第10話 古代ギリシャに民主政が存在していた!?

「えっ!? そもそも、古代ギリシャに民主政が存在していたんすか!?」

 

 民主政治っていうと、今の日本で採用されている政治形態だ。


 政治を動かしていく主役となるのは、王でも身分の偉い人達でもなく、国民なのであるという考え方。それが、まさかそんな昔から存在していたなんて……!


 ソクラテスの生きていた時代というと、二千年以上も昔の話になる。


 俺が勝手に抱いていたその時代のイメージは、神やら王様やらを奉って、その絶対的な権力者を中心に全てが回っているというものだった。


 田上先生は目を丸くして驚いている俺に対して、呆れたように深々とため息を吐いた。


「あのねえ、天野君。昔の人だから現代の自分たちよりも思考が遅れているだなんていう愚鈍な発想は、知識の欠片もない現代人の勝手な傲慢よ。恥を知りなさい。歴史を知れば知る程に、人類はとっくの昔から様々な事象を通過してきているのだと気づかされるわ」


 そっか。


 たしかに先生の言う通り、昔の人の方が頭が固くて、現代人の方が理性的だという考えは、とんだ思い上がりだったのかもしれない。 


 こんなところでも、既に知っているのだという間違った思い込みが、真実を知ろうすることへの弊害となっていることを痛感させられる。


 刺々しい毒舌すらも気にならなくなるくらいに、俺はただひたすらに感心させらてしまった。


 雷に打たれたようにぼうっとしている俺に対して、田上先生は紅い唇の端をさも楽しそうに吊り上げた。一見したところ、誰もが振り返ってしまう魅惑的な笑顔だ。


 でも、なんとなく先生の傾向を掴めてきた俺には分かる。


 これは天使の笑みなんかではなくて、腹黒さの滲んだ悪魔の微笑だと。


「突然だけど、ココで天野君の学力を試す質問をします。古代ギリシャの民主政治と、現代の民主政治との相違点をあげなさい」


「はあ!? ちょ、ちょっと待ってください! 俺は、ついさっき古代ギリシャに民主政が存在していたことを知って、驚いたんすよ? そんな難易度の高い質問に答えらるわけがないじゃないですか!」


「ふふ。天野君が答えられることだなんて、最初から微粒子程にも期待していないわ。ただ、ちょっと苛めたくなっただけよ」


「っ~~! 俺で遊ばないでください!」


「でも、答えられる見込みすらない滅茶苦茶な質問というわけでもないのよ。きちんと世界史の授業を聞いている生徒ならば答えられるはずだもの」


 うっ、と声が詰まってしまった。


 勿論、世界史に限らずほとんどの授業を睡眠時間として消化している俺に答えられるわけがなかった。


 その瞬間。


 足元から霧のように立ち昇った黒い不安が舐めるようにまとわりついてきて、俺の肌を粟立てた。


 田上先生は、俺が勉強をできないことを、ある程度は知っている。それは俺自身が何度も公言してきたことだし、彼女自身もそういうものとして俺を扱っている。


 でも、まさかであることまでは、まだきっと気づいていない。だからこそ俺は、田上先生の前ではどうしようもない劣等生ではなく、今のところはちょっと勉強の不得意な生徒Aでいられている。


 先生から倫理の話を聴くこの時間は、俺にとって居心地の良いものになりつつある。勉強に対しては動かざること山の如しだった俺の好奇心が、最近になって初めてそうっと物陰からちらちらと顔を出しつつあるくらいだ。


 でも。


 この時間は、先生がまだ俺の実態を知らないからこそ、薄氷を渡るような危うさで成り立っているものなのかもしれない。


 先生は、俺が想定以上の劣等生であることを知ったら、軽蔑するのだろうか。

 こんな馬鹿には勉強を教えても時間の無駄だと匙を投げるのだろうか。


 あの録音が手中にあるとはいえ、俺が実際には先生の本性を暴露するようなことはできない臆病者だってことくらい、先生にはとっくに見抜かれているような気がしてならない。


 心にじわりと染みだした黒いインクが頭の中を埋めていき、息苦しくなる。


 勉強なんて、できなくても困らない。


 今、こうして先生と向き合って必死に勉強を教えてもらっているのは、そうしなければ俺の大事なベースを売り捌かれるからにすぎないと思っていたけれど。

 

 


 ここ数日間少し考えてみたけれど、実際、今度のテストでまた赤点を取ってしまって最悪本当にベースを売り捌かれるような事態に陥ったとしても、きっと、どうにかはなってしまうのだと思う。


 今度のライブまでの間は友達や先輩に借りながらどうにか繋いで、ライブが終わったら、死ぬほどバイトをしてまた新しいベースを購入するという道もある。


 だから、もし田上先生が俺に張り付けられた落ちこぼれというレッテルに気がついて、俺を見放したとしても――そのまま大好きなベースに金輪際触れられなくなるという窮地に陥ることはないのだろう。


 そう考えれば、そこまで追いつめられているわけでもない。


 それ、なのに。

 どうして俺は今、こんなにも心臓が嫌に高鳴って、肺が痛いのだろうか。


 何も答えられずに俯いてしまうと、田上先生はきょとんとしていた。


 次の瞬間。


 先生から漏れたくすくすと鈴を転がしたような笑い声が、胸を揺るがした。

 

「何も、今答えられなかったからといって、今から樹海にでも行きそうな悲壮な顔をしなくたって良いじゃない。天野君って、変なところで真面目ね。授業中に覚えるのも、今覚えるのも同じことよ。要はテスト前にさえ覚えておけば良いのであって、いつ覚えたかはさしたる問題ではないわ。まあ、教師としてはあまり褒められた発言ではないけれどね」


 驚いて弾かれたように顔をあげると、田上先生は、何をそんなにうじうじ悩んでいるの? とでも言いたげに、やさしく微笑んでいた。


 先生は、俺に渦巻き始めた黒い不安なんて蹴散らしてしまうような眩しい笑みを浮かべながら、先週と同じ調子で饒舌に語り始める。


「古代ギリシャには民主政が成立していたけれど、現代の日本の民主政治とは大きく異なる点が二つあるの。一点目は、奴隷と、外国人と、女性には参政権がなかったということ。アテネでは、両親ともにアテネの生まれで、成人した男性にのみ参政権が認められていたわ。二点目は、間接民主政ではなく、市民なら誰でも参加できる直接民主政であったということ。一週間に一回ほどの割合で国会のようなものが開かれて、参政権を持つ市民全員が広場に集まって議論をしたの。流石に四万人ほどいた有権者のうち全員が全員、毎週必ず参加していたわけではないみたいだけれども、おおよそ、六千人くらいは参加していたのだというから驚きよね。他にも細かな違いは沢山あるけれど、世界で初めて民主主義という考え方を生み出したという点で、古代ギリシャに成立した民主政の功績はとっても大きいのよ。テスト前に知ることができて良かったわね。このことを覚えておけば、世界史の筆記問題で五点は確保できるんじゃないかしら。私に感謝なさい」

 

 語れば語る程に、先生の瞳は理知的に輝き、頬は紅潮していく。


「少し脱線してしまったけれど、思想を知る上では歴史的背景も併せて知っておくのも大事なことよ。それで、ここからが本題。参政権を持つ者であれば誰しもが直接政治に参加できるという環境の中で、人々は自分の意見が採用されることを願ったわ。でも、意見が採用されるためには、より多くの人に納得してもらう必要があるわね。そこで市民たちの関心の的は、いかにして説得力のある議論術を身につけるかという方向に移っていったわ。そこで、現れてきたのが【ソフィスト】という存在。そして、この【ソフィスト】たちこそが、【相対主義】の考え方を当時のアテネに広めていくことになったのよ」

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