第6話 軽音部所属の地味眼鏡こと天野君

 田上先生の瞳に煌々と灯っていた光が消え去り、代わりにスッとかげが差す。冷たい手で心臓を撫でられたようにドキリとした。


 突然、先生との間に溝ができてしまったような気がして、狼狽する。


 悪意のある言葉を放ったつもりなんて毛頭なくて、むしろ、その逆だったのに。


 先生、違うんだ。

 俺は、先生にそんな顔をさせたかったんじゃないんだよ。


 どうにかして、この胸の内に生じ始めている新たな感情を先生に伝えたかった。


「軽蔑なんてするわけないじゃないですか。先生の説明はどうしようもない落ちこぼれの俺でも引き込まれちゃうくらい分かりやすくて、びっくりしちゃいました。俺はむしろ、そんなにも楽しげに誇らしく語れるものがある先生のこと、すっげー格好良いなぁって思いましたよ」


 うつむきがちだった先生が、恐る恐る顔をあげる。

 その瞳は驚いたように見開いていて、俺のことを呆けたように見つめていた。

 

 拙いかもしれないけれど、先生に届くようにと願って一生懸命に言葉を紡ぐ。


「先生。脅迫じみたことをしてしまって、ごめんなさい。でも、俺、困ったことにあんな悪いことをしておいて全然反省してないどころか、むしろ、勇気を出して良かったなって思っちゃったんですよ。だって、先生には想像もつかないくらいに馬鹿な俺が、初めて、勉強って面白いかもって思えたんですから」

「っ」


 今言ったことは、全部、ホントのことだ。


 先生から色々な話を聞くうちに芽生え始めてきた、飾らない正直な思いだった。


 何かに少し詳しくなったからと言って、決して慢心してはいけない。

 人は、知らないと思っているからこそ、知りたくなる。


 さっきまでは倫理の何が分からないのかも分からなくって苦しんでいたけれど、無知であるということ自体は、絶望でもなんでもなかった。


 むしろ、倫理という学問への無知を認めている時点で、歴史に名を刻む偉人たちの叡智に触れていく上での、第一歩を踏み出していたんだ。


 こんなこと、今まで考えたこともなかった。 


 目から鱗って、正にこういうことだ。


 つい数時間前までは遠い昔の人が考えてたことなんて覚えたって何の役にも立たないじゃんって匙を投げかけていたけれど。


 もしかすると倫理を学ぶということは、俺がどんなに頭を捻っても到底思いつけないような、深い物の見方に触れられるということなのかもしれない。


「ねえ、先生。どーしようもない落ちこぼれの俺が、初めて、勉強してみるのも悪くないかもって思えたんです。先生には、これがどれほど凄いことか分かりますか? きっと、こーいうのを奇跡って言うんです。先生は、俺に奇跡を起こしたんですよ」


 へらりと微笑むと、田上先生の白い耳の先っぽがかすかに朱色に染まった。

 

 俺が首を傾げると、先生はハッとその瞳を揺らした後、わざとらしく咳払いをした。その不自然すぎる反応に首を傾げたまま様子をうかがっていると、徐々にその大きな瞳の端が吊り上がっていく。


 って、あれ……?


 田上先生はわなわなと瑞々しい唇を震わせたかと思うと、突然、殺傷能力高めの研ぎ澄まされたナイフのようなとどめの一言を放り込んできた。


「……イケメンっぽい発言ができたからって、調子に乗らないでくれるかしら。そういう台詞は、イケメンが言うからこそ初めて効力を発揮するのよ」

「ふぁっ!? な、なんつー、身も蓋もないことを! ううっ……どーせ俺は、イケメンリア充からは程遠いですよ!」

「ええ。髪も染めていないし、あのちゃらついた軽音部所属とは思えない程に地味ね」


 フォローの一つすらない、棘のありすぎる言葉がぐさぐさと心に刺さっていく。

 容赦がなさすぎて軽く泣きそうだが、事実なので、ぐうの音も出ない。

 

 先生の言う通り、明るい茶髪や金髪がザラにいる軽音部の中で、俺のように全く染めていない生粋の黒髪を保っている奴は珍しい。ちなみに俺が染めていないのはこだわりがあってのことではなく、単に定期的に染め直すのが面倒くさいだけだ。


 黒髪。眼鏡。ひょろい。


 俺の身体的特徴を簡単に表すならば、さしづめこんなところだろう。


 見た目だけで言えば、むしろ勉強のできる真面目な優等生っぽいところがなんとも皮肉だ。それが嫌でコンタクトに変えようか迷ったこともあるけれど、試しに行くことすらも面倒で、結局このスタイルに落ち着いてしまった。


 恨みがましく田上先生のことを睨む。


 でも、気づけば先生はそんな俺を見て楽しそうに微笑んでいて。

 こんな可憐な微笑みを見せられたら、怒る気もあっというまに失せてしまうのだから、ズルい。


「そういえば、あなたの名前はなんていうの?」

「ほんっとに今更ですね……天野 晴人、っていいます」

「軽音部所属の地味眼鏡こと天野君ね。忘れないように尽力するわ」

「すっげー不名誉な覚えられ方なんですけど!?」

「あら。もう、こんな時間なのね。私、そろそろ行かなくてはならないわ」


 あまりにも唐突に別れを告げられて目を白黒させていたら、先生はカバンの中から財布を取り出しつつ、流れるような身のこなしでスッと立ち上がった。


、天野君。来週日曜日の十時に、この喫茶店で会いましょう」




 

 田上先生と思いがけず地元のカフェで出会った翌日の放課後。


 俺は、音楽棟の隅に備え付けられた軽音部の部室に来ていた。


 スコアブックやアンプケーブルが少々乱雑に散らばっているこの部屋にやってくると、自然と鼻歌を口ずさんでしまうくらいに心が浮き立ってくる。


 一目散に、備え付けられているベースアンプの元に駆け寄った。この黒々とした大きなアンプにベースを繋いで、家では決して出せないような爆音をかき鳴らすかきならす瞬間がたまらなく爽快なのだ。


 早速、クラスメイトかつ同じベーシストの瀬川せがわに頼み込んで借りてきた高級ベースを取り出した。


 結構な重量感のあるウッド調のベースだ。


 特徴的なクセのある木目が大きく出ているボディ。瀬川の話だと、どうやらアッシュという硬く重量のある白木で作られているものらしい。

 たしかに肩にかけると、ズシリと重く沈み込んでくるようだった。


 早速、ベースをアンプに繋いで、適当にボリュームのつまみを回す。


 弦を弾いたのと同時に、アンプから硬くパキッとしたハイ寄りな音が突き抜けるように飛び出したとき、部室で一人「おおっ!」と感嘆の声を漏らしてしまった。


 考えてみれば、他人の楽器で演奏をするのは初めてかもしれない。


 こういう非常事態ベース禁止令に陥りでもしない限り、他人の楽器を借りることなんてほとんどない。本番ではないとはいえ、やはり慣れ親しんだ自分の楽器で練習したいからだ。


 だからこそ他人の楽器を触る機会はあまりないけれど、いざこうして試してみると、音色の響き方から弾き心地まで全然違うものだ。


 ベースの奥深さに触れてじいんと心が熱くなっていたところでふと、昨日の先生の言葉が耳の奥でよみがえった。


『知っていると思ってしまったら、それ以上、深く知ろうとはしないでしょう。知っていると思っているものが真理であるかどうかも分かったものではないのにね。だから、自分は所詮何にも知らないんだと自覚している人の方が、ずっとずっと賢いの。人は、知らないからこそ、初めて知りたいと思うのよ。ね、素敵な考えでしょう?』


 今、あらためて、あの先生の言葉を深い部分で分かったような気がする。


 俺、やっぱりベースのこと、まだまだなんにも分かっていなかった。


 ベースは俺にとってこれ以上になく夢中になっているものだけれど、そのベースでさえも、まだまだ沢山の知らないことで溢れている。


 でも、それは決して恥ずべきことではない。


 わくわくして、心が弾んでいるくらいだ。


 それは、知らないということが、この先、これから沢山のことを知っていく喜びに充ち溢れていることなのだと先生が気づかせてくれたからだ。

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