第29話 落ちこぼれであるかどうかは、


「雷が落ちるのはあの神様が奥さんと喧嘩しているからだとか、古代の人々は世界の様々な現象の根拠を神話に求めたわ。でも、あるとき人々は、各地域によって今まで自分たちが信じてきた神話の内容が、全く異なっていたことに気づいたの。そのとき人々は初めて、もしかしなくても神話って真っ赤なウソだったんじゃないか……? と唖然としたのよ」


 名残惜しくも施設の外に出た時には、もうすっかり空は蜜柑色に染め上げられていた。


 喫茶店で先生と会う時も、大体お昼ごろに会って、夕方ごろには解散している。


 だから、二人でいられる時間は、もう、そう長くない。

 

 自然と帰路につく先生の足取りが、この街を染め上げる目に染みるような橙の光が、たまらなく胸を締め付ける。それでも、残された時間を少しでも楽しみたくて、平静を装って話をつづける。


「それってもしかして……ソフィストと相対主義に関係がある話ですか?」


「よく覚えていたわね。そうして、ソフィストたちを中心に絶対的な価値観なんて存在しないという相対主義が広まっていったのは、以前にも話した通りよ。そんな世の中の風潮に対抗するように、ソクラテスは絶対的な真理を求めた。そして、その弟子のプラトンは、この世とは別のところに真理を求めたわ」


 これまで先生が語ってくれた話が、するすると一本の線になってつながっていく。


 プラトンは、一体、どんなことを主張したのだろう。


「彼は、この世とは別に、美しいものだけに溢れた永久不滅の世界があるのだと主張したわ。そこは、この現世にあるものの全ての物事の本質が集められた、夢のような世界なのよ。この世に存在している全てのものは、そんな完全無欠のイデア界に存在しているイデアの、不完全なまねごとなの」


「イデアって、なんすか……?」


 聞き慣れない単語に、首を傾げる。


「イデアというのは、要するに、物事の本質のこと。例えば、猫のイデアだとしたら、それは完璧な理想の猫なのよ。現世に存在している猫たちはその劣化コピーだから、みんな姿形が少しずつ違っている。それでも私たちは、どんな猫を見ても、それが猫であると認識できるわね。それは、私たちが現世の猫を見た時に、頭の中で無意識のうちに猫のイデアを思い描いて比較しているからなのだって。プラトンによれば、人間の魂はかつてデア界に暮らしていた。だから、人間はこの世のイデアをまねたものごとを見るたびに、美しいイデア界を思い出す。私たちが美しくて善いものにひかれてやまないのは、魂の記憶がイデア界を恋い慕っているからなのだって。そして、イデア界にある完璧な理想を求めて天翔ける気持ちこそが、エロースなのだという結論にプラトンは辿り着いたのよ。最終的に、プラトンにとってのエロースは、単に愛を意味するだけのものにとどまらなくなっていくわ」


 随分と、華々しくて、大胆な発想だ。


 プラトンは、存在の本質を規定するのに、この世界とは別の夢のように完璧な世界を編み上げたのだ。


「先生が、プラトンは哲学者の中でもとびきりの芸術家肌だと言っていたのは、誇張ではなかったんすね」

 

 田上先生がにこりと微笑んで俺の方に身体を振り向けたの瞬間、自然と足が止まった。


「ねえ、天野君。今日は、とても楽しかったわ」


 そよ風が、田上先生のシルクのワンピースをさらさらと靡かせてゆく。


 夕日を浴びた先生は、今まで見た中で一番綺麗で。


 何故だか、先生が今にも俺の手には絶対に届かない遠いところに行ってしまいそうな気がして、無性に不安になった。


「せん、せい。もう、来週、テストですよ」

「そうね。でも、天野君なら、大丈夫よ。だって、あなたはもうとっくに、落ちこぼれなんかじゃないもの」


 えっ。


 聞き間違い、だろうか……?

 信じられなさすぎるその言葉を素直に受け取れなくて、夢見心地で聞き返す。


「いま、なんて……?」


 先生は、そんなことにも気づいていなかったの? というように微笑んだ。


「あなたは、私の哲学の話をとっても熱心に聴いて楽しんでくれたわ。それだけじゃなくて、自分なりに考えて、私でも驚いてしまうような新しい発見までしてきた。それでもまだあなたが自分のことを落ちこぼれだと思っているのなら……それはあなた自身の生み出した、間違った思い込みよ。落ちこぼれであるかどうかは、周りが決めることじゃない。あなた自身が決めたことだったのよ」


 愕然として、大きく瞳を見開く。

 

 俺は、高校に入って最初のテストで、とんでもない落ちこぼれの烙印を押された。クラスメイトのみにとどまらず教師からも嘲笑われているような気がして、心のどこかでいつも、あいつに勉強をやらせても無駄だと冷ややかな瞳で見られているように感じていた。

 

 だからこそ、勉強なんてできなくても何にも困らないと開き直ったけれども。


 本当はそんなの全部、勉強のできない自分に対する言い訳にすぎなかった。

 

 勉強は、意味もろくに分からない単語を、無暗に頭に詰め込むだけの作業なのだと先に決めつけてしまったのは俺の方だった。


 勉強はつまらなくて、やってもどうせできないものなのだという間違った思い込みが、俺を落ちこぼれにしてしまっていた。


 雷に撃たれたように呆然としている俺に向かって、田上先生が、そういえばと首を傾げる。


「今まで聞いたことがなかったけれど、天野君はどうして赤点を回避しようとしているの?」

「っ……次に赤点を取ったら、ベースを売り捌かれることになってて……そんなことであんな暴挙に出てしまって……ほんとに、すみません……」


 どんな酷い罵詈雑言がとんでくるだろうか、と身構えていたら。


 こういう心が動揺している時に限って、先生は、普段絶対に言わないようなやさしい言葉をかけるんだ。


「天野君らしくて、私は好きよ。でも、始めるきっかけなんて、何だっていいの。倫理だけじゃなくて、他の教科だってそう。あなたが興味さえ持てば、きっと好きになれるわ。勉強しなきゃいけないって難しく考えるからつまらなくなるのよ。前に、勉強って実は面白いものかもしれないって思ったって、天野君自身が言っていたことがあったでしょう? そのことに気づけた天野君なら、もう、大丈夫。あなたは、とっくに優等生なのよ」

 

 熱いものが喉に押し寄せてきて、涙がぼろぼろと頬を伝り落ちる。


 肩を震わせてみっともなく泣きじゃくる俺にあたたかい眼差しを注ぎながら、先生は、俺の瞳をまっすぐに見据えて言った。


「ねえ、天野君。私がどれほどソクラテスを敬愛しているか、あなたはよく知っているわね? 彼はその生涯を終える時まで、何にも惑わされず、己が正しいと思ったことをのみ信じて行動したわ。だから私も、彼を見習うことにしたの。この先、何が起こってもそれは私自身の意志なのだということを、あなたは絶対に忘れないで」 


 *


 あの胸が狂おしいくらいにドキドキした課外授業の日の、次の月曜日。


 教室に入った瞬間、頭をかち割られたように愕然とした。


 クラスメイト達の話題は、田上先生がこの学校を一か月後に辞めるという噂で持ちきりだった。


 眩暈がしてきて、頭が真っ白になって。


 酸欠になったようにその場にへなへなと崩れ込んだ俺を見たクラスメイトが、「天野って、意外に先生の隠れファンだったんだ。まぁ、絶世の美女だし、ほんっとに惜しいよなぁ」とぼやいているのを、どこか遠い世界の出来事のように聞いていた。

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