第28話 哲学のはじまりは

 二千年後。

 今の日本とは文化も価値観も何もかもが違っている異国でも、通じうる思想。 


「哲学は……どれだけ時と場所を超えても、変わらないものを見つけ出そうとする営みなんすね」


 小さく呟いた時、隣にいる先生はびっくりしたように大きく瞳を見開く。

 それから、徐々にその瞳にやさしい光を含ませて微笑みかけられたとき、胸をくすぐられるようだった。


「……私の決断は、やっぱり間違ってなかったわ」


 瞬間、勢いよく通り抜けていった突風が、先生の唇から漏れた小さな声をさらっていった。

 

「いま、何か言いましたか?」

「ううん、独り言よ。それよりも、やっと目的地に着いたわ」


 先生に言われるままに前を見やると、そこは、このあたりでは有名なアミューズメント兼ショッピングモール施設だった。買い物もできるし、ゲームセンターやら水族館やらレストランやらもひとしきりそろっていて、遊ぶのに困らない場所だ。


 家族や友達と来たことなら何度もあるのに、隣にいるのが田上先生というだけで、とてつもなく夢の詰まった場所に思えてくるのだから不思議だ。

 

 つないだ手をぱっと離して、走って建物の中に入っていく先生は年上の女の人には見えないくらいに無邪気で、楽しそうで。


「行きたい場所があるの」


 こくりと頷いて、先生を追いかけるように小走りをして隣に並ぶ。段々と、異様なまでに周囲の視線を惹きつけてしまうこの人の隣を歩くことに慣れてきている自分がいた。

 

 上の階に行くために満員エレベーターに押し込められた時、意図せずして先生の胸に腕が当たってしまって発狂しそうなほどに悶絶していたら、当然、そのことに気づいた田上先生はニヤニヤと口元を緩めた。背伸びした先生が、俺の耳元で『意外と大きいでしょう? 私って、着やせするタイプなのよ』と囁いた時、色々な意味で本当に死ぬかと思った。


 ぎゅうぎゅうに人のつまったエレベーターが苦しそうに大量の人々を吐き出した瞬間、全く悪びれていない田上先生を間髪入れずにたしなめる。


「っ~~……! そろそろ、本気で怒りますよ!?」

「あら。軽い冗談のつもりだったけれど、地味眼鏡には刺激が強すぎたみたいね」

「地味眼鏡で悪かったっすね……!」

「天野君は地味眼鏡のままでいいし、これからもそのままでいてくれないと困るわ」

「は?」

「そんなことよりも、早くしないと上演時間に間に合わないわ」


 プラネタリウム、か。


 この施設には何度も来たことがあったけど、ここに足を踏み入れたのは、初めてな気がする。


 しっとりとした暗い空間は神聖にして甘い空気が漂っているようで、手をつないだり、腕を絡めあったりしているカップルたちに囲まれていると、自分まで妙な気持ちになってくる。


 そわそわと緊張しながらぼうっとしていたところで、田上先生はさも当然のように、自分だけチケットブースの方に足を向ける。


「私がチケットを買ってくるから、天野君はここで少し待っていて」

「ちょっと! 自分の分のチケット代くらい、ちゃんと払いますって!」

「私は一人前の社会人よ。高校生は、大人しくここで待っていなさい」

「そうはいうけど、俺だって、一応男なんです。見栄を張らせてください」


 真剣にその大きな瞳を見つめながら言い切ると、ほんの少しだけ頬を赤く染めた先生は迷うように瞳を伏せた後、「……天野君が、そこまでいうのなら」と小さく呟いた。


 二人でそれぞれ自分の分のチケットを購入した後、「ほんとは、先生の分まで出したりしたかったんすけど……情けねー」と自嘲気味に呟くと、先生は「それでこそ天野君クオリティよ」と楽しそうに笑った。「どーゆー意味っすか」とジト目で睨むと、「天野君は女の子にモテる必要なんてないのよ。一生そのままでいなさい」といたぶられた。酷い。


 上演時間に間に合うように急いでプラネタリウムのシアター内に足を踏み入れて、指定の席に、二人で寝転ぶようにして腰かける。


 寝転んですぐに辺りがどんどん暗くなっていって、代わりに天井いっぱいに眩しい程の星空が映し出された時、胸がドキリと高鳴った。


 ややもして、ナレーターの耳に馴染みやすい明朗な声が流れ出し、春の星空について、解説をし始める。


「春の星空の目印として、ひときわ強い光を放つ北斗七星があります。この有名な北斗七星は、実は、おおぐま座という大きな星座の一部であり、そのしっぽを現しているのです」


 ふせたスプーンの形に浮かんでいる北斗七星が煌々と照り始め、すっとひときわ明るい黄色の線でつながれてゆく。


 これが、おおぐま座の、背中からしっぽの部分。


 そこから頭、手足と線が引かれてゆき、おおぐま座が完成したかと思えば、その裏に勇敢そうな熊の映像がうっすらと浮かびあ上がる。

 

「この星座にまつわるギリシア神話をお話いたしましょう。あるところに、カリストという妖精ニンフの一人で、ひときわ美しい娘がおりました。ニンフたちは乙女の純潔を守り抜く誓いを立てていたのですが、ある日のこと、カリストの美しさに心を奪われた大神ゼウスはあっさりと彼女を身ごもらせてしまいました」


 初っ端からひどすぎる出だしだ……! ゼウスってなんて身勝手で強引な神様なんだろう、と驚愕したところで、ふと以前に先生が語ってくれた話が耳の奥でリフレインする。


『数多くの神々の中でも頂点に君臨している大神ゼウスは、信じられない程の浮気者で強烈よ』


 なるほど。これはたしかに、想像を絶するほどに惚れっぽい神様だ。

 

「嫉妬に狂ったゼウスの正妻ヘラは、カリストの姿を美しい乙女から酷い熊の姿に変えてしまいます。やがてカリストは男の子を生みますが、熊になった身では育てることもままなりませんので、彼女は息子を置いて泣く泣く森へと姿を消しました。それから十数年の月日が流れ、カリストの息子であるアルカスは、立派な狩人へと成長しました。ある日アルカスが森へ狩りに出かけると、突然、目の前に大きな熊が姿を現しました。皆さんは、もう、この熊が何者であるかお分かりですね」


 きっと、カリストなのだろう。

 変わり果てた姿の母を見た時、息子は、一体何を思ったのだろうか。

 

「カリストは成長した息子に会えた嬉しさに歩み寄りますが、何も知らない狩人アルカスには格好の獲物としか映りません。アルカスは、自分の母であるカリストをめがけ、槍を打ち込もうと構えます」

 

 そんな……!? そこは、姿が変わってもそのやさしい眼差しで母だと見抜けるとか、そういうご都合主義的な展開になるじゃないのか!? 

 想像以上にシビアな展開にハラハラして、続きが気になってしまう。


「アルカスが熊へと姿を変えた母を射抜こうとしたその瞬間、凄まじいつむじ風が、二人を空に巻き上げました。二人の様子を空から見守っていたゼウスが、息子に母を殺させまいと、アルカスも熊の姿に変えて二人を天井高く放り投げたのです。こうして二人は星座となり、ようやく親子一緒に過ごせるようになりました」


 これが、おおくま座にまつわる物語。 

 一応のところ、めでたし、めでたし……なのだろうか? 


 隣で同じようにドームシアターに見入っている先生は、うっとりとその瞳を細めながら、解説に聴き入っている。


 課外授業というのも、あながち、嘘ではなかったらしい。


 だって俺は今、びっくりするくらいに人間臭いギリシアの神々に心を掴まれてドキドキしたし、もっともっと知りたくなっている。


 その後も、春の星座とギリシア神話のつながりを胸を高鳴らせながら聴き続けているうちに、あっというまに終演の時間となった。


「すげー楽しかったです! 先生の言ってた通り、ゼウスはとんでもない浮気者だし、ヘラの嫉妬深さは並大抵ではありませんね」   


 プラネタリウムを出たすぐ後、興奮冷めやらぬ高いテンションで弾むように先生に言葉をかけた。


 先生は虚を突かれたようにぼっとした後、みるみるうちにやさしく微笑んだ。その瞳は、プラネタリウムに映し出された満面の星空を吸い込んだかのように、いつになく輝きに充ちていた。


「天野君も楽しんでくれたみたいで、良かったわ。私ね、プラネタリウムが大好きなの。夜空に浮かぶ星々に物語を見出した古代の人々の豊かな想像力を、胸いっぱいに感じられるから。私たちが何気なく見上げている夜空にも、実は、ギリシア神話の世界が広がっているのよ」

 

 そうか。

 普段何気なく見上げる夜空もきっと、そこに浮かんでいる星座にまつわる物語を知っているか否かで、大きく見え方が変わるのだろう。


「今日のことが、天野君がギリシア神話世界に魅力を見出すきっかけとなったのなら、これ以上に嬉しいことはないわ。でもね、哲学のはじまり自体は、実は、この神話世界からの脱却だったのよ」

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