11話:後夜祭

11・後夜祭




 三日間にわたる第一祭――学園祭は、運動場で行われた閉会式にて締めくくられた。僕たちは服を着替えたり体育祭の後片付けをしたりしながら、歯切れ悪く、ゆるゆると解散に向かっていた。

 脱いだ制服を入れたバッグを提げて、教室を出る。普段なら男子の着替えは教室でするのだが、片付けの関係で、最後の着替えだけは理科棟の二階にある空き教室ですることになっていた。本校舎の廊下にはまばらに人がいて、その多くがまだ体操服を着たままだった。先ほどまでの熱狂と興奮を惜しんでいるかのように。

 土埃の舞っている廊下を歩き、理科棟へと向かう。一年生のフロアの端まで行き、いつもは使わない階段を降りて――渡り廊下へと切り替わる扉をスライドすると。

「あ」

「……鏡味」

 少し目線を上げた先に、まだ体操服を着ている、どこかやつれた印象の佐伯がいた。

「……」

 佐伯と僕は、しばらく何も言えずに立ち尽くしてしまう。が、不意に佐伯に腕を掴まれて、体ごと渡り廊下に引っ張り出される。

 何かと思えば、僕の後ろに女子生徒がいたらしい。すでに制服に着替えている女子生徒は、「すみません」と言って僕らの横を過ぎ、運動場の方に駆けていく。運動場にはまだ人がいた。何をしているんだろうと目を凝らしていると、佐伯の手が離された。その場に突っ立った佐伯は何も言わないが、去ろうともしない。それは僕も同じだった

 と、少し冷たい風が吹く。先ほど女子生徒が駆けていった運動場から放送が聞こえる。


『ただ今から、後夜祭が始まります。有志によるキャンプファイヤーとフォークダンスを行いますので、皆さん、運動場に集まってください――……』


「……何、あれ」

 僕が訊くと、佐伯はぼそりと呟いた。

「後夜祭だよ。毎年、生徒会が企画して、有志で集まってするんだって」

「へえ」

「応援看板も、キャンプファイヤーの薪にするんだって」

 なるほど、僕たちが作ったあの大きな看板はどうやって保管するのだろうと思っていたけれど、今日のうちに薪にして火にくべて燃やしてしまうというわけか。確かによく見れば運動場の隅に小さなキャンプファイヤーセットが置いてあって、その傍らにはすでに残骸となった応援看板が山のように積まれている。

「……佐伯は行かないの?」

 何気なく訊いてみると、佐伯は驚いたように目を見張る。

「鏡味は行くの?」

 ……僕は、どう答えようか迷った。興味がないことはないけど、一人で行く気にもなれない。運動場の方を見ながら考えていると、僕を見ていた佐伯が運動場を向き、呟くように言った。

「鏡味が行くなら、行こうかな」

 


 どうやら運動場に入った瞬間、問答無用でフォークダンスを踊らされるらしいということを察知した僕たちは、運動場には入らず、運動場の様子が見える場所に移動する。理科棟の裏には技術棟や本校舎から芸術棟へと繋がっている長い渡り廊下があって、そこに二人で腰かけた。理科棟の辺りは少し地面が高くなっていて、座っていても運動場の様子を俯瞰することができる。唯一残されたテントの前には箱形の大きなスピーカーが置かれていて、そこからフォークダンスの音楽が流れるらしい。先ほどは隅の方に置かれていたキャンプファイヤーセットや応援看板は、真ん中の方へと移動が始まっていた。

 運動場に集まっている生徒は三十人もいないくらいだった。「後夜祭」が、想像以上に小規模だったことに僕は驚いた。しかしそこに集まり、じゃれ合っている生徒たちの様子を見て何となく察しがつく。あそこにいる生徒のほとんどが生徒会か、実行委員の人間なんだろう。「有志による後夜祭」と銘打ってはいるが、実際は学園祭を取り仕切った面子による、内輪向けの打ち上げパーティーなのだろう。何も知らずにあの場に入ってしまわなくてよかった。

 おそらくここに来ていない生徒のほとんどは、自分のクラスメートや友達と一緒に教室やコンビニで駄弁ったり、一緒に晩御飯を食べに行ったりして学園祭の余韻に浸るに違いない。そして僕はと言うと、ほんの数日前の僕のままだったらさっさと着替えて家に帰って、就寝していただろう。だけど今の僕は体操服のままで、渡り廊下に座って、運動場のキャンプファイヤーが点灯するのを待っている。そして、僕の隣には同じように体操服のままの佐伯がいて、この何でもない時間をともにしている。

 佐伯は運動場の方を向いたまま、唇を薄く開いている。その唇は何かを言おうとして動いたかと思えば、ぎゅ、と閉じたり、不規則にぴくぴくと動いて透明な言葉を漏らしたりしている。

 僕はしばらくその様子を観察していた。が、僕の中で思考が固まってきたのを確認して、佐伯に声をかけることにする。

「『虚しい』、んでしょ」

 佐伯が僕の方を向く。少し視線が交わったが、すぐにそらした。別に顔が見たくないわけじゃない。ただ、自分の考えを言葉にすることに集中したかった。

「虚しくて――『悲しい』というより、『やるせない』んでしょ」

「……鏡味」

「あんたは、『播磨をとられた』から」

 佐伯はハッとした。そして膝を抱え、背中を丸めてしおれていく。その横顔にはたくさんの幼稚な言い訳と自己正当化が浮かんでは消えているように見えた。僕はそんな佐伯を、穏やかな気持ちで眺めることができる。

「思ったことを話してもいい?」

 佐伯は何も答えない。だから、僕は話し始めた。

「君は、これからどうしたらいいかわからないんだよね。僕のことも、播磨のことも。何より、君自身のことについて」

 佐伯は黙っている。運動場の上の空は、いつの間にか薄紫色に暮れかけていた。通り過ぎる風は少しだけ冷たくて、言葉にこもってしまう余分な熱を奪ってくれそうな気がした。

「自分なりに必死になって、考えて、工夫して、嫌なことも吞み込んで、それでもやり遂げようとして頑張ったことってそんなに報われることはない。今日みたいにさ、急に現れたやつが、何の苦もなくやり遂げちゃったりもするし。なんか、不公平だよね。『じゃあ、僕が頑張った意味って何だったんだよ』って思う」

「……うん」

「でも、そうやって『僕じゃない』ことに腹が立つってことはさ……僕はきっと、そいつを助けたいから頑張ったんじゃなくて、『僕』自身が報われたいから頑張っていたってことなんだよね。そいつが助かったかそうでないか、関係のないところで僕は怒っている。そして落ち込んで、やるせなくなっている。……勝手だよね」

「……」

「君も、似たようなことを思っているんじゃないかな」

 僕の問いかけに、佐伯はさらに背中を丸めて小さくなった。

「……そうだね。僕は播磨にとって、特別な人になりたかった」

 感情を押し殺した声が、僕のところまでまっすぐに届く。佐伯の瞳は運動場を見つめているようでどこも見ていなかった。佐伯が自分の内面に潜れば潜るほど、黒曜石のような瞳が鈍く光る。

「あんなことを言ったけど、それでも僕は、播磨が必要としてくれるたった一人の人になりたかった。僕が思っているものとは違っていたけど、播磨に必要としてもらって、本当は嬉しかった。……こんな僕でも傍にいていいんだったら、恋人にでも、神様にでもなればよかった。だけどそれは、『播磨のため』じゃなくて、『僕のため』だったんだよね」

 視線を前に向けたまま、佐伯が言う。僕は答えなかった。

「僕はただ、播磨に居場所をもらいたいだけだった。播磨に、『ここにいていい』って決めつけてもらいたかった。全部自分のためだったんだ。僕は、播磨の寂しい気持ちや、悲しい心を利用して、自分だけが満たされようとしていた……」

 佐伯の声が震える。

「……なのに、出てくる気持ちは播磨に対して『ごめんね』って気持ちじゃないんだ。『どうして行っちゃったの』って、『僕だって君のために頑張ったよ』って、そればっかりなんだ。悔しくて、やるせなくって、最低だ。僕って本当に最低なんだ」

 佐伯は強く腕を抱く。瞳がゆらぎ、唇が震えている。泣き出してしまいそうだった。

「僕、自分のことが嫌いなんだ。頭も悪いし、話も下手だし、運動だってめちゃくちゃ才能があるわけでもない。鏡味の言うとおり、他人の気持ちもよくわからないし……。だけど、自分が誰かから『嫌い』って言われると本当に傷つくし、『僕なんていらないんだ』って思うと本気で悲しくなる。でも、いてもいなくてもいいなんて思いたくないんだ。価値のない人間かもしれないけど、『ここにいていい』って、誰かに言ってもらいたい……」

「……それが、播磨だったんだね」

「……『誰でもよかった』んだ」

 自分で発した言葉に、佐伯は顔を歪め、悲痛そうに胸を押さえる。


「自分は『誰でもよかった』なんて、言われたくないのに……。本当に、僕って最低だ」


 その時、運動場から歓声が上がる。キャンプファイヤーに火が点いたのだ。

 橙色の炎が、運動場を煌々と照らす。僕たちに背を向けたスピーカーが軽快な曲を流し始めると、どちらからともなく男女が近づき、手を取って、キャンプファイヤーの周りを歩き始める。

「……ごめんね」

 燃え盛る炎が、運動場の上空に広がる雲の影を浮き彫りにする。そして、隣に座った佐伯の横顔をぼんやりと照らした。

「なんで」

「僕って本当に最低なやつだから。……きみのことだって、自分のために利用しようとした。きみは、そういうのが嫌なんでしょ……」

「……まあね」

「じゃあ――」

「でも、それは僕も『同じ』だから」

 僕が言うと、佐伯は「え?」と言って僕を見る。僕はいい加減、話すことにした。

「何も言わないで聞いて」

 そう言った瞬間、再び運動場から歓声が上がった。しかし佐伯はちっともそれに気づかない様子で、ただ、僕のことを見ていた。

「……君からしたらおかしな話かもしれないけど、僕も、藤原には『とられた』って思ったんだよ。僕が『君と播磨の運命を変えた人』になれたかもしれないのにってね。……僕も結局、自分が『特別』になりたくて、君たちに関わっていただけだったんだよ。だから君たちが無視してきても、『僕』ならなんとかできるはず――『僕』がなんとかしたいと思って、無理やり関わろうとしたんだ。それって完全に自分の都合、自分のためだよね」

 思っていたことを、少しずつ、涼しい夜風に溶かしていく。そうだ、僕は、また自分が「特別」になりたくて、「特別」な人にわざわざ関わろうとした。だけどまた駄目だった。僕は僕なりに考えて、頑張ってみたけれど。勇気を出してみたけれど。それでも僕は、何者にもなれなかった。

「……でも、なんだか、納得したよ」

「納得?」

 佐伯がおそるおそる聞き返す。僕は少しだけ笑ってやった。

「僕なんかには無理なんだ。そんなせこいことを考えてるうちは『特別』になんかなれないんだなってね」

 きっと藤原は、自分が「特別」になりたくて播磨を連れ出したわけじゃなかったはずだ。ただ播磨の調子が悪そうだと思ったから、心配をしただけ。でもそれに気づくことができたのは、藤原が播磨のことを「ちゃんと見ていた」からだと思う。藤原は「特別」なやつじゃなかったかもしれないけど、あの時、あの場にいた人間で一番「特別」になったのは、藤原だった。

「……君と僕は似てる」

 佐伯が目を丸くする。薄暗がりの中、橙色の灯りがその頬を、その大きな黒い瞳をちらちらと照らし出している。

「自分のことが嫌いなところ。でもそんな自分が可愛いところ。傷つくのが嫌で、自分を守るための言い訳が上手なところとか、自分に自信がないところとかさ。……僕は、自分が隠したいと思っている自分の嫌なところを、君が他人に対して晒して生きているように見えるから、君の言動がいちいち気になって、腹が立ったんだと思う。そしてやっぱり、自分の中にあるそういうところも、佐伯の持っているところも、好きになることはできなさそう。だって、本当に嫌いだから」

 僕が「嫌い」と言った時、佐伯の瞳の奥が揺らめく。しかし佐伯は口を引き結んで堪えた。……佐伯が逃げなかったから、ちゃんと受け止めてくれると思えたから、僕は、自分の中にある素直な気持ちをそのまま声に乗せた。


「だけど、君のことを知ることができて、よかったと思う」


 僕は佐伯のことを好きになることはできないかもしれない。その「嫌い」があり続ける限り、僕はやっぱり佐伯の言動にいらついたり、気に食わないと嚙みついたりすることもあるだろう。だけど、二度と顔も見たくないような「嫌い」じゃない。どこかで勝手に不幸になればいいとも思わない。「嫌い」と言いながら、嫌いにはなりきれない。それは、自分のことが一番大事な僕が、佐伯の中に「僕」の姿を見つけることができたからだと思う。僕にとって佐伯は、もう「他人」ではないのかもしれない。

「……それだけ、言っておきたかったんだ。じゃあね」

 すっかり辺りは夜になっていた。キャンプファイヤーの光だけが明るくて、僕はその灯りを、それを囲って踊り続ける生徒たちの姿を少しだけ美しいと思う。

 と、急に視界が暗くなる。あ、と思う間もなく、あたたかいものが僕の体を包む。

「……佐伯?」

「ごめん……ごめんね」

 僕は佐伯に抱きしめられていた。腕の中はあたたかくて心地がよくて、僕は瞼を閉じる。佐伯の肩越しに息を吸えば、自分の肩越しにも佐伯の息遣いを感じられた。


「ありがとう……」

 鼓膜がやさしく震えて、心が満ちていくのを感じる。僕は、行き場のなかった両手を佐伯の背中に回した。そして、少しだけさすってやる。


 埃っぽく、少し焦げた匂いの風に吹かれながら、僕たちはしばらくの間そうしていた。もしかしたらそんなに長い時間じゃなかったのかもしれない。それでも僕にとっては永遠にも近いような、わけもわからず満たされた時間だった。




「巴、今日は何食べるの?」

 大きな弁当包みを片手に現れた佐伯が、僕の前の席に座る。

「パン」

「えー足りる?」

「いつも言ってるでしょ。多いくらいだって」

 第一祭が終わったタイミングで、僕たちは高校に入って初めての席替えをした。厳正なるくじ引きにより、やっとのことで一番前の席から解放された僕は教室の真ん中寄り、後ろから二番目という、かなり落ち着く席へ移ることができた。

 佐伯はと言うと、廊下から二列目、前から二番目の席に移った。席が前後だった今までと比べるとだいぶ離れたが、昼休みになると佐伯はなぜか僕のところにやってきて、一緒に昼食をとるようになっている。ずっと一人で昼食をとっていた僕からすればささやかな変化だったが、佐伯がさも当然のように僕の前を陣取るため、また僕自身がこの状態に「慣れて」しまったため、今では何の新鮮味もない。つまるところ、これが僕たちの「普通」となったのだ。


「つみき、購買のツナマヨいる?」


 視界にのっそりと現れたのは藤原だ。佐伯よりもさらに大きな弁当箱を持っているというのに、さらに購買のパンやらおにぎりやらが入ったビニール袋を提げている。佐伯は目を輝かせて藤原に飛びついた。

「いる! 待って、百円持ってくるから!」

 言うや否や自分の席へと走っていく佐伯を目で追いながら、藤原は僕の斜め前の席に陣取ると「元気だなあ」と言った。

「なんつーか、ノリが若いよな、あいつ」

「ああいう性格なんでしょ。それより、いつもあいつに椅子を占領されてるけどいいの? 君も座りたいんじゃないの?」

 そう言って、さっきまで佐伯がいた席を一瞥する。席替えをして佐伯と離れた代わりに、僕は藤原と席が前後になった。藤原は体が大きいからたまに黒板が見づらいが、基本猫背なのと、授業中はよく眠っているのでそんなに困っていない。ていうか結構寝てるし部活も帰宅部のはずなのに、どうしてそんなに食べられるのだろう。別に太っているわけでもないのに、藤原は信じられないくらい大食いだった。

「あー、別にいいよ。昼休みだし。てか最近静かだったから、そろそろあいつが来そうなんだよな……」

「つみき、遊びに来たぞ!」

「やっぱり出やがった!」

 藤原は「播磨ァ!」と言うと、近くの机にビニール袋を置き、大股で廊下に近づいて行く。

 廊下側の窓から現れて、佐伯に手を振っているのは播磨だ。佐伯はそれに驚きつつも「どうしたの?」なんて言って、相変わらずしらばっくれている。そこに藤原が合流して、何やら会話が始まっているようだ。僕はそれを遠目で見ながら菓子パンを一口齧る。これも、僕たちにとって「普通」の光景となっていた。


 あれから――体育祭中のあの出来事から彼らの関係はどう変わったかと言うと、意外なことに、そんなに大きな変化はなかったらしい。播磨なんかはあんなに佐伯に悪口を言われていたにもかかわらず、今でも隣のクラスから佐伯に会いに来ては、佐伯と距離を縮めようとしたり、さりげなくスキンシップをしたりしている。そして佐伯はというと、播磨の積極的かつ直接的なアピールをなあなあな態度でかわしつつも、一緒にいることはやめないようだ。まあ播磨は精神的にまいっているようだったし、しばらくは責任を取る意味でも佐伯が一緒にいてやるのがいいんじゃないだろうか……と、外から見ている分には思う。佐伯も別に、播磨のことが嫌いなわけではないのだから。

 しかしさすがにそれは行き過ぎなのでは……と思うような播磨の発言やスキンシップが発生した際には、そのストッパーとして、藤原が入るようになった。

 僕や佐伯からしてみれば「とった」かのように、鮮やかに播磨を連れ出してみせた藤原だったが、あの後に何を話したのかと問えば、「別に何も」ということだった。

 播磨は藤原に対しても、何も喋ることはなかった。僕や佐伯が思ってる以上に播磨の作る壁は厚くて強固なのかもしれない。しかし、「お前には関係ない」と言って拒絶した播磨が藤原の存在を受け入れて気を許している様子を見ると、たとえ何も喋らなかったとしても、播磨の中で藤原に対する印象や立ち位置が変わった可能性もある。まあ、それも僕の勝手な憶測なのだけれど。

 そういうわけなので、僕たちの間には、言ってしまえば「何も起きなかった」のである。少しだけ、お互いに対する印象が変わっただけ。そしてそんな些細な変化やそのきっかけとなる出来事に、僕たち以外のやつらは知らないし、興味もないだろう。でも、きっと「そういうもの」なんだろうな。僕も第一祭を通じて起きたクラスメートの変化のすべてを把握することはできないし、把握しようとも思っていない。僕たちはそんなに視野が広くないし、自分の視野――自分の世界の中で起きることに対処しようとするだけで手一杯だ。


 ふと、僕は帆波のことを思い出す。そういえば、僕は帆波に会ったんだった。

 

 つい先日、僕は佐伯と多目的教室に行った。「書記」である佐伯にその居場所を教えてもらい、「世界の交差」を起こして、完全転生を行った後の帆波に会いに行ったのだ。彼には一応許可を取った上で、僕の能力――「他方の世界に完全転生した人間の、転生前の姿と記憶を呼び起こす能力」を使い、二人だけで話をした。その際、「書記」には僕たちの会話を聞いたり、記録したりしないようにと断っておいた。当事者に聞かせたくない話や、第三者だからこそ話せることもあるだろう。それを帆波に伝えたところ、帆波は安心した様子で微笑んだ。佐伯や播磨の話から幼い少年を想像していたが、グリーンの病衣を身に纏った彼は僕よりも背の高い、ぱさぱさとしたこげ茶の髪と憂えるような瞳が印象的な、年相応の男子だった。

「あれは、事故じゃなかったんです」

「……自殺?」

 僕が訊くと、帆波の顔から笑みが消える。苦しそうに目を伏せ、ぽつりぽつりと話し始めた。

「お兄さんは病室にハサミやカッターのようなものを置こうとしませんでしたが、僕の体は勉強に使うシャープペンシルや紙切れなんかでも、傷をつけてしまえばよかったんです。先生たちも、そしてお兄さん自身も、その可能性と危険性についてはわかっていました。ですが、お兄さんは僕が『そんなことをしない』と信じて、僕に勉強道具を渡していました」

 「お兄さん」とは播磨のことだ。僕は「お兄さん」とあまり似ていない、素朴な印象の彼の話に耳を傾けていた。

「僕は、お兄さんの信頼を裏切ったんです。……お兄さんには本当に申し訳ないけれど、僕にとってその『信頼』は、苦しかった。僕は早く死にたかったんです。両親やお兄さんに迷惑をかけながら、僕は何にもできないのに、大切な人たちのお金と時間を奪ってまで生きていくことが、死ぬことよりもずっと恐ろしかった。それに」

 帆波が言葉を切り、黙ってしまう。「それに?」と僕が訊くと、帆波は視線をさまよわせ、一度ギュッと目を瞑ってから口を開いた。

「僕は、誰かに頼ることでしか生きられない自分のことが嫌いだった……。誰かに世話をしてもらわないと生きていけない、弱い自分が嫌いで……でも、お兄さんは『それでいい』としか言いませんでした。お兄さんは僕に優しかったから……だけど、僕は、本当はそれが苦しくて……」

 帆波のこげ茶の瞳が潤む。

「僕は、『一人でも大丈夫だ』って、少しでも期待してもらいたかったんだと思います。でも、現実的にはそれは無理で……それに、お兄さんはお兄さんなりに、僕に期待しすぎないように気を配ってくれていたから、『強くならなくてもいい、もう十分強いよ』って言ってくれてたんだと思うんです。だけど、僕から見たお兄さんは……たぶん、僕が強い人になることを期待していなかった。お兄さんは、弱くて何もできない僕のことが好きで、ずっと僕にそうあってほしいと思っていたんじゃないかなって思うんです……」

 ただの、僕の考えすぎかもしれませんけど、と言いながら帆波は顔を覆う。言葉を選びながら、言葉にする度に苦しみながら……帆波は語り続けた。その慎重さは彼の「お兄さん」のことを、彼なりに必死にかばっているかのようだった。

「お兄さんは僕にとって、好きで、大切な人でした。でも、お兄さんは僕に、僕の嫌いな僕でいてほしいんじゃないかなって思うと、もう何もわからなくなって……」

 ごめんなさい、裏切ってごめんなさいと繰り返す帆波の細い手首や腕に、僕は彼の苦しみの痕を見たような気がした。それは一つの大きな傷ではなく、擦れ違いから生じる、いくつもの細かな傷だったんじゃないかと僕は思った。

 


 ――あんなに完璧そうに見えて、帆波のことを大事にしている播磨でも、帆波の本当の気持ちはわからなかったし、帆波のことを追い詰めていた。

 このことは僕だけの秘密だ。佐伯からは「世界の交差」から帰ってきた際に「どうだった?」と訊かれたけれど、僕は何も教えなかった。一般的には「死人に口なし」ということになっている。彼の証言は、この世界に取り残された生者たちのためにも僕の胸の中にしまっておこう。「世界の交差」は、人を生かすためのシステムらしいから。


「つみき、一緒に学食行こうぜ」

「残念だったな! つみきは今日は弁当の日だ」

「弁当持って学食行けばいいじゃねーか。今日はツナマヨ売ってる日だぞ。一個八十円だ」

「え! う、うーん……」

「お前、さっきツナマヨやっただろ!」

 前方から聞こえる会話を聞き流しながら僕は菓子パンを食べ終え、念のため持ってきたもう一個のパンを机の上に出し、腹に入れるかどうか判断することにする。満腹ではないが、食べなくても午後の授業は受けられそうなくらいだな。下手に開けて、お腹いっぱいになって気持ち悪くなるのも嫌だし……などと考えていると、佐伯が走ってこちらにやってくる。

「巴もさ、一緒に学食行かない?」

「ええ……」

 佐伯が走ってきた方を一瞥すれば、播磨と藤原が二人で何かを喋っているようだ。あいつらと一緒に学食に行くってことか? 嫌だな。ただでさえ学食の人であふれ返っている感じが嫌なのに、このメンバーで同じテーブルに座って食事をするなんて、想像するだけで気まずすぎる。

「いいよ。もう食べ終えたし」

「パン、あと一個残ってるじゃん。それを持っていけばいいよ」

「嫌だよ、もうお腹いっぱい。ごちそうさま」

「もっといっぱい食べた方がいいってー」

「余計なお世話。二人と行ってきなよ。どうしてそんなにいちいちかまうの」

「だって、……」

 何かを言いかけた佐伯が、口をOの形にしたままフリーズする。僕は佐伯の顔と、その背後で待っている播磨と藤原の姿を一度ずつ確認して、佐伯にだけ聞こえるくらいの小さな声で言った。


「『と・も・だ・ち』、だから?」


「……! そうそう!」

「あっそ。じゃあね」

「なんでそうなるの!」

 そう叫んだ佐伯に、藤原の「行くぞー」という声がかかる。佐伯は相変わらず愛嬌たっぷりに僕の顔を睨みつけると、「今行く!」と言って自分の弁当箱と、藤原のビニール袋を掴んで走り去った。

 三人が教室から出ていくのを見送ってから、僕はiPodを取り出す。どの曲を再生しようかとボタンを押しながら、意識は、いつの間にか佐伯の方に向いていた。


 ――僕たち、もう一回「友達」になれるかな。


 後夜祭が終わり、着替えを済ませた僕たちが自転車置き場に向かう途中で、佐伯はそんなことを言った。


 ――「もう一回」も何も、僕たちが友達だったことなんてないでしょ。

 ――それもそうだね。

 暗闇の中で、佐伯が遠くを見つめるのがわかった。佐伯の手の中で、自転車の鍵がちゃりちゃりと冷たい音を立てる。


 ――だから、実質「初めての友達」だね。


 僕の言葉に、佐伯がこちらを向いた。自転車置き場の蛍光灯が、白く、頼りない光で僕たちを照らしていた。


 ――なんかそれ、「特別」だね。


 佐伯はそう言い、照れくさそうに笑った。僕はその表情にまた満たされるような心地がして、でもどういう風に伝えればいいのかわからなかったから、しょうがなしに、素直な気持ちで「変なの」と笑った。



 僕はどうしようもなく普通で、ありふれていて、取るに足りない存在だ。「特別」にはなれなくて、完璧にもなれなくて、自分が嫌になる時もあるだろう。そんな自分が嫌いで、だけど嫌いになりきれない自分を許せなくて、自分を傷つけてしまいたくなる時もあるだろう。そんな瞬間がこれから先、生きていく限りずっと続いていくのかもしれない。うんざりするほど繰り返して、その度に自分のせいだとわかっていながらも「うんざりするよ」と悪態づいて、勝手に腹が立って、落ち込んで、悲しくなってしまうのかもしれない。

 だけど僕は、そんな腹立たしさや虚しさを忘れ、自分のことを少しだけ許せる瞬間を佐伯にもらった。僕は本当にくだらないやつだけど、今、君の前にいてよかったと、僕は心の底から思うことができた。君と話をすることができてよかった。君が僕の話を聞いてくれてよかった。君も君の悲しみや苦しみを抱えていて、それが僕の悲しみや苦しみとよく似ていて、その事実ごと君と分かち合うことができたことが――僕は、とても嬉しかった。

 それは、僕にとっても佐伯にとってもただの「慰め」であり、僕たちがどうしようもなく平凡で、嫌なやつであることの根本的な解決にはならないのかもしれないけれど。それでも僕はあの日のことを、佐伯にもらった「特別」を、僕にとってかけがえのないものとして、これから先も大事にし続けるのだろう。

 

 いつもは寝る前に聴いている好きなバンドのバラードを選び、僕は机に伏せた。五時間目のチャイムが鳴るまで、別のことでも考えようか。例えば人付き合いのことだとか……慣れない友達付き合いのことだとか。

 長いイントロが終わる頃、ふと、僕は帆波のことを思い出す。最後の質問をした時に見せた、彼の屈託のない笑顔の意味。今なら少しは好意的にとらえることができるかもしれないが、佐伯や播磨には伝えようとは思わなかった。

 ――静かでどこかさびしい歌声に、僕は瞼を下ろす。


「君は今、播磨に生かされて、幸せ?」

「はい。僕は新しい世界でいろんな人に出会えて、大切な人もたくさんできて、毎日とても幸せです。生きて、よかった。『この世界』に来させてくださり、本当にありがとうございました」




チャイム・2〈終〉

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チャイム 児玉キリ @kokiri901

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