最終話 先生の夢

 せん、せいが……辞める? 


 どうして、こんなに突然……? 


 昨日は、そんなことは一言も言っていなかったのに……!


 気でも違ってしまうんじゃないかというくらいに胸が痛くなったけれど、唐突に辞職宣言をした先生は、アイドルの引退を惜しむファンのように熱狂的な生徒たちに囲まれていて、手も足も出なかった。


 ついぞ、先生と二人で話し合う機会は得られないまま、あっという間に運命のテストの日がやってきた。


 先生のことが気にかかって胸が潰れそうだったけれども、今だけはテストに全神経を集中させなければならないと、どうにか歯を食いしばりながら向き合った。

 

 倫理以外の教科はともかくとして、最後にやってきた倫理のテストだけは、驚くほど簡単に感じた。


 元々苦手だった記述問題も、欄内におさまりきらなくなりそうなほどにびっしりと埋めることができた。問題に目を滑らせるたびに、田上先生のあのやさしい声が耳の奥から蘇ってくるようで、たまらなく胸が締め付けられた。 


 全てを自信に充ちた解答で埋めきった頃に、テストの終わりを告げるチャイムが鳴り響いて、へたりこむように机に突っ伏した。


 テスト用紙が返却されるまでもなく自信を持って百点満点だと思えたのは人生で初めてだったのに。そんな奇跡みたいなことが、これっぽっちも嬉しくなくて。


 田上先生に、会わなきゃ。


 じりじりと燃え広がり始めた胸の痛みに突き動かされるようにして、のろのろと立ち上がる。テストの終わった解放感で充ち溢れたクラスメイトたちが楽しそうに雑談をかわしている横を、無表情で通り過ぎた。


 ぼんやりと階段の踊り場を通り抜けようとした時、俺のよく知る二人の女の子がぼろぼろと涙を流しながら向かいあっている姿が視界に映って、ドキッとした。

 

 真っ赤に瞳を腫らした咲が、泣いている三村さんに向かって腕を振り上げ、容赦なくその頬を撃つ。あまりの衝撃に、心臓が飛び跳ねた。


「……た、しかに、ショック、だよ。あんたの気持ちも、痛いくらい、分かる。でも、でも……いくら、好きだからって、やっていいことと、ダメなことがあるでしょ!? ホントにハルのことが好きなら、なんでそんなことも分からなかったのっ!?」


 どう、いうことだ?


 火花の散っているような激しい咲の言葉に呆然として固まってしまった俺を先に見つけたのは、三村さんの方だった。


 打たれた頬に手を当てながら、三村さんは、掠れた声で呟いた。

 

「あま、の……先輩。ごめん、なさい。私……取り返しの、つかないことをっ」

 

 咲は、三村さんの今にも消えてしまいそうなその言葉で、ようやく俺が来ていたことに気づいたようだった。


 謝らないでほしいのに。


 だって、君がそんな風に謝ったら、今この胸に浮かび始めているたまらなく嫌な予感が、現実になってしまう。


 やっと発することのできた言葉は、自分でもびっくりするほどに低い声だった。

 

「どう、して……謝る、の」


 三村さんは、熱い吐息を零して小さい肩を震わせながら、あまりにも残酷に俺の心臓を刺し抜いた。


「……田上先生が辞めるのは……私が、先生を追い詰めてしまったからなんです」   


 *


 二週間前の日曜日。


 三村さんはたまたま寄ろうとした喫茶店で、俺と先生が二人で会っていたことを知ってしまったのだと言った。


 その時に彼女は、俺が片想いをしている相手は、あの田上先生なのだと一瞬で見抜いた。先生が相手では、真っ当に勝負をしても、敵うはずがない。


 そう思ったのと同時に、三村さんは、瞬間的に暗い衝動に取り憑かれた。

 

 でも、二人は、生徒と教師じゃないか。

 こんな関係は、世間からも、学校からも、絶対に認められない。


 囁きかけてきた悪魔に衝き動かされるようにして、三村さんは、俺たち二人が楽しそうに語り合う姿を喫茶店の外からスマフォで盗撮した。


 そして、俺が、三村さんを突き放した次の金曜日。


 彼女は、学校で通りかかった先生を俺のことで話があると早速呼び出し、揺さぶった。


『もう、天野先輩には近づかないでください。さもなければこの写真を、学校中にバラまきます。そうしたらあなたは、たった一人の生徒を過剰に特別視していると非難され、この学校を辞めざるを得なくなります』


 三村さんには、本気で、先生を辞めさせる意図はなかったらしい。

 

 ただ、これをきっかけに、先生が俺から手を引いてくれさえすればいい。

 そう願ったけれど、先生は、鮮やかに三村さんの予想を覆してしまった。


『あなたの言い分は、よく分かったわ。あなたの言う通り、私はたしかに天野君を贔屓しすぎたし、その意味で教師失格よ。だから、来月には学校を辞めるわ』

『えっ!?』

『来週には、辞職届を出すつもりよ』


 愕然とする三村さんを取り残し、田上先生はあの整った顔立ちで冷ややかに言ってのけると、スタスタと立ち去ったのだという。


 三村さんがぽつりぽつりと懺悔するように語るたびに、心臓をバラバラに引き千切られていくようだった。


 だってそれじゃあ、先生が辞めるのは、他でもない俺の、せい……じゃないか。


 俺のために激しく怒ってくれた咲のことも、ぽろぽろと涙を零し続ける三村さんのことも、全てが目に入らなくなってしまうくらい徹底的に打ちのめされて、泣き崩れた。


 どうして、こんなことになってしまったんだろう。


 荒れ狂う後悔と絶望に苛まれて、身体が干上がりそうなほどに階段の踊り場で泣き続けていた、その時。


「彼、ちょっと具合が悪そうね。風にでも当たったほうがよさそうだから、私が、屋上に連れていくわ」


 心臓が、止まるかと思った。


 世界で一番会いたくて。

 同じくらい、会うのが怖かったその人の声が、凛と響き渡ったのだから。


 ハッとして声のする方に顔をあげたその瞬間、田上先生は呆然とする咲と三村さんの視線を受けても尚、しとやかに微笑んでいた。


✳︎


「天野君、昨日ぶりね。テスト結果は、どうだった?」


 屋上のそよ風が、田上先生のサラサラの黒髪をさらさらと靡かせてゆく。


「せん、せー……せん、せいが……辞めるのは……俺の、せい、なの?」


「天野君。私、あなたに言ったわよね? この先、何が起こってもそれは、私の意志なのだって。私は、この選択を一切、後悔していないのよ」


 壊れてしまったように涙を流し続ける俺の涙を、先生がその細い指で拭う。


 それから、あの春の日差しのようにやわらかい笑顔で、その胸に秘めていた真意をその唇から迸らせた。


「あんまり、あの子を責めないであげてね。この関係を続けているうちにいつかは誰かにはバレるだろうと覚悟はしていたし、あの子は本気で私を辞めさせようだなんて思っていなかったわ。私が一教師として天野君一人を贔屓しすぎたことも事実よ。どちらにせよ、この学校にとどまりつづけたいのなら、あなたから離れるべき時が近づいていたの。でもね……あの子に迫られた時、ハッキリと分かったの。私の中で、天野君と離れるという選択は生まれなかった。だって、あなたは本当の意味で、私の夢を叶え続けてくれたんだもの」


「ゆ、め……?」


「私の夢は、私が大好きな哲学の魅力を、本当の意味で誰かに共感してもらうことだった。夢を叶えるために教師なったけど……色々な制限のある学校の授業では、中々うまくいかなかったの。でもね……代わりに、天野君が、私の夢を叶えてくれた。私は、これからも、あなたと哲学の話をし続けたい。生徒と教師という関係がそれを赦さないのなら、教師を辞めることだって惜しくなくなったの。だからね、私は、私なりの信念を貫き通しただけなのよ」


 田上先生の晴れ晴れとした笑顔が、己の正しいと思ったことにのみ付き従った偉人の姿に重なって見えた気がして、心臓がドキリとした。


 本当に、派手にやらかしてくれたものだ。


 この人と一緒にいたら、いくつあっても心臓が足りないのではないかと本気で思うくらいに。


 でも、そんなこの人の眩しいくらいに澄み切った決断が、俺には愛おしくて仕方ない。


 だって、俺はもう、知ってしまったのだ


 人生を賭けて時と場所を超えても揺らがぬ真理を求め続けた哲学者がたどり着いた結論は、純粋に凄く面白くて、興味をかきたてられて仕方のないものばかりだった。


 それだけじゃない。


 哲学に出逢わなかったらきっと、俺は一生、落ちこぼれのままだった。


 哲学が、それまで見えていた世界を大きく揺るがしてしまうような力を秘めていたからこそ、俺は、この世界に魅入られたのだから。

 

「ねえ、天野君」


 俺はもう、絶対に、知らなかった頃には戻れない。

 

 熱く唯一無二の真理を求め続ける哲学の世界のことも。


 それを教えてくれた、目の前の大好きな人のことも。


「私はまだあなたに、アリストテレスの話も、カントの話も、ニーチェの話もできていない。だからね、私とあなたの哲学講義が本当の意味で始まるのは、これからなのよ」


【完】

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毒舌美人教師と始める落ちこぼれのための西洋哲学 久里 @mikanmomo1123

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