第7話 新たな問題の発生

「はあ……」

「あら。あなたのような脳みそすっからかんにも、思わずため息を吐いてしまうほどの悩みがあったのね。あまりにも勉強ができなさすぎて、自分の未来を憂いているとか?」


 鈴を鳴らしたような透明感に溢れている声。


 思わず聞き惚れてしまうような美しい声で、容赦なく胸を串刺しにする言葉を惜しげもなく浴びせかけてくる人物は、俺の知る限りでは一人しかいない。


 ガバッと、勢いよく顔をあげる。


「!? 先生、いつの間に来てたんすか……!」

「私がやってきたことにすら気づかないんて、どうやらよっぽどの重症のようね」

 

 気づけば目の前には学校中のみんなの憧れである美貌の倫理の教師が座っており、俺にミジンコでも見るかのような蔑みの視線を注いでいた。

 

 この一週間、学校では一度も田上先生と会わなかったから、姿を見るのも声を聴くのも本当に一週間ぶりだ。


 本日の田上先生は、薄手の白のニットに鮮やかな黄色のロングスカートを、お召しになられていた。春らしく、上品な服装だ。


 黒髪のショートヘアは相も変わらず息を呑んでしまうほどにサラサラで、男子であれば一度はあの髪に触れる栄誉を望むのではなかろうかと思われるが、実際にそんなことをしようものなら刺し殺されかねないから絶対にしない。


 底なしの吸引力を持つ瑞々しい唇から炸裂する毒舌は、一週間前よりも磨きがかかっているようにも思えたけれど、そんなことすらもあっさりと許せてしまう危険な可愛さがそこにはあった。


 過剰な可愛さは、暴力にもなりうる。


 そんなアホなことを考えつつも、俺はきちんと先生が俺との約束を守ってこのカフェにやって来てくれたことに対して、何よりも猛烈に感動していた。


 わだかまっていた不安が溶かされて、頬が緩んでいく。


「先生、ちゃんと来てくれたんすね……!」

 

 実は、約束の時間より十五分も前に着いてぼうっと待ちながらも、そこのところは結構心配していたのだ。


 というのも、先週、帰ろうとした先生を慌てて引き留めて、念のために連絡先を聞こうとしたところ、


『連絡先を交換? それは、不順異性交遊にあたるわ。教師である私がそんな道義に反したことをできるわけがないじゃない。そうでなくとも、あなたのような猿風情に人間の私が連絡先を教える道理もないのだけれど。思い上がりも甚だしいわ』


 と、にべもなく一蹴されたからだった。


『そんな……! でも、突然来られなくなったりとかあったら……!』

『兎にも角にも、来週、この喫茶店に十時よ。私からあなたに与えられるのはそれだけ。もし私がそれを破った時には、例のあの録音を校内放送で盛大に流すが良いわ』

『いや、そこまでするとは言ってないっすけどね』


 一週間前、田上先生は頑なに俺に連絡先を教えることを拒絶すると、カバンを肩にかけ直して、スタスタと俺の前を立ち去ったのだった。


 だから、あの録音がまだ俺の手中に握られているとはいえ、ちゃんと先生が約束を守って今日もここに来てくれるという確信は持てなくて、不安だったのだ。


「私は教師なのよ? 一度交わした約束を違えるはずがないじゃない。それで。一体、天野君は何について悩んでいたの」


「えと……その、勉強とは関係ないことなんすけど……」


はなからあなたが勉強だなんていう高尚なことを考えている可能性だなんて、一ミクロンくらいしか考慮していないから心配する必要はないわ。洗いざらい吐き出しさえすれば、私の有能な知恵を貸してあげないこともないわよ」


 相変わらずの酷い暴言だけれども、一応、先生なりに心配してくれていることは、俺の話を聞こうとしてくれている姿勢から伝わってくる。


 どちらにしろ、勃発してしまったこの新たな問題への解決策を講じないことには、勉強にも身が入らない。


 ここは、先生のお言葉に甘えてみよう。


「実は……俺の組んでるバンドが、解散の危機に陥っているんです」





 事の発端は、三日前にさかのぼる。


 二週間後の新入生歓迎ライブに向けて練習するために、俺たち三人は部室に集まっていた。


 ギターボーカル担当の瀬戸せと いつきは、久しぶりにライブに出れることが嬉しくてたまらないという心の声が見るからに駄々洩れの状態で、死ぬほど張り切って練習をしてきていた。


 でも。

 

 その日の練習に限って、ドラムの平井ひらい えみの調子がいつになく悪かった。いつもならスタジオ練習日までにきちんと曲の構成を覚えてくる咲が、その日ばかりは、一曲すらもきちんと通して叩くことができなかった。


 ドラムが止まってしまうと、そもそも演奏を通すことができない。


 何度やっても止まってしまう咲のドラムに、とうとう我慢ならなくなった樹は苛つきを隠そうともせずに低い声で唸るように言った。


『なぁ、えみ。お前、分かってんのか』

『………なによ』

『新歓ライブまで、あと一週間切ってるんだぞ』

『…………いつきに言われなくても、分かってるよ』


 わなわなと肩を震わせていた樹が、勢いよく咲の方へと振り返った。


 ふてくされたようにへにゃりとドラムに突っ伏していた咲は、樹のあまりの気迫に気圧されて、びくりと肩を跳ね上げた。


『だったら、なんでちゃんと練習してこねーんだよ! 一曲もまともに弾けねえたぁどういうことだ! バンドを支えてる要のお前が止まっちまったら、曲になんねーだろーが!』

 

 ああ。

 ついに、樹の雷が落ちてしまった……!


『まぁまぁ、落ち着いて』と空気を和ませようとして俺が出しかけた言葉は、次の部室をつんざくような咲の怒声によってあまりにもあっけなくかき消された。


『あーっもう! うるさいうるさいこのギター馬鹿!!』

『ああん!?』

『バイトを始めたのよ! だから、いつもよりも練習時間が取れなかったのっ!』

『バイト!? なんでまたこんな重要な時期に限って……!』

『新歓ライブの次は、定例ライブ。少ししたら、終業式ライブ。夏が来たら夏合宿……またちょっとしたら文化祭。樹はいつもいつも重要な時期だっていうけど、じゃあ逆に、重要じゃない時期はいつあったっていうの? 樹の理論でいくと、重要じゃない時期なんてないじゃない!』


 咲の発言はたしかにごもっともすぎて、冷や汗が出てしまった。


 樹はバンドに対して、ちょっと過剰とも思えるほどに真剣だ。


 樹と同様にバンドをこよなく愛する俺としては樹の気持ちも痛い程に分かるけれども、咲は、もしかしたら俺達の昂るバンド熱についていけなくなって、苦しんでいたのかもしれない。


 一度火がつきはじめた咲の怒涛の弁舌は、止まらなかった。


 咲は元々少しだけ吊り目気味の瞳の端を思いっきり吊り上げると、ポニーテールを振り乱しながら、決定的な一言を放ってしまった。


『良い機会だからこの際言うけど、あたしはそもそも、こんな風にバンドだけに高校生活の全部を捧げる気は毛頭なかったのよ! 楽しく、適度に、二人と一緒にいられればそれでよかった! それがたまたまバンドで、ドラムだっただけ! それがいつの間にか……来る日も来る日も毎日練習。あんた達にしごかれたおかげで、一年前と比べたらたしかに死ぬほドラムがうまくなったわよ! でもね、同時に、虚しくなっちゃった。他の女の子たちがキラキラおしゃれをして、楽しく女子会したり映画を見に行ったりしている間にも、あたしはひたすらドラムの練習に縛られてたっ。別にプロになるわけでもないのに、あたし、なにやってるんだろって思っちゃったの!』

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