第3話 鬼父の子 (快楽殺人)

「カエルの子はカエル」

良くも悪くも、子はその親に似るという意味で使われる。著名な政治家の子はなぜか政治家になる。オリンピック選手の子も、またオリンピック選手になる。全てがそうではないかもしれない。でも、この世にはえてしてそういうことがよくある。そういう親を持てた子は本当に運が良かったと思う。

「いや、あまり親が偉すぎると、返ってそれが重荷で」、なんて言うのは、この僕から見れば、とんでもなく贅沢な悩みである。自分の親は、せめて凡人であって欲しかった。有名でなくてもいい、何の特技もなくていい、カエル以下でもいい、そんな親の方がよっぽどマシである。少なくともこの僕にとっては。なぜなら僕は鬼父の子だからである。


思い返せば、僕は子供の頃からよく変な夢を見た。その夢はいつも同じ場面から始まった。どこだかわからない。とにかく目の前に真っ白な空間が広がり、どこか遠くの方から子供の泣き声が聞こえる。その泣き声は次第に大きくなり、やがて火がついたような叫びに近い声に変わる。その声が終わると、次は暗い影だ。その影は僕の視野の片方から僕の上に覆いかぶさるように迫り来る。その瞬間、僕の体は大きく温かいものにすっぽりと包まれ、言いようもない息苦しさに襲われる。苦しくて、苦しくて息が出来ない。僕の夢はいつもここで終わった。

夢か現か分からない、それ程リアルな夢のせいで、いつも僕の鼓動は言いようもなく速くなり、胸から脇の下にかけてネットリとした汗にまみれた。こんな夢を、僕は月に1回は経験した。いつも同じである。原因はわからない。不思議であった。

転機が訪れたのは、僕が高校2年の夏休みのことであった。書棚の片隅にある一冊の古ぼけた単行本の中からそれは出てきた。2歳くらいの男の子の写真。ヨチヨチ歩きを始めたばかりと思われるその子は、公園の砂場で楽しそうに砂遊びをしていた。かなり時間が経っているのか、わずかに色褪せたその写真は、一見してかなり古いもののように見えた。しかし、この写真が悪夢の始まりであった。そう、このたった一枚の写真が僕の人生を大きく狂わせることになる。

「母さん、この子は。誰。」

何とはなしに母に写真を手渡した時の僕は、まだ全然そんな意識すらなかった。ごく普通に、普段と変わりなく、普通の話をしたくらいに思っていた。

ところが、母の反応は微妙に違っていた。どこがどうとはハッキリ分からない。恐らく、僕が小学生であったなら、分からず仕舞いだったかもしれない。でも、僕はもう高校生、母の心の奥底のごく微細な揺らぎが、僕の心に触れた。

「あっ、こ、これね。これ、あなたよ。ほら、覚えてない。といっても無理かな。まだ、この時は2つくらいだったし。でも、こんなものよく見つけたわね。どこにあったの。」

 母は、そんな心の動揺を隠すかのように笑顔を浮かべた。僕は、無言で写真が入っていた単行本を差し出しながらも、母がウソをついていると思った。何かを隠すため、口から出まかせの取り繕いをしたように思えた。

 普段なら、そんなことは考えもしなかった。自分で言うのも何だが、僕はそれほど意地悪なたちではなかった。母とは親子ゲンカ一つしたこともない。優しい母に、真面目な息子、世間レベルから見ればごくごく普通の幸せな家庭であった。

ただの一点を除けば。そう、わが家が母子家庭であるということを除けば。

「ふーん、そうなんだ。でも、この公園、どこかなあ。あまり見たことないけど。」

 母は、また動揺の色を見せた。

「こ、これはね。前、住んでたマンションの近くよ。ほら、覚えてないかなー。」

一度ウソをつくと、それを取り繕うのは難しい。どんどんとほころびが広がっていく。うちの家が引越しをしたことがあったなんて初めて聞かされた。

「えっ、うち、引っ越したことがあったんだ。」

 母は、しまったとばかりに右手で口を塞いだ。

「そ、そう。この1年くらい後だったかなー。ご、ごめん。別に隠してたわけじゃ。」

「いいよ。別に、そんなこと。どうだって。」

 僕も、それ以上は聞くまいと思った。多分、父のせいだろうと思った。父は、僕が2歳の時に突然家を出て行ったと聞かされていた。何の前触れもなく、そして理由もなく。いわゆる世間で言う突然離婚というやつである。

 僕が、初めてその話を聞いたのは小学校1年生の時。まだ離婚の意味もよく分からなかった。ただ、わが家にはもう父親という存在がいないんだ、これからもずーっと、ということを知って、無性に悲しく、涙が止まらなかったことだけはよく覚えている。父からは、その後、一切音信もないという。

幸い、母の実家が、資産家というほどではないにしろ、金銭的にはしっかりした家であったこともあり、母も、僕も、生活面ではあまり苦労はせずに済んでいた。祖父も祖母も時々は家に遊びに来てくれるし、いつもお小遣いもくれた。何不自由のない生活であった。強いて言えば、母一人子一人の生活が少しだけ寂しい気がしていた。

「さあて、卓也が折角いいもの見つけてくれたから。これ、アルバムに入れておこうか。」

 母は、少し気を取り直したように、書棚に向かうとアルバムを探し始めた。その間にも、今一度その写真を手にした僕は、再び母のウソに気付いてしまった。しかも、今度は隠しようもない決定的なウソ。僕の母に対する強い不信感が初めて芽吹いた瞬間であった。

 写真の右下隅、わずかに赤く印字された日付は「1993年4月10日」となっていた。今から16年前、とすれば僕はまだヨチヨチ歩きどころか、ハイハイも出来ない赤ん坊であったはず。では、公園で元気よく遊んでいるこの子は一体誰、そして、母はなぜあのようなウソを。

 こんな些細なことに、こんなどうでもいいようなことに拘泥した自分が悪かった。しかし、この日を境に僕の運命の歯車はおかしな方向に回転をし始めた。

 母は、例の写真をさっさとアルバムの奥底に仕舞い込むと、二度とその話はしなくなった。多分話したくない何かがあるのだろうと思い、僕の方からも敢えて尋ねることはしなかった。

 それにしても解せないことが一つだけあった。いくら離婚した父親といっても、いくら勝手に家を出て行った父親といっても、その父のことを思い出させるような物は何一つ我が家には残されていなかった。名前はおろか、写真1枚も、である。父はなぜ自分たちを捨てたのか、今どこで何をしているのか、それも分からない。そしてさらに不思議なことに、母は父のことについてはついぞ話をしたことがない。いくら離婚したからといって、ここまで厳重に父のことを隠し通す必要があるのだろうか。少なくとも、結婚してから何年かは一緒に暮らした間柄、写真の一枚や二枚あってもいいはずだ。しかし、わが家にはそれがない。まるで、パソコンの中の全データを初期化したかのように、父に関する情報はきれいにわが家の中から消し去られていた。一体どうなっているのか。


そんな悶々とした日々が続いていたある日、次の出来事が起きた。その日は、ことのほか暑い夏の日であった。仕事から返ってきた母はブラウスを脱ぐと、タオルで汗を拭いすぐに着替えを始めた。その母の後姿に僕は見てはならないものを見てしまった。母の右肩から背中にかけて、ざっくりとした傷の痕があった。傷痕は一見すると古いもので、もうすっかり癒え切ってはいるが、十針は縫ったと思われるほど大きなものであった。

今にして思えば、これも不思議なことであった。母は、夏でもあまり人前で肌を出すことを嫌った。どんな暑い日でも必ず袖のある服を身に付け、子供会の行事でプールに行っても決して水には入らなかった。恐らく、この傷のことを気にしてのことだったのだろうか。

でも、なぜ今まで気がつかなかったのだろう。何年も同じ屋根の下で暮らしてきた家族なのに。そして僕がもっと小さい子供だった頃には一緒にお風呂にも入っていたのに。恐らく、母がこの傷を見られまいと巧妙に隠してきたのか、それとも僕がただ意識していなかっただけのことなのか。多分、後者だろう。普段気にならないことが、何かを契機に気にし出すとすべて気になる。このところの過敏症のせいで、つい目に留まってしまったのかもしれない。

「母さん、これどうしたの。」

 僕は、母のすぐ後ろに近づいて、尋ねた。

「えっ、何、これって。」

 母は、最初何のことか分からず、肩越しに僕の方に振り向いて尋ねた。

「これだよ。この傷跡。」

 近づいて見ると、その傷跡は余計大きく、そして醜く見えた。色白で肌理の細かい母の肌が、その傷跡を一層際立たせた。僕は、人差し指でその傷跡をそっとなぞってみた。母の背中がビクンと動いた。まるで思い出したくない過去を思い出すかのように。そして、母は一瞬躊躇するような素振りをして見せた。

「あっ、これ、この傷のこと。あらいやだ、前に言わなかったかしら。まだ、子供の頃、自転車に乗ってて坂道で転んで。あの時はホント、死ぬかと思ったわ。生まれて初めて救急車に乗ったのよ。」、

母は、急に雄弁になり快活に話をし始めた。しかし、僕は感じた。この前の写真の時と同じ奇妙な感覚を。何かを隠しているような、そんな戸惑いのトーンが母の声の中にあった。母の話が本当なら、子供の頃坂道で転んだのが本当なら、なぜ母の声はこんなによそよそしく、緊張したトーンになるのだろう。やはり触れられたくない何かがあるんだ。

しかし、僕がその答えを見出す前にも、母はさっさとTシャツを着て傷跡を隠してしまった。まるで、知られたくない過去を大慌てで隠すかのように。僕の心の動揺は日増しに大きくなった。どうしてだか分からない。ただ、母が古い写真と古い傷跡を隠したというだけで。すぐに忘れてしまえば、どうということなく過ぎたかもしれない。でも、僕の心がそうはさせてくれなかった。


「母さん、どうして隠すの。」

 そして、その日の夕、ついに僕は禁断の一言を発してしまった。別に母を責めるつもりはなかった。

ほんの軽い気持ちだった。

「隠す? 隠すって何を。」

 母は、とぼけたような返事をした。

「だから、この前の写真、それに今日の背中の傷。変だよ。母さん、絶対何か隠してる。」

「何のことかと思ったら、あのこと。だから、言ったでしょう。あの写真は、あなたの小さい時の、それに背中の傷は自転車で転んで・・。」

 母は、ニコニコしながら同じ答えを繰り返した、でも、僕には母のニコニコ顔が作り笑いのように見えた。

「ウソだ。そんな見え透いたウソをついたって、僕には分かる。」

 初めてであった。母の前でこんない声を荒げたのは。駄々っ子のむずかりではない。僕は心底から母の態度に不信感を抱いていた。あんな経験は初めてであった。

「おかしな子ね。急に。どうしたの。」

 母は、僕の声の調子に少し動揺した素振りを見せたが相変わらずニコニコと平静を保っている。

「だって、あの写真、日付が1993年になってた。今から16年前。僕はまだハイハイも出来なかったはず。それが、どうして公園の砂場にいるの。」

 グサリ。母の顔色が明らかに変わった。やはり図星だった。あれは、僕ではなかった。誰か別の子だったに違いない。だとしたら、母はなぜあんなウソをつく必要があったのか。母は、しばらく中空を仰いで、言い訳を探し求めるように大きなため息をついた。

「そ、そう。おかしいわね。きっとカメラの日付の設定がおかしかったのよ。間違いないわ。あれは、あなたよ。」

 僕には、乱れる母の心が手に取るように分かった。母の声は震えていた。そして、母は、これで話はおしまいとばかりに席を立とうとした。

「待って、まだ話は終わってないよ。じゃあ、あの背中の傷は。自転車で転んだくらいで、あんなところに十針も縫う大怪我なんかしないだろ。やっぱ、おかしいよ。どう考えたって。」

 僕は、さらに話を突っ込んだ。別に母をいじめるつもりはなかった。ただ聞いてみたかっただけだ。でも、母の動揺はさらに高まったように見えた。

「あ、あれは。う、運が悪かったのよ。丁度転んだところが工事現場で、いろんな道具や資材が置いてあって。お医者様も、あと5センチずれてたら大変だったかもって。」

 もう、僕は何を聞いても驚かなかった。どうせ母は、端からウソの創り話をするだろうと思っていたからである。

 結局その日の夜、2人は静かな夕食をともにした。会話はなかった。何となく気まずい空気が部屋に充満し、声を出すのが憚られるような、そんな気がしたからである。


 あれから半月、相変わらず僕の不信感は消えなかった。何か満たされないような、もどかしい感じが常に心の中で渦巻いていた。僕は、何か他に手掛かりがないかと、事あるごとに部屋の中を漁り回った。ひょっとすると、あの母の隠し事は、別れたという父と関係があるのかもしれない。しかし、何日探し回っても、ついに父に結びつくような手がかりは何も出てこなかった。

そして、僕はついに決心した。これ以上、この家の中を探し回ってみても、あるいは母を問い詰めてみても、何も答えは得られない。こうなったら祖父の家に行くしかない。祖父なら何か知っているかもしれない。そして教えてくれるかもしれない。タイミングよくというか、この次の土曜日、母は会社の仕事で休日出勤するという。母抜きで祖父の家を訪ねる絶好のチャンスであった。

 その土曜日が来た。僕は、母が出かけるのを確認した後、家を出た。祖父の家は、わが家から電車で一時間くらいの郊外にあった。年に何回かはお泊りにも行っていたので、別に一人で訪ねるのは難しいことではなかったが、なぜか今日はドキドキした。いつもなら。あっという間の一時間が、今日は無限の時間のように長く感じられた。

 駅を降りて、バスに乗り継ぐ。次の停留所で祖父の家の前というところで、僕は見てはならないものを見てしまった。その人は、深々と日傘を差していたが、間違いない。母であった。今朝家を出て行く時に着ていた水色のブラウス、あの服を見紛うはずはない。どうして母がこんなところに、そして一体ここで何を。

 僕は次の停留所でバスを降りるかどうか迷った。今ここでバスを降りれば、母に追いつけるかもしれない。そこで母を問い詰めれば、あるいは何か分かるかも。でも、僕は止めた。こんな所をウロウロしているのを母に見られるのもまずいだろうし、何よりもここで母に話をしても、また体よくはぐらかされるのが落ちである。

僕は、身をかがめて、バスの車窓から追い越しざまに母を見た。確かに母であった。そして、母は手に一抱えの花束を携えていた。まるでこれからお墓参りにでも行くかのように。少し俯き加減に歩く母の後姿はなぜかすごく寂しそうに見えた。暗い過去を背負うたかのように、母の足取りは重くゆっくりとしていた。

僕は、停留所を一つやり過ごし、次の停留所でバスを降りた。幸い母には気付かれなかったようである。僕は、ここでどうするか迷った。このまま祖父の家に行くべきか。でも、もしそこで母と出会ったらやはりまずいだろう。その時、僕の脳裏にある考えが浮かんだ。そうだ、お墓だ、お墓に行ってみよう。間違いない、母はきっと誰かのお墓参りに来たに違いない。まさか父の。

僕は、幼い頃の記憶を辿った。あれは僕がまだ小学校1年生くらいの時だったように思う。母に連れられて祖父の家のお墓参りをした。というかまだ子供だった僕には、墓に参るということがどういうことなのかもよく分からず、ただ暑い日差しの中を嫌々歩かされ、線香臭い中で手を合わさせられたという記憶しか残っていない。

今日も、あの日と同じくらい暑かった。強烈な日差しの中、せみの声がうるさいほどに耳に衝く。僕はお墓参りを済ませた母と鉢合わせをしないように、わざと遠回りをしてから墓に向かった。祖父の家の裏から続く小道を進み、池を回りこんですぐのところに小さな鎮守の森があった。墓はそのすぐ裏手である。幸い、母の姿はもうなかった。

墓といっても、街の大きな霊廟と違って、ここは田舎町の小さなお墓。全部で百もない石塔の中からわが家の墓を探すには5分と掛からなかった。お盆までまだ少し日のあったこともあり、どの墓にもまだお花やお供え物はなかった。お陰で、すぐにそれと分かった。間違いなかった。母はここに来ていた。

「藤本家の墓」と書かれた石塔の前には、先程母が手にしていた花が供えられ、わずかに燃え残った線香の煙が微かに漂っていた。

 僕は、そっと墓の前に近寄った。心臓の鼓動が高鳴り、近づく僕の歩みは鉛のように重くなった。じっと墓石を観察するが、特に何の変哲もない普通の墓であった。母は、一体誰のためにお参りに来たのだろう。祖父も、祖母も、まだ健在である。まさか、父の。僕は、恐る恐る墓石の脇の墓碑銘を覗き込んだ。

 墓石の傍らの石板に何人かのご先祖様の名前が記されてあった。その一番右端、一番新しい場所に、その名は刻まれてあった。

「妙元童子、俗名裕也」

妙元童子って誰だろう。童子というぐらいだから恐らく子供であろう。俗名「裕也」、聞き覚えのない名前であった。さらに視線を下に移動させた時、僕は心の中であっと叫んだ。

「享年二歳、平成五年七月没」

 この裕也とやらいう男の子は、わずか2歳でこの世を去っていた。そして、何よりも驚いたのは、その没年である。平成五年といえば1993年、あの写真で見た日付と妙に符合している。もしかして、あの写真の男の子が。そう思った時、僕は背筋に鳥肌が立っていくのを覚えた。

 これですべて辻褄が合う。あの写真の子が裕也ちゃんで、それであの写真を撮ってのち間もなくこの世を去った。でも、どうして。そのことと母が執拗にこの子のことを隠そうとしていることと何の関係があるというのだろう。謎はまた深まった。


 結局、この日僕は当初の目的を果たせず家に戻った。祖父の家には行かなかったのである。無論、そこに母がいたらまずいだろうということもあったが、何よりもあの墓を見たことの衝撃が大きく僕の心の上にのしかかっていた。僕は、悶々として、ただ一人家で母の帰りを待った。

 窓の外がほの暗くなり、ようやく涼しい夕風が吹き始めた頃、母は何事もなかったかのような顔をして家に帰ってきた。

「あら。どうしたの。こんな暗い部屋で。灯りもつけずに。」

 何も知らない母は、いつもと変わらぬ快活な声を上げてリビングに入ってきた。しかし、灯りをつけた瞬間、母の顔色が変わった。それほどに僕の形相が凄かったのだろう。多分、鏡を見ていたら自分でも自分の顔にビックリしていたかもしれない。

 僕の母に対するイライラ感は、もうイライラを通り越して激しい怒りへと変わり始めていた。これまで騙し続けられたということにも鬱積がたまっていたが、それ以上に僕の心の中で何かが変わり始めていた。

「母さん、裕也って誰?」

 ギロリ。僕は邪悪な視線を母に向けた。

 唐突に尋ねられて母は一瞬エッという表情をした。予想だにしていなかった名前が僕の口から飛び出したことで母の狼狽ぶりは尋常ではなかった。何とか心を落ち着けて取繕いの言葉を探そうとしているようであったが、もうウソは通用しない。母は無言のままヘナヘナとその場に崩れ落ちた。

「今日、おじいちゃん家のお墓に行った。誰、あの裕也っていうのは。誰なの。」

 僕は高ぶる感情を抑えながら、出来るだけ言葉を選びながら尋ねたつもりだったが、もう自制の効く状態ではなかった。母は、観念したようにホッと大きなため息を漏らした。しばらく重苦しい沈黙が続いた。まるで、互いが親子でない、全く初対面の人同士であるかのような緊張した空気が流れた。

しばらくして、僕は、母の頬を一筋の光るものがツーと伝っていくのに気づいた。

「ご、ごめんなさい。本当にごめんなさい。これまで黙っていて。別にあなたを騙すつもりじゃなかったの。本当に。」

 母の声は、やがて激しい嗚咽へと変わっていった。

「あの子、あの子は、あの裕也っていうのは、あなたのお兄ちゃんよ。もし生きていれば、もう大学生になってたかしら。」

 僕は仰天した。自分に血を分けた兄がいた。しかもその兄はわずか2歳という短い生涯を閉じていた。全く知らなかった。それまで一人っ子だとばかり思っていた自分に兄がいたなんて。

この母の言葉で、一瞬ではあったが僕の気持ちは和らいだ。やっと母が正直に本当のことを話してくれた。これまで隠されてきたモヤモヤのほんの一端でも話してくれた。

「でも、兄さんがいたなら、何で今まで隠してたの。たとえ見も知らぬ兄さんでも、兄さんは兄さんだろ。それを一人で隠れてコソコソと墓参りなんかして。一体どういうつもりなの。」

「ご、ごめんなさい。今日があの子の命日だったの。そう、16年前のあの日、あなたが生まれて半年くらい後だったかしら。あの子、突然の交通事故で。私がちょっと目を離したスキに。すべては私が悪いのよ、私のせい。」

 母は再び泣き崩れた。その母の涙で、僕の怒りはまた一瞬ひるんだ。どうやら、母は兄が死んだことを全部自分のせいにして、それで自分一人でその重荷を背負っていこうとしていたらしい。

でも、まだ疑念は残る。仮に自分のせいで兄が死んだとしても、なぜ写真に写った兄まで否定する必要があったのか。兄の写真を僕だと言ってウソをつくことに一体どういう意味があったというのか。

 結局、この日、僕の疑念はスッキリと晴れることもないまま、また沈黙の夕食が始まった。


 それから一週間、僕の悶々は晴れないまま続いていた。母はまだ何かを隠している。僕の知らない、そう、僕が知ってはいけない何かを隠している。最近の母の僕に対するよそよそしい態度が余計僕の疑念を掻き立てた。ひょっとして、兄の死と父の突然の失踪との間に何か関係があるのではないか。だからこそ父に関する情報もことごとく消し去られているのではないか。

 そして、その日の夜、僕はついに禁断の質問を母に対して投げかけた。

「ねえ、父さんって、どんな人だったの。」

 僕は、母がどんな反応を示すのか、意地悪く観察した。恐らく、答えに窮して大変な狼狽振りを見せるだろう。僕の胸の中にある邪悪な心が、母が苦しむのを楽しみにしているのがハッキリと見えた。

しかし、僕の予想に反して今日の母は落ち着いていた。全く狼狽する様子もなく、さらりと答えた。

「そうね、どちらかというと、平凡なサラリーマンってとこかしら。」

 母は、不思議なほど落ち着いていた。いつかこんな日が来るのではと、あるいは想定問答を用意していたのかもしれない。僕があー言えば、こう答える。全て緻密に創り上げられた問答集が母の頭の中に出来ていたのかもしれない。

「名前は、年は、それと・・、趣味は。」

 僕は、母を試すつもりで間髪を入れず矢継ぎ早に質問した。答え難い質問をたくさんすれば、一つくらいボロが出るかもしれない。それほどまでに僕の邪悪な心は母をいじめようとしていた。

「名前は、幸男って言うの。いなくなったのは確かあの人が32の年だったかしら。趣味というほどの趣味はなかったけれど、時々釣りに出かけていたわねー。」

 やはり、母は、全ての質問にサラサラと答えた。何の滞りもなく、普段通りの口調で。僕は少し拍子抜けした。答えに窮して苦しむ母の姿を予想していたからである。そして、今度は先手を打つかのように母の方が口を開いた。

「全ては私のせいなの。裕也が交通事故で死んで。あれからすっかり家の中の歯車が狂ってしまった。真面目だったあの人が、急に酒やギャンブルに浸りだして。夫婦喧嘩することも多くなって、そうこうするうちに家を出て行ってしまったの。」

 母はそっと目頭を押さえた。僕の心はその涙に騙された。少なくともこの母の涙は演技などではない、心底より流れ出たものだと信じたからである。僕は、それ以上母を尋問するのを止めた。

 しかし、所詮涙は涙。人の心は騙せても、真実までは消し去ることは出来ない。父のことをもっと知りたいとする僕の気持ちだけは揺るぎようもなかった。


それから半月、僕は再度裕也兄さんの写った写真をこっそりとアルバムから取り出してみた。そこには公園の砂場で遊ぶ無邪気な男の子の姿があった。かわいそうに、わずか2歳という歳で生涯を閉じていった兄は一体どんな思いだったであろうか。僕は今一度改めて兄の写真を見た。その時、僕の目にある文字が飛び込んできた。マンションの名前である。

「クライネハイム東浦和」

 これだ、と僕は思った。一度この場所に行ってみよう、行けば何か分かるかもしれない。母がまだ隠していそうな何かが。止せばよかったものを、僕の探究心がそれを許さなかった。東浦和なら千葉からでも武蔵野線で1時間くらいである。

その次の日曜日、僕はついにそれを決行した。その場所が禁断の聖地であることも知らず、大胆にも僕はその場所を訪れたのである。

東浦和の駅に降り立った僕は、駅前の不動産屋さんを訪ねた。丁度売り物件が出ているとのことで、1分もかからずにその場所は判明した。親切な不動産屋さんは地図までコピーしてくれた。そのマンションは駅から歩いて7分くらい、周囲はたくさんのアパートやマンションが立ち並ぶ住宅街であった。写真の頃とは随分街の雰囲気も変わっていたが、目的のマンションはすぐに見つかった。16年の歳月のせいかクライネハイムの文字は随分と色褪せてはいたが、紛れもなくこのマンションである。

 僕は問題の公園を探してマンションの周囲をグルリと一周してみた。公園はあった。間違いない。僕は写真を掲げながら、その構図にピッタリと合う位置に立った。マンションを背景にしてブランコがあり、その前の砂場は当時と全く変わっていなかった。唯一変わっていたのは、ブランコが新調されていたところぐらいだろうか。僕は、しばらく写真と実際の風景を見比べていた。

 それからしばらくして、僕の探究心はさらに僕を人探しへと駆り立てた。

「あのー、この男の子、ご存じないですか。裕也って言うんですが。」

 僕は、公園で子供を遊ばせていた女の人に尋ねてみた。最初は怪訝そうな様子をしていたその人も、繁々と写真を見てくれた。でも、結果はノー。僕は、別の人にもトライしてみてが、やはりノーであった。そうであろう、16年前といえば、そもそもこの人たちがここに住んでいたかどうかも定かではない。僕は、思い切って尋ねる相手を変えてみた。もう少し年配の人なら何か覚えているかもしれない。

 丁度、そこを通りかかった60歳くらいのおばあさん、16年前であれば多分40台であったろう。この人なら何か分かるかもしれない。僕は、思い切って声をかけた。

 最初は、「エッ」という風だったその人の顔が、しかし、次第に強張っていくのが傍目にも分かった。写真を見たときのあの人の表情は明らかに畏怖の念に満ちていた。なぜ、こんな子がこの写真を、その人の顔にはそう書いてあった。

「この子をご存知なんですか。」

 僕は勢い込んで尋ねたが、その人の返事はつれないものであった。

「さ、さあ。し、知らないね。」

 僕は、この人がウソをついていると思った。写真を返すとき、その人の手が少し震えていたからである。僕は、すぐに母を思い出した。この写真を手にしたときの母の反応と同じであった。またしても、僕は嫌な予感に襲われた。やはり何かある。この写真には、知ってはならない何かが隠されている。

 僕は、続けて別の人に同じ質問をした。やはり同じ反応だった。何か触れられたくない過去に触ってしまった、そんな態度が見られた。そして、それから3人目。

「ああ、この子ね、渡辺裕也君でしょ。」

 『渡辺裕也』、僕は、初めてその子の名を聞いた。でも妙だ。僕の苗字は藤本、渡辺ではない。どうして同じ兄弟なのに苗字が違うのか。

「あのー、渡辺ではなくて、藤本の間違いでは。」

 その人は少し怪訝そうな顔をしたが、ハッキリとした口調で言い切った。

「いえ、渡辺に間違いないわ。だって、あんな事件、忘れようたって、忘れ・・。」

 と言いかけて、その人は大慌てで口をつぐんだ。

「あ、あなたは、い、一体誰。それにどうしてそんな写真を。」

「僕、この子の弟なんです。卓也っていいます。」

「お、弟さん? あ、あらそう。そ、そうだったの。」

 その人は、そう言うと大慌てで僕の前から立ち去ろうとした。

「あのー、済みません。事件って、どういうことですか。何かあったんですか。ここで。」

 しかし、その人は返事をする間もなくそそくさとその場を立ち去ってしまった。

 僕は、俄かに心の中に黒い霧が広がっていくのを覚えた。僕を避けようとするあの人の態度、それに何よりも「あんな事件」というあの一言。あの一言を発した時のあの人の表情は尋常なものではなかった。兄は交通事故で死んだのではなかったのか。それともひき逃げか何か、余程無残な死に方をしたのか。だから「あんな事件」という言葉が口をついて出たのか。

 それからも、僕は何人かの人に同じ質問を繰り返してみたが、結局確たる答えは得られなかった。ただ、僕の疑惑の念だけは一層大きく膨らんでいった。


 僕が悲劇的な結論を知ったのはその日の夜のことであった。家に戻った僕はインターネットにアクセスした。「東浦和、渡辺正二」と入力してエンターキーを押し下げる。

次の瞬間、僕は見てはならない恐ろしい文字を見てしまった。今、思い出しても気が遠くなりそうな程の恐ろしい結末。その文字は非情にもデカデカとディスプレイのど真ん中に浮かび上がったのである。

『死刑囚 渡辺正二』

 自身の実の父親が死刑囚。ウソだ。これは間違いだ、あるいは悪い夢だ。僕は、俄かにがこの事実を受け容れられなかった。時間をかけてじっくりとこれまでの出来事を振り返り、ゆっくり咀嚼しなおした。父の情報が全て消し去られた理由、母が繰り返しウソをついてきた理由、これで全て辻褄が合った。父が、実の父が死刑囚であったことが全ての出発点になっていた。

 しかし、僕がもっと驚いたのは、その後のことであった。僕は、この時インタネーネットという道具を恨めしく思った。何の感情も持たず、何の配慮もなく、問われた質問には即座に回答を表示する。そこには同情心の欠片もなかった。

『渡辺事件、暗闇に包まれた全容』

この瞬間、僕は恐ろしい結末を知った。殺された相手は幼子2人。一人は、もう言うまでもないであろう、裕也兄さん、そしてあとの一人は3歳の近所の女の子。問題は、その殺害のされ方である。それは、あまりに恐ろしく、残酷で、猟奇的であり、ここでは到底筆にすることは適わない。後々、その一端を紹介するということで、この場はお許し願いたい。

 僕は、この恐ろしい画面に何時間も見入っていた。他人の子を殺害し、さらに自身の子までも。一体何が父をこんな残酷な事件に走らせたのか。母は、この悪夢のような出来事を一生涯をかけて隠し通すために一切の情報を僕から遠ざけた。姓も旧姓に戻し、全ての写真を焼き払い、「渡辺正二」という文字を全て我が家から消し去った。 

しかし、実の父が凶悪殺人犯だったという事実は消えない。そう絶対に消えることはない。いくらコンクリートで塗り固めようとしても、いくらペンキを塗りたくっても、真実は消し去れない。あの母の背中の傷のように。

 僕は、必死になってインターネットの画面をスクロールし、いわゆる「動機」というものを探し出そうとした。でも、出て来るのは漠然とした記事ばかり。

「渡辺被告、動機については依然黙秘。」

「精神鑑定は二分。責任能力の有無が争点。」

「闇に包まれた事件。動機解明できぬまま結審。」

 次々と画面に現れ出る見出しは、いずれも過去のことについては何も語ってくれなかった。僕は、困惑の淵に沈んだ。読めば読むほど不可解な事件。当時の新聞によれば、渡辺の家は、ごく普通のサラリーマン家庭、真面目な夫に、よき妻、そして二人の子供。どう見ても、あのような凶悪殺人とは縁遠い平和な家庭だった。

 近所の住民の話も、父の職場の同僚の話も、すべてが「信じられない」、「まさかと思った」というものばかり。父が殺したというのは実は間違いで、別の真犯人がいるのではないかと思わせるような内容ばかりであった。実際、父の責任能力についても、検察側と弁護側で随分と議論があったようである。弁護側は、父の生い立ちを理由に量刑の軽減を求めていた。父は、幼い頃に母親をなくし、祖父一人の手で育てられたという。家の生活が苦しかったこともあるのであろう、父方の祖父は、しばしば父に厳しく、辛く当たり、時には虐待まがいの扱いまでしていたようである。弁護側は、それを理由に父の人格形成に大きな支障を来たしたと主張していた。

 でも、結論は「死刑」。どのような理由があろうと、幼い子供2人の命を、しかもあのような残忍な方法で奪ってしまった。その責任はあまりに重過ぎるとして、裁判長は「極刑をもってしか失われた命に対する償いとすることは出来ない。」と断じていた。

 高校生であった僕には、まだ刑事裁判に関する知識も何もなかった。時折、テレビの刑事ドラマとかで動機だの、時効だのといった言葉を断片的に聞いたことくらいしかなかった。無論、裁判員制度などどこか遠い国の出来事くらいに思っていた。だから、今目の前で起きているこの現実も、俄かには受け容れられなかった。というよりは、まだ夢を見ているような心地だった。

 しかし、次の瞬間、僕はこの恐ろしい話が夢ではなかったことを知ることになる。

「た、卓也、あなた、そ、それって、ひょっとして。」

 後ろから突然声がした。母であった。僕は、大慌てでインターネットの画面を消した。しかし、時すでに遅し。母は、僕が見ていたものをしっかりと目撃してしまった。あの時の母の狼狽振りは一生忘れられない。これまで十余年に渡って隠し続けてきた事実が、絶対に知られてはならない事実が、暴かれてしまったのである。それも、こともあろうにその本人の手で。

 母は、膝から崩れ落ちると、床に額をつけて号泣した。全身を打ち震わせて、何度も何度も拳を床に打ちつけた。母の慟哭の声が、あれがウソでも夢でもなかったことを痛いほどに僕の心に知らしめた。もはや逃げも、隠れも出来ない。僕は、この日から鬼父の子となったのである。


 それから1週間、僕は悶々の淵に沈んでいた。自身の実の親が殺人犯だったということだけでも受け容れ難い重大事である。ましてやその中味が、尋常ではない猟奇殺人となるとなお更である。僕は、あの日から完全に自室にこもったまま、学校にも行かずこの恐ろしい現実を消化しようとしていた。母もそんな僕の気持ちを気遣ってか、無理に学校に行けとは言わなかった。時折そっと食事を差し入れてくれる他は、ほとんど言葉も交わさなかった。

 1日中、カーテンも締め切り、ほの暗い部屋の中で僕はこの現実と戦い続けた。父は、何故あのような事件を起こしたのか。確か、新聞では最終的に「動機不明のまま結審」とあった。動機なき殺人。父は一体何のために2人の幼な子を手にかけたのだろうか。僕は、事の真相を確かめたくなった。とにかく父に会って、じかに父の口から真相を聞きたい。そう考えることで、僕はようやく自室から外に出た。あの日から7日と10時間が経っていた。

 母は、相変わらず無口のままであった。何をどう説明してよいのかさえ思いつかなかったのであろう。可愛そうに、この7日ほどでげっそりとやつれ、何日も眠れぬ夜を過ごしたのであろう。目の下には黒々とした隈が出来ていた。

 僕は、まず受刑者に面会する方法を調べた。最初、僕は物事を簡単に考えすぎていた。拘置所に行けばすぐに会える、あの男に、そう実の父であるあの男にすぐに会えると。しかし、事はそう簡単ではなかった。受刑者に会えるのは、弁護士かごく近しい親族のみ、しかも面会するためにはそれなりの理由も必要とされていた。

 そうであろう。相手は死刑囚、しかも幼な子2人を殺した凶悪殺人犯、簡単に合わせてくれるはずもない。第一、僕があの男の子供であることを証明出来る資料すらない。何しろ我が家からは父に関する一切の記録が消去されてしまっているからである。

 拘置所の受付を突破し、面会室にたどり着くためには、まず僕があの男の実の子供であることを証明する必要がある。いわゆる『本人確認』というやつである。拘置所のホームページにも、面会のためには面会を希望する者と受刑者の関係を証明できる書類が必要とあった。それが何であるのか、僕はすぐには思いつかなかった。何しろ、僕はまだ高校生。戸籍謄本という書類があることすら知らなかった。

 やっとのことで、戸籍謄本が唯一、僕とその男の結びつきを証する書類だと分かった。それには、自分の父親と母親が誰で、自分がいつ生まれたのかが記されているという。戸籍謄本は、戸籍を届けている市役所に申請して入手するのだそうだ。

僕は、やっとの思いで戸籍謄本を入手するところから着手した。市役所に出向くと戸籍事項証明申請書に記入を始めた。戸籍の筆頭者の氏名、必要な人の氏名、・・。しかし、次の欄を記入しようとした僕の手はハタと止まった。そこには、「戸籍証明を必要とする理由」とあった。何と、戸籍謄本を入手するにも理由が必要であった。

 僕は、理由を書くのに躊躇した。別に相手は市役所の人、見も知らぬ人である。毎日何百枚と依頼のある申請書の中味までいちいち詳しく見ているはずはない。そうは思ってみたものの、手が震えてついに「受刑者との面会申込のため」とは書けなかった。どんな相手であれ、身内に受刑者がいる、しかもそれがとんでもない事件を引き起こした死刑囚とあらば、尚さらのこと正直には書けない。僕は、やむなく「バイク免許取得のため」と適当にウソの理由を書いた。

 僕は、戸籍謄本が出来上がるまでの時間、受付のソファに座って待った。正直、僕はこの時まだ、一抹の期待があった。謄本の父親の欄に全く違う人の名前が書いてあるのではないか。これまで調べてきたことが全て偽りの話で、本当の僕の父親は別人なのではないか。僕は、まるで合格発表を待つ受験生のようにドキドキしながら、その時を待った。

 受付番号が呼ばれた。市役所の職員の人は、ドックンドックンと高鳴っている僕の心臓の音など全く聞こえないかのように、無造作に出来上がってきた書類を差し出した。僕は、受け取った戸籍謄本をわざと裏返すとすぐにソファに戻った。僕は恐る恐る戸籍謄本をひっくり返し、件の欄を確認した。

ああ・・。僕の最後の儚い願いは、無残にも打ち破られた。戸籍謄本の真ん中あたり、「卓也」という名のすぐ隣に『父 渡辺正二』という文字が非情にも記されてあった。僕は、その名を今すぐにでも消しゴムで消し去りたかった。しかし、いくらこすっても、その名が消えることはない。そう、一旦彫りこまれた刺青のようにその名前は消えなかった。


僕は、その足ですぐに父が収監されているという浦和拘置所に向かった。これで父に会える、やっとあの男に会い、そして16年前のあの忌まわしい出来事の一部始終を聞きだすことが出来る。僕の足ははやる心でさらに速くなった。無論初めて訪ねる拘置所である。僕の心臓は初めての経験に、これまでにないほどに高鳴った。

駅から歩いて15分くらい。その建物は、あまりに自然に僕の前に現れた。周辺は以外にも普通の住宅地。忍び返しが付けられた高い壁が外界と塀の中を遮断しており、言われなければここが拘置所であるとは誰にも分からない。僕は、そのあまりの平穏さ、日常さのゆえに少し拍子抜けした。拘置所には恐ろしい事件を起こした悪人たちが数多く収監されている。もっとおどろおどろしく、暗く、そして荘厳なイメージを抱いていた僕にとって、それは予想以上に日常的であった。

ゲートで守衛に面会に来た旨を告げ中に入る。中は外から見るよりも広く感じられた。コンクリートの建物が何棟も立ち並び、殺風景である。やはりここは拘置所であった。僕は、高まる気持ちを抑えながら受付へと向かった。受付で面会申請書に記入すると、僕は用意してきた戸籍謄本と自身の唯一の身分証明書である学生証とを併せて提出した。受付の係官は、書類に目を通し一通りのチェックをし終えると、唐突に質問してきた。

「藤本さんは、今回初めての面会ですね。」

「は、はい。」 

 僕は、緊張のあまり、少し掠れた声で返事をした。

「それで、今回、面会を申し込みされた理由は何でしょうか。」

 僕は、答えに窮した。僕の頭の中に、この質問に対する答えが用意されていなかったからである。実の子が実の父親に面会するのに理由など要るのであろうか。答えあぐねているのを見かねた係官が僕の代わりに答えを教えてくれた。

「藤本さんが渡辺受刑者の実の子であることは、頂いた書類で確認させていただきました。ただ、除籍されてもう16年が経っていますから、今になって面会を申し込まれるからには、それなりの理由があると思うんですが。」

 僕は、何と返答してよいのやら分からず、相変わらず黙ったままでいた。

「それと、藤本さんはまだ未成年者ですが、親権者の方は、今日あなたがここに来られることを承知しておられるのですか。」

 親権者? 親権者って何。僕はまずこの言葉の意味が理解出来ずにつまずいた。どうやら、受刑者に面会するのは簡単なことではなさそうである。僕はようやくそのことに気づいた。係官は、これ以上尋ねても無駄と分かったのであろう。

「では、面会の日時を知らせる通知状をお送りしますので、今度はそれを持ってお越しください。」

 ある程度覚悟はしていたが、やはりすぐには面会できなかった。何しろ相手は死刑囚。たとえ家族と言えども、除籍されて16年も経って、しかもハッキリした理由もなくいきなり面会に来ても、会わせろという方が無理な話であった。仕方なく、僕は受付から退散した。

 その日から1週間後くらいに通知状が来た。しかし、運悪く、というか当然のことながらその手紙は母の目に留まるところとなった。

「た、卓也。こ、これって。」

 母は、突然の通知状の送達に狼狽した。まさか僕が、母に内緒で父に面会しようとしていたなどとは思ってもいなかったのであろう。

「あの人に、あの人に、父さんに会いに行くのだけは止めて。お願いだから。」

 母は、懇願するように僕に取りすがった。そんな母を僕は冷たくあしらった。

「実の子が実の父親に会いに行く。それのどこが問題なの。」

「だって、あなたは、あの人が本当はどういう人なのか知らない。もし、それを知ったら絶対後悔する。」

 母は、確信を持ってそう言い切った。まるで父が、鬼か蛇か、とでも言いた気な口振りである。それほど父とは恐ろしい男なのか。確かに2人の幼な子を訳もなく殺し、死刑囚となった。恐ろしくないはずはない。でも、どんな鬼にも血は通っているはず。ましてや父は死刑囚。いつ死刑執行がなされるかも分からない。父に会わずして、そう父がどういう男だったのか知らないままに、済ませてしまうことなどこの僕には到底出来ない。生まれてこの方16年間も隠され、騙され続けてきた。その端緒をようやく掴んだというのに、このまま通り過ぎることは出来ない。僕の決意は固かった。

 しかし、結論から言うと、この母の考えは正しかった。あの時、この僕が素直に母の忠告を受け容れて父への面会をしなければ、少なくとも僕と母は共に平和で幸福な一生を送っていたかもしれない。僕が、父に会いに行ったがために、悲劇の劇場の幕が開いてしまった。


 面会の日が来た。やっとのことでたどり着いたこの日。僕は、興奮のあまり昨夜はほとんど眠ることが出来なかった。一体、父はどんな顔をして僕に合間見えるのか。

 予定の時間より30分も早く拘置所に着いた僕は、受付で手続きを済ませた。今日は、通知状があったため、ほとんど何も聞かれずに面会室へと進むことが出来た。

 待っている間、緊張のあまり僕の体は小刻みに震え、喉がカサカサに渇いていくのが分かった。喫唾しようにも唾液も出ない。そしてなぜか息も苦しい。もうあと一分もこのままにしていると失神してしまうのではないかと思ったその瞬間、窓の向こう側の小部屋の扉が開く音がした。僕の心臓は、胸から飛び出さんばかりに高鳴った。一体、どんな恐ろしい殺人鬼が姿を現すのか。アクリル製の窓に仕切られているというのに、襲われる心配など絶対無いはずなのに、僕の頭の中をアドレナリンが駆け巡り、僕は一瞬身構えた。

 しかし、看守に連れられて入ってきた父の姿を見て、僕は拍子抜けした。と同時に、ヘナヘナと椅子の上にへたり込んだ。父の姿は、凡そ凶悪殺人鬼とは思えない、柔和な表情の小柄な中年男であった。殺人犯だと言われなければ、全く普通のおじさんである。丸い目に、小さな鼻、少し肉厚の唇、一見して血の繋がった親子だと思った。ひげはきれいに剃られ、顔の色艶もよい。これが刑の執行を待つ死刑囚かと思わせるほどの落ち着きぶりであった。

「では、時間は30分です。私はすぐ扉の外にいますから、何かあれば。」

 看守は、一言そう言い残すと、部屋から出て行った。

 密室で二人きりになると、僕の心臓は再び高鳴った。一体、この男はこの僕に何を話すのか。そして、僕はこの男に何を話せばよいのか。部屋の中は、二人の鼓動の音が聞こえるのではないかと思われるほどの静寂に包まれた。口を開くことが憚られるような重苦しい空気がその場を覆っていた。持ち時間は30分しかとないというのに、もう1分2分が過ぎてゆく。

 最初に沈黙を破ったのは父の方であった。

「お前が、卓也か。」

 少し低いが、ハッキリとした口調で父は尋ねた。僕は黙ってうなずいた。

「幾つになった。」

「16。」

 全く感情のないモノトーンなやりとりが続く。

「そうか、もうそんなになるか。早いもんだな。あんなに小さかったのにな。」

父は、フーっと大きな嘆息を漏らすと、チラリと脇を向いた。そうであろう。何しろ父が逮捕されたのは僕がまだ1歳にも満たない乳児の頃。父は、その後の10数年間をずっと拘置所と拘置所の中で過ごしてきた。訪れる家族もなく、もちろん家に残してきた母や僕のことなど知る術もない。その間、ずっと裁判に次ぐ裁判、判決が出た後も再審請求と、父は拘置所の中で生と死の間をさ迷い続けてきた。

僕は、最も聞きたいと思ってきたことをどう切り出せばいいのか迷っていた。「なぜ。」、その一言がなかなか口に出せず、相変わらず黙りこくっていた。しかし、程なくその答えは父の口から出た。

「お前、オレが何であんなことをしたのか、それが聞きたくてここへ来たんだろう。」

 図星であった。というより、父にとっては当たり前のことだったのかもしれない。10数年前も経ってわざわざ死刑の確定した囚人に会いに来る、それ以外に目的などありようはずもない。僕は、またしても返す言葉を探しあぐねて、視線をそらした。

 再び重苦しい沈黙が流れた。その時、僕はふと嫌な予感に襲われた。僕はこのところ人一倍神経過敏になっていた。その過敏症が、わずかに歪む父の口角をとらえた。聞いてはいけない、すぐにこの場を立ち去れ、でないととんでもない不幸がお前を襲う、と誰かが囁いたような気がした。

しかし、次の瞬間、逃げ出す間もなく父の口から思いもよらない言葉が飛んできた。

「卓也、お前、虫を殺したことはあるか。」

 僕は、最初、父が何を言っているのか、すぐにはその言葉の意味が分からなかった。

「虫?」

「そう、虫だよ。虫を殺したことがあるかって、聞いたんだ。」

 僕は、父の意図するところを測りかねて、口をつぐんだままでいた。一体、父はこんな質問をすることで何をしようというのか。しかし、次の瞬間、父の口角はさらに不気味に捻じ曲がった。

「フン、どうせ、蚊やハエぐらいだろう。もっとでかいのはどうだ。」

 父は、まるで僕の心の内を見透かしているかのように、鼻先で笑ってみせた。

「ムカデはどうだ。ムカデは。」

 ムカデと言われて、僕は背中がぞくりとした。実を言うと僕はムカデの実物を見たことがなかった。百科事典で初めてそれを見て、この世には何と気持ちの悪い生き物がいるものだと思ったものである。父は、そんな不気味なムカデを殺したことがあるのだろうか。

「そうだろうな。今時、都会じゃムカデなんて滅多に見かけないからな。だが、俺が子供の頃には一杯いた。田舎の家だったからな。夏になれば天井や畳の上、家の中のそこいら中をよく這っていた。俺はあいつが嫌いだった。まあ、好きなやつなんていないだろうがな。俺はあの醜い姿を見つける度に心の底から怒りと恐怖を覚えた。なぜこんな不気味な生き物がこの世にいるのか、と思った。」

 ムカデが家の中を這いずり回っている。それを想像するだけで、僕の心臓は既にドクドクと波打っていた。しかし、父は、さらにその僕の心臓を停止させるような暴言を口にした。

「俺は、あの日、そうあの暑い夏の日、家の壁に張り付いているデカイのを見つけた。10センチほどもあるでかいやつだった。黒光りがする背中に、赤い腹、それぞれの節についた足がゾリゾリと動いている。俺は恐怖のあまり目が点になった。あの時だった。こいつを生かしておいてはいけない。こいつはすぐに始末されなければならない。それも、こいつの体にふさわしい出来るだけ残酷な方法で、とな。」

 そして、父、いやもうただの父ではない、鬼父の話はこの後、語るもおぞましい展開をみせる。

「俺はムカデをしっかりと竹の棒で抑えつけた。ムカデは見つかったとわかったのか、身を捩じらせて圧迫から逃れようとする。あの醜い体を何度も何度もくねらせてな。俺は、ムカデが動けないようにと、用意してきた虫ピンでムカデの頭と尻、そして体の丁度真ん中辺りを壁に釘付けにしてやった。そう、まさに壁に磔にされたムカデは百本の足をジタバタと動かした。自分がなぜ動けないのか、百本もある足をこんなに動かしているのになぜ前に進まないのか。あいつにはそれがわからない。」

 僕は、あまりの恐ろしさに完全に凍り付いていた。全身が石のようになり、息も出来ず、瞬きも出来ず、ただただ鬼父を凝視していた。その鬼父の口はさらに邪悪に歪んでゆく。

「俺は、ムカデを処刑してやった。そう、爪切りを使ってな。プチリプチリと音を立てて、1本ずつ。百本切り落とすのに20分もかかったよ。そしてゆっくりと虫ピンを抜くと、素っ裸にされたムカデ君は、ポタリと地面に落ちた。まだ自分の体に何が起きたのか分かっていないムカデ君はクネクネと足のなくなった体をくねらせていた。アッハハハ。」

 鬼父の口が大きく割れ、中から不気味な歯がギラリとのぞいた。僕は全身の震えが止まらず、食道の中を胃液が逆流してくるのを覚えた。思わず口を押さえて部屋を出ようとした僕の後姿に向かって、鬼父はさらに追い討ちをかけるように声を浴びせた。

「おや、もう帰るのか。最後まで聞かなくていいのか。話はまだ半分も終わってないぞ。」

 僕は、なぜかそこで逡巡した。出ようと思えばすぐにでも逃げて出られたのに、なぜか足が動かなかった。僕は、不思議な感覚に囚われ始めていた。怖い、いいようもなく怖いのに、なぜか続きが聞きたいと思った。それはまるで怖いと分かっていてお化け屋敷に入りたいと思う、あの感覚に似ていた。怖い怖いと言いながら指の隙間からホラー映画を覗き見する、あれに似ていた。止せばよかったのに、僕はきびすを返してしまった。

「そう、そうだろう。お前はやっぱり俺の子だ。最後まで話を聞かずには帰れない。」

 鬼父は不遜な笑みを浮かべた。

「よし、じゃあ次は毛虫の始末の仕方を教えてやろう。俺の家の庭にはな、昔柿の木が一本あった。当時は、田舎に行けばどこの家でも柿の木があった。秋になればたくさん実がなって、それをもぐのが楽しみだった。ただ、そのためにはどうしてもやらなければならないことがあった。害虫の駆除だ。虫のやつらめ、春になると柿の木の新芽を食べに来やがる。それも一匹や二匹なんてものじゃない。何十匹という集団だ。そいつらがうじゃうじゃと木にたかって新芽を食い尽くす。」

 僕は、再び背筋がぞくりとした。何十匹という毛虫がたかった柿の木、想像するだけでも鳥肌が立った。しかし、その後の鬼父の話は、さらに身の毛もよだつものに発展していく。

「俺は思った、こいつらを始末しなければならない、それもこいつらの姿形にふさわしい、出来るだけ残虐な方法で、とな。普通、農家では毛虫を駆除するのに農薬を使う。噴霧器に入れた水に農薬を溶かし込んで、後は木に放射する。それで、大抵の毛虫はお陀仏だ。でも、俺のやり方は違う。もっと丁寧で確実だ。」

ニヤリ。僕は、ここで鬼父の顔を見上げて卒倒した。目は充血し、口は大きく裂け、口角にはすでに泡が立ち、鬼父は囚人服の袖口で垂れ落ちる唾液を拭った。

「俺は、用意した虫ピンを一本プスリと毛虫君に刺してやった。虫ピンは毛虫君の体を貫き、しっかりと柿の木の枝に突き刺さった。毛虫の奴、逃げようと必死になって体をよじらせる。でもどうしても逃れられない。毛虫はさらに大きく身を捩じらせる。その時、2本目の虫ピンが、プスリ。2本のピンが刺さるとさすがにもう動けない。磔にされたも同然だ。」

 僕は、あまりの気分の悪さに両の手で口を押さえた。洗面器があれば、間違いなく吐き上げていただろう。そんな苦しさの中で、僕は辛うじて狂者の結語を耳にした。

「後は動けなくなった毛虫君をゆっくり料理するだけだ。1本、また1本と虫ピンが刺さっていく。新芽を腹一杯食い尽くした毛虫君は、これ以上ないほどにパンパンに膨れ上がり、ピンが刺さる度にダラダラと緑色の体液を滴らせていく。1本刺さるごとに大きく体をくねらせて苦悶する。ざまあ見ろだ。柿の木の新芽を食べた天罰だ。10本もピンを刺すころには、毛虫君は小さく萎み、動かなくなった。

それから、1本また1本とピンを抜いて・・。」

「やめろー、やめてくれ。」

 僕は、両耳を塞いで絶叫した。鬼父だ、間違いないこいつは鬼父だ。こいつの体の中には鬼の血が流れている。僕は、そう確信した。

「どうしたんです。何かありましたか。」

 僕の絶叫が聞こえたのか、奥の扉がガチャリと開いた。

「こいつを、こいつを、早く死刑にしてください。早く、早く、死刑に。」

 僕は、再び絶叫した。自分の親を早く死刑にしてくれと言う。常人には言えたものではない。しかし、今目の前にいるのは、僕の父親などではなかった。父の仮面を被った鬼だ。この鬼を退治するには吊るし首にするしかない。僕は、咄嗟にそう思った。

「おい、お前、一体この子に何を話したんだ。」

 看守が鬼父に詰問する。

「別に何も。ちょっと虫の殺し方を教えてやっただけですよ。」

 鬼父は、ニタリと笑った。

「よし、終わりだ。もう時間だ。」

 看守に促されるように、鬼父はゆっくりと立ち上がった。僕は、軽いめまいを感じて、ヘナヘナと椅子の上に崩れ落ちた。鬼父は面会室を出て行く瞬間チラリと僕の方を見やって、再び邪悪な笑みを浮かべた。

「お前にもいつか分かる日が来るさ。お前の体の中にも俺と同じ血が流れているからな。『カエルの子はカエル』、さ。へへへ。」

 鬼父は、不気味な笑い声を残して扉の奥へと消えていった。

 やはり母の言ったことは正しかった。あの男に会ってはいけなかったのだ。僕の考えが甘かった。いくら恐ろしい殺人鬼でも、実の子に会えば少しは心が動くだろう。僕は父の心の中に微塵の情の欠片が残っていることを期待した。しかし、そんな僕の期待は無残にも打ち破られた。やはりあいつは鬼父だった。

そして、何よりも非情だったのは、ぼくが鬼父の犯した罪の真の「動機」とやらを聞いてしまったことだ。結局、動機などなかったのだ。鬼父は最初から自身の邪悪な欲望を満たすために、虫を殺し、そして最後には同じように人の子までを手に掛けた。あの虫たち以上の残忍なやり方で。僕は恐ろしくてその詳細をここにしたためる術を知らない。その言葉も思い浮かばない。虫の話だけでご容赦いただきたい。後は、読者のご想像におまかせする。

僕が、唯一言えることは、『快楽殺人』なるものが本当にあったということだけである。


あの日以来、僕の悶々が再び始まった。これまでに味わったことのない深い、深い苦しみ。僕は、そのまま、また何日も部屋にこもった。部屋にこもり、あの鬼父が語った話を何とか消化しようとした。

しかし、どんなに時間をかけても、僕の悶々は消えることはなかった。それどころか、今度は僕の心の奥底に、あの鬼父と同じ邪悪な心が密かに芽生え始めていた。

『カエルの子はカエル』、鬼父が最後に言い残した言葉。なぜか、あの言葉が無性に気になり始めた。カエルの子はカエルとはどういう意味か。僕もいずれあの鬼父と同じ殺人鬼になる、そういう意味か。

何日も眠れぬ夜を過ごし、僕の頭の中は次第に溶けるように夢と現の境を行き来し始めた。そして、僕が最後にたどり着いた結論とは。

それはインターネットの中にあった。『精神異常、遺伝』とキーワードを入力してENTERキーを押し下げる。続いて5万件という膨大な数字が出てきた。こんなにたくさんの情報が。やはりカエルの子はカエルなのだろうか。精神異常は遺伝するのか。僕は、そこに記された記録を一件、一件丹念に調べていった。

僕と同じような悩みを抱えた人のブログに始まり、難解な専門家の研究レポート、精神障害者を擁護するNPO団体の記事、等々何時間掛けても読みきれないほどの膨大な量の情報が、僕の目から脳へと送られていった。そんな中で、僕は一編の研究レポートに目を留めた。日本のものではなかった。よくは覚えていないが、アメリカの大学のとある教授が書いたレポートを翻訳したもののようであった。

そのタイトルは、『人はなぜ快楽殺人を犯すのか』。FBIの特別捜査官を経験したことがあるという筆者の研究は実に生々しいものであった。あの有名な小説『羊たちの沈黙』に書かれていたようなことも一杯書いてあった。そのレポートはこんな一節で終わっていた。

「一般的には精神病が遺伝するという病理学的根拠はない。いわゆる『精神病の家系』というのは遺伝的ファクターよりは、むしろその人が育った環境的ファクターによるところが大きい。例えば、親が粗暴で残虐性を好む性格であれば、多かれ少なかれその子はそうした親の一面を見て育つ。成長過程で親の残虐性に触れることもあれば、自らがその犠牲になる場合もある。それを体感することで、脳内の感情野に著しい障害を来たし、大人になった後も正常な人格を確立できずに、犯罪に走ってしまう。つまり、子の残虐性は、遺伝によるものではなく、その育った環境によるものである。」

 僕は、これを読んでホッとした。よかった、精神病は遺伝しない。カエルの子は必ずしもカエルにはならない。父親がどんな凶悪殺人犯であっても、必ず僕が凶悪殺人犯になるということではない。僕は物心ついてからはあの鬼父とは別れて暮らしている。そう、優しい母の手で育てられた。環境的ファクターに問題があろうはずもない。よって僕が凶悪殺人犯になることはない。

 そのことは自身が一番よく分かっていた。子供の頃から虫一匹殺せない、どうしようもなく気の弱い性格に育った。そんな僕に凶悪殺人など犯せるはずはない。僕は、妙に納得してほくそえんだ。しかし、そんな僕の安堵感は、間もなく打ち破られることになる。この論文にはまだ続きがあったのである。

「ただ、ごく一部には生化学的にみて遺伝性があると指摘する学者もいる。長年に渡り凶悪殺人犯の脳内物質のバランスを調べた結果、そこにはある共通点が見られたという。すなわち、凶悪殺人犯においては他の一般人に比べて、アドレナリン受容体に問題があり、そのためにアドレナリン依存症を発症しやすいというものである。アドレナリンは、人が恐怖や危険に対する防御体勢を取るのに必要な脳内化学物質であり、この物質が分泌されると脈拍増加、血圧上昇等の興奮反応を生じる。

一般的にはギャンブル依存症がその一例とされている。すなわち、ギャンブルで一度大勝ちすると、その時の興奮が忘れられず、ズルズルとギャンブルにのめりこんでゆく。これまでは、生活習慣や人間の嗜好等個人的なファクターによるとされてきたが、近年では薬物依存に類似した精神疾患として捉えるのが主流となっている。この他にも類似の症状として、買い物依存、ゲーム依存、ホラービデオ依存など、様々な依存症が研究対象とされている。

ホラービデオ依存症の患者を対象にした調査で、ビデオを見ている時の被験者の脳内ではアドレナリンの前躯体であるドーパミンの分泌が著しく増加することが確認された。これは、依存症の患者がその対象物に依存することで興奮や快感を得ているということを意味する。そして、同様のことが、性犯罪、快楽殺人等の原因にもなる可能性が指摘されている。 

この学説は、今のところ学会の中でも少数意見であり、根拠も薄いとされるが、最終結論を下すには更なる調査と実例研究が必要と考える。」

 僕は、この一節になぜか拘泥した。普通に読み流してしまえばどうということがない一節であった。少数学説など信頼しなければ、それで全ては終わっていた。しかし、それに妙に拘ったのは、やはり僕の心のどこかに鬼が潜んでいたからなのであろうか。

 僕は、再び悶々とした世界に浸りこんでしまった。やはりカエルの子はカエルなのだろうか。そして凶悪殺人犯の子は凶悪殺人犯なのであろうか。僕の脳内の奥底のアドレナリン受容体にも問題があり、それが原因で僕もやがては快楽殺人依存症になってしまうのか。

オタマジャクシもいつかはカエルになる。全く違う姿かたちをし、大人しそうに水の中をゆらゆらと泳いでいるオタマジャクシ。しかし、いつかは足が生え、エラがなくなり、水の中から外界へと飛び出していく。そして、虫を取ってムシャムシャと食べてしまう、あの不気味な姿になるのだ。


 そんなことをつらつらと考えながらも、僕はようやく学校に復帰した。ただ、いつも見慣れていたはずの校舎や教室、そしてクラスメイトたちの顔が全く違って見えた。同じものを見ているはずなのに、なぜか全てに色がない。モノクロの映画を見ているようだった。あの鬼父の顔が常に頭のどこかにあり、あの鬼父の声が常に頭のどこかで聞こえ、そしてあの研究レポートの文字が常に目の奥に見えた。

そんなある日、とうとう事件は起きてしまった。どうということはない普通の事件だった。いや全く事件なんていうものではなかった。そう、普通の人にとっては。

その日は、インフルエンザの予防接種の日だった。予防接種自体は別に強制ではなかったが、僕の通う高校では受験シーズンを前に、例年希望者に集団接種が行われていた。僕も、毎年のように予防接種は受けていた。確かに効き目があるのか、子供の頃はよく風邪で熱を出していたのに、予防接種を受け始めてから風邪で寝込んだことはなかった。

世の中に注射が好きな人はいないだろう。チクリとした針の刺さる痛み、そしてジワーと薬液が入っていくあの不快な痛み。子供のようだと思われるかもしれないが、何を隠そう僕も注射は大の苦手だった。僅か2、3秒のことが辛抱できず、いつも目をつむって脇を向いていた。

その日も同じだった。皆、腕まくりをしてもいつものように順番に並んでいる。僕と同じように、恐る恐る袖を手繰り上げている奴もいれば、どこにでも打ってくれとばかり豪快に片肌脱いでいる奴もいる。でも、皆にぎやかにワイワイ言いながら順番を待っていた。いつもと変わらぬ光景であった。

白衣を着た医者と看護士が何十本と積まれた注射器を一本一本手にとっては、次々にクラスメイトの腕に刺していく。皆、一瞬眉をひそめるが、終わるとすぐ笑顔になり教室に戻っていく。僕は、いつもと同じようにドキドキしながら順番を待っていた。

そしてついに僕の順番が来た。

「はい、腕の力を抜いて、楽にしててね。」

 余程、緊張したように見えたのか看護士が笑いながら、アルコールを染み込ませた脱脂綿を僕の二の腕に当てた。ヒンヤリした脱脂綿の感覚が肌に伝わったその瞬間、僕の脳内をアドレナリンが駆け巡った。これは何だ、この感覚は一体・・。僕が頭の中の混乱を理解する間もなく、注射針がプスリと僕の肌を貫いた。いつもと違う感覚が僕を襲った。どう表現したらよいのか分からない。ただ、いつものような嫌な感覚ではなく、なぜか不思議と気持ちよく感じた。僕の脳内をアドレナリンの洪水がザーッと流れていくのが分かった。

「はい、終わりましたよ。後、よく揉んでおいてくださいね。」

 気が付いた時、もう注射は終わっていた。僕は、不思議な気持ちに包まれたまま保健室を後にした。

ほんの微かな、注意しなければ分からないほどの心の奥底の揺らぎ。この時、僕はこの不思議な気持ちが悪魔の囁きだとは気が付かなかった。

 その日の夜、僕はじっと注射の跡を眺めながら、昼間のことを考えていた。なぜあんなことが起きたのか。あの不思議な感覚は何だったのか。僕は、そっと左腕に触れてみた。注射の跡は少し赤みを帯び熱っぽかった。軽く押すとずんとした鈍い痛みが腕から脳に伝わり、再びアドレナリンが脳内を循環した。そして、ついに僕は禁断の実験を決行してしまった。

 夜も更けて母が寝静まった頃、僕は二つのものを用意した。一つは裁縫箱の中から、そしてもう一つは救急箱の中から。僕は、震える手で消毒薬のビンの蓋を開けると脱脂綿に液を染み込ませた。僕の脳内のアドレナリン分泌量は急速に増加し、心臓の鼓動が感じられるほどに脈拍が速くなった。しかし、僕の右手は止まらない。いや止めることが出来なかった。僕は、ゆっくりと片肌を脱ぐと上腕に濡れた脱脂綿を当てた。ビーン、昼間と同じ感覚が脳内を貫いた。

そして、次の行動の準備を始めたとき、僕は心臓が止まるのではないかと思うほどの興奮に包まれていた。吐く息は荒く、口の中はカサカサに乾き、異常な刺激が体全体に走る。僕はゆっくりと右手の人差し指と親指でつまんだ縫い針の先を、先ほど脱脂綿で拭いた後に当てた。軽く右手に力を込めると、針の先はわずかに皮膚の中に消え、微かな痛みが皮膚に走り、昼間と同じ感覚が僕の脳内に蘇った。これだ、あの不思議な感覚はこれだったのだ。初めての経験であった。初めて経験する自傷行為。

腕に刺さった針を抜く時、僕は何ともいえない快感を覚えた。針を抜いた後に小さく湧き出した赤いポッチ、赤い血玉が僕の興奮を倍加させた。これが地獄の始まりだった。


 あれから3ヶ月後、僕は新聞で父の死刑執行の事実を知った。法務大臣が執行許可書に署名したのである。今回は全部で3名、いずれも強盗殺人などの凶悪犯罪者ばかりであった。父の死刑執行の知らせは母のところにもなかったようである。無論、周囲の誰も知らない。近所の人も、学校のクラスメイトも、『渡辺正二』という人物が僕の実父だったということには微塵も気づいていなかった。

あの写真が出てこなければ、あの裕也兄さんの写真さえ出てこなければ、母の完全犯罪は成立していた。これまで16年間隠し続けた事実、引越しもし、戸籍も抜き、父に関する全ての情報を消し去り、僕を鬼父の悲劇から守り通したはずだった。時効まであと一息というところで、非情にもあの写真が出てきた。

 鬼父は、地獄で嘲笑っていた。

「カエルの子はカエルだ。」

僕の耳には、あの鬼父の声がハッキリと聞こえた。拘置所の中で、鬼父が最後に残した言葉、それは僕を地獄に引きずり込む悪魔の囁きであった。

 僕は、自身の運命を呪った。あと半年、あと半年父の死刑執行が早ければ、僕はカエルの子にならずに済んだ。実の父親が凶悪殺人犯だったというも知らずに、僕は平和で平凡な人生を送っていたであろう。母もそれを一番望んでいたはずだった。別に、偉くならなくてもいい、立身出世もしなくていい、とにかく一人の人間として何事もなく一生を送ってくれる。それだけで十分だと。

 結局、母は父の死刑執行については一言も言葉を発しなかった。僕の方からも敢えて話すこともなかった。実の父親が死んだというのに、その死に顔を見ることはおろか、その名前すら口にすることはなく、母と子は静かにその魂が地獄に堕ちていくのを見送った。

 しかし、鬼父が死んでも物語は終わらなかった。いや、それどころかこの地獄劇は、その最終章へ向け、さらに狂気の度合いを増していく。

 あれからも僕の自傷行為は相変わらず続いていた。もう縫い針を刺すぐらいでは効き目がなくなり、とうとうカッターナイフを手にしてしまった。最初は、怖さ半分、好奇心半分だった。僕は、恐る恐るカッターナイフを左腕に押し付けるとゆっくりと下に引いてみた。艶々とした肌が割れ、中からわずかにピンク色の肉がのぞいた。不思議と痛みは感じなかった。脳内の快感物質が痛覚神経を麻痺させ、むしろ快感の方が勝っていた。

 しばらくすると開いた傷口にフツフツと血玉が沸いてきた。そんな大量の出血ではない。ティッシュで拭けばすぐに血玉は消えた。ただ、赤い血の色は余計に僕の興奮を高めた。もう自分でも何をしているのか分からない。自身で自身の体を傷つけそれで喜びを感じる。そんなバカな、と思うことがいま目の前で現実に起きていた。

 僕は、今確信を強めた。やはり僕はカエルの子だったのだ。いくら隠しても、いつかは足が生え、エラがなくなり・・。僕は、その先を考えないようにした。一体、この異常な感覚はどこまで拡大するのか。自分の体を切り刻むだけでは飽き足らず、やがて他人の体を切り刻むのではないか。そんな恐怖心がムラムラと沸いてきた。

僕は、大慌てで傷を隠した。この傷が母に見つからないようにと、特大の絆創膏をぺたりと貼り付けた。若い体は傷の治りも早い。幸い傷跡は1週間ほどで僅かな細い線を残してすっかり癒え切った。でも、僕の脳内の傷は癒されなかった。いや、それどころか邪悪な鬼父の血は、ますます強力に僕の心を支配していった。


 僕が、カッターナイフで自傷行為を始めて2ヶ月、ついにその日はやって来た。その夜、母が寝静まったのを確認した僕は、いつものようにカッターナイフを手にした。もう繰り返し同じ場所を切っているので、腕の傷跡は醜く肉が盛り、どす黒く変色していた。

 僕は新天地を求めて上半身裸になった。僕は、自身の裸体を鏡で見て興奮した。若い体は色艶もよく、肌にも張りがあった。僕は、今度は乳首の少し上、鎖骨の下あたりにカッターナイフを当てると胸の方に向かって引いてみた。胸のあたりは腕よりも痛点が多いのか、いつもよりは強い痛みを感じた。同時に、今までなかったような大量のアドレナリンが脳内に噴出した。切り口から滲み出た血玉が一つまた一つと集まって成長していく。やがてツーと乳首の脇を通り上腹部に向けて赤い糸が伸びた。

 その瞬間である。地獄劇の最終章の幕が突然開いた。予鈴も、何の前触れもなく、幕が上がってしまったのである。そこには、何の準備もできていない役者が一人座っていた。

「卓也、夜食持ってきたわよ。」 

 最終章の最初の台詞は母だった。寝入っていたはずの母が、なぜここに。普段は、夜食なんか滅多に持ってこないのに、今日に限って。母は、何か気配を、そう鬼の気配を感じたのかもしれない。

僕が、胸の傷を隠す間もない、アッという間の出来事だった。母は、僕の姿を見るなり、両手の力が一気に抜けた。手にしていた夜食のラーメンが、音を立てて僕の部屋の床一面に飛び散り、ラーメン鉢が真っ二つに割れた。その時の母の表情は、どう表現しても表現しきれない。母は、呆然として部屋の入り口に立ち尽くしていた。

 僕の狼狽振りも相当なものだった。あまりに混乱して、次の台詞を忘れてしまった。大勢の観客が見守る中、二人の役者が対峙したまま台詞のない時間が過ぎてゆく。観客は沈黙も劇の一部だと思ったことであろう。その、長い、長い異常な沈黙を破ったのは、母の号泣する声だった。

 僕は、何も言わず、流れ出た血を拭くこともなく、シャツを着た。何も言えない、言う言葉もない。僕は、ただただ黙って、母の慟哭する姿を見つめていた。どのくらい時間が経ったであろう。母は、ようやく顔を上げた。あの時の母の顔は一生忘れない。泣き腫らした目からは血の涙が流れ、血の気の引いた唇は微かに震え、眉間のしわは一層深くなり、顔色には死相が漂っていた。

「同じ、同じだった。あの時と同じ。どうして、どうして、こんなことが・・。」

 母は、震える声で、意味不明の言葉を口にした。「同じ?」、一体何が。

そして、次の瞬間、僕は驚愕の台詞を、僕の台本には載っていなかった狂気の台詞を、絶対聞いてはならない言葉を、耳にしてしまった。

「あの人と同じ。あの人も最初、そうだった。」

 「あの人?」、 あの人って誰? まさか。

「あの人よ、あの人。そう、あなたのお父さん、そして私の夫だった人。渡辺・・」

 と言い掛けて母は再び慟哭の淵に沈んで行った。長い、長い、悲痛な叫び。聞いているだけで胸が張り裂けそうな悲鳴。僕は、母の号泣する声を黙って聞いていた。

 その夜、母は何時間も掛けて、ゆっくりとゆっくりと、そして何度も何度もつまずきながら驚愕の回顧談を語った。それは、語るにおぞましい狂気の内容であった。

 あの時の、母の話を整理すると大概以下のようになる。

 鬼父『渡辺正二』も最初は自身の体を傷つけることから始まったという。「ピアスをする」と偽りの言い訳をして腕や腹に針で穴を開けたり、刺青を彫ったりもしたという。それが次第にエスカレートし、ナイフで腕や肩を切るようになり、やがてその魔の手は、裕也兄さんや僕にも及び始めることに。

「卓也、ちょっとシャツを脱いでみて。」

 母は、唐突に僕にシャツを脱げと言った。僕は嫌だった。別に、母に僕の裸体を見せるのが恥ずかしかったわけではない。先ほど自分で自分を傷つけた、あの傷を見られるのが嫌だった。僕は、しかし、言われるがままにシャツを脱いだ。胸の傷からの出血はとっくに止まり、赤黒く糸を引いた血の後が不気味な姿を残していた。

 母は、そんな傷などまるで目に入らぬという素振りで、今度は僕に後ろを向けといった。一体、僕の背中に何があるというのか。僕は、ゆっくりと椅子を回転させて母に背を向けると、横目で鏡に映った自身の背中を見た。母は、ゆっくりと僕の後ろに近づくと、僕の背中をそっと指でなぞった。母の冷たい人差し指が肩甲骨の脇の当たりに触れ、ゾクッとするような感触が全身に伝わった。

 その時、僕は鏡の中に見てはならないものを見てしまった。

「ほら、見える。この傷痕。」

 母は、今一度、その場所を指でなぞった。よく目を凝らして見ないと分からないような微かな皮膚の変色。それは細い糸のように僕の肩甲骨の脇から背中の方へと伸びていた。今まで、全く気付かなかった。それ程、微かで、細い線。しかし、僕は、その傷跡に見覚えがあった。どこかで見たような傷跡。アレだ、アレと同じ。初めてカッターナイフで付けた傷、その癒えた痕にそっくりであった。その後、僕は、母の口から驚愕の事実を知らされた。

「コレ、あの人が付けたの。」

「エッ?」

 僕は、一瞬わが耳を疑った。鬼父が、狂気の刃を僕の背中にも押し当てていたのだ。それもわずか生後6ヶ月の赤ん坊の背中に。

 その後、母はゆっくりと着ていたパジャマのボタンを外し始めた。僕は、とても嫌な予感に襲われた。この先を見てはいけない。ここから先は禁断の聖域。僕の心臓が心室細動を起こし始めた。口の中がカサカサに干上がり、息が出来ない。しかし、母の手は止まらない。ゆっくりと諸肌脱いだ母の肩から背中にかけて、例の傷跡が不気味な姿を現した。

「この私の傷、あなたの背中の傷と同じ時に出来たのよ。」

 アア・・。何と言うことか。僕は、この瞬間、これまで何百回と見続けてきた夢の正体を知った。それは、フラッシュバックのように生々しく僕の脳裏に蘇った。生後間もなかった僕は、まだ白い天井を仰ぎ見て寝ることしか出来なかった。遠くで聞こえる子供の泣き声、あれは間違いなく裕也兄さんの泣き叫ぶ声。やがて、鬼父の魔の手はまだ乳児だった僕にも及びそうになり、それを必死に庇おうとする母。僕を胸の中にしっかりと抱きしめたまま、母は鬼父の刃を背中に受けた。これが悪夢の正体だった。いや、夢なんかではない、16年前、現実に起きた事件だったのだ。

 全てを語り終えた母は、そっと僕の背中に頬を当てた。これまで16年間育ててきたこの僕をいとおしむかのように、母は何度も僕の背中に手を当てた。僕の背中は、母の頬が濡れているのを敏感に感じ取った。裸で抱き合う母子、その2人を優しく包むように窓から柔らかい朝の暁光が差し込み始めた。

僕は、そっと目を閉じて、母の次の台詞を待った。覚悟は出来ていた。

「卓也ー、許してー。」

 その絶叫と共に、母は目にも留まらぬ速さで僕の勉強机の上に置かれていたカッターナイフを手に取った。次の瞬間、僕の右わき腹に激痛が走った。ズブズブズブ、ナイフの刃が腹の中にめり込んでいく。皮膚を貫き、肉を切り、さらにその奥底に隠れている肝臓の奥深くまで、刃先が到達していくのがハッキリと分かった。これまで感じたことのない激しい痛み、息も出来ないほどの苦しさ。にも関わらず不思議と恐怖は感じない。脳内に溢れ出したアドレナリンが、恐怖心と痛みを消し去り、奇妙な快感だけが残った。究極の自傷行為。

 これでよかったんだ、これで。僕の心の中は不思議な安堵感で満たされつつあった。母は、僕が完全なカエルになり切る前に、それを制止しようとした。僕が、あの鬼父と同じ鬼の子になる前に、この地獄の惨劇の幕を自らの手で下ろしたのである。

 薄れ行く意識の中で、僕がかろうじて最後に目にしたものは、母の首筋から真っ赤に上がる血飛沫の一閃であった。

 結局、母は頚動脈断裂により即死。一方、僕はというと三日三晩生死の境をさ迷った挙句、何故かこの世に呼び戻された。あの時、僕は無意識の中で鬼父の声を聞いた。間違いない、あれは鬼父の声だった。

「卓也、お前はまだ早い。お前には、まだやり残したことがあるだろう。カエルの子はカエルだ。」


あれから15年。僕は、今忠実に鬼父の遺言を守って生きている。自傷行為の癖は何とか克服したが、最近は他傷行為の方に凝っている。

今日も、僕は、生きた人の体を切り刻んでいる。生身の体を切って、切って、切りまくり、手も、腕も、人の血で真っ赤に染まっている。でも僕は、決して警察に捕まることはない。いくら切り刻んでも絶対に捕まらない、罪を問われることもない。なぜなら、メスを握るのが僕の職業だからである。(了)

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