第9話 真理とは常に相対的なものである


「そんな! じゃあ先生は、価値観は人それぞれだから、俺らは諦めて解散する他ないっていうんすか!?」


 感情が昂って、鼻息が少しだけ荒くなる。


 価値観は一人一人が固有に持っているものであり、その一つとして同じ形のものはない。


 言葉に表して明確にはっきりと意識していたわけではないけれど、それは幼いころから無意識の内に、当たり前のこととして脳に刷り込まれている考えだ。


 俺はバンドを深く愛しているからこそ音楽のない人生なんて考えられないけれど、この世の中には、音楽なんて聴かなくても生きていける人だって結構ありふれている。きっと、目の前にいる先生も音楽とは無縁の世界で生きていて、音楽ではない別のものに興味や価値を見出して生きているのだろう。

 

 反対に、俺にとってはまだ苦手意識の方が強い、勉強。

 コレに対する考え方も、千差万別だ。

 

 先週、先生から【無知の知】という考え方を教わって、少しだけ勉強に対する強固な負の偏見が緩和されたけれども、それ以前の俺は、こんなつまらなくて退屈なことを自ら好んでする奴の気が全くしれなかった。


 でも、誰に教わるでもなく純粋に学ぶことが好きで、勉強することを全く苦にしないという人種も世の中にはたしかに存在しているのだ。


 ちなみに、心の中でそういう奴のことをガリ勉と罵りながら心の平穏を保っていた時期もあるけれど、あれは勉強のできない落ちこぼれの醜い負け惜しみでしかなかったと、今では反省している。


 同一内容の授業を受けたって、感銘を受けて熱心にノートを取る奴もいれば、つまらなすぎて寝てしまう奴もいる。


 一人一人が、全く違う形をした思考回路を持っていて、同じ体験をしたとしても全然違う風に受け取っているということの何よりの証拠だろう。


 価値観は人それぞれであって、誰もが認める絶対的な基準なんて存在しない。

 

 たしかにそれは、十七年間というまだ浅い人生経験の中でも何度も経験してきて、身に染みてよく分かっていることだ。反論する気すら削がれるほどの、充分な説得力に充ち溢れている。


 でも。


 そこから導き出される結論は、だからこそ、人と人は本当の意味では永遠に分かり合えないという絶望だ。


 俺は、そんな風に、諦めてしまいたくない。

 

『価値観は人それぞれなのだから、分かり合えないものは仕方がない』と悟りを開いて、スリースターズはやむなく解散。まぁ、そんなもんだよね。


 で、納得できるわけがない。


 そんなバッドエンドは、この俺が認めない。


 往生際が悪いと思われようが、考えて考えて、どうにかしてこの三人でなんとかやっていくための道を見出してみせる。

 

 それに。


 先生は先週、誰かに言われて簡単に納得してしまうのではなくて、自分が本当に納得できるまで必死に考え抜いた凄い人がいたんだって教えてくれたばっかりじゃないか……!


 胸にこみあげる熱量の高い想いに追い立てられて、血が滾るように熱くなる。


 渦巻く奔流のような熱意で、先生の振りかざす鉄のように冷たい理論を溶かすように、俺は必至で訴えかけていた。


「俺は、そんな風に諦めてこのまま解散で終わりだなんて納得できないし、絶対に嫌です!  先生は、ソクラテスのしたことは無駄だったって言いたいんすか!?」


 勢いあまりすぎて両手でバシッと机を叩くと、思いの外、店内に音が響き渡って注目を集めてしまった。


「何の騒ぎ? カップルの喧嘩……?」

「ってか、あのお姉さん美人すぎる! モデルさんかな?」

「それに比べて、男の方は地味だなー。吊りあってなさすぎ」


 周りの客からの色々な意味で刺さりまくる視線と会話が容赦なく俺の胸を抉り、カッと燃え上がるように顔が熱くなる。変な脇汗まで出てきた。


 俺と先生が吊りあっていないことだなんて、言われるまでもなく、俺自身が一番よく分かっている。というか、そもそも俺と先生は断じてそういう間柄ではない。


 皆、先生の前代未聞口の悪さも知らずに、好き勝手なことばっかり言いやがって……! と喚き散らしたくもなったけれど、圧倒的にキマリの悪さの方が勝って俺はすごすごと身を縮めた。


 先生は周りの野次なんてどうでもよくなってしまうくらいに俺の発言が衝撃的だったらしく、大きな瞳をさらに見開いて、しばらくの間、ぼうっと俺のことを見つめていた。


 ああ。

 流石に熱がこもりすぎていて、引かれてしまっただろうか。

 こんなに素人バンドに執着しているなんて見苦しい、みっともない、未練がましいと、ドン引きされているかもしれない……。


 どんよりと暗い方向に思考が溺れていき、所在がなくなってテーブルに視線を落とした、その時だった。


「あなたのこと、見直したわ。ただのベース馬鹿じゃなかったのね」


 俯き気味で沈んでいた俺に降り注いだのは、予想だにしない、やさしさと慈愛に満ちた、春のひだまりのようにあたたかい声で。


 弾かれたように顔をあげると、田上先生の顔には春が芽吹いたような柔らかい笑顔が浮かんでいて、硬直してしまった。


 先生って、まるでジェットコースターみたいな人だ。

 こんなにもくるくると豊かに表情が変わる人を、俺は他には知らない。


 突如目の前に差し出された聖女のように清らかな微笑に、今度は違う意味で心臓が忙しなく動き始める。


「ソクラテスの生きた当時のギリシャには、【相対主義そうたいしゅぎ】という考え方が広く浸透していて、随分と幅をきかせていたわ。これは、何が正しくて何が悪いかは、人や場所や時代によって全く異なるものだから、絶対的な唯一の真理なんて存在しない。という考え方よ。今の日本では、絶対的な悪として認識され、禁止されている奴隷という存在ですらも、時と場所が変われば、当たり前のように認められて受容されている。実際に、古代ギリシャでも奴隷の存在は認められていたのよ。実はこの奴隷の存在こそが、古代ギリシャで哲学が花開いたことに深く関与しているのだけれども、あまりこのことについて語ってしまうと脱線してしまうから、この話はまた今度してあげる」


 先生は、口元を花開くように綻ばせた。


「ソクラテスはね、さっきのあなたと同じように、この相対主義と闘ったの。彼は、そんな風に、絶対的な真理を求めることを放棄してしまったら駄目なんだって闘志を燃やしたのよ。民衆が深く考えることを放棄して目先の利益のみにとらわれるようになってしまったからこそ、のだとね」

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