第4話 知らないことを自覚しているからこそ

 どうだ、参ったか! と言わんばかりに、したり顔で見つめてくる先生に対して、俺は首をひねらざるをえなかった。


 知らないことは、知らないと思っている。 


 そんなの、「だから、何?」と一笑に付されそうな、あまりにも当たり前の話に思える。そんなことでドヤ顔をされても、全く腑に落ちない。


 どうにも納得がいかなかった俺は唇を尖らせた。


「先生はベースについて何も知らない。だから、その通り、知らないと思っている。そんなの、当たり前の話じゃないっすか」


「たしかに、これではあまりにも自明の理すぎて、少し分かりづらいわね。じゃあ、言い換えるわ。あなたにとってのベースは、心惹かれてやまないものという意味で、私にとっての倫理という学問に置き換えられるわね。あなたは、ベースが大好きだし、ベースのことをよく知っていると思っている。一方の私は、倫理という学問に惹かれてやまなかったからこそ教鞭をとるまでに至ったわけだけれども……それでも決して私は、倫理という学問についてよく知っているだなんて大それたことを、一度も思ったことがないわ」


「ええっ!?」


 思いがけない大胆な発言にドキッとして、のけぞってしまった。


 仮にも教職について、現にその学問について生徒に教えているような人が、その専門教科について知っていると思ったことは一度もない……だって!?


 意味が分からなさ過ぎて口を鯉のごとくぱくぱくとさせることしかできない俺に代わって、今度は先生がそのほどよく肉感的な唇から言葉を溢れさせる番だった。


「良い? あなたはさっきまで大好きなベースについてあたかも全知全能であるかのように偉そうに私に語ってくれたわけだけど、そんなあなただって、ベースに関係するありとあらゆる全てのことを把握しているわけでは決してない。その証拠に、私のような門外漢にちょっと問い詰められただけで、あっさりと答えに詰まってしまったわね。そんな浅はかな知識量で、よくも知っているだなんて驕り高ぶったことを言えたものだわ」


「なっ…………!」


「あなたがベースという楽器について人よりも少しばかり詳しいことは認めるわ。でも、それしきのことで知っているのだと思い込んでしまうのは、早計に失するというものよ。何故なら、そのことについてはもう充分によく理解しているのだという強い思い込みは、よりそのことに関する理解を深めていこうとする探求心と情熱を潰えさせる危険性を孕んでいるのよ」


 蛍光灯に反射して光る艶のある唇から淀みなく放たれたその言葉には、心の柔らかい部分にスッと刺さるようなきらめく鋭さがあった。


 少し背筋がひやりとしてしまうくらいに、心当たりがあったのだ。


 一年と、少し前。


 高校の入学祝いにとベースを買ってもらってからまだ間もなかったあの頃は、どうやってチューニングをするのかも、弦を張り替えるのかも、なにもかもが分からなかった。


 それでも、おそるおそる弾いた弦からようやくそれらしい音が出て、簡単な曲を拙いながらも一曲通して弾けるようになった時には、胸が締め付けられるほどに嬉しかった。


 もっと、上手になりたい。

 もっと、この楽器のことを知りたい。


 取り憑かれたようになって必死にベースを弾いた。行き詰った時には、動画サイトで上手な演奏者の弾いてみた動画を凝視して、必死に研究したりなんかもした。


 地道な努力の末に、少し前までは絶対に弾けないと思っていた難しいフレーズをついに思い通りに弾きこなせるようになった時の快感が本当にたまらなかった。飛び上がってガッツポーズをしてしまうくらいに。

 

 今の俺は、努力の甲斐があって一年前の俺よりも、ずっと上手にベースを弾きこなせるようになったし、どうやったら芯のあるくっきりとした音が出せるのかも分かるようになってきた。


 その内に、そんなに難しくない曲であれば、そこそこの練習時間である程度のクオリティを保った演奏ができるのだと、


 そして……だからこそ、最近は昔ほどはストイックに練習しなくなっていた。


 でも、思い返せば……へったくそで、到底、人に聴かせられたもんじゃないような演奏をしていた頃の俺の方がずっとずっと、ベースに対して貪欲に取り組んでいた。


 田上先生の吸い込まれてしまいそうなほどに大きくて理知的な瞳には、心の柔らかい部分を撫でられて、愕然としている間抜けな俺が映っていた。


「一度知っていると思ってしまったら、もうそれ以上、深く知ろうとはしない。知っていると思っているものが、到達すべき真理であるかどうかも分かったものではないのにね。だから、自分は所詮何にも知らないんだと自覚している人の方が、ずっとずっと賢いのよ。人は、知らないということを自覚していて、初めて知りたいと思うのだから。ね、素敵な考えでしょう?」


 それは、あまりにも不意打ちだった。 


 無垢な少女のように透明にしてあどけない可憐な笑み。


 先程までの凄まじい罵倒のオンパレードを帳尻にしてもありあまる突然の悩殺スマイルは、しがない一男子高校生の心臓を鷲掴みにするには充分すぎる程の威力を発揮した。


 っ!?


 こんなの卑怯だっ! 心臓に悪すぎる……!


 自然と上がってしまった心拍数をおさめようにも、冷静になればなろうとするほどに、顔に熱が集まってきてしまってダメだった。


 しばらくの間ぼうっと見蕩れていると、先生の輝いていた瞳が徐々に据わっていき、気づいた頃には冷えきった絶対零度の視線になっていた。背筋がヒヤリとする。


 あれ? さっきまでの天使の微笑は何処いずこへ……。


 冷や冷やしていると、田上先生は呆れ果てた顔をして、盛大にため息を吐いた。


「はぁ。折角話が盛り上がってきたというところで、発情されても困ってしまうのだけれども。汚らわしい視線で、大事な話の腰を折らないでくれるかしら」


「ふぁっ……!! は、はははは、はつ、はつっっ」


 は、発情…………!?!?


 見た目だけは清純派美女そのものな先生の唇から寸分の躊躇いもなく放たれた過激すぎる発言に動揺し、割と酷い罵りであるにも関わらず、盛大に嚙んでしまった。


 噛んだ羞恥心もあいまって、ますます顔に熱が集まってしまう。


 動揺する俺をあっさりと取り残し、先生はその話は終わったとばかりにもう飄々としていた。


「くだらない話をしている場合ではなかったわね。話を戻すけれど、さっき私の話したことこそが、【無知の知】という考え方よ。ソクラテス、という偉人の名前くらいは、低能なあなたでも耳にしたことがあるんじゃないかしら」

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