6 ジュリア

 走って逃げようか、それともどこかに隠れようか。

 しかし眞奈の体は動けず、かろうじて近くにあったカーテンの横に退いただけだった。


 女の子は落ち着いた足どりでこちらに向かって来た。


 眞奈が驚いたことには、彼女はあまりにリアルで、きちんとしていた。影が薄いところやその他不安を感じさせるところはなかった。

 それどころか頬には血色があり、息づかいも感じられる。彼女は完璧に普通の人間のようだ。


「あれ、もしかして亡霊じゃない?」


 眞奈は亡霊かどうかを確かめるために、カーテンの影から女の子をこわごわ観察した。


 眞奈より少し年上で十六、七歳ぐらいだろうか。つややかなブロンドの長い髪に紫がかった紺色のひとみ……。

 女の子はイザベルそっくりだった。


 眞奈は思わず「イザベル?」と呼びかけた。


 イザベルと呼ばれて女の子はカーテンの横の眞奈に気がついた。


「あら、こんにちは」、少女は眞奈を見て微笑んだ。


 彼女の方は眞奈に会ってもちっとも動じていない。そして不思議なことを言うのだった。

「また迷っているの? あ、でもこの間は小さな男の子だったわね」


 眞奈は女の子の意外な言葉に驚き、怖いのも忘れて口にした。

「また? 男の子?」


「そうよ。その男の子はあなたの友達でしょ?」


「……私はその子、知らないわ」、眞奈は困ってしまった。


「だって、その子もあなたのと似ている服を着ていたわ」、女の子は眞奈の制服を指さした。


 眞奈はすぐ彼女の言っていることに合点がいった。

 そうか、もし大昔の亡霊なら、ウィストウハウス・スクールは当然まだここにはないからこの服が学校の制服だって知らないはずだ。


 そして亡霊の子が言っている小さな男の子とはマーカス・ウェントワースではないか、そのことが眞奈の頭をよぎった。


 亡霊と会ったことのある男子生徒なんて、そう何人もいるはずがない、絶対マーカスにきまってる! 


 それがわかれば眞奈は亡霊の女の子が怖くなくなった。眞奈は女の子を初めてまっすぐ見つめることができた。


 女の子はイザベルと確かに似ているが、よくよく見ると明らかに違っていた。

 一番違うのはイザベルよりも愛嬌があるところだった。いたずらっぽい目がリスみたいにかわいい。微笑みは屈託がなく陽気で愛らしかった。


 眞奈は思い切って聞いてみた。

「あなたの名前は何ていうの?」


「ジュリアよ。ジュリア・ボウモント。あなたの名前は? あなたはイギリス人なの?」


 眞奈が大昔のイギリスではめずらしい容姿をしている以上、ジュリアの疑問はもっともであった。


「私の名前はマナ。私はイギリス人じゃなくって日本人よ。日本は中国の近くの小さな国なの」

 眞奈はそう言いながら心配になった。


 この時代の人たちは中国でさえも知らないかもしれない。だいたい何時代の女の子かもはっきりしてないし。


 ところがジュリアは中国を知っていた。


「まぁ、中国! この間おじさまが買ってきた中国の陶磁器はおじさまの大変な自慢よ。とっても素晴らしいの」、とジュリアは目を輝かせて言った。


 眞奈はジュリアが中国の創作物を褒めてくれたのでうれしくなった。


 眞奈は言った。

「でもイギリスにだって良い陶磁器はいっぱいあるよね? 陶磁器だけじゃなくって、建築とかガーデンとか文学とか。イギリス文化ってすごい素敵だと私はいつも思ってるわ」


 歴史の教科書で習ったところによれば、イギリスの秀逸な文化はジュリアたちが生きていた大昔の時代につくられたものが多いはずだった。


「まぁ、ありがとう」

 ジュリアも自分の国の創作物が褒められてうれしかったのだろう、にっこりと微笑み返した。


「でも色とか絵柄とかあのオリエンタルな雰囲気が好きなの、私。中国の陶磁器のままごと用ティーセットを持っていてよく遊んだわ。懐かしいわね。中国ってどんな国なのかしら。行ってみたいわ」


「中国もそうだし、日本もそうだし、東洋の東もいいところよ、今度日本にぜひ遊びに来てね」


 大昔の時代の亡霊を日本に誘うなんて変だよね。眞奈はちょっとおかしくなった。


 眞奈はなぜかジュリアの前では緊張もせず、自然に笑顔になるのだった。ジュリアの愛嬌がそうさせるのだろうか。


 ジュリアは言った。

「マナ、あなたは村の子たちとは少し違うわね。あーあ、あなたが友達だったらよかったのに。私、年の離れた兄がいるだけで、友達がいないの。身分がふさわしくないからって村の子どもたちとは遊ばせてもらえないし、いつも一人きりなのよ」


 眞奈にはジュリアの気持ちがよく理解できた。

「私も友達がいないの。いつも一人きりなんだ、ウィルを抜かしたら」、眞奈はそっと言った。


「まぁ、そうなの。でもウィルって子があなたにはいるのね、よかったわ。そういえば私にもアンドリューがいるわ! 友達ってわけじゃないけど、ともかく私も一人ではなかったわ。そうね、一人どころじゃないわ。アンドリューで五人分ぐらいカウントできるもの」、ジュリアは無邪気に言った。


「アンドリュー? 誰なの? お父さん?」


 そんなにいっぱいカウントできる人とはいったい何者なのか、眞奈は不思議に思った。


「アンドリューは私の婚約者なの」

 ジュリアは厳かにささやいたが、喜びを隠しきれなかった。

「私たち、三日前に婚約したの。でも事情があって他の人にはまだ内緒なのよ。だからマナ、あなたも黙っていてね」


 子どもに見えるジュリアがもう婚約しているとは。ジュリアを急に大人に感じて眞奈は尊敬した。この時代の女の子の結婚はやっぱり早いのかもしれない。


 眞奈はジュリアを応援したくなってきた。

「わかったわ、秘密ね、大丈夫よ!」


 ジュリアはそれを聞いて安心したようだった。

「私たちが友達になれば、もう一人分カウントできるわ。それぞれウィルと五人分のアンドリューも加えられるしね。一気に増えるじゃない。そしたら私たち、もう『友達がいない』とはいえないんじゃなくて?」


「そうね、ウィルだって三人分ぐらいにはカウントできると思うわ。アンドリューの五人にはかなわないけど! そしたらけっこうな人数になるよね」


 眞奈とジュリアは顔を見合わせて笑った。


 眞奈はイギリスに来て、ウィルを抜かしたら、初めて誰かに心を開くことができたような気がした。ジュリアもまた、しつけに厳しい生活の中で、対等にそして気軽に話せる年頃の女の子に会えてとてもうれしそうだった。


 でも次の瞬間、ジュリアは悲しげに言った。

「もっとあなたに早く会いたかったわ。だってもうすぐ私、ここからいなくなるんだもの」


「引っ越すの?」


「ええ、結婚したらね。でもいつ結婚できるかまだわからないの。お兄さまやお姉さまたちがすごく反対しているのよ。財産のことがあるから……。でも私、もうすぐ十六歳になるでしょ、たぶんその後正式に話が進むと思うわ。アンドリューは早い方がいいって言うの。アンドリューは軍の将校だからいつどこに行くかわからないし、それに……」


 ところがジュリアが言い終わらないうちに、二人が立ち話をしていたすぐ前の扉の向こうから、女性の興奮した声が響いた。

「なんですって、それじゃだめよ、リチャード。間に合わないわ。早くしないと計画がぶち壊しよ! 五月に侯爵が来たときに相談して最終的にちゃんと決めないと!」


 眞奈は息を飲んだ。こ、これはどういうこと?


 どうやら亡霊はジュリアだけではなく、二人目の亡霊までいるらしい。


 二人目の亡霊が誰かと話しているということは、話し相手である三人目の亡霊もいるということだ。しかも言葉の調子からなんだか良からぬことを企てている。

  


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