10話:播磨聡介(③)


 際限なく広がる暗闇の中で、佐伯と播磨は目を覚ます。

 二人が辿り着いた場所が「世界の交差点」であることは、もちろん佐伯しか知らない。佐伯は隣に播磨がいることを確認する。播磨は黒のスーツ――コンクール用のフォーマルな衣装に身を包んでおり、ここがどこなのか把握しようとしているようだった。

 佐伯は播磨の隣で、この空間の「管理人」を呼ぶ。


「マスター」


 すると佐伯の見上げた先、二人の立つ場所から離れたところにある一点が、スポットライトが当たったかのようにパッと明るくなる。そこに腰かけていたのは、黒くてぼさぼさの髪が特徴の、黒のセーターと黒ズボンに身を包んだ長身の青年――「古壱うたぎ(マスター)」だった。

 とても現実世界とは思えない場所に連れて来られ、いかにも怪しい登場をした謎の男との対面に、播磨は驚きつつも怪訝な顔で様子を窺っている。対して佐伯は昔から「世界の交差点」の存在を知っているし、その時不思議な使命感に突き動かされていたため、不安や迷いなどは一切なかった。

 帆波が書いた名札を握りしめながら、佐伯は青年に体を向けた。歳の離れた、血の繫がった、佐伯の従兄弟の「兄ちゃん」。佐伯が彼に堂々とした態度をとることができたのは、佐伯が書記になってから初めてのことだったかもしれない。

「『マスター』、ここに、『サインイン』に必要な署名がある。今から、いや、今だけでいいから、これを書いた人物を『ここ』に呼ぶことはできないかな。彼の『願い』は直接聞いたわけではないけれど、たぶん今の彼だったら『死にたくない』と思っているはずだから、『叶えたい願いを持っている』という条件はクリアしていると思うんだ」

「……」

「つみき、何言ってんだ?」

 隣で聞いていた播磨が、マスターの返事を待たずに声をかけた。佐伯は播磨に向き直って「大丈夫だから」と微笑みかける。播磨はまだ何か言いたげだったがおとなしく頷く。その様子を見ていた男は上空から、佐伯に対して質問を投げた。

「……そいつを呼んで、どうするつもりだ。『世界の交差』を起こす前に、まずはお前たちが何をしたいのかを聞かせてもらおう」

「はい、マスター。僕たちは――僕と播磨聡介は、金重帆波が『この世界』で完全に息を引き取る前に、もう一度だけ会って話がしたいです。そして、きっとここに来た彼はそう望むと思うから――彼が、この『サイン』で願いを叶えることができるのであれば、マスター、どうか『この世界』を『金重帆波が病気を患っていなかった世界』に書き換えてほしい」

「つみき……?」

 播磨は佐伯の言葉に驚いている。佐伯は、声を振り絞るようにして続ける。

「今は『現実世界』で意識を失っていても――もし『ここ』に来ることができるのなら、あとは『ここ』で願いを言うだけですよね。だからもし帆波が『そう』願った時は、どうか貴方の『奇跡』で、僕と播磨と帆波が『普通』に暮らせるような世界をつくってほしいんです。お願いです、マスター。僕らの願いを叶えてください」

 佐伯は一息に言うと、男に向かって勢いよく頭を下げた。佐伯に与えられた権利はここまで――マスターのように部室ではない場所で「世界の交差」を起こすこと、また「サインイン」に必要なものを揃えた者を「世界の交差点」に連れてくること――だった。帆波を連れてくることができなかったのは、帆波が願いを声に出していないから、そして帆波の現実世界での意識が薄くなっているからだと佐伯は考えた。だとしたら、より強い力を持つマスターに託すしかない。帆波がどんなに頼りない状態でも、ここに来ることさえできれば、あとは「願い」を言うだけだ。それに、帆波がここに来てくれさえすれば、播磨と会わせることができる。それだけでも、正直十分だった。

 播磨はと言うと、佐伯の語る夢物語のような内容、にもかかわらず必死になって首を垂れる様子に呆然としていた。が、間もなく佐伯と同じように頭を下げた。播磨は賢い男だった。


「……難しいな」


 暗闇に、青年の低い声が反響する。

 佐伯は勢いよく顔を上げた。それは播磨もほぼ同時だった。

「……なんで、ですか?」

 佐伯がそう問うと、長い前髪で目元を隠した男は、言葉を選ぶようにぽつりぽつりと話し始めた。

「……『書記』よ、お前の願いのすべてを叶えることは、正直なところ難しい。というのも、お前が持ってきたその名札の主は、お前もわかっているだろうが、すでに瀕死の状態だ。その状態だと、『世界の交差』を起こすのに必要な『想像力』を引き出そうとしても、彼に『想像』するだけの十分なエネルギーが残っていないがために、『世界の交差』を起こすことができない。――たとえ、俺が『世界の交差』の権利を彼に与えたとしても、実際に『奇跡』を起こすためには、『奇跡』を起こす人間自身の強い『想像力』が必要なのはわかっているな」

 佐伯は、帆波の病室に充満していた血の匂いを思い出しながら、浅く頷いた。男は言葉を紡いだ。

「また、今お前が言った『望み』を叶えるためには、かなり大掛かりな、歴史自体の書き換えも必要になる。『彼の病気がなかった世界』というのは、彼が生まれたその瞬間から今に至るまでの、十数年間分の歴史の改変になる。――その運命が一つ変われば、『金重帆波の死』という事実も、運命も、覆すことができるだろう」

 播磨の肩がぴくりと跳ねる。佐伯も唾を飲み込んだ。

「しかし『世界の交差』によって『死』という運命を覆すためには、膨大なエネルギーがいる。それは『奇跡』を起こす本人だけでなく、他の人間から得ても足りないくらいの……。だから、もしお前たちがそれを成功させたいのなら、今この場で、十分な『想像力』を他所から集め、俺に差し出す必要がある。だが、おそらくお前たちに、その時間は残っていない。彼が完全にこと切れてしまっては、『世界の交差』は起こしようがないからな」

 彼の言葉を聞いていた佐伯は、ただ頷くしかなかった。男の言うことはもっともだった。もちろん、佐伯もわかっていないわけじゃない。佐伯は中学生の時からずっと、誰かに「奇跡」を与えてやる代わりにその時に発生するどんな些細な「想像力」も集め続ける彼の姿を見て、記録し続けてきた。どれだけの「奇跡」を起こして「想像力」を集めても、彼はたった一人、かつて死別した愛する人の存在を、自分の望んだ世界に蘇らせることができないでいる。それほど「死」という事実は絶対で、簡単に変えることができない。帆波が今、死にとても近い場所にいるのだとしたら、僕たちは帆波の力で「世界の交差」を起こすことができないどころか、帆波に対して何をすることもできないんじゃないだろうか。

「そういうわけで、今回はお前たちの『願い』を聞き入れてやることはできない。残念だったな……」

 マスターはそう言って顔をそらす。佐伯の横でマスターの言葉を聞いていた播磨も、今度こそ、黙って項垂れた。佐伯はそれを覗き込む。播磨のよく整った横顔には、深い絶望が浮かんでいた。

 その瞬間、佐伯の胸の中に黒い風が吹きつける。


 僕は「世界の交差」で、帆波が死ぬという事実を書き換えたいと思った。そうすれば、播磨と帆波と、そして僕の望んだ理想の世界に帰ることができるんじゃないかって。だけど、それは不可能だと告げられてしまった。そして、自分自身も不可能だと思ってしまっている。直感で、わかるのだ。僕は、これでは理想の世界を手に入れることができない。

 じゃあ、諦めるしかないのだろうか。あの播磨が、相当意味不明なことを言っていたはずの僕を信じて、賭けてくれたのに? 「もしかしたら」って期待させてしまっただろうに、結局何も変わらなくて、救えなくて……このまま二人で、「帆波の死んだ世界」に帰っていくしかないの? もう、僕にできることは一つもないのだろうか?


「やっぱり『ここ』に呼ぶだけ……ってのは、ダメですか」


 遠くを見ていたマスターは、言葉の主――佐伯に焦点を合わせ、その真っ黒な瞳で静かに見つめる。佐伯にとっては一か八かの、最後の賭けだった。

「『死』という事実の書き換えが簡単にはできないってことはわかりました。でも、もしできるんだったら、最期に播磨に会わせてあげてほしいんです。一回だけでいいから!」

 佐伯は声を張り上げて訴えた。播磨は項垂れたままだった。――自分が何とかして、播磨のことを救わなくちゃいけない。佐伯は、最後の切り札を出した。


「あなたは、自分の知らない場所で大切な人が亡くなる悲しみを、誰よりもよく知っているでしょ⁉」


 長い前髪に隠れたマスターの目が、大きく見開かれる。佐伯は手応えを感じた。再び自分の中に熱い血が駆け巡る心地がした。

 いくら過去から大きく変わってしまったとは言え、彼――うたぎがもともと義理人情に厚く、面倒見のいい性格であることを知っていた佐伯は、だからこそ彼を頼りたいと思ったのだ。彼と似たような境遇に苦しむ、あるいはこれから苦しんでいく播磨に対して、彼が何もしてくれないはずがないと信じていた。播磨にだったら、うたぎさんは特別に力を貸してくれるかもしれない。僕たちだって血の繫がった従兄弟なんだから。そして、ずっと前から同じ秘密を抱えている、「仲間」なんだから。

 いくらか……いや、かなり佐伯の言葉が効いたのだろう、暗闇に腰かけた青年はゆっくりと脚を組み直し、そして考え込むような様子を見せる。黒く濁った瞳が「方法」を探そうとゆらめいている。

 まだ、希望があるかもしれない。佐伯は播磨に近づく。絶対にあると決まったわけではないけれど、その喜びを分かち合いたかった。播磨の顔を覗き込み、励ますつもりで声をかけた。佐伯はだいぶ、気が抜けていた。

「ね、話せるだけでいいよね、播磨?」

「……あんた、」


 播磨の口から漏れ出たのは、佐伯への返事ではなく、上空で静止している男への呼びかけだった。


「あんた、やろうと思えば、死んだ人間を生き返らせることができるのか?」


「……え⁉」

「……」

 佐伯とマスターは、播磨の発した言葉に度肝を抜かれる。

 コンクール用の正装――上質そうな黒のスーツを着こなし、暗闇に立っている播磨。上品に切り揃えられた艶やかな黒髪の下にはいつもの笑顔の影はなく、人懐こさどころか人間らしさまで抜け落ちて、ぞっとするほど端正だった。そのオーラとプレッシャーに、佐伯は思わず後ずさる。そこに佐伯の「友達」の播磨はいなかった。「チームメイト」でもない、ましてや「幼馴染み」でもない――そこにいたのは、「帆波の従兄」の播磨だった。

「……厳密には違うが、条件と材料さえ揃えば、不可能ではない」

 マスターは静かな声で返答する。播磨は腕を組み、堂々とその場に立った。

「その『奇跡』を起こす『条件』ってのが『奇跡を起こす本人の署名が手元にあること』で、『材料』の方が、人が何かを望むときに生まれる『想像力』ってことか?」

「播磨、もう理解したの?」

 佐伯はすっかり驚いてしまう。播磨はマスターから目線をそらさないままで答えた。

「さあ。理解したっていうか、今聞いた話を整理しただけだ。実際に何がどういう原理で起きるかってことはさっぱりわかんねえよ。どうしてまた、『名前』と『ただ願うこと』だけで、そんな『奇跡』が起こせンだろな」

「播磨、それは……」

「ああ、後で聞くさ。とにかく今は時間がないんだろ? っつーわけで、『マスター』」

 播磨はその場に堂々と立ち、その鋭い瞳でマスターを捉えた。そのオーラと言ったら。

 気づけば、その背丈は少しだけ佐伯が追い越していた。だけど、播磨の強さやオーラは決して揺るがなかった。誰よりも大人びていて、余裕があって、かっこよくて……ただ身長が伸びただけの自分とは違い、播磨はものすごいスピードで成長し、熟成していく――「大人」になっていく。いつもは上手に隠しているけれど、よく注意して見れば、同学年の誰も、いやその辺の大人でさえも追いつけないくらい遠いところに播磨はいた。それでもなお先を見据える播磨の、誰も寄せつけようとしない刃のような鋭さ、そして厳しさを、佐伯は目の当たりにするほかなかった。

「その『想像力』って、さっきの言い方だと、他人が持っているものでもいいんだろ?」

 マスターが頷く。播磨も合わせて、微かに笑みが浮かべながら頷いた。



「じゃあ俺の持っている『想像力』、そのすべてを使って、『奇跡』を起こすことは可能か?」


「……播磨?」

「お前の?」

 播磨は「ああ」と答え、マスターに向かって両手を大きく広げる。播磨の顔には不敵な笑みが浮かんでいた。佐伯にはもう、播磨がどんな感情なのかまったくわからなかった。

「あんたに俺がどう見えているかは知らねえが、俺は、大抵のものだったら他のやつらよりも多く持ってるんだ。『想像力』だって例外じゃないはずだぜ? だって、『想像する力』ってのは例えば、『先のことを予測する力』だったり、『知らないことを知ろうとする好奇心』だったり、『発想の自由さ』だったりするわけだろ? そういう力全般、俺は他のやつより多く持っているつもりだぜ。違うか?」

 佐伯は自分に言われているわけでもないのに、播磨の言葉に何度も頷いていた。マスターも播磨の演説に耳を傾けている。彼もまた、その黒曜石のような瞳に播磨だけを映していた。


「……なあ、俺の持ってるもの全部使っていいから、最期の瞬間だけでも、あいつを幸せにしてやってくれないか。あいつ、事故なら痛かったと思う。怖かったと思う……。俺の『願い』は『帆波が幸せでいてほしい』、ただそれだけなんだ。帆波が幸せになって、たまに『幸せだ』って言ってくれるだけで、俺は生きてる心地がするんだよ。できるもんなら帆波が幸せに生きる未来が欲しいし、俺だってもっと幸せにしたかった……。でもそれが本当に無理だってんなら諦める。ただ、もし少しでも可能性があるのなら、俺の持てるすべてを費やしてくれていいから叶えてくれ。俺のことはどうなったっていいんだ。あいつのことを幸せにしてやってくれ。頼む」

 途中から震え出した声は、聞いているこちらが泣きたくなるような切実な声だった。その声にいつもの余裕はまったく見当たらない。播磨は言いたいことを言ったかと思うと、次の瞬間には美しすぎる角度で首を垂れていた。それは完成されすぎていたために、佐伯が一緒に頭を下げることを拒絶しているかのようだった。佐伯は立ち尽くすほかなかった。それを見ていた青年は――少し迷って――薄く唇を開いた。


「……どんな形でもいいのなら、」


 ピクリと播磨の体が反応する。佐伯もマスターの顔を見上げた。

「……彼を、『世界の交差』を使ってお前たちの世界に戻すことは……今は、どうやったってできない。お前の『想像力』の、すべてを使っても、だ。――ただ、」

「『ただ』?」

 聞き返した佐伯に対して、男は言葉を続けた。


「『彼に幸せでいてほしい』のであれば――彼を、『別の世界』で、『別の存在』として、もう一度存在させることができる」


 佐伯はハッとする。

「『転生』を……するってことですね!」

「『転生』?」

 播磨は何を言っているかわからない、といった表情で顔を上げた。青年は無表情に頷く。

「『この世界』で消滅するはずだった肉体と魂のうち、魂だけを『別の世界』の肉体へと流し込み、その魂を救うんだ。そうすれば『金重帆波の魂』は、名前と『器』を変えはするが、消滅を免れ、『別の世界』でもう一度生き始める」

「『別の世界』?」

「播磨、ここは『世界の交差点』って言って、『僕たちが生きている世界』とその他にもあるたくさんの『世界』が交わる場所なんだ。僕たちはいつも『僕たちの世界』だけで生きているけど、他にも『世界』はたくさんあって、マスターに頼めば『別の世界』に行くこともできるんだよ。それもマスターが起こせる『奇跡』の一つ、『世界の交差』の一つなんだ」

「『別の世界』……」

 播磨はうわごとのように繰り返す。マスターは説明を続けた。

「お前が『金重帆波に幸せな未来を与えてやりたい』と思うなら、俺は、お前の持っている『想像力』を使って、金重帆波の転生処理を行う。今の彼の『想像力』だけでは、『別の世界』への転生処理をすることは不可能だからな。――そして、処理がすべて終われば、金重帆波はその存在を変え、『別の世界』で新たな人生をスタートさせることができるだろう」

「もう一回、人生を……」

 播磨はマスターに釘づけになっていた。驚いているような、納得しているような、まだ吞み込むことができていないような――目を見開いて、マスターの言葉をものすごい速さで咀嚼している。……いや、それでも。佐伯は口を挟んだ。

「マスター、でも、『完全転生』を行った場合は『元の世界』の記憶を忘れてしまうでしょう。帆波は新しい世界で生きていくことができるかもしれないけど、播磨のことは忘れてしまう。それって播磨はいいの? 播磨のことも、播磨との思い出も、全部、忘れちゃうんだよ? 転生した後の帆波に会いに行っても、帆波は播磨のことを忘れてるかもしれないんだよ」

「――『罪記(つみき)』、」

 久しぶりに呼ばれた「自分の名前」に、佐伯はドキリとする。何か間違ったことを言っただろうか。彼を見つめれば、青年は静かにかぶりを振った。

「……この方法でやるとしたら、『完全転生』を行った者の記憶がなくなるだけじゃない。『想像力』を捧げたこの男は、これから先、二度と『世界の交差』を起こせなくなる」

「……え⁉」

 佐伯は頓狂な声を上げる。播磨は黙って成り行きを見守っていた。

「どうして⁉」

「『すべて』を使うんだ。今回の『完全転生』には、その男が今持っているすべての『想像力』を使う。『存在』のあり方を変えるための『世界の交差』にも、やはり、多大な『想像力』を必要とするからな」

「それでも『二度と』ってことはないんじゃ……!」

「……これは『ハンデ』なんだ」

 青年はどこか苦しそうに、額を押さえながら言う。

「今回の『世界の交差』は、『転生』をする本人ではなく、その代理人の『想像力』を使う。そして死ぬはずだった人間の魂を『別の世界』に移すことで、結果的には延命させる。……これを行うのは、俺も初めてなんだ。だから、ここで新たにルールを作る。厳しいかもしれないが、それほど大きな『奇跡』の代償として、設定させてもらう」

 そう言うと、額を抑えていた青年の手から余分な力が抜ける。佐伯は直感的に、「男」が「うたぎ」から「管理人(マスター)」になったことを予感した。初めて「世界の交差」を起こした、今はうたぎの姿を模っている、人ならざる存在。彼は白くて骨張った指を、佐伯と播磨の方に伸ばした。その瞳の中央には「光のチップ」が浮いている。

「『願い』を叶える人間が、何らかの理由で自ら『世界の交差』を起こすことができない場合。そしてその『世界の交差』が、『死』という運命を逃れるための延命措置となる場合。通常と同じように、『完全転生』をした人間の記憶はすべて消去される。加えて、主として『想像力』を差し出した人間は、その後二度と『世界の交差』を起こすことができないように処理をする。――理由はいくつかあるが、一番は、お前たち人間はそう簡単に『生』と『死』という『運命』の操作に携わるべきではないからだ。本来ならば、お前と金重帆波についてもこのような措置は認められない。だが、『俺』が特例として認めようと決めたんだ」

 男は伸ばした手を握り、自分の胸に当てた。それは実体を借りている「人間」のうたぎに、これでいいのかと尋ねているように見えた。

「『一回きりの奇跡』――というわけだ。人の『運命』を変えるほどの大掛かりな『奇跡』を起こした人間には代償が必要だ、というのが俺の考え方だ。このことに関しては例外はない。よって今からこのルールを適用する。異存があるなら、金重帆波のことは諦めるがいい」

「播磨……」

 佐伯は播磨に声をかける。播磨は、佐伯には返事をせず、静かに何かを考えている。播磨のことだからマスターの話がちっともわからなかったってことはないだろう。でも「世界の交差」だとか「別の世界」だとか「完全転生」だとか、急に今まで聞いたこともないような、ありえない話ばかり聞かされて戸惑っているのかもしれない。佐伯は何か補足をしようとして、その動きを止めた。播磨が口を開いたのだ。

「マスター。もし俺が俺の『想像力』を差し出せば、帆波は幸せになるのか」

「さあな。『別の世界』――『Lの世界』で彼が幸せになるかどうかは、彼自身の生き方、感じ方にもよるだろう」

「願えば帆波が生きやすい世界に行けるのか。それと、『転生』すれば、帆波の病気は治るのか」

「どんな世界に行くかは、彼自身の『無意識』が決める。わずかに残っている彼の意識の『無意識』の領域で、彼の思い描いている『理想の世界』が彼の行くべき『世界』となるだろう」

 また男は、その「世界の交差」を起こすために多くの「想像力」を捧げた、お前自身の描く「理想の世界」が彼の行き先に影響を及ぼすかもしれないな、と言った。

「そして彼の病気だが、『転生』後の世界で治るかどうかはわからない」

 播磨は何か言いたげに口を開きかけたが、先にマスターが言葉を発する。

「それも、彼の『無意識』が決める。彼の魂はずっと病気とともにあったから、もし『無意識』のうちで『自分の魂は病気とともにある』と認めていれば、その状態は新しい肉体にも引き継がれるだろう。逆に、『病気のない肉体に生まれ変わりたい』という意識が『無意識』の領域を支配しているのであれば、新しい肉体にその病気を引き連れる可能性は少なくなる」

「俺は『転生』後の帆波の様子を見に行けないみたいだけど、『帆波が生きている』という証明はどうやってしてくれるんだ」

「お前を『ここ』に連れてきた、『そいつ』に頼めばいいだろう」

 マスターは佐伯を見下ろした。

「『世界の交差』を起こす権限がなくなるのはお前だけだからな。『そいつ』なら自由に『ここ』に出入りすることができる。『ここ』を通った人間の記録もつけさせているから、『Lの世界』で生まれ変わった彼のその後を伝える者として適任だろう」

「……そうか」

 播磨は顎に手をあてて考え込む。確かに佐伯は、その役目を全うすることができる。しかしそれでいいのだろうか。佐伯が播磨に声をかけようとした時、播磨が顔を上げた。その顔に迷いはなかった。


「わかった。じゃあ、帆波を『別の世界』に『転生』してやってくれ」


「……っ、播磨⁉」

 佐伯の声に、播磨は振り向いてへらりと笑った。

「どうした、つみき」

「本当にいいの⁉ もし本当にそうするんだったら、きみはもう『世界の交差』を起こすことができなくなるんだよ……!」

 必死に食い下がる佐伯、そして無感情に見下ろすマスターの視線を受けた播磨は、急にふっと吹き出して、そして声を出して笑い始めた。

「播磨……?」

「つみき。あのな、俺は『世界の交差』なんて言葉、さっき初めて聞いたんだぜ⁉ それが『使えなくなっても大丈夫か』なんて、大丈夫に決まってるだろ! これまで使えなくて困ったことなんかねーし、使わなくてもここまで上手に生きてきたわけだ。そうだろ?」


 両手を広げて目を細め、播磨は歌うように話す。佐伯にはどこか拭えない不安もあったが、自分の力だけで勉強もスポーツもすべて上手にこなしてきた播磨がそう言うんだから、否定しようがなかった。播磨がそう言うのであれば、きっと大丈夫なのだろう。


「あいつとお前の言ってること、まだ完全に理解したとは言えねえ。でも、大丈夫だ。生きてる世界が違っていようが、俺は帆波が生きてくれさえすればそれでいい。たとえいろいろ抜け落ちちまって俺のことを忘れても、帆波がもう一回、幸せに生きていく未来を創れるって言うんなら、俺はそれに賭けるよ」

「播磨、でも……」

「帆波がどういう風に生きてるか、お前が教えてくれんだろ」

 播磨は佐伯を見つめ、やわらかく微笑んだ。それは播磨が「大事なもの」を見つめる瞳だった。まだ自分は、播磨の「こっち側」なのだ……と思った瞬間、佐伯の胸は締めつけられるように痛む。……とても嬉しいはずなのに、苦しかった。

「それさえあれば、俺は生きていける。だから、頼りにしてるぜ」

「……うん、」

「参考までに訊いていいか」

 暗闇に腰かけたマスターが、播磨に向かって問いかける。

「どうしてお前は金重帆波を、自分のすべてを賭けてまで幸せにしたいと願う? 何がお前をそうさせるんだ?」

 播磨は一瞬だけ神経を尖らせる。しかしすぐに気安い笑顔を作った。

「帆波は俺の生きる理由なんだ。帆波を守ることが、俺の生きがいなんだよ」

 それだけだ、と言うと、播磨は頭の後ろで手を組んだ。

「さ、時間がないんだろ。早く俺から『想像力』でもなんでも引き出して、帆波を救ってやってくれ」

 軽い調子で語る播磨のことを、マスターはしばらくの間見つめていた。しかしおもむろにその目を閉じると、静かな声で「いいだろう」と言った。



「お前の願いを叶えよう」



 真っ白な光が、一瞬で辺りを包む。播磨はその中心に立っていたが、徐々にあの眠気が襲ってきたか、次第に瞼を下ろしていく。ゆっくりと崩れ落ちていく播磨を抱き留めようと佐伯が近づいた瞬間、それは激しくもどこか優しい、白い光に包まれた人物に取って代わられた。


「……帆波、」

「――」


 白い光と同化した帆波は、佐伯に向かって穏やかに笑いかけた。その笑顔はいつも佐伯や播磨に向けていた、どこか困ったような、悲しんでいるような、儚げな笑顔だった。



 そして、光はすべてを包み込む。

 佐伯があまりの眩しさに目を瞑り、その意識を手放した時――。




 ポーン、ポーン、ポーン……。




 ――意識の片隅で、チャイムが鳴っているのが聞こえる。

 学校のチャイムじゃない。病院のチャイムだ――と認識した瞬間に、湿った土の匂いが鼻腔をくすぐった。

 上体を起こせば、そこは佐伯が播磨にケータイで連絡をした、病院の庭の植え込みの裏だった。鳴っていたのは病院の、夕方六時のチャイムだった。

 少し日が落ちて、辺りは涼しくなっていた。どこからか蝉の声が聞こえる。


 「世界」は何にも変わらなかった。ただ、目覚めた佐伯の隣でスーツ姿の播磨が眠っていたことと――「帆波がこの世界から消えてしまった」ことを除いては。




「『この世界』からしてみれば、『帆波が消えてしまった』ことくらいで何も変わらない。僕は何度か『世界の交差』を体験してきたし、誰かがいなくなったりだとか、逆にいなくなった人が現れたりするところを見てきたから大丈夫だったけど……播磨はやっぱりショックだったみたい。当たり前の反応だと思うけどね」

 トイレの蓋に腰かけた佐伯は、目を伏せたまま話し続ける。


「『世界の交差』を起こした次の日に、播磨は家族や病院に確認を取ってたっけ。だけど誰も『帆波のことを知らなかった』。帆波の両親もそう。播磨や僕の家族もそう。帆波のかつての友達もチームメイトも、直前までお世話になっていた病院の先生たちだってそうだった。カルテもない、病室もない。『金重帆波』という人間が生きていた痕跡は、僕と播磨の中にあるだけで、すべて消えてしまったんだ。帆波の『肉体』は、マスターが回収して『掃除係』に処理を頼んだみたいだけどね。……さすがに、播磨に引き渡すわけにはいかないでしょう」

 佐伯はこともなげにそう言った。……帆波の肉体は、「あった」んだ。だけど「創作部」は、迷わずそれを「処理」に回した。視界の裏にビニールシートの青色がちらつく。

「播磨には、『そこ』を説明するのを忘れていた。けど、もう遅くて。

 僕は佐伯に焦点を合わせる。すぐには「そこ」というのがどこかわからなかった。「僕もその確認に付き添ったけど」、という言葉で文脈を取り戻す。

「播磨にとって、ここが『帆波が存在しなかった世界』になってしまったことは本当に悲しかったんだと思う。だから播磨は後半の夏期講習が始まるちょっと前まで引きこもってたんだ。僕は、播磨がそうやって弱るところを初めて見たんだ……」

 佐伯は両手を握り、悲しそうに俯いた。

「少しでも播磨の生きる希望になったらいいなと思って、僕は『世界の交差』を起こした。だけど結局、播磨にもっとつらくて悲しい思いをさせただけだったんだ。僕も『帆波が存在しなかった世界』を悲しく思ったけど、それ以上に播磨を傷つけてしまったことが悲しくて、申し訳なくて、罪悪感に押し潰されて動けなくなった……。でもこれじゃいけないと思って、僕は播磨と二人で話す時間を作った。久しぶりに会った播磨はやつれてて、『どうやって生きていけばいいかわからない』って言って、今にも死んでしまいそうだった。だけど、やっぱり僕は播磨には生きていてほしかったんだ。播磨は本当にすごい人だから、絶対に死んじゃ駄目だって……だから、僕は播磨に伝えたんだ」


 播磨、帆波がいないと生きていけないなら、僕を帆波の代わりにしてよ。

 帆波が播磨の生きる理由だったんなら、今度は僕を生きる理由にして生きてよ。


「……僕はずっと、播磨は誰かに愛情を注ぐことで生きている実感を得られる人なんだって思ってた。播磨がバスケやバイオリンや勉強でどんなに忙しくても頑張ることができるのは、『帆波』っていう『守りたい人』――『大切な人』がいるからなんだと思う。播磨は『大切な人』の前でいつも笑っていられるように、かっこいい姿を見せられるように、そのためだったらいくらでも頑張ることができるんだ。だから……帆波がいなくなってしまった瞬間に、やつれてしまったんだと思う。いくら、僕が『書記』として『向こうの世界』での帆波の姿を報告することができると言っても、そこに帆波はいないんだからね……。それならって、僕は播磨の愛情を注ぐ対象になれば、元の播磨に戻るんじゃないかと思ったんだ。だけど、全然上手くいかない。元の僕たちには戻れなくて、播磨は日に日におかしくなっていく。このままじゃダメなんだ。どうにかして僕たちは『運命』を変えて、元の僕たちに戻らなきゃいけない。……だから、その方法を一緒に考えてほしくて、僕はきみに近づいたんだよ」

 佐伯が顔を上げる。そしてようやくこちらを見た。僕は、口から何かが出そうになるのを抑え、話を聞くことに徹する。

「鏡味は『世界の交差』のことを知っているでしょ。そして僕は、きみが物事を冷静な目で見て、しっかり考えて、今まで創作部の誰も気づくことのできなかったことに気づいた人だっていうことも知ってた。だからもしかして鏡味なら、僕や播磨、帆波に起きたことを知ってくれたら、僕には思いつくことのできないような、いい方法を思いついてくれるんじゃないかなと思ったんだ」

 鏡味、と呼ぶと、佐伯は僕に向かってよくわからない顔で笑いかける。


「ねえ鏡味、どうやったら僕たちの『運命』を変えられると思う?」


「……そうだねえ」

 僕は一応礼儀として、頭の中で言いたいことを整理しようとする。しかし上手くまとまるわけがなかった。

「君が『変えてほしい』のは、君と播磨の運命だけで……マスターは関係ないんだね?」

 僕が訊くと、佐伯はわかりやすく動揺した。

「えっと……」

「最初、君が『書き換え』を使って僕を『世界の交差点』に呼んだ時、君はそう言ったよね。だけど今の話を聞いた感じ、今回君が困っていることにマスター自身の『運命』は無関係だ。その認識で合ってる?」

「んーと……そうかもしれない。だけど、『完全転生』の話はマスターがゼロを『こちらの世界』に呼び戻そうとしていることに無関係ってわけじゃないから、もしかしたらマスターの『運命』を変えることに繫がるかもしれない」

「そう」

 何を言っているかわからない。僕は佐伯の質問の答えはYESだとして、それ以外の情報を切り捨てた。つっこむ気すら失せる。

「それと、君が『書き換え』を使って『播磨に注意を向けさせた』のはどういう意図?」

 薄暗さもあるだろうが、佐伯はやや顔色が悪い。

「……きみに、僕と播磨の現状を知ってもらいたかった」

「だから『見せた』?」

「うん。……気づいていると思うけど、僕はゼロのノートを使って播磨の『運命』を書き換えることはできない。播磨はマスターに与えられたハンデで二度と『世界の交差』を起こすことができない――『世界の交差点』への出入りすらできないからね。一度『サインイン』はしたけれど、『書き換え』可能な対象ではなくなってしまっているんだ」

 なるほどね。そこの仕組みに関しては納得した。

「君は『書き換え』によって播磨の『運命』を変えることができない。そしてそれ以外の方法で播磨の『運命』を変えようとしても何も思い浮かばない。そこで誰かに協力してもらおうとして、『書き換え』が可能である僕の『運命』を操作し、播磨に注意を向けさせ、現状を知ってもらおうと思った」

「そう、そんな感じ!」

 佐伯はホッとしたような顔をする。――よかったあ、鏡味がわかってくれて。これでもう安心。鏡味は僕の「味方」になってくれる。……そんな心の声が聞こえてくる。


「――その『運命』って、変える必要なくない?」


 佐伯の表情が凍りつく。流れる空気が一気に緊張した。

「……なんで?」

 佐伯の顔には笑顔が貼りついたままだ。僕にはそれが滑稽に、そして不快に思えた。

「君は『播磨のことを助けたい』と思って『世界の交差』を起こした。だけどそれでは救えなくて、君なりに考えた結果、『自分が帆波の代わりになる』って言ったんだよね。それで播磨は救われてるかもしれないね。でも、単純に、君がそれを『嫌』に思っているんでしょ?」

「……っ!」

 佐伯が立ち上がり、僕を壁に追いやるようにして立つ。

「……何、言ってるの?」

 怒っているような、今にも泣き出しそうな顔でようやく出てきた言葉が「それ」だった。僕は手応えのなさに呆れてしまう。

「だから、今の状況って僕が何かをするまでもなく、『上手くいってる』んだよ。君がちょっと嫌な思いをするぐらいで、何か間違ったことになってる? 播磨は君に救われて、君は播磨を救ってる。それでいいんじゃないの?」

「間違ってるに決まってる! だって……おかしいんだよ。帆波には絶対そんなことしなかったのに、播磨は僕にものすごくかまって……体を触ってきたり、それに、」

「『キスとかしてくるし』」

 僕が言うと、佐伯は顔を真っ赤に、そして真っ青にする。

「君が見せてきたんでしょ」

「それは! ……本当に、事故だったんだよ。君に見せるつもりじゃなかった、ごめんね、」

「それでも『受け入れてた』じゃんか」

 こんなこと僕だって言いたくない。だけど会話のリードを握ってやらないと、こいつはまったく関係のない方向に話を持って行ってしまう。

「今朝も僕を避けたよね。僕のこと邪魔だって目で見てきたし、『鏡味に話すことなんてなんにもない』って言ったじゃんか」

「それは……! 播磨が……!」

 佐伯の瞳の中で真っ黒な煙が立ち上った。

「播磨が『そう言え』って言ったから……! それに、君が助けてくれるって、思わなかったから……そうするしかなくない⁉ あのね、播磨は最初からおかしかったんだよ。僕にはわからないもの。なんで、播磨は他人に依存するだけで、他人を守ったり力になろうとする気持ちだけで頑張れるんだろうね……⁉」

「……こういう時は責任転嫁するんだね」

 佐伯は大きな瞳を見開いた。「違う、」と弱々しく言う。だけどもう遅いし、「そうじゃない」だろ。

「君って、他人の気持ちをわかろうとしないよね」

 佐伯はうろたえる。というか、僕の言葉が瞬時に理解できないようだった。

「どこが……? 僕は播磨のことを思って、播磨が望んでいることを叶えようとして」

「それで播磨は救われたの?」

 僕は佐伯の顔を覗き込んだ。

「『救われた』って思ってないよね。僕も個人的には播磨は救われていないと思うよ。だって寝込んだんだろ? 死にたがってたんだろ? 帆波が死んでもそうなってたかもしれないけど、今回播磨の絶望には君が絡んでるんだろ。だったら君が責任を取るべきだと思うけど、君は『自分が嫌だから』って理由だけで今の状況を変えようとしている。そこに、『播磨が苦しそうだから』とか『播磨に幸せになってほしいから』みたいな気持ちってないんだよね?」

「それは、」

「ないよ。さっき君が言ってたじゃないか。『誰かを守りたいとか、力になりたいみたいな気持ちで頑張ることは自分には理解できない』って」

「そんなこと言ってない……!」

「君の行動原理は結局、『自分』を守りたいだけなんだ。『自分』に不都合なことがあったら安易な判断で回避するだけ。その時巻き込むどんな他人のことも、君は一切考慮に入れないよね?」

 こいつはずっとそうだった。文化祭準備の時も、僕に「依頼」をしてきた時も――播磨を救おうと「世界の交差」を起こした時も。こうやって真面目な話をするときの受け答えの仕方だってそうだ。怒られたくない、責められたくない、自分は間違っていない。「自分を否定されたくない」から受け答えがいちいち言い訳じみているし、都合が悪くなるとすぐ話の中心をずらす。僕にはその軌道が見える。こいつが自分の都合で――「自分は悪くない」と見せかけるために――事実を捻じ曲げ、こいつだけが「いい子」でいようとしているのが、手に取るようにわかる。だからムカつくのだ。反吐が出るほどに。

「君自身がこの結果を招いたんだよ。播磨は中途半端な形で救われた。対して君は自業自得なんだから、その責任は取るべきだよ。それを他人である僕に『変えてほしい』なんて言うのはお門違いにも程があるよ!」

「そんなこと……わかってるって……」

「わかってないだろ、あんたは!」

 僕は腹が立ってくる。また、佐伯が泣きそうな顔で「防御」に入ろうとする。心の底からムカつく。どうして自分だけが可哀そうだって思えるんだろう!

「本当に、播磨が気の毒だよ! 早く『僕には無理です』って言って手放しちゃえば⁉」

「っ、それはダメ‼」

 佐伯は急に声を荒げた。


「そんなことしたら、播磨はすぐにでも死んじゃう‼」


 発狂じみた声に、僕は少しだけ驚く。大声を出した佐伯はその場でよろけ、そして自分の体を抱きしめた。

「……佐伯?」

「鏡味、人って死んだらダメなんだよ」

 諭すような声は甘く、据わっていた。佐伯の額やこめかみには大量の冷や汗が浮き、流れ落ちているが、その視線はどこか恍惚としていた。

「死んだらそこで終わり。『想像力』は尽きてしまって、絶望もなければ希望もない。だけど、生きていれば何とでもなるよ。楽しいことがあるかもしれないよ。『生きててよかった』って思えるような、素敵な未来が待ってるかもしれないんだよ! それはとってももったいないよ、だから人は生きている限り生き続けるべきなんだよ!」

 途中から佐伯はけらけらと笑い始める。まるで熱いシャワーを浴びているかのような、気持ちよさそうな顔で目を細めながら。

「播磨は生きている価値のある人間だ。鏡味もそう思うでしょ? 誰よりも優秀で、頭がよくて……彼は天才だよ。そんな人が死んじゃったら、世界の損失だよね? しかも、今の彼は『世界の交差』で『転生』させることもできない。僕たちは今ある播磨の命を、誰のものより大事にする義務があるんだよ」

「……播磨の気持ちを無視しても?」

 口を挟めば、佐伯の動きが止まる。僕の気持ちは不思議と落ち着いていた。ゆっくりと、吐き出すように佐伯に問うた。

「播磨が『今』、どんなにつらい思いをしていても、君は同じことを言えるの? 播磨の心を、君は考慮するべきじゃないの?」

「……『心』?」

 佐伯は、空虚な笑顔を浮かべて、こてんと首を傾げた。



「……今、『心』って関係なくない?」


 

 ……点と点が繋がる。佐伯の過剰なまでの「世界」への、そこで生きている「他人」への無関心と無理解。それは佐伯の幼稚な自己愛に起因するのは間違いないが、それだけではない。佐伯の「普通」の考え、何度も繰り返し、「慣れてしまっている」考え方には「世界の交差」が組み込まれている。強く願えば願いは叶う。願いが叶えば世界は変わる。その際、いなくなる人も現れる人もいる。それでも世界は回り続ける。それは当たり前のことで、悲しんだり、ショックを受けたりするようなことじゃない。「そんなことより」、僕たちには守らなければならないルールがある。「人は、生きている限り生き続けるべき」だ。

「……君も、大概いかれてるね」

 今度は僕から佐伯に歩み寄り、顔を近づけた。

「笑ってるんじゃないよ。あーあ、播磨が可哀そう。こんなやつに捕まっちゃって、播磨も災難だね。本当に同情するよ」

「鏡味、何言ってるの? 播磨に捕まっているのは僕なんだよ」

「そうだよね、君からしたらそうかもしれない。播磨の行動は意味不明かもね」

 僕は佐伯の体操服の胸ぐらを掴む。そして少しだけ背伸びをして目線を合わせた。

「もう一回言うよ。『君は他人の気持ちをわかろうとしない』。あんたは播磨を助けたいって言いながら、考えていることは自分の保身と、自分の考えている『正しさ』に背くか背かないかだ。君って播磨と出会った時から今に至るまで、播磨が今何を考えてるかとか、何を欲してるかとか、考えたことないでしょ。『播磨は天才だから』って上辺だけ見て、それで勝手に『生きるべき』とか決めつけて、理解しようとしない! それどころか簡単に『おかしい』なんて言っちゃうしさあ! あんたの方が、よっぽど播磨って人間に対して失礼だろ!」

 じわ、と佐伯の目が潤む。

「……僕は、僕にできることを播磨にしてあげたいだけだよ」

「でも、自分の都合で選り好みするんだもんね!」

 それを聞いた佐伯はわななき、噛みつくように言った。

「それの何が悪いの⁉ 当たり前じゃん⁉ 僕は僕が『正しい』って思うこと以外したくないだけ‼ みんな同じでしょ⁉ なんで僕だけが我慢しなくちゃいけないんだよ‼」

 佐伯は僕の胸ぐらを掴む。熱く潤んだ瞳には、佐伯を見つめる僕がいる。


「僕だって一生懸命考えて頑張ってるんだよ‼ 一生懸命『いい子』にしてるのに、『正しく』ありたいのに、なんで邪魔ばっかりするの……⁉ 『心』なんて、本当に邪魔‼ そんなものいらないよ‼」


 佐伯がそう叫んだ瞬間、ボロボロッと、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「……ッ!」

 僕よりもうろたえた様子の佐伯は、「違う、違う」と繰り返しながら後ずさった。僕は佐伯が離した手を掴む。

「あんたが『心はいらない』とか、馬鹿言うな」

 一番欲しがっているくせに、と言うと佐伯は目を見開く。僕は追撃した。

「あんたがどうしてそんな考え方をするようになったかなんて知らないし、同情する気もないよ。ただ、あんた自身が心を殺さないとやっていけないからって、それを他人に適用していいわけないだろ! 自分のポリシーやコンプレックスを振りかざして他人の心を踏みにじったら、それだって罪なんだからな! 被害者面で泣きべそかいたって、播磨からしたらあんただって十分加害者なんだからな‼」

「っ、そんなの‼」

 僕の言葉を聞いているうちに涙が引っ込んだらしい佐伯は、目を真っ赤に腫らしながら食ってかかった。


「なんで鏡味に言われなきゃいけないわけ⁉」


「――つみき、いるんだな?」


 その声が、トイレの個室に響いた時。

 すべての時間が、まるで死んでしまったかのようにフリーズした。

  

「……どこから聞いてたの」

「さあな」


 少しかすれた低めの声は、不思議なくらいに落ち着いていた。対して佐伯の方は、声だけでなく、体ごとがたがたと震えていた。


 ……気がつけば周りにまったく気を配っていなかったから、一体どのタイミングで播磨が来たのか見当もつかなかった。普段は場にいるだけで空気全体が変わるようなオーラを発しているのに、本当に、声をかけられるまで気づかなかった。

 互いに胸ぐらから手を離した僕たちは、ドアから距離を取るようにして、個室の隅へと身を寄せている。さっきまで激しい怒りの色を見せていた佐伯は、一瞬で青ざめて震えている。それはそうだ。だってもしかすると、自分が播磨を「おかしい」と思ってることや播磨の心をないがしろにしていることが、本人にバレてしまったかもしれないんだから。もしそうだとしたら、この二人の関係は解消になるんだろうか。それはそれでいい気もした。その方が互いにとってよっぽど健全だろう。

「一緒にいるのは鏡味だな」

 不意に名前を呼ばれたことで、思わず体が跳ねる。少なくとも播磨には感づかれないように、「だったら何?」と返事をする。何だろう。僕の発言はどちらかと言うと播磨をかばう側なので、彼も気を悪くさせるようなことは言ってないはずだけど。しかし、返ってきたのは。


「……鏡味、つみきから離れろ」


 その声の凄みに、ゾワッと冷たいものが走る。

「播磨、鏡味は関係ないよ。待ってて、すぐ行くから」

 そう言うと、佐伯は個室の鍵を開けようとする。僕は思わず佐伯の腕を掴んだ。

「ちょっと! 何やってんの」

「違うんだ、僕は播磨のとこに行くだけ! 鏡味には何もしないから、安心して」

「だから、そーじゃないでしょ――」

「鏡味、昨日来たのはお前だな」

 唐突に播磨が僕に語りかける。こいつ、何か発言するだけで場の空気が変わる。「カリスマ」と呼ばれる人種はこうなのだろうか。対面で話せる気がしない。

「……気づいてたの?」

「気づかないとでも思ったか?」

 扉の向こうで播磨が笑う気配がした。

「ここしばらく、俺のことジロジロ見てただろ。それも、俺とつみきが一緒にいる時が多かったよな? だから試してやったんだよ。お前がどこまで俺たちに干渉するつもりなのか、わざわざ人の出入りの少ないところを選んで、つみきと一緒に入ってな。そしたらお前が、ドアを開けて入ってきたんだぜ。笑っちまったよ」


 ――何か、「違和感」があります。


 ひょうの言葉を思い出す。どうしてそこまで考えが及ばなかったのだろう。播磨はずっと前から、僕が「播磨に注目している」ことに気づいていた。僕と目が合った時、播磨はどんな反応をしていただろう。当たり障りなく笑っていたかもしれない。何度くらい目が合ったっけ。覚えている範囲では二、三度だった。それを「偶然」と決めつける前に――播磨は「試した」んだ。佐伯を連れて移動し、体育館の奥の物置に入って、扉を閉めて――その扉を、まんまと僕が開けたのだ。


 あの時、播磨は「堪えきれなくなったように」笑っていた。

 ――あれを僕に見せつけたかったのは、佐伯じゃなくて、播磨だったんじゃないか?


「……どういうつもり?」

 僕は変な汗が噴き出すのを抑えながら訊く。すると、播磨は「そっちこそ」と答える。コン、とノックの音が空間に響いた。

 

「鏡味。いいからつみきを渡して、出てってくれねえかな。つみきは俺のもんなんだ」


「……は?」


 ……言葉の意味を理解することができなくて、固まる。こいつ、一体何を言ってるんだ? 

「播磨。あんたはここでずっと聞いてたんじゃないの? 佐伯はあんたの気持ちなんか何も考えちゃいない。自分の保身だとか『正しさ』だとかそういうくだらないものに囚われて、あんたをないがしろにしても何とも思わないような人間だよ。あんたは、こいつの生ぬるい選択のせいで不当に苦しめられてるんだよ」

「鏡味、」

 佐伯が小さく僕を呼ぶ。僕が喋るのを遮りはしないが、不安そうにうろうろとさせている。いい気味だ、ざまあみろ。僕は自信を持って言葉を続けることにする。

「佐伯はあんたのことを『おかしい』、『理解できない』って言ってたなあ。それにあんたも今知っただろうけど、佐伯はいかれたやつし、一緒にいてもろくなことないよ。これからも君のことを決めつけて縛って、苦しめ続けるかもしれないね。ねえ、それでもいいわけ?」

 できるだけ余裕そうに、播磨の神経を逆撫でさせられるように、声のトーンを調節しながら話す。その隣で佐伯はギュッと目をつぶり、祈るように手を組んでいた。一体何を祈ってるんだろうか。今さら馬鹿らしいな。


「ああ、いいぜ」


 思考が少し内側に入った隙を突くように、こともなげな返事が聞こえてくる。

「……え?」

 僕と佐伯が聞き返したのは同時だった。

「俺は誰に何と言われようと、絶対につみきから離れない。どういう理由でつみきが俺を救ってくれたかなんて、そんなのはどうでもいいんだ」

 身を寄せ合う僕たちのところに、まるで歌でも歌っているかのような播磨の声が届く。

「帆波と昔からずっと仲良くしてくれて、帆波の顔を見に行って話をしてやってくれて、最後の最後まで帆波に尽くして帆波が幸せになるための方法を考えてくれたつみきこそが、俺にとっては『絶対』なんだ。神様なんだ。つみきだけが最後まで帆波の『友達』でいてくれたっていう、その事実は揺るがねえ。俺が、隣でしっかりと見ていたからな」

 それは違う、播磨、と口を挟もうとしても、旋律を奏でるような播磨の言葉には隙がない。完全に、播磨のペースだった。

「それにな、鏡味。たとえ俺やつみきが『おかしい』やつだったとしても、そんなのちっぽけなことだろ。だって、俺らがいる『現実世界』の方が、よほど『おかしい』んだもんな。そうは思わねえか? 母親は産んだ子どもを覚えてない。病院は患者の病状を覚えてない。カルテもない。ベッドもない。大事なことを忘れても、あいつらはのうのうと、お気楽に生活してる。絶対に、そいつらの方が『おかしい』だろ‼ 『俺たちのいる世界』がそもそもいかれてるよなあ⁉」


 播磨の高らかな演説に心が引き込まれようとしている。僕は初めて自分で目の当たりにした「世界の交差」のことを思い出していた。隣の家が、「まるごと別の家になっている」。いつからそこにあったのか? そこには誰が住んでいたのか? そのような疑念を受けつけないような堂々たる佇まいで、それは事実として「そこにあった」。――「この世界」というのはなんて不確かなんだろう。本当に、「絶対」だとして信じてもいいのだろうか? すべてはまやかしで、本当は信じられるものなんて一つもないんじゃないか?

 その足元がぐらつくような不安や恐怖を、僕は――僕たちは「世界の交差」によって体験している。僕は混乱して創作部の部室に駆け込んだ。佐伯は慣れて、おかしくなった。播磨は――佐伯を「絶対」だと信じ込もうとしている。


「帆波がいなくなっても回っている世界の方が、『おかしい』んだ」


 世界に対するすべての怨念を込めたような声で、播磨は扉の板をびりびりと震わせた。


「俺にはつみきさえいればいい。さあ、つみきを出せよ」


「……もういいよ、鏡味。そこをどいて」

 そう言って、佐伯が僕の前に進み出る。

「っ、待ってよ」

 佐伯はおもむろに、銀色の錠に手を伸ばす。諦めるような、投げ出すような口調とは裏腹に指先は震えている。蛍光灯に照らされた顔は恐怖に染まっていて、きりりと嚙んだ唇からは今にも血が出そうだ。佐伯は怯えている。またも「抑え込まれようとしている」。それで本当にいいのか? よく考えろ! 僕は佐伯ばかりを責めていたけど播磨のことも責めなくてはいけないんじゃないか? 確かに佐伯は播磨を絶望させたけど、播磨はそれで傷ついたけど、佐伯が「今」怯えていることは完全にこいつの自業自得なんじゃなくて、播磨にも原因があるんじゃないか? 冷静に見極めなくてはいけない、だけど時間がない。どうやって説得すればいい? 何を言えば、何を指摘すればこの二人を救うことができる? どうやったら僕が、この二人の「運命」を変えられる――?



「――あれ、播磨か?」


 その指先が錠に触れた瞬間。

 扉の向こうから、聞いたことのある吞気な声が聞こえた。


「……藤原?」


 佐伯が呟いた瞬間、僕も思い出す。モザイクアート班の一人で、野々上や浅野に比べても印象の薄い、地味でおとなしい男子だ。あの日――文化祭準備の時にクラスが決裂して、僕が佐伯に対して罵詈雑言を浴びせた時に、僕の肩を掴んで止めようとしてきた。一年にしては背が高くて体格もよく、掴まれた肩が痛かったことと、その時に感じた恥ずかしさやいたたまれなさを思い出して胸の奥がギュッと詰まる。

 その場に停止した佐伯も、きっと同じことを思っている。「どうしてこんなところに藤原が」? 佐伯は驚きに目を見開き、必死に思考を巡らせている。


 播磨は一瞬で「空気を変えた」。藤原に対して拒絶のオーラを放ったのだ。姿は見えないのに僕たちまで緊張して、佐伯は怯えたように手を引っ込めた。

「……お前、どうしてここに来た? こんなところまで、わざわざ用を足しに来たわけじゃないんだろ?」

 播磨の言葉の発し方は、威嚇のそれだった。突如現れた藤原を警戒して明らかに気が立っている。

しかし藤原は、それに対して思いもよらない返答をした。

「え? いや……鏡味を探してたんだよ」

「鏡味?」

 播磨の声色がさらに厳しくなる。僕は心臓が跳ねた。なんで僕? 佐伯も僕をぐるんと振り向く。

「向こうに紫のハチマキが落ちててさ。一応拾って見てみたら『1―E⑦』って書いてあったから、届けた方がいいよなって。うちのクラスの七番って鏡味だから」

「ハチマキ……」

 播磨が小さく呟くのを聞きながら、反射的にズボンのポケットに手を入れていた。その中に僕のハチマキは、やはり、入ってなかった。

 なんてことだ! 僕は記憶を遡る。長縄が終わってこいつらの後を追う時に、確かに僕はハチマキをポケットに突っ込んだと思う。その時にちゃんとポケットに入っていなかったか、佐伯を引っ張ってくる道中で落としたか。どちらにしたって注意不足なことに変わりはない。しかもよりによってこんなタイミングで……ありえなさすぎる!

 播磨を出し抜くために僕が意図してやったわけではない、ということを察知した佐伯は、何とも言えない視線を僕に向ける。ああ、本当に恥ずかしい。穴があったら入りたいというのはこういうことか。

 一方、自分が足を踏み入れたのがどういう状況であるか、ちっとも理解していない藤原は悠長な声で播磨に声をかける。

「なあ、そこに誰かいるのか? もしかして熱中症の人?」

「……ちげーよ」

 それだけ言うと、播磨は口を閉ざす。

 しん、と無音の緊張が走る。僕と佐伯も思わず息を止めた。こいつに助けを求めたって何になる? こいつは僕たちにも、「世界の交差」にも関係がない。


「……もしかして、佐伯?」


 しかし藤原が均衡を破った。隣に立った佐伯が体を震わせるのと、播磨が叫んだのはほぼ同時だった。


「来んな‼」


 ヒステリックな播磨の叫びに、藤原もさすがに異変を察知したのだろう。

「播磨……? 大丈夫か?」

「やめろ‼」

 バシッ! と何かを叩くような音がした。

「どいて!」

 佐伯がドアの鍵を開けようとするのを慌てて取り押さえる。今は出ていくべきじゃないでしょ! 佐伯は懇願するような目で僕を見下ろすが、小声で「いいから!」と制した。今は刺激しないほうがいいって!

「お前には何も関係ない。わかったらどっか行け!」

「なんっ……だよ、その言い方!」

 ドン‼ という音と衝撃に佐伯とともに跳ね上がる。ギシギシと断続的に扉が軋んでいるのは播磨がドアに押しつけられているからだろうか。佐伯は身動きを封じられたまま、何か叫び出したいのを堪えているようだった。その目は、扉の向こうの播磨だけを見つめていた。

 その時、僕はある確信を得た。けれど思考は藤原の声にぶった切られる。

「ッ、播磨!」

 声と同時に、ギイ、と扉が強く軋む。佐伯も僕も、心臓をバクバクさせながら事の成り行きを見守るほかなかった。

「お前にはまったく関係ねえ‼」

 播磨の狂ったような怒声がトイレに響き渡る。佐伯は祈るように固く目を瞑っている。

「わかったら、さっさと出てけ! さもないと――」

「そうじゃねえって!」

 藤原の大きな声が、さらに大きくなる。

「なんっ――」

「お前!」

 藤原はそこで言葉を区切ると、はあ、と息を吐いた。


「顔色がスッゲー悪いんだよ。……大丈夫か?」


「あ……?」

「……へ?」

「…………え?」


 藤原が発した唐突すぎる言葉に、播磨だけじゃなく、僕と佐伯でさえも間抜けな声を出してしまう。

 その場にいた、全員が呆気にとられ、すぐには理解することができなかった。播磨ですら、咄嗟に言葉が出てこない。扉の向こうの様子は見えないが、なんとなく、今がどうなっているか想像ができる。たぶん……完全に、「藤原のペースになっている」。

「ちゃんと家で飯食って来たか? ってかお前、最近ずっと調子悪いだろ」

「は……? 何言って――」

「もしかして、夏休みに何かあったのか?」


 それを聞いて、僕と佐伯の肩が同時に跳ねる。なんでわかったんだ? 佐伯を見れば、佐伯もぶんぶんと首を横に振る。播磨はどんな顔をしているんだ?

「……なんで」

 播磨は少し上ずった声で言う。

「どうしてそう思った? 誰かに何か聞いたのか?」

「そういうわけじゃないけどさ……」

 藤原は今さら緊張したのか、しばらくの間言い淀む。しかし播磨が何も言わないのを確認すると、ぽつぽつと、自信がなさそうに話し始めた。

「いつも見てたら、何となくわかるだろ。気のせいかもしれないけど……二学期に入ったくらいから、無理して元気を出そうとしてるっつーか、なんか元気がないっつーか……」

 藤原はそこで言葉を切る。僕たちは、みんな、藤原の次の言葉を待っていた。



「しんどそうに見えた……気がする」



 その言葉を聞いた播磨は、一体どんな顔をしているのだろう。

 と、急に佐伯に腕を掴まれる。何かと思ったら、僕は無意識にドアの錠を外そうとしていたらしい。見上げれば佐伯は茫然として――空虚な瞳で、扉の向こうを見つめていた。

「……何も、」

 播磨の声は微かで、震えている。しかしそれはすぐに暴発した。

「何も知らねえくせに、勝手なこと言うんじゃねえ‼」

 ガンッ‼ と激しい音が鳴り響く。播磨が扉を殴ったんだ。

「お前に、お前なんかに何がわかる‼」

「わ……ッ、わかるわけねーだろ!」

 戸惑いつつも芯のある、藤原のまっすぐな声が響く。


「何も聞いてねえのにわかるわけあるか! わからねえから訊いてんだよ!」


 ――藤原の声に、今度こそ、播磨は沈黙した。


「……なんかあったんだな⁉」

 「来い!」と藤原が言い、もつれるような二人分の足音が次第に遠のいて行く。

 藤原と播磨は、余計なことは一つも喋らなかった。ただ去っていく音だけが聞こえ、僕と佐伯はそれが聞こえなくなっても、その場に立ちすくんでいた。



 播磨聡介という男は、佐伯でもなく、僕でもなく、ただの同級生の藤原によって連れ去られてしまった。……僕たちが自分の行いを反省したり、後悔したり、間抜けだねって笑い飛ばしたり――そんな余韻すら与えないほど鮮やかに、残酷に――。


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