れて笑顔で叔父夫婦と話をしていた。亜里沙も何事もなかったかのように、犬のぬいぐるみと遊んでいた。昨日、まさしく叔母が座っているその場所で、恐ろしい光景が繰り広げられていたことなど、微塵の形勢も残っていなかった。

「じゃあ、そういうことで。あんまり無理しないで、困ったことがあればいつでも相談に来なさいよ。」

「有り難うございます。わざわざお気遣いいただきまして。」

 結局、小1時間ほどで叔父夫婦との話は終わってしまった。叔父夫婦が帰った後、お茶の片づけを済ました母は、ギロリと私の方に邪悪な視線を向けた。

「朋美、あんたね。叔母さんに何て言ったの。」

 私は蛇に睨まれたカエルのように直立不動のまま硬直していた。

「まあ、いいわ。あんまり変なこと言わないでね。あんたも亜里沙と同じお灸してあげようか。」

 私は、背中がゾクッとするのを覚えた。『お灸』という言葉を発した瞬間、母の口角には微かなそして邪悪な笑みがチラリとのぞいたような気がした。

 私は、期待していた叔父夫婦に裏切られたことで絶望の淵に沈んだ。何とかしなければ、何とかしなければ、本当に亜里沙は殺されるかもしれない。その時、私は初めて亜里沙の『死』を真剣に心配し始めた。亜里沙は、母の虐待が祟ったのか、最近食も細ってきていた。そうでなくても華奢な亜里沙の身体がますます痩せ細っていた。

 私は、何か救いの手はないかとインターネットの世界に入り込んだ。キーワード「幼児虐待」と打ち込んで、エンターキーを押し下げる。全部で29万件という数字が出てきた。私は、その数字の大きさに驚いた。こんなにたくさんの人が幼児虐待で苦しんでいる。家だけが特別じゃなかったんだ。この広い日本のどこかで、他にも同じように苦しんでいる人たちが大勢いる。そう思うと、少し安心したような気にもなったが、同時に特別ではないということが心のどこかに引っかかった。

私は、1つ1つ開いては、幼児虐待に関する様々な記事や報告を読んだ。自らの体験談を紹介した記事、幼児虐待の防止を訴える広報、そして専門家による難解なレポート・・。小学校6年生が読むには難し過ぎた。読み方の分からない漢字も一杯あった。

 そんな中で、幼児虐待の原因について説明するレポートにふと私の目が留まった。はっきりとは覚えていないが、どこかの大学か研究機関の論文のようなものであったと思う。

『幼児虐待は、一般的には親が子供を育てられない、いわば育児ノイローゼの一種と見られている。わが国でも、その原因を離婚、経済的困窮等、社会的要因に求める説が有力である。しかし、一方でアメリカでは、その残虐性、猟奇性から、性犯罪の一種と捉える見方もある。強者が弱者を支配下におき、虐げ、苦痛を与えることで性的陶酔を得る、いわゆるサディズムとの類似性を指摘する研究者もある。』

 難しい内容でその意味は良く分からなかったが、なぜか『サディズム』という言葉だけが深く印象に残った。そもそも12歳の私には、性的陶酔とは何かすらも分からなかった。これは、ずっと最近になってから知ったことであるが、この世には他人を虐げ、痛めつけることで性欲を満たす変態的性格の人がいるらしい。

 私は、この時初めて母の行動に病性を見た。やはり、あれは普通ではない。よくは分からないが、母の亜里沙に対する責めはまさにここに書かれたことに酷似していた。そして、その後私はさらにショッキングな一文を目にする。

『この性的幼児虐待は、一時的に良くなったように見えて完全治癒は難しいとされる。何かの事象を契機に繰り返し発生し、最終的には子供を死に至らしめるケースが多い。かかるケースの場合は、早い段階で子供を親から隔離保護することが必要とされる。』

 私は、その一言一句を繰り返し頭に刻み込んだ。完全治癒は難しい、繰り返し発生、そして『死』、それらの言葉が何度となく頭の中をグルグルと巡った。そして、その私の心配を見透かしたかのように、母の亜里沙に対する虐待は、この記事の通りに進んでいく。


翌日の夜。

「ママ、おしっこ。」

 私は、亜里沙の泣きそうな声が耳に入った。私は、おやっと思った。そう言えば、私が学校から帰ってきてからずっと亜里沙がトイレに行くのを見ていなかった。一体どうしたんだろう。おしっこがしたければトイレに行けばいいじゃない。1人で出来ない訳でもないのに、なぜ母におしっこがしたいと言うのであろうか。

「もうちょっと辛抱しなさい。」

「出ちゃう、ママ、出ちゃう。」

 亜里沙は、泣きそうな顔で両足をよじらせた。

「亜里沙、トイレに行けばいいじゃない。」

 私は、亜里沙をトイレに連れて行こうとした。その時。

「ダメ、朋美。訓練なんだから。」

「訓練?」

「そう、おしっこを我慢する訓練。お寝小しちゃうのは我慢が足りないからなの。おしっこを我慢する訓練をすれば、夜中にお漏らしをしないようになるの。」

 私は、変な理屈だなあと思った。お寝小は、夜寝ている間にお漏らしするものだから、いくら練習してもそれで治るとは思えなかった。母はこの異常な理屈をたてに取り、亜里沙をトイレに行かせないようにしていたのである。

「亜里沙、ダメよ。お漏らししたらお灸だからね。分かった。」

 異常であった。母は、訓練と称して、亜里沙をトイレに行かせず、しかもお漏らししたら罰としてお灸をすえるという。狂っている、何かが狂っている。私は、昨日インターネットで見た『サディズム』という言葉を思い出していた。人が苦しむのを見て性的快感を覚える。今の母の表情には微かに陶酔の微笑が感じられた。身をよじって悶える亜里沙を目の前にして鬼は密かに笑っていた。

「ママ、出ちゃう。出ちゃう。」

 その間にも、亜里沙の声はドンドン悲壮感を強めていく。顔は青ざめ、額に薄っすらと脂汗が浮かんでいる。もう限界が近いという風であった。

「ママ、亜里沙があんなに嫌がってるじゃない。どうして、そんな・・。」

 と言い掛けた時、亜里沙はワッと泣き出して、その場にへたり込んだ。しばらくすると、亜里沙のパンツはじんわりと濡れ始め、やがてその形は床にも広がっていった。

「亜里沙、あれだけ辛抱なさいと言ったのに。どうして辛抱できないの。」

 母は、ものすごい形相で亜里沙の濡れたパンツをずり下ろしにかかった。亜里沙は、虎に睨まれた猫のように萎縮し、緊張と恐怖でガタガタと震えた。ほとんど抵抗する力も気力も失した亜里沙は、母のなすがままに下半身を素っ裸にされ、床の上に組み伏された。

「ママ、やめて。」

 私は、見ていられなくなり、傍らから母を突き飛ばした。私ももう小学校6年生、さすがの母も私の力任せの攻撃で床の上に横倒しになった。亜里沙はこの時ばかりと、ゴロリと横に転がって難を逃れた。

「何するの、朋美。」

 獲物に逃げられた母は、攻撃の刃を私の方に向けてきた。その時、私は初めて母に頬をぶたれた。それまで母の攻撃の対象はいつも亜里沙であった。母は決して強い者に手出しはしなかった。虐待されるのは常に妹であった。

 ぶたれたショックで一瞬ひるんだ隙に、私はあっという間に組み伏されて右の手首をしっかりと床の上に押し付けられた。そして、次の瞬間、手の平に焼け付くような痛みを覚えた。圧迫された苦しい息の中で、かろうじて首をねじった私は、痛みの原因を知った。亜里沙にお灸をすえるために火がつけられたお線香の先が、そのまま直に私の手の平に押し付けられていた。

 その時の母の顔は一生忘れられない。いつか夢の中で見たあの顔であった。目は爛々と輝き、眉間には般若の面のような深い皺が刻まれ、わずかに開いた口からはダラダラとよだれが垂れて、仰向けに押さえ付けられていた私の頬にボタボタと落ちてきた。

私は、観念してそっと目を閉じた。もう逃れることも出来ない、このまま殺されるかもしれない。それでもいいと思った。私が殺されれば、間違いなく亜里沙は開放されるであろう。かわいそうな亜里沙。私は、亜里沙に約束した。お姉ちゃんが守ってあげると。

しばらくすると、ハアハアという荒い鬼母の息遣いが次第に収まった。同時に私の手を平を押さえていた力が緩んでいった。私は、そっと目を開いた。母の顔から次第に鬼の姿が消えていくのがハッキリと分かった。母は、憑き物が取れたように放心状態のまま床にペタリと座っていた。髪は乱れていたが、その表情にもう鬼はなかった。

 私の抵抗が効いたのか、この日を境に、母のお灸攻めはピタリと止んだ。もぐさもいつの間にか処分されてしまった。そして、不思議なことに亜里沙のお寝小もピタリと止まった。こんなことならもっと早くに抵抗していればよかった。そうすれば亜里沙はこんなに苦しまずに済んだ。母の立ち直りももっと早かったかもしれない。私はわずかな希望の光が見えたような気がした。ほんの微かな光であった。

しかし、その光は嵐の前の雲間からわずかに差し込む一条の陽光のように、一瞬だけ輝いた後すぐに雲間に消えていった。鬼に魅入られてしまった者は2度とこの世には戻って来られない。この一瞬の平穏は、恐ろしい惨劇が最終章に突入する前のほんのわずかの幕間であったのだ。

 亜里沙に対する母の虐待は、間もなく手を替えて再開した。怒鳴る、殴る、蹴るは当たり前、時には素っ裸にして冷水を浴びたり、ろうそくの火を押し当てたりもした。そして、亜里沙を虐待する母の表情には、まるで麻薬の禁断症状が満たされるかのような陶酔感が見られた。私は、確信した。間違いない、サディズムだ。母は、亜里沙を虐待することで性的陶酔を得ている。この恐ろしい結論に到達した時、私の心の奥底にとてつもなく怖いある考えが芽生え始めた。考えるだけでもおぞましい帰結、しかし、この後恐怖のジェットコースターは最後の大崩落に向けて速度を増していった。

最近の亜里沙は食欲もなくなり、保育園にも行かなくなった。亜里沙にはもう保育園に行く力すら残っていなかったのである。手足は細り、顔色は青白く、およそ5歳の女の子とは思えないほど元気もなく、やつれ返っていた。私が学校から帰ると、亜里沙はいつも独りで犬のぬいぐるみの相手をしていた。犬のぬいぐるみだけが、唯一今の亜里沙の生きる拠り所となっているような気がした。

私は、ついに決心した。明日、もう1度叔父夫婦のところに相談に行こう。この前はダメだった。そして、鬼母からも口止めされた。余計なことを言えばあんたにもお灸・・。それが怖くて、私は叔父夫婦の家に駆け込むのを1日伸ばしにしてきた。でも、もう限界だ。このままだと亜里沙は確実に殺される。鬼母の異常な欲望の犠牲になる。その前に、私が、この私が、自身の手で何とかしなければ。しかし、私の決心は、残念ながら1日遅れだった。

 まだ11月だというのに、その日は朝から木枯らしの吹く寒い日であった。寝冷えでもしたのか、亜里沙は朝から下痢気味であった。お昼ごはんもほとんど食べなかった。そして、午後にはますます体調も悪くなり、いつもの遊び相手の犬のぬいぐるみも床に転がしたままになっていた。

 そして、その日の夜。亜里沙の体調は極限状態に達していた。もう椅子に腰掛けているのすら辛そうであった。

「亜里沙、食べるの、食べないの。どっちなの。」

 母は相変わらずいつもの調子で亜里沙をしかりつけながら夕食を食べていた。もう我が家の食卓から団欒の声が消えて久しい。私は、母を刺激することのないよう、横目で母を見ながら出来る限り音を立てずにお箸を動かした。亜里沙は相変わらずしんどそうである。顔色も青白く、ほとんど食べようともしない。

 私は、嫌な予感がした。来るものが来そうな気がした。母のこめかみの辺りがひく付くのが分かった。その時である。

「ゲーッ。」

 亜里沙の喉元で奇妙な音がしたかと思ったら、次の瞬間、亜里沙はガーッと吐いた。何も食べていないはずなのに、ビックリするほどの量の内容物を吐き上げた。亜里沙の洋服の胸からお腹にかけて吐寫物がドバッと流れ、特有の酸っぱい匂いが食卓に立ち込めた。

 私と母は一瞬石のように固まった。そして、次に私が母の顔を見た時、あっという間に鬼母の表情に変わっていた。

「何てことするの、亜里沙。」

 母は、亜里沙を食卓の椅子から引き摺り下ろすと、あっという間に亜里沙の着ている物を剥ぎ取った。汚れたセーターだけでなく、その下に着ていたシャツも、ズボンも、そしてパンツも。亜里沙は一瞬にして素っ裸にされていた。痩せた亜里沙の身体はすぐにでも壊れそうなほど痛々しく、胸の辺りにはあばら骨が何本も浮き出して見え、おへその下にはまだ完全には癒え切っていないお灸の痕が不気味な色を見せていた。

「ヒーッ」

 亜里沙は奇妙な悲鳴を上げて、手足をばたつかせた。最後の力を振り絞るようにして鬼母の暴力から逃れようとした。

「言うことを聞けない子は、言うことを聞けるようにしてやる。」

 母は、素っ裸の亜里沙を抱きかかえると風呂場の方に向かった。私は咄嗟に判断した。今殺らなければ殺られる、と思った。その時の私は、もう無我夢中であった。考える余裕も、善悪の判断もなかった。とにかく鬼母の手から亜里沙を助け出すことだけで頭の中が一杯であった。何をどうしたのか分からない、気がついた時、私の手にはキッチンにあった包丁が握られていた。

「神様、お許しください。」

 胸の中で、そう念じた私は包丁を握り締めたまま風呂場へと向かった。

「やだ、やだ、やーだ。」

 風呂場の中から、火のついたような亜里沙の泣き声に混じってゴボゴボッと湯船に湯を注ぐ音が聞こえる。私は、ゆっくりと風呂場に近づいた。お湯の出る音が次第に大きくなっていく。私の心臓は張り裂けんばかりに高鳴った。口の中はカサカサに乾き、息をするのにも力をこめないと出来ないほどに身体全体が硬直した。

あと一息で風呂場のドアというところで、私は世にも恐ろしい呻き声を耳にした。

「うぎゃーーー。」

 亜里沙の悲鳴とともに、ザブンザブンというお湯を引っ掻き回すような激しい音がした。私はバッと風呂場のドアを開いた。もうもうと上がる湯気の中に、私は異様な光景を目の当たりにした。湯船にたっぷりと張られた熱湯、その熱湯の中に亜里沙の体を押し浸ける鬼母。

私は両手でしっかりと包丁を握りしめ、切っ先を鬼母の背中に向けると、目を閉じて洗い場の中に倒れ込んだ。ブチッ。肉の切れるような鈍い音がし、ズシリとした手ごたえが私の両手に伝わった。一瞬の静寂が風呂場を包んだ。静かであった。それまでの騒ぎがまるでウソのように時が止まった。私は、この静けさ、この静かな時間が永遠に続いて欲しいと願った。

しかし、現実の時間は無情にも前へと進んでいく。私はしっかりと閉じていた両眼を恐る恐る開いた。刃渡り二十センチほどのさしみ包丁は、その身の半分以上が鬼母のわき腹の中にめり込んでいた。じわっと、赤いものが鬼母の着ている物を染めていく。

鬼母はゆっくりと私の方に向き直ると、自らのわき腹に目を落とし、何が起きたのかを確認しようとした。あの時の表情を私は一生忘れない。あれは間違いなく鬼であった。眉間の皺はさらに深まり、血走った目は縦に釣り上がり、口は大きく裂け、何本もの歯がギラリと輝くのがハッキリと見えた。

私は、全身が石のように硬直していくのを感じた。私は、狭い風呂場の中で手も足も全く動かせないまま、鬼母と対峙した。やがて鬼母はゆっくりと視線を私の方に向けた。

「やってくれたわね、朋美。」

 次の瞬間、私は恐ろしい力で洗い場の壁に押し倒された。私は咄嗟のことでそのまま風呂場の片隅にねじ伏された。

「あんたなんか、こうしてやる。」

 私の首に鬼母の両の手がかけられた。一瞬にして私は息が出来なくなった。必死になって逃れようとするが、私のお腹の上に馬乗りになった鬼母の身体はピクリとも動かない。それどころか、私の首を絞める鬼母の力はどんどんと増していく。私は次第に意識が薄れていくのを感じた。

死ぬということは、こういうことなんだ。人の死なんてこんな簡単なものだったんだ。私は、ぐったりして鬼母のなすがままになった。すると、突然楽になった。今まであんなに息苦しかったのがウソのように気持ちよくなった。このまま死んだら、今1度父に合って、母も昔のような優しい母に戻り、亜里沙も、犬のぬいぐるみも、皆が平和な団欒の場に集い、幸せな日々が戻ってくる。私の目から止め処もなく涙が溢れた。その時・・。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん。」

 微かに私を呼ぶ声がした。誰だろう。そして、私はどうしてここにいるのだろう、私はここで何をしているのだろう。その時、また私を呼ぶ声がした。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん。」

 間違いない、亜里沙だ。そう、私は亜里沙を助けるためにここに来たんだ。こんなことをしている場合ではない。私はハッキリと息を吹き返した。幸いにも、鬼母自身の体から流れ出した赤い液体が、鬼母の毒牙の力を緩める方に作用した。見れば、洗い場のタイル一面が真っ赤に染まり、私の首の辺りもヌメヌメとした感触に包まれていた。

 私はぐっと両足に力をこめて、伏された身体をねじろうとした。やはりびくともしない。鬼母の両手は相変わらず私の首を締め付けている。私は、必死になって何か掴むものはないかと手の届く範囲をまさぐり回した。その時、私の目にあるものが映った。鬼母のわき腹から突き出している木製の柄。私は、その柄を右手で掴むと、ぶら下がるように力を込めて引いた。

「グゲッ」

 鬼母の喉から奇妙な音が漏れた。包丁の刃が回転するように鬼母のわき腹から下腹の方へと回った。同時に、血とも肉とも分からない生温かい真っ赤な塊が、仰向けになっている私の顔の上にドバッと落ちてきた。それを境に、私の首にかけられた鬼母の手の力は次第に弱くなり、やがて鬼母の体全体に断末魔の痙攣が起き始めた。鬼母の身体はゆっくりと洗い場の隅に横倒しになった。

 私は、恐る恐る起き上がった。気がつけば、全身がこれ以上ないほどに真っ赤に濡れ染まり、風呂場にムッとする血肉の匂いが立ち込めた。不思議と気持ち悪いとか怖いという感覚はなかった。「亜里沙、亜里沙。」

 私は、鬼母がもう襲ってこないことを確認すると、湯船に浸けられた亜里沙を必死になって助け出そうとした。亜里沙は、体全体が不気味に赤く腫れ上がり、抱きかかえる時に背中の皮膚の一部がベロリと剥がれて真っ赤な身が顔をのぞかせた。私の両手もひどく火傷した。でも不思議と熱いとも痛いとも感じなかった。今も、その時の火傷の痕が右手に微かに残っている。


 母は腹部裂傷による失血死。亜里沙も3日三晩生死の境をさ迷い続けた果てに天に召された。亜里沙は死ぬ直前までハッキリ意識があった。「お姉ちゃん、ありがと。」、最期に亜里沙が言い残した一言である。かわいそうな亜里沙。何のために生まれ、そして何のためにわずか5歳という短い生涯を閉じていくのか。私は、もっと早くに亜里沙を救ってやることが出来なかったことを幾度となく後悔した。言い様のない自責の念に長い間苛まれ続けた。

 結局、私の行為は妹を救済するために取った緊急避難措置ということで、私は少年院行きにならなかった。私に下された決定は在宅観護措置。叔父夫婦が身元引受人となって、私は人生を再出発することになった。叔父夫婦によると、私は最初ショック状態がひどく、何度も夜にうなされたりしていたそうである。ただ、理解ある叔父夫婦のお陰で私は無事高校を卒業し、今年の春から上山さんの奨めもあって児童相談所で働くことになった。

私は、亜里沙にしてやれなかったことを、1人でも多くの子供たちのためにして上げようと決心した。今日も全国から多くの電話が架かってくる。私は、愛らしい亜里沙の写真を見つめながら受話器を上げた。

「はい、こちらは全国児童福祉相談所、鬼母の子110番です。」

(了)


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