第5話 ソクラテスが無知の知に至るまで

 ソクラテス。


 たしかに、流石の俺でもどこかで聞いたような名前だった。

 哲学、と聞いたらまず最初にこの偉人を思い浮かべる人は多そうだ。


 先生は口元を柔らかく綻ばせると、ソクラテスがいかにして、【無知の知】という考えに至ったのかを説明し始めた。


「ソクラテスは、彫刻家の父と助産師の母との間にアテネで生まれたわ。ある日、彼は友達のカイレフォンから、デルフォイのアポロン神殿で『ソクラテスより知恵のある者はいない』という神託を授かったと聞かされるの。当時のギリシャでは、何か困ったことや行き詰ったことあった時には、神殿に赴いて巫女から神のお告げを賜るのが習わしだったのよ。神のお告げを真に受けるだなんて現代の常識では考えられないことかもしれないけれど、当時はこの神託に絶対的な権威があったのよ」


 気づけば、田上先生はすっかり熱弁モードに入っていた。


 その大きな瞳は、今まさに古代ギリシャの悠然たる白亜の神殿を映し出しているかのように、きらきらと輝いていた。

 

「でも、それを聞いたソクラテスは、絶対的とされていた神のお告げにすら疑問を抱いたのよ。『自分は無知である。自分よりも知恵のある者など、腐るほどいるはずだ。それにも関わらず、どうして神はそのように仰ったのだろう』とね。どうしてもこのお告げを納得することができなかった彼は、ついに自分の目と耳で確かめることにしたわ」


「なんつーか、バイタリティのあるおっさんっすね……」


 神様の存在が当たり前に信じられていて、絶対的だった時代。


 その権威ある神の言葉であろうとも無条件には鵜呑みにしないという時点で、既に只者ならぬ気配を感じる。


 俺がソクラテスの立場だったら、『だって、神がそう言ったんだもん』と何の疑いもなしに受け入れて、鼻高々になっていそうな場面だ。


「話を少し元に戻すけれど、さっき私はあなたをベースのことで質問攻めにしたわね。その時、どう感じた?」


 思わぬ方向からの問いかけに、ぐっと言葉が詰まってしまう。


 田上先生が、本当は興味などないであろう俺のベースの話を熱心に聞いてくれたことは純粋に嬉しかった。


 でも、正直な感想を言えば、何を答えても根掘り葉掘り細かいところまで追及されることに関しては、相当しんどかった。


 本音を言ったら、怒られるだろうか……?


 泳いだ目から俺の逡巡を見透かしたかのように、先生は素早く言葉を差し込んだ。


「思った通りのことを正直に言ってくれてかまわないわよ」

「正直、めっちゃ嫌な奴だと思いました……」

「そうでしょうね」


 意外なことに、あっさりと同意を得られてしまった。

 あっけにとられている俺に対して、先生は俺の答えに満足そうに微笑んでいた。


「実際、さっきの質問責めみたいなことばっかりしていたソクラテスは、当時のアテネの人々から嫌な奴だと思われてしまったわ」


「そ、そうなんですか……?」


「ソクラテスは神のお告げの意味を知るために、当時、賢者とされていた人々の元を訪ねていったの。そして、彼らに、知っていることについて語ってもらうように問いかけたわ。政治家に正義とは何か、将軍に勇気とは何か、詩人に美とは何か、とね。彼は、まずは相手に考えを述べさせてから、聞き終わって疑問に思ったことを尋ねていくという手法をとったわ。ソクラテスは、さっきの私なんて比にならないくらいに、それはもう蛇のようにねちっこく賢者たちを問い詰めまくったのよ。その結果、どうなったと思う?」


 正義、勇気、美。


 どれも、ふわっとしていて抽象的な概念だ。


 それらに誰もが納得のいく説明を与えることは、想像しただけでめちゃくちゃ難しい。それに加えて、ソクラテスは二千年後の後世にも名を残すほどの、只ならぬおっさんだ。そんな凄そうな人に、執拗に問い詰められたその人たちはきっと――


「……さっきの俺みたいに、みんな答えに窮しちまったんですね」


「ご名答。そうなった瞬間、形勢は一気にソクラテス側に傾くわ。『あなたさっきまで堂々と知ってます顔してドヤ顔で語ってましたけど、私一人のことも納得させられないんですね。あなたの知識って、所詮そんなもんだったんですね笑』と言わんばかりにね」


「ソクラテス、すんげえ嫌な奴じゃないですか!?」


「ええ、そう思ってしまいそうになるわね。実際に当時の人々も、彼に対して、ものすごく反発した。でも、誤解してはいけないわ。ソクラテスは、決して他人の無知を暴きたかっただけの嫌味な奴ではなかったのよ。彼はただただ、馬鹿真面目とも思えるほど純粋に、絶対的な真理というやつを求めていただけなの。当時は絶対的とされていた神託すらも疑って、『自分は無知だ。自分よりも、もっと他に知恵のある者はいる』って本気で考えた。そのことを証明するために賢者たちを質問責めにしまくった結果、当時、知恵があるとされている人たちの誰一人としてソクラテスに納得のいく知恵を授けることができなかったというわけなの。そうして初めて彼は、神のお告げを納得することができたわ。『妙な知ったかぶりをしているこの人たちよりも、自分の無知を自覚している自分の方がよっぽど賢い』とね。無知の知というのは、元を正せば、彼が自分が無知であることを証明しようとした過程で、思いがけず発見した考えだったのよ」


 好きなことについて爛々と語る目の前の先生は今、心の底から楽しさがあふれて止まらないといった様子で、無邪気に微笑んでいた。


 今の先生の笑顔を見た人ならきっと、学校の廊下ですれ違った時に見せるあの天使の微笑は作られたものなのだということがよくわかる。あれは謂わば、精巧な作り物だったのだ。


 自然と浮かび始めた可愛らしい素朴な笑顔に、またもや脈拍が急速に高まっていく。


 さっきの先生はすぐに俺が動揺したことに気づいたけれど、幸いなことにソクラテス語りに火のつき始めた彼女は語ることに夢中になるあまり、俺の息が自然と上がってしまっていることに気づかなかった。


「まず相手に考えを述べさせてから、その後に、延々と質問を繰り返す。その末に相手に無知を自覚させるこのやり方を、【問答法もんどうほう】と呼ぶわ。相手に知識を授けるのではなくて、自ら気づくように手助けして導いたから【助産術じょさんじゅつ、または産婆術さんばじゅつ】とも呼ばれるわ。ここまで理解できたかしら?」


「あっ、ハイ。え、ええと、なんつーか……先生は、ホントに、哲学が好きなんっすね」


 先生の笑顔があまりにも可愛くて動揺していたこともあり、思わず、ぽろりと本音をこぼしてしまったが、その瞬間、先生はハッと瞳を見開いて気まずそうに視線を落とした。


 えっ。


 俺、なにか、マズイこと言ったか?


 なにがなんだか分からず驚いて固まる俺に対し、先生はそっぽを向くと、少し早口気味で苛ついたように言った。


「フン。どうせあなたも、私のことを気持ち悪い哲学オタクだって軽蔑したのでしょう?」

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