第8話 鬼切り
応接間のソファに座って宗二郎と琴里、秋久と緋織がそれぞれ対面する。
黒檀で出来たテーブルにはお茶とお茶菓子が準備されているが誰も手を付けていない。
「兄上、琴里。何を期待しているのか知りませんが、緋織さんとは今日会ったばかりで特に何もありませんからね」
宗二郎は端的に真実を話す。
「聞きましたか、琴ちゃん。もう名前で呼んでいますよ」
「それも今日会ったばかりの女の人を、だね」
これ以上は否定するのも馬鹿らしい。
「兎も角、話を聞いてください」
宗二郎は、昼に会った出来事のあらましを兄と妹に改めて説明する。
「なるほど。何が聞きたいのですか?」
「私としては、なにから聞いていいかもわからないのですよ」
「そうですか」
秋久は「常世はと言うものをご存知ですか?」と緋織に尋ねる。
「いえ、知らないですね」
「常世とは神域です。そこは死後の世界であると考えられ、常に夜の世界でもあり、はるか彼方にある異邦の地」
生者にはたどり着けない場所。
「日に二度、常世と現世が繋がる時が有ります。逢魔時と丑三つ時、異なる世界が重なり合う時間です。その時、向こう側からこちらへやって来るものたち」
暗闇から、姿を現すように。
「我々鬼切りは、そこからやって来る人に仇なすモノの事を、鬼と呼んでいるのですよ」
「貴方がたは一体、何者なのですか?」
「東雲は鬼切りです。人を斬り神を斬り鬼を斬る」
「鬼切り……」
緋織は言葉を咀嚼して繰り返す。
「普段、人間の眼に映らない存在は、見えないからと言って、いないわけではないのです。空気のような物で、そこには確かになにかはある」
その何かは、妖怪だったり神だったり。
鬼と言うモノはですね、と秋久は続ける。
「正確に言うのなら、人に仇なす怪異を総称して鬼と呼んでいるのですよ。表現の仕方は色々あります。妖怪、魔物、化け物、怪物、精霊、妖精、神とか悪魔などと呼び方は様々ですから、お好きなように」
便宜上、鬼と呼んでいるに過ぎない。
「しかし、物事というのは多面的に捉えなければいけないものです。陰陽二つは分け隔てることは出来ないのですから。陰の中にも陽はあり陽の中にも陰はあります、でなければ対極は得られませんからね。まあ、要は認識の違いでどっちにでも転ぶことはあり得るって事です」
あちらから来たものが、必ずしも危険ではない、と言うことである。
異邦人をマレビトと呼んで神と崇めることもあれば、神も祟れば祟り神。
人を救うだけが神ではない。神が悪魔にすり替わり人に畏れられる事もある。
「座敷童とか、有名でしょう?」
「だから、鬼って呼ぶときは、危険な存在そのものって事だよ」
秋久の冗長な説明を、琴里が端的に言い表す。
「名は体を表します」
「そんな物は迷信でしょう?」
「そうですか? 本当に? 迷信を馬鹿にしてはいけませんよ。病院やアパートなどに四の数字が敬遠されるのも、血液型で人間の性格を分類しようとするのも、迷信です。根拠はありません。妖怪や化け物だって、過去の人間の創作と思われている。……確かに、同姓同名の人間が皆同じ性格をしているのかと言うと、首を傾げざるを得ませんが」
知らないモノは、怖いでしょう? と秋久は言う。
誰しもが、死を忌避するように。逢魔時、薄暗がりから遣って来る影に驚くように。
知らないモノは怖い。
理解できないモノは恐ろしい。それが人間だ。
だから、名前を付ける。
闇を闇と名付けたように、名前と言う型に押し込める。
天邪鬼であるなら嘘をつく、神であるなら人を救う。そんな風に存在を規定する。
名前を付ける事には意味がある。
「名前には力があります。名前はその相手を支配できるのです。西洋では、悪魔を召喚する時に最も大切なことは、その名前を知る事だそうですよ。名前を知るからこそ、悪魔を支配できる。同時に、自らの名は隠し接する」
もし悪魔に自分の名前が知れたら、悪魔を縛っている楔が解かれる。
「だから我々は名づける事で、自らに都合の良い様に影響を与えるのですよ。過去の偉人や聖人にあやかって名前を付けるのも同じようなもので、その名を貰った人間の一生に影響を与えるように、と考えられているのです。聞いたことはありませんか? 名前に濁点が付くと悪い名前だとか、季節を入れると悪いとか、動物の名前だと悪いとか」
敢えて縁起の悪い名前を付ける事もあり得る。
悪い名を付ける事によって、その良くない影響を打ち消す効果を期待する場合などである。
毒も、処方箋を間違えなければ薬になる事と同じだ。
「まあ、信じるか信じないかは判断にお任せします」
「それはまた、随分といい加減ですね」
「いいえ。信じるからこそ、神の奇跡があり安息が得られるのです。公理を信じるからこそ数学が成り立つようなものですね。何事もまずは信じる事から始まるので、信じない人間に万の言葉を費やそうがただの雑音です。時間の無駄以外の何物でもない」
秋久はばっさりとそんな事を口にする。
「なんだか宗教の勧誘みたいな文句ですね」
──けれど、貴女も自分の眼で見たのでしょう? と秋久は問いかける。
緋織は気圧されたように言葉を詰まらせる。
「目にしていない物を信じられないのは仕方がありません。しかし目にした物すら信じられないのでは愚か者です。懐疑主義者じゃあないんですから、いちいち我思うなんて考えずともいいでしょう」
秋久は大げさに右の掌をぎゅっと握りしめてから、手を振り開く。
すると彼の手の中に一輪の花が現れた。
「さりとて、見たままを鵜呑みにするのも如何でしょう。心霊写真やUFOは全て本物ですか? 信じるのは楽ですが、それでは思考停止です。やはり愚か者だ。同じ愚か者ならば、我々どちらを選ぶのが得なのでしょう」
そして彼がもう一度手を振ると花は跡形もなく消え失せる。
「信じるのと信じないのの中間派はないんですか?」
「ありません」
「分かりました。降参です」
「おや、そうですか」
緋織は軽く首を振って、苦笑を見せる。
「いいでしょう。兎にも角にも、東雲は古来それら鬼を祓ってきた家系です。ただ斬ればいいと言うわけではありません。何といっても人間の理の外の存在ですからね、武力行使だけでは如何ともし難いのは確かです」
何でもかんでもぶった切れば即解決とは行かないものだ。
「陰陽師みたいなものですよ。ほら、よくテレビとかで見ませんか、あんな感じです」
「ああ、それはイメージしやすいな」
と宗二朗の説明に緋織が頷く。
「陰陽師と言えば賀茂忠行や安倍晴明、そのライバルの蘆屋道満が有名どころだね」
とは緋織の言葉だ。
「陰陽師は元は官職。……宮仕えで、凄いエリート。本当は同時期に六人しかいないのよ。主に占術を扱う職業。退魔はオマケ」
「そもそも陰陽尞が解体されたので、官僚としての陰陽師は現代には残っていないですし……。やはり我々の事は鬼切りと呼ぶのが一番相応しいです」
そこで秋久は一息ついて口に茶を含む。
「ところで、常世と現世が繋がる場所は結構、多いのですよ。山とか川とか森とか海の底とか──あるいは、路と路が交差する所とか。辻と呼ばれる、……要は十字路です。そこでは、埒外の出来事に出合う事も間々あり得るのです」
「十字路……」
「見えないものは、見えないからと言って、いないわけではないのです。けれど、大多数の人間にとっては、見えないならばいないのと同じこと」
生まれつき異相を見ることが出来る人間はいる。
ただ、多く、そういう人間は長生きは出来ない。
大抵の場合は大人になる前に、鬼に取り殺されてしまうからだ。そうでなくでも、他人には見えないものが見える人間は、周囲と折り合いがつけられない事が多々ある。
「国作りの神話によれば、人は神の血を引いていると。日本の神は大抵が高天原か常世に住んでいるものです。ですから、その血を引いている──と考えられる人間が、同じものが見えても全然不思議なことではないでしょう。ですから、貴女が何か見えたとしても、それは不思議なことではない」
現代社会では怪異が見えたって得になることなど、そうそう無い。
「神の血をひく人間もそう珍しい話ではありません。先ほど取り上げた安部晴明など場合によっては白狐の血を引くと言う話も聞きます。つまり稲荷神ですが。学問の神の天満天神も元を辿れば人間ですし、中世ごろのヨーロッパの王は神の代理人ですよ。もっとも、日本特有の神道における八百万の神と西洋の唯一神であるヤハウェは全然別物ですけれど。一神教と多神教では神と言うものに対する考え方が違うのです」
「兄上、話が脱線しすぎていませんか」
「おっと、すみません」
秋久は護符を一枚取り出す。
「見え過ぎても良いことはないので、これを。財布などに入れて身に着けておいてください」
「なんですか?」
「お守りですよ」
うっかり見てはいけないものを見ないように。
「それから、宗二郎は東雲当代一の鬼切り役ですから、困ったことがあったら頼るといいですよ」
「あんまりいい加減な事を教えないで下さい」
「嘘ではないでしょう?」
その当代の鬼切り役が宗二郎一人しかいないのならば、当代一と言う評価も素直に受け取れるものではない。
確かに嘘ではないが。
彼以外にいないのだから、一番になるのは当然の結果だ。
「権威の笠を着るのが不服なのならば、それを身につけても見っともなく無いように己を磨けばいいのですよ、宗二郎。己自身で勝ち取った評価ならば、それは己を裏切らない。自分の役割に、身に余る不安を覚えるのは分かりますが、精進しなさい」
兄は優しいが、容赦はしない。宗二郎は神妙に頷いた。
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