第11話 相対主義=最強の議論テクニック?

「アテネの政治家たちは、公開討論で自分の主張を発表したのよ。天野君はバンドをやっているから想像がつくかもしれないけれど、大勢の人前で何かを披露するのって中々勇気がいることよね。もしかしたら失敗して、酷く恥ずかしい思いをするかもしれない。そういう恐怖にさらされながら、演奏であれスピーチであれ自分の伝えたいものを一人でも多くの人に届けるために、みんな人前に立つのよ。アテネの政治家たちも自分の主張を通すためには公開討論でみんなの賛同を勝ち得る必要があったけれど、かといって恥さらしにもなりたくなかった」


 先生の言う通り、一年経っても未だに、ライブに出演するのは中々に緊張する。初めて三人で新歓ライブに出演した時なんて、冗談抜きに足ががくがくと震えてしまった。


 大勢の人に注目されるというのは、それだけでエネルギーを消費する。プレッシャーと闘ってでも伝えたいものがあるからこそ、人は、人前に立つのだろう。


「そんな、悩める政治家たちの前に【ソフィスト】の登場よ。もともとは賢者を示す言葉だったみたいだけれども、時の流れと共に、ギリシャの都市国家を巡回しながら、教養や議論のテクニックを教えて回る職業教師のことを指すようになったわ。各地を回っていたソフィストたちは、それぞれの国家によって法律や慣習が全く異なることに気づいたの。今まで唯一無二の絶対的なものだと思われてきた法律も、伝承も、ひとたび他の国へ赴けば、全然違う姿をしていた。ということは、唯一無二の絶対的な真理など存在しないのだ。そう考えたソフィストたちは、この新たな発見を、討論の技術を磨きたいと願っていたアテネの政治家たちに謝礼をもらいながら広めていったわ。その結果、【相対主義】は、当時のアテネで最強の議論テクニックとして猛威をふるうことになったのよ」


 田上先生の唇から湧き出る知恵の泉をこぼしてしまわないように、俺は必至で頭を回転させた。


 相対主義とは『真理とは人や場所や時代によって全く異なるものであり、絶対的な唯一の心理なんて存在しない』という考え方。


 でも、その相対主義が、どのようにして、当時のアテネで最強の議論テクニックとして重宝されたことと繋がっていくのだろう。


 一度唇を閉ざした先生は、脳内で疑問符を浮かべている俺の反応を伺いながら、急かすこともなく、ただただ次の俺の言葉をじっと待っている。


 もう一度振り返って、じっくり考えてみよう。


 価値観は人や、場所や、時代によって異なる。


 だからこそ、咲の言うも、樹の言うも、どちらも正解なのだと先生は言っていた。


 あれ……? 


 もしかして、相対主義の考え方でいくと……


 相対主義の立場をとるならば、二人の頑張るがどちらも正解になる以前に、そもそも、何かに対して頑張る必要もないという考えだって正解になる。


 実態はただ遊び呆けているだけでも『社会人になったらそうそう遊ぶ時間も取れなくなってしまうのだから、時間のある学生時代の内に遊んでおくのは理にかなっているよ。というか、そもそもバンドを頑張ることだって、遊んでるのと変わらないじゃん』ともっともらしく言われてしまえば、むず痒い心地はしながらも、何も言うことはできない。

 

 なるほど、そういうことだったのか。


 考えに考えあぐねた末に、もつれて絡み合っていた思考の糸がするりと一本の線になって見えてくる。


「相対主義の立場を取れば、それがたとえどんなに酷い考え方であったとしても何でも正しいように見せかけることができる、ということですね」

「頭が回るようになってきたわね。喜ばしく思うわ」


 先生が桜色の唇をやさしく綻ばせて、その黒目がちの大きな瞳にいつになく慈愛を滲ませた時、心臓がとくんと揺れた。


 勉強のことでこんなにも率直に褒められたのは、もしかすると、高校に入学してから初めてかもしれない。


 俺が、他でもない勉強のことで褒められるなんていう快挙はいつぶりだろうか……明日は、ひょうでも降るかもしれない。


 しばし驚いた後、春の日差しが降り注いだように胸があたたかくなった。


 田上先生に、苦手な勉強のことで褒めてもらえた。


 そのことが凄く嬉しくて、自然と口元が緩む。


 ついさっきまで重度の落ちこぼれであることを気に病んでいたけれど、そんなことすらもどうでもよくなってしまうくらいに、心が晴れ渡っていく。


 すると、先生はそんな俺の心境を見透かしたかのように、ますます柔らかく微笑んだ。


「天野君の言う通りで、相対主義の考え方を使えば、何でも正解に見せかけることができるのよ。本音は『我々がもっと楽な生活を送れるように、隣国に攻め入って奴隷をもっと沢山確保しよう』という残虐非道なものであったとしても、『隣国は、自国に比べてあまりにも遅れている。隣国を匿い、我々の持つ知恵と啓蒙の光で照らしてやることは、大いなる神に課せられた我々の使命である』とかなんとか言っておけば、もっともらしく聞こえないこともないわね」


「正に、言葉のマジックっすね」


「そう! 正にそうなのよ! ねぇ、天野君。本来、政治というのは、国をより善くしていくためのものよね? 政治家にはその高邁な目的を果たすために最大限の努力を尽くす義務があるはずよ。でも、アテネの政治家たちはどんな法律を作ったら国がより善くなるかということよりも、目先の利益や出世欲に囚われてしまったわ。国のことを心底思いやって主張する政治家はどんどん少なくなっていって、反対に、自分が出世さえできれば良いという利己的な政治家が増えていったのよ。相対主義は、そういう身勝手な政治家達にとって、まさにうってつけの考え方だった。それがたとえ、どんなに醜くて中身のない薄っぺらい主張であっても、一見、素晴らしい考えに見せかけることができるのだからね。そして、より多くの人をもっともらしく説得した政治家が出世していくという構図が出来上がる。こうしてアテネは、目も当てられない詭弁地獄に陥ってしまったというわけよ」


 先週も思ったことなのだけれども、熱をこめて哲学について語る先生の瞳は、吸い込まれてしまいそうなほどにきらきらと輝いている。


 田上先生は、大好きで仕方がなくて、ついつい言葉が溢れ出てしまうのだというように、夢中で言葉を紡いでいく。

 

「この相対主義を代表する哲学者が、【プロタゴラス】よ。彼は、当時のアテネでも、超有名なソフィストとしてその名を馳せていたの。彼の遺した名言に【人間は万物の尺度である。あるものについてはあるということの、ないものについてはないということの】という言葉があるわ。物事というのはそれぞれの人が感じたようにあらわれるものだから、一人一人の人間が判断の基準であって、絶対的な基準は存在しないという意味よ。相対主義の立場を端的に表している名言だと言えるわね」

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