第11話 水面の月
夜に現れるものと言えば、最初に何を思い浮かべるだろう。
宗二郎は目の前に現れた黒い影法師に、不気味な表情を見る。
そいつは人のような形でもヒトでない。
黒であり暗さに溶けず、闇ゆえに存在が際立っている。
ゆらゆらと輪郭は揺らめいており、顔ものっぺりと黒一色。
無貌の、まさしく影そのもの。
宗二郎は、刃を突きつけて相手の出方を窺う。
「聞いておきますが、このまま元いた処へ還る気はないですか?」
「──────」
問いかけに、影は声ならぬ声を発する。
不明瞭なそれはとても言葉とは言えず、ただ音を出しているだけの様だった。
「無駄ぢゃ、無駄。奴さん、とても正気とは思えんわ。ホッホゥ。それも当然ぢゃがの。理から外れた存在なぞ、みな等しく狂気の沙汰ぢゃろうて」
「狂っているから、理を外れるの? 理から外れているから、……狂っているの?」
「どっちでも同じぢゃろ? 道理から外れればそれは狂気ぢゃ、狂気を孕んでおればそれは条理ではない。理から外れるとはそういうことよ。だがな、御嬢さん。化物にも化物の条理はある。それは人の住む世からは外れた異邦の理。異邦ゆえに理解できずとも確かにそれはあるのぢゃ。誰でも、自由など無い。世界は何かを縛り縛られ巡り巡る」
「そう?」
「ま、狂っとるヤツには狂っとるなりの理屈があるもんぢゃと言うことよ。厄介な事に、理屈が通っていると傍目にはそれがマトモにも見えてしまう」
そう語るウロ自身のように。
会話が通じ、意志を確認できる。
彼はマトモに見えるが、それは人間的にそう思えるだけだ。
そもそも喋るフクロウなぞ、マトモであるものか。
「だが、狂っているのは果たしていったドチラ側なのぢゃろうかの……」
「難しいね」
正常と異常の線引きを、何処から何処までにすればいいのか。線を越えたものを異常と断じても、境界に意味はなく、側についている者の主観で正異は逆転する。
宗二郎は目の前の影法師をじっと観察した。
月夜に、通り魔のように現れる狂気の亡霊。
半分に欠けた月が雲に隠れるような、そんな仄暗い夜に、自分の影に出会う。
聞き及んだとおりに、目の前の影法師の姿が変わった。
影法師の輪郭が増々揺らめき、形を保てずに一度崩れた。
そして現れたのは人影、影のような宗二郎の姿だった。
ドッペルゲンガーのようなそれは、色合い以外は彼の姿をそのまま映し取っていた。
「そっくり……。面白い」
「確かにのう。ありゃ何ぢゃろな。影を写し取ったみたいぢゃが……」
「──来ます!」
刀を抜いた、影の宗二郎が突進してくる。
影は四歩と掛らずに夜市接近し、殺意をもって凶器を振るう。
夜市はそれを受けて、身をかわした。
重力を感じない身のこなしで、彼女は民家の上へ飛び上がる。
それを追う影との鬼ごっこ。
「夜市!」
宗二郎はと言うと、その側で地面から生えた手に足を取られて踏鞴を踏んでいた。
アスファルトに落ちた何かの影から、ずるり、と人間の形をしたモノが生まれる。
完全に人かと言えばそうでもない。
出来上がっているのは上半身だけで、下半分は地面と同化している。いや、影なのだから影と同化していると捉えるべきか。
上半身のフォルムからそれが女性の姿をとっていることが分かる、と言うかそれは夜市だ。
彼女の姿を参考にして生まれた影の存在。
それが宗二郎の足を引っ張っていた。
彼の足が地面に沈む。
焼けつくような感触に、宗二郎は夜市の偽者に向けて刃を振り下ろした。
水に沈むように、ヤイチが影に潜る。
掴まれていた足首は解放されたが、宗二郎の片足と刀はアスファルトに埋まって身動きが取れない。
先ほどまで水のように抵抗の無かった地面が、今や彼を捕える楔となっている。
膝下まで地面に埋まって一体化していた。
ヤイチの影が街灯の光の下、伸びた影から姿を見せた。
今度は全身を見せて、ちゃんと地面に足を付けて立っている。
ひたりひたりと彼女が、一歩ずつ此方に歩いて来る。
機動力を殺されている宗二郎に抵抗は出来ないと考えているのか。
その考えは実に正しい。
「戦いづらそうじゃな」
「黙っててください」
「ホッホ。影は影。実態のない幻は、どんな名刀でも断てはしまいよ。水面に映る月を斬ろうとしても無駄なことじゃ」
「………」
ひたり、ひたり。
遂に目の前にと立たれる。
跪いている分、視線の下がった視界は丁度ヤイチと同じ高さになっている。
宗二郎の首筋に、ヒヤリとした冷たい彼女の手が添えられた。
細い腕に力が加えられて首が絞まる。
呼気が乱れる。
「夜、市……」
徐々に、影に引き摺られる。
宗二郎が墜ちていく。
地面に沈む。
全身沈んだらどうなるのか、試してみるのは遠慮しよう。
自由な左腕で、彼女の手を外そうと試みる。ビクともしない。
ヤイチに触れられた箇所から、全身に凍りつくような冷たさが伝播していく。
命を感じない。
冷たさは──死に似たもの。
彼女の手は体温が無く、その在り方は万物から外れた異界の在り方。
目の前の彼女はヤイチの影、本物ではない。
鏡に映る姿はどんなにそっくりでも、やはり偽物。
けれど、同じでなくとも近似している。
だからだろうか、彼女の姿を写し取った影がこんなにも無防備なのは。
──決めるのなら一撃だ。二の太刀はいらない。
彼女は、近づき過ぎだ。
「僕に……斬れないものは、なにもないっ!」
宗二郎は刃を強く握りしめ、アスファルトを切り裂く。
アスファルトに映りこんだ影を斬る。
反応したヤイチが回避動作に入る。それよりも早く、振り抜く。
弧を描いた白刃は彼女の腕を吹っ飛ばした。
首に掛かっていた負荷が外れ、彼女は蹌踉めき後ずさる。
刹那、不自然に地面の影が捻じれ歪む。
ヤイチが影に墜ちようとする。
遅い。
宗二郎の左腕はまだ彼女を離していない。
跳ね上がった腕を一直線に振り下ろす。振り下ろした切っ先がヤイチの胸に吸い込まれる。今度は躱せはしない。
吐息を漏らしたのはドチラだったか。
そのまま刃が彼女の心臓を貫く。
ざくり、と肉を裂く生々しい感触が宗二郎の手に残った。
ヤイチが吃驚したように眼を軽く見開いたのを見て、宗二郎はもし本物の夜市を斬ったら彼女でもこんな表情をするのかな、と埒も無い想像を頭の隅でぼんやりと考えた。
そして彼女は空気に溶けるよう、消えていった。
初めからそんな存在など居なかったかのように。
最期に物悲しそうな表情を残して。
宗二郎には、そんな気がした。
「…………」
なんだろうか、この理不尽な罪悪感は。
気を取り直して、宗二郎はアスファルトから脱出する。
足は……特に支障なし。
服の内側から、じわりと血が滲み出していても、気にしなければ気にならない。
「ホー、影を斬るとはの」
「水面の月の斬り方を教えましょうか?」
「興味があるのう」
「月は水がなくなれば映らない。影も同じです。思いっきり振りぬけば、なにも斬れないものなどないのです」
「お主、馬鹿じゃのう」
「失礼な」
そんな事よりも、本物の夜市を探さなければ。
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